星渦のエンコーダー

山森むむむ

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罪なき日々の終着

一番近い仲と皆は言う。二人の間の砂の城を知らずに。

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 未来ノ島の早朝、空はまだ柔らかな朝霧に包まれていた。

 クリスは窓辺に立ち、深呼吸をしながらその静けさを胸に吸い込んだ。
 練習試合での勝利と公式戦での初勝利がクリスに与えた安堵感と達成感は、少しずつ心の中で新たな自信へと結実していた。今日は部活が休み。運動部にとっての貴重な、本当の休日だった。
「……どうしようかなぁ、今日は……暑いよね。街歩きだろうけど、海岸も行くかも」
 部屋の壁には先日の試合の写真が何枚かピンナップされており、その中には柳とのツーショットも含まれていた。その写真を見つめながら、クリスはこの日の計画を思い浮かべる。

 柳と二人で島を一周する予定だ。彼と共に過ごす時間は、いつもクリスにとって特別な意味を持っている。その感覚がさらに強く、今は全身に喜びを持って広がる。
「髪は……まとめるかぁ」
 クローゼットから服を選びながら、クリスは昨晩考えていたことを再び反芻した。勝利がクリスに与えたものは、ただの自信だけではなく、柳に対する感謝と尊敬の気持ちをさらに深める結果となっていた。
 彼の支援がなければ、自分はここまで成長できなかったという確信に満ちている。

「あいつは……アクセサリーとかつけないからな……っと」
 クリスは、柳の趣味に少し寄せたシンプルな装いを選ぶ。
 スレンダーな体型に合ったナチュラルトーンのフィットするTシャツに、くるぶし丈のデニムジーンズを合わせていた。足元には快適なスポーツライクのサンダルを選び、少しアクティブな一日に備えている。
 しかし全体を通して華やかなデザインで、大人っぽいかわいらしさも忘れていない。髪はラフにまとめ、若々しい印象を与えながらも洗練された雰囲気を保てるよう意識した。

 着替えを終えてバッグを肩にかけながら、柳がどんな計画を立てているのか、どんな話をするのかを楽しみにしていた。ふと昨晩、柳から送られてきたメッセージを思い出し、デバイスを手に取った。彼の文字はいつも通り、落ち着いていて心強い内容だった。

『明日は気を楽にして、一緒に島の美しいところをたくさん見ようね』
 部屋を出る前に、もう一度鏡で自分の姿を確認する。満足して微笑んだクリスは、ドアを開けて新しい一日へと足を踏み出した。

 外に出ると、島の朝の空気がクリスを優しく迎え入れた。
 今日はこれまでの自分を振り返り、これからの自分を模索するためにも大切な時間だと感じながら、柳との再会の瞬間を心待ちにしていた。それに、大切な話もある。

「クリス、ごめん。遅れた?」
「柳にしては遅いね。どうしたの?」
「出かけようとしたらモチが水をこぼしちゃって……」
「じゃあ、仕方ない」
 柳の方は、いつも通り気負わないが清潔感のあるモダンなスタイルを選んでいた。
 グレーのカジュアルシャツを着用し、その下には白いTシャツを合わせている。ズボンはテーパードされた暗めのチノパンツで、全体のトーンを落ち着かせていた。
 足元にはいつも通り、レザーのローファーだ。髪は綺麗に整えられており、彼特有のリラックスした雰囲気と相まって、自然体ながら計算されたファッションセンスが光っていた。

「どこ行く? クリス」
 柳が朝の陽光に輝く遊歩道を歩きながら、クリスに問いかけた。
 その問は朝の涼しい空気とともに静かに響く。クリスは一瞬柳の提案を待つかのように立ち止まり、彼の瞳を見返した。

「柳は?」
 クリスが尋ねると、柳は思案顔で周囲を見渡した。
「うーん……」
 柳はポケットから手帳型デバイスを取り出してAR画面を広げ、クリスの隣に寄り添う形でそれを見せた。地図上には島内のスポットがいくつかマークされている。美術館、植物園、海沿いのカフェなど、選択肢は豊富にあった。
「ここの美術館は新しい展示が始まったばかりだって。興味ある?」
 柳が指を滑らせながら提案する。クリスは顔を上げ、頷いた。
「いいね! 私、最近アートに興味がある。それに、きっと涼しいでしょ」
 確かに、今日は朝から日差しが強くなりそうな予感があった。実際、日はすでに強くなり始めている。

 柳はクリスの反応を見て微笑み、二人で美術館へ向かうことに決めた。歩き出す足取りは軽やかで、互いの存在を感じながら静かに会話を続ける。
 柳がクリスの話に耳を傾け、時折その笑顔が朝の光を一層明るくしているとさえ感じた。
「クリスがアートか。人は成長するなあ」
「ちょっと、どういう意味、それ!」
「ふふ……」
 島の中心に位置する美術館への道は、季節の花々で彩られた小径を通っていた。二人はゆっくりとしたペースで歩き、時には立ち止まりながら咲き誇る花々や変わりゆく景色を楽しんだ。

「ふー、涼しい!」
 柳はウェットシートで汗を抑えながら応じる。
「うん、正解だったね。クリスの作戦は」
「なーんか、さっきから人聞きが悪くない?」

 美術館の静かな展示室で、クリスと柳は現代アートの前に立ち止まる。

 目の前には、複雑に絡み合う色と形の大きなキャンバスが展示されている。柳はその作品をじっと見つめ、頭を傾げながら感想を述べた。
「これ、空と海が混じり合っているようにも見えるね。形が定まらない流動性が、何だか心を解放させてくれるみたいだ」
 クリスは同じ作品を見ながら、まったく異なる角度からの評価を口にした。
「確かに美しいけど、この色の選び方はもう少し統一感があってもいいかもしれないね。機能的にはもうちょっと明確なメッセージが伝わる方が、観る人にとって分かりやすいと思う」
 柳はクリスのコメントに微笑みながら応じてきた。
「クリスはいつもコメントが実用的だね。アートは時に、ただ感じるものかもしれないけど。その視点は新鮮だった」
 クリスは頷きながら、更に言葉を続けた。
「うん、感じることも大事だけど、私はどうしても何かしらの意図を見つけたくなっちゃうんだよね。この作品から何を学べるか、どう活かせるかとかを考えると、見方も変わるかなって」
 アートに対する捉え方の違いが浮かび上がり、それぞれの感性の違いがクリアに表れていた。

 その違いが二人の会話をより豊かにし、相手の見方を理解しようとする姿勢が自然に感じられたと思う。展示を進めるにつれ、柳と他の作品についても同様に意見を交わし、それぞれの解釈で作品を再評価していく。
 展示を一通り楽しんだ後、クリスと柳は自然と美術館のショップに足を運んだ。
 店内は様々なアート作品がデザインされたグッズでいっぱいで、一時的に別れたふたりはそれぞれ興味を引かれる小物を手に取る。
 柳は静かに一つのキーホルダーを手に取り、それをじっと眺めていた。そのキーホルダーには、先程の展示で特に長く立ち止まって見入った、現代アートの一部がデザインされていた。一方、クリスは同じアートがあしらわれた手鏡を選んだ。小さな鏡に映る自分の顔を見ながら、クリスもそのデザインの美しさに改めて心を動かされていた。

「なに買ったの?」
「これ。クリスは?」
 レジで会計を済ませた後、二人が互いに購入したアイテムを見せ合った瞬間、ふと顔を見合わせた。驚きつつも同じアートを選んだことに心からの喜びを感じて、思わず笑顔がこぼれた。
「なんだかんだで、僕たちは似たようなものに惹かれるんだね」
 柳が笑いながら言った。クリスも頷き応じる。
「ね、偶然だけど嬉しい偶然だよ」

 外に出ると、美術館の前の広場でほんの一瞬、立ち止まって周囲を眺める。巨大な遊歩道を歩きながら、夏の日差しを遮る緑豊かな木々が二人を涼やかに迎える。
 道端では水を撒く音が心地よく、小鳥たちのさえずりが耳に心地よいリズムを奏でていた。興奮を引きずりつつ、気の向くままに話を続けていく。

「柳、さっきの展示で一番印象に残ったのはどれ?」
 クリスが尋ねる。柳は少し歩いてから答えた。
「あの、光を使ったインスタレーションかな。部屋全体が光と影で満たされていたのが美しかったよ」
 クリスは興奮気味に話した。
「私はあの、音を形にしたような彫刻が面白かった。音楽を視覚から捉えると、ああなるんだ、って」

「ねえ、柳。これから何か食べに行かない?」
 柳はクリスの顔を見てニコッと笑い、「いいね、何が食べたい?」と聞き返した。クリスは考える素振りをして、提案した。
「何か冷たいものがいいな。この暑さだと、アイスクリームとかどう?」
「ちょうどいいお店を知ってるよ。こっちだ」
 柳が先導して、少し歩くと小さなアイスクリーム屋に到着する。
 店は可愛らしいデザインで、色とりどりのアイスクリームが並べられていた。二人はそれぞれ好きなフレーバーを選び、店の前のベンチに座って食べながら、また他愛もない話に花を咲かせる。

「柳、また小豆なの?」
「クリスこそ、またそのカリカリしたチップが入ってるやつ。よく飽きないね」
「もー、これはいいの。前食べたやつとはちょっと違うんだよ。少し大きくて。柳もたまには冒険してみたら?」
「してるよ。ほら、こっちのハーフの方は食べたことないやつだし。クリスはこれ、何?」

 夏の陽射しの中、このひとときは彼らにとって小さな幸せだった。
 毎日の登下校も、こうして少し特別な体験を共有する時間も一つ一つがきらめいていて、絶対に失いたくない宝物だ。

 街を散策し続けていたクリスと柳は、やがて正午をすぎるとお腹が空いたことに気づき、海を一望できるレストランへと足を運ぶことに決めた。先程アイスクリームを食べたが、活力あふれる若い身体には些細なカロリーだった。
「今日は晴れてるし、きっと本土も見えるくらい空がクリアだよ」
「そうだね。あそこは観光客も来なくて、窓の席だって空いてるはず」

◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 柳はクリスの意見を尊重し、お互いに意見を出し合いながら店内に入った。店内は落ち着いていて、店員もお好きな席へどうぞ、と二人に案内する。

「あ! 空いてるよ。やっぱりきれいに見えてる!」
 窓際の席を自然に指したクリスに対し、柳はその選択を笑顔で受け入れる。
「くっきりだね。ここを知らないなんて、観光客の人も勿体無い」
 席に着く際、クリスは冗談を言いながら自分で椅子を引き、二人は笑い合った。柳はいつものようにクリスに気を使いつつも、友達としての親しみを込めて話を交わした。

「柳、ここのパスタが美味しそうだね」
「うーん、でもこっちシーフードも捨てがたいよね。食べたことない感じ」
 結局、共にシーフードのプラッターを選んだ。

 ふと、クリスはフォークをテーブルにおろしてぽつりと言った。
「……柳。私、昨日の試合すごく頑張った」
 柳は、彼女の言葉を正面から受け止める。
「うん。クリスは頑張ったよ。おめでとう」
 クリスはその返答に満足したように、でも決心したかのように、しっかりと顔をあげる。
「私、ネオトラバースをやることで柳のことを競技に引き止めたいと思って、サポートを頼んだ。昨日の結果は、学校は優勝して試合には勝ったけど、その上を行けなかったことがすごく悔しい」

 柳は彼女が、過去に取り組んでいたスポーツでも、やると決めたら懸命に上を目指そうとしていたことを知っている。始めた動機が自分のことを思ってのことでも、それが自分自身の理由にすり替われば良いと感じていた。
 競技を始めたのは彼女自身の選択だ。柳は今、病からの回復からプロ選手として再び電脳世界に帰らなければならない。彼女に手助けはできても、かわりに柳が判断をすることはできないのだ。

「でも、この先頑張るために、柳に聞いておかないといけないんだ」
「……うん、何でも聞いて」

 数回の深呼吸を経て、クリスは質問した。
「……柳、まだコクーンには入れそうにない?」
 練習中、試合中。技術面を主な専門分野としている柳は、サポートとして何度も直面しなければならない。
 繭は柳にとって、ネオトラバースという情熱の象徴であると同時に、今は繰り返し与えられた恐怖と痛み、延いては『拷問』を思い起こさせるものになっていた。

コクーン……」
 眼の前に設置してある分には、何も起こらない。だから、誰も気づかない。
 それでも中に入ろうとすると激しい動機と冷や汗が柳を襲った。あれからまだ、数ヶ月しか経過していない。しかし、何ヶ月も経っている、とも言える。
 トレーニングを繰り返してはいる。バイザーを着用した疑似試合、現実世界での流磨とのセッション。しかし繭という実地の体験を積み重ねることも、選手にとっては大きな要素だ。いつまでもこのままではいけない。
 気持ちは焦るが、回復するには。日々、その考えはクリスとの練習の中で何度も頭を巡った。

「私……このまま頑張るのなら、あんたのことを離してあげられない」
 エンブレムと、装甲を手に入れたあの日。あの彼女が発した眩い躍動を、柳自身も忘れることはできない。彼女は輝きを纏って、電脳世界を飛び回る鳥だった。その翼が羽ばたく姿を、柳はいつまでも見ていたい。
 これも、今柳が感じている真実の一つだ。

「ネオトラバースのプロ選手として頑張る柳のこと、ずっと見ていたかった。それがあんな形で突然断ち切られて、きっとあんたが一番悔しいんだよね」
 クリスは優しく、しかしどこか罪悪感を感じているように言うと、目をそらした。そしてゆっくりとまばたきをする。
「でも、私の頑張りには必ずあんたが必要なの。だから、迷ってる……」
「迷う……?」
 迷う? クリスが? 柳は、どんなことを言われたとしても、彼女を支えていくつもりでいる。
「これから私、競技をどんな気持ちで続けるのか」
 そうか、彼女は違うんだ。
「始めた責任がある。受け入れてくれたのはあんただけど、私は私の願いで、あんたをサポートにした」
 いつも柳のことを一番に思っている。そのために、今度は自分の気持を犠牲にしようとしている。
「だからあんたがサポートやめて、プレイヤーに戻るのだとしたら、私は責任を取らないといけないと思う」
 クリスは自由でなければならない。
「あんたを縛り付けることはしたくない」
 柳が口を開こうとしたその時、クリスが思いもかけない言葉を発した。

「ねえ、柳………………本当に、あの病気なの?」
 心が凍るような驚きが、胸の奥深くを突き抜けた。
「あの医者の言っていたことは、本当だったの?」
 そうだ。あの異常な『治療』。医者の診断を信じることが虚無であるという認識は、自身の経験によっても裏打ちされていた。
「もう一度検査してみよう……心配なら、別の病院で」

 なぜか、柳はこれまでその選択肢を遠ざけていた。無意識のうちに、自分を守るためにか? ……この期に及んで。
「正直な気持ちとしては、私はまだ競技を続けたい。そのためにはあんたのサポートがどうしても必要。だから、ここではっきりと結果を見てからもう一度考えることが、二人にとって一番フェアなことだと思う」
 柳は遠くを見るように、窓の外へと視線を移した。
 クリスの言葉は、疑問を呼び覚ます。本当に診断は正しいのか? その診断結果を受け入れることで、自分自身を保護しようとしていたのではないか? また、自分自身への黒い感情が渦巻いていく。この泥のような感情が邪魔だった。このせいで、柳は自分の気持ちを自分で正しく認識することができない。
 心臓が冷えていく。

「……ごめん。私ばっかり……」
 彼女は笑ったが、その顔はいつもの眩しい笑顔ではなかった。
「全然自分のこと喋ってくれないから、私……いつもあんたのこと考えてる」

 レストランを出たクリスが、眩しいほどに生き生きとした声で提案する。
「散歩でもしますか!」
 その言葉に柳は微かに首を傾げた後、無意識のうちに彼女に同意していた。
 しかし内心は、現実から一歩引いたような、どこか浮遊する感覚に包まれていた。クリスの隣を歩きながらも、心はまだ重い霧の中を彷徨っているようで、周囲の景色が明確には認識できない。
「……うん」
 この淡い現実感は、自身の心境と同じくらい不確かなものだった。

 二人は高層ビルが立ち並ぶ街から一線を画した、近未来的な桟橋へと足を運んだ。
「天気いいね。強めの日焼け止めしてきて良かったな」
 そこは最新の技術で整えられた場所で、空を行く無人の輸送機や、水面を滑るように進む自動船が静かにその機能を果たしていた。子どもたちが遠くではしゃぐ声が聞こえる。
「この先の景色、好きだったよね」
 桟橋は透明な素材でできており、足元からはクリスタルブルーの海が見え、水中の生物たちがのぞき見ることができる。
「よく覚えてるね」
「柳歴何年だと思ってんの? 年の数と同じ!」
 太陽は頭上で輝き、その光は桟橋の透明な表面を通じて、きらめく海に幾つもの光の筋を描いていた。
 クリスは金色の髪を輝かせる。柳の薄い色素の両目には眩しく、サングラスを持ってこなかったことを惜しく思った。直視が難しい。

 そこを抜けると、二人はゆっくりと砂浜にたどり着く。
 砂浜は柔らかく、その一粒一粒が光を受けて輝いているように見えた。海は穏やかで、波の音はリズミカルな旋律を奏でている。しかしその穏やかさとは裏腹に、柳の内面では緊張が高まっていく。
 真剣な話しをするにはこの場所がふさわしいと感じていた。そしてきっと、それはクリスも。

 砂浜に立ち、遠くを望む二人の間には、言葉以上の多くの感情が流れた。次に発されたクリスの声には、一見しただけでは読み取れないほどの深い感情が込められる。
「決めよう。これからのこと、一緒に……」
 その言葉はまるで彼女自身の不安を内包しているかのように、静かで儚げな響きを持っていた。

 柳はそんな彼女の言葉に、自分だけでなくクリスもまた同じく苦悩を抱えていることに、まるで初めて気付いたかのように感じた。
 誠実さに応えるように、ゆっくりと言葉を紡ぐ。

「……うん……父さんに、連絡してみる。検査をもう一度受けるって」
 言葉が空に溶けるように消える。足元で波が寄せては返す音が、静かに続いている。海の音、風が頬を撫でていく感触。

 この痛みも、やがて遠くに飛んでいってしまうのだろうか。毎日、海の星々を手のひらに掬い取っていく。小さくて軽い思い出たちを。

 今はただ、大切にしたかった。
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