大罪人の娘・前編

いずもカリーシ

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第壱章 前夜、凛の章

第六節 比叡山焼き討ち

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織田家のトップは織田信長である。

明智光秀は、そのトップに最も重く用いられた。
最も広い領地を与えられ、最大の動員兵力を持ち、その実力と地位は大名級だと言える。
家臣の代表として模範を示す立場であり、ある意味『ナンバー2』であった。

ナンバー2が率先して従うと、他の人々を従わせる強い圧力を加えることができる。
こうして皆がトップの元に一つになって結束力が強まる。

まるで、ナンバー2がトップの命令に『力』を宿したかのように。

 ◇

こういう考え方もあるかもしれない。

「ナンバー2は、トップを脅かす存在でもある。
粛清しゅくせい』の対象となったケースもあるではないか」
と。

もちろん。
人々がトップの命令に常に従っているなら何の問題もない。

ただし。
現実はそう甘くはない。
思考停止に陥っているか、盲目的に心酔しんすいしているか、あるいは誓った忠誠を貫くためでもない限り、常に命令に従う人間などいないからだ。

一体、誰から授けられたのか……
すべての人間は『自由意志』を持っている。

当然ながら。
猿も含め、動物には一切ない。

人間だけが持つ自由意志は……
人間と動物に、天と地ほどの差を生み出してもいる。
人間が動物に落ちることはあっても、動物が人間に駆け上がることは絶対にできない。

こう叫んで格差を広げる社会に反旗はんきひるがえし、ときに犯罪行為へと走るのも人間だけである。
「モノの値段が高騰し、我々は毎日の生活すらやっとなのに……
なぜだ!
なぜ、あいつらだけが何不自由ない豊かな暮らしをしている?
『不公平』ではないか!」
と。

要するに。


「トップの命令には、何の力もない」
阿国おくにの言葉は人間の『本質』を突いている。

 ◇

栄枯盛衰えいこせいすい

すべての人、すべての物事には繁栄と衰退がある。
一昔前のような繁栄している時代は今まで通りで良いが……
退

そして。
変化には必ず『代償』が伴い、代償を支払う側は激しく抵抗する。

このようにトップが変化の決断を下すべきときこそ……
命令に力を宿す存在が『必要』な瞬間なのだ。

 ◇

「トップの命令には、何の力もない」

この言葉の意味を理解できない比留ひるに対して、阿国おくにはある例を挙げた。
「およそ3年前。
信長様が、比叡山ひえいざん[現在の滋賀県大津市]を攻めたときのことです。


「それは、『比叡山焼き討ち』のことですか?」
「はい。
光秀様が、信長様から深く感謝された戦いです」

「わたしはずっと疑問に思っていました。
比叡山のような『弱い』敵を討って、どうして感謝されたのだろうと」

凛は、相変わらずうつむいて黙ったままだ。

 ◇

1571年9月。

ここは比叡山ひえいざんふもとである。
数万人もの大軍が布陣している。
ちょうど、軍議の真っ最中のようだ。

「比叡山を焼き討ちにせよ」
信長の命令に、全員が耳を疑っていた。

皆、ひそひそと話し合っている。
「まさか!
冗談だろう……
脅しのために布陣したのではなかったのか?」

「比叡山は、莫大ばくだいぜに[お金]を持参してびを入れてきたようじゃ」
「脅しが通じたのなら、焼き討ちにまでする必要はなかろう!」

「ひょっとして……
信長様は、気が触れられたのではないか?」

気が触れるとは、気が狂うという意味である。
比叡山が莫大なお金を持参して詫びを入れてきたのは事実であり、普通に考えれば焼き討ちにまでする必要はない。

気が狂ったと思われても何ら不思議はない。

 ◇

信長にも言い分がある。

「わしは、奴らに何度も警告してきた。
『そちたちのような坊主とは……
俗世ぞくせを離れて仏門ぶつもん帰依きえした者のことであろう?
それがなぜ、集めた銭[お金]で私腹を肥やし、数千人もの兵を雇って武力を用いることまでする?
俗世から全く離れておらんではないか!』
とな。
この警告を、奴らは何度も無視したのだぞ?」

これも間違ってはいない。
お金を目的とした活動ではないからこそ、宗教団体は税を免除されている。
集めたお金で私腹を肥やすなどあってはならない。

それどころか。
兵士を抱えて朝倉あさくら家や浅井あざい家などに味方し、信長の家臣を討つことまでした。


それでも相手が悪すぎた。
比叡山には延暦寺えんりゃくじがあり、天台宗てんだいしゅうの総本山にして日本仏教史に残る数々の名僧を輩出した歴史があり、歴代の天皇ですら一目置いていた程の存在なのだ。

一人の男が間に入った。
名を佐久間信盛さくまのぶもりと言い、織田軍の中でも長老的な存在である。

「信長様。
比叡山は我らの軍勢を見て恐れおののき、莫大な銭[お金]を差し出してきました。
脅した成果としては十分でありましょう。
ここは一旦、銭を受け取るのは如何いかが
比叡山はとつもないほど多くの銭を持っていると聞きます。
焼き討ちなどせず残しておけば、何度でも銭を脅し取れるではありませんか」

「確かにそうじゃ!
さすがは佐久間殿」
大勢の者が、その通りだとうなずいている。

信長は冷たい視線を向けた。
「うぬらは……
比叡山が差し出した銭[お金]が、『何処どこ』から出てきたかを知った上でうなずいているのか?」
と。

 ◇

意外な指摘に全員が沈黙する。

信長は、質問をたたみ掛けた。
何処どこから出てきた銭[お金]かと聞いておる。
知っているのか、知らないのかどっちじゃ!
答えよ!
信盛のぶもりっ!」

「知りませぬ」
信盛が慌てて答える。

「奴らは布施ふせ[寄付金のこと]を巻き上げるに留まらず、土倉どそう[金貸し業者のこと]にまで手を出しているとか。
しかも。
高い利息で銭[お金]を貸すらしいが」

「……」
「利息を払えなくなれば武装した者に踏み込ませ、家の中の物をことごとく奪い、足りなければ家を取り上げ、妻や子供までも奪う暴挙に出るのだとか。
奪われた妻や子供にどんな運命が待ち受けているか……
そちは想像が付くか?」

「おおよその見当けんとうなら付きます」
「ほう!
ならばそちは、奴らが持つ銭[お金]がどれだけ汚いかを知った上で……
それを受け取れと申しているのだな?」

「い、いえ……
そういう意味で申したのではありません」

「それとも。
信盛よ。
わしが、汚い銭[お金]をもらって喜ぶようなみにくい男だと思っているのか?」

「い、いえ……
滅相めっそうもございません」

「うぬは、わしを愚弄ぐろう[馬鹿にしているという意味]しているのか?
どうなのじゃ!
信盛っ!」

「い、いえ……
それは誤解にございます」

「他はどうなのじゃ!
こいつと同じく汚い銭[お金]が欲しいのか?」

当然ながら、欲しいと答える者など誰もいない。
そして信長は……
鬼の形相ぎょうそうでこう言い放つ。

「奴らは腐り切っている!


全員が縮み上がった。
全てが事実かどうかは関係ない。
ある程度でもそういう事実があれば、信長の正義感に火が付いてしまう。
こうなってはもう誰にも止められない。

「比叡山から来た使者には、こう告げよ!
『首を洗って待っていろ』
とな。
それで……
誰か、先陣を名乗り出る者はおらぬか?」

誰も名乗り出ない。
重苦しい沈黙が訪れた。

しばらく経てば、誰か名乗り出てくるだろう……
信長は辛抱強く待つことにした。
それでも相変わらず、誰も名乗り出る気配がない。

「なぜ黙っている。
比叡山がそれほど怖いのか?」
幾人かの名前を呼んだが、下を向いたまま誰も返事しない。

これは、まずい……
さすがの信長も『焦り』始めた。

 ◇

沈黙が続くほど、焦りは大きくなる。

非常にまずい状況であった。
これまで信長は勝利という実績を積み上げて尊敬や信頼を獲得し、自分の命令に力を宿してきた。
家臣たちは信長のどんな命令にも従い、強い結束力を発揮した。
その結束力が今や『危機的』な状態にある。

このまま誰も名乗り出なければどうする?
無理やり従わせる方法もあるが、逆効果だろう。

いっそのこと自分自身が陣頭に立って攻めるか?
他も仕方なく付いてくるだろうが、それだと結束力には程遠い。

やはり、『進んで』従ってもらわねば困る。
誰でもいい!
頼むから名乗り出てくれ!
宿

それは突然現れた。
「それがしが先陣を務めましょう」
と。

その者は目立たない端の席にいた。
誰なのかすぐに分からなかったが、血眼ちまなこになって探した。
宿

明智光秀!


【次節予告 第七節 人は誰に忠誠を誓うのか】
「信長様は、最初から多くの敵を抱えていたわけではないはず。
どうして電光石火の戦略を『必要』としたのですか?」
凛は、頭の回転に比例して鋭い質問を出すのです。
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