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罪なき日々の終着
まだ海の底にいる気分だ。
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中学一年の柳は、その頃からすでに周囲から一目置かれる存在であった。
容姿は端正で、スポーツも学業もトップクラスの成績を収めていた。そのため誰もが彼を慕い尊敬していたが、それが同時に妬みを生む原因ともなっていた。
柳はネオトラバースの分野で自身の才能を生かし、幼年ルールの「スターライトチェイス」から「ネオトラバース」のジュニアクラスを飛び越えて高校生と対戦する機会を得ると、その存在はさらに際立った。
しかし、その輝きはある大柄な先輩の目には逆に挑戦的に映ったようだ。
先輩は自分よりも柳が注目を浴びるのを快く思わず、彼を貶めるために仲間を引き連れ、柳を孤立させた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
体育倉庫での出来事は、突如として始まった。
先輩は怒りに任せて柳の顔を殴りつけた。まだ同級生たちと比べても小柄な体は金属製の籠に突っ込み、ロックが外れてバスケットボールが散らばってゆく。
柳は一切反撃せず、その場に崩れ落ちた。鉄骨に打ちつけた腕が、痛い。殴られた顔が痛い。
───しかし、頭は一気に冷たく冴え渡り、罵詈雑言を浴びる程にますます回転率を上げてゆく。
骨は多分、折れていない。それなら……大した問題じゃない。
「……ゴホッ……」
すぐに立ち上がり、痛みに顔を歪めながらも冷静さを保ち続けた。
「……何をしても良いですが、これで、……ゲホ……あなたに何か変化がありますか?」
その言葉に先輩はさらに怒りを募らせ、柳の胴を蹴り上げ、力いっぱい壁に叩きつけた。この一撃の勢いは激しく、後ろに控えていた仲間たちも一瞬、やばいんじゃないかなどと言ったほどだった。
「……ぅうっ! ……ッ…………! ……アぐ…………! …………ァ……!!」
柳は壁に背を打ちつけ、咳き込みながらも息を整え、そして問いかける。今が空腹で良かった。腹に何か入っていたら、全て吐きだしていたかもしれない。
「……同じ場所で学ぶ仲間なのに……どうして……傷つけ合おうとするんですか?」
一切の抵抗をしない意思を示すように、転がったままの柳が発した言葉は、聞き遂げられたようだった。聞くに耐えないような暴言を続けていた先輩は突然黙り、また拳を握りながら向かってきた。身体はなぜか動かない。
柳の言葉は攻撃者に対する内面の葛藤と、自己防衛への執着を表しているものとなっていた。
外が騒がしい。しかし反響と倉庫内のざわめきで様子がわからない。
「……骨折は嫌だな……内蔵も……」
それは聞こえないくらいに小さく、つい漏れ出た言葉だった。数少ないこだわりを持つ対象。大好きな競技。努力を重ねてきたのに、そのせいで今、試合に出られなくなるかも知れない。折角出られることになったのに……。
すでに過去の重大な裏切りによって警戒心を強く持っていた柳は、自己防衛のための心理的な仮面をさらに厚くすることを、無意識のうちに選択していた。
「腹立つんだよ、その取り澄ましたようなツラが! バカにしやがって!」
先輩のことは知らなかったし、バカにした覚えもない。
だが心の奥底では今後更に感情を抑え、他人との感情的な距離を置くためのさらなる理由を得る結果になった。弱みや本当の感情を他人に見せることが危険であるという認識を、強化する。
物音と騒ぐ声を聞いていた女子生徒が教師を呼んだらしく、彼らの介入によって柳は助け出された。
「先生! こっち! 今さっきすごい音が……」
「東雲くんがまだ中にいるんです!」
複数の教師が倉庫の扉を開けて入ってきたとき、その後ろにいた数人の中に、金色の髪を持つ見知った顔があった。
クラスメイトの女子が他に二人おり、一緒に教師を呼びに行っていたらしかった。
怯えた様子で立ちすくんでいたが、教師が自分の無事を確認して腰を下ろすと、名前を呼びながら駆け寄ってくる。
「柳……! 怪我してる……!」
クリスは泣きそうな顔をしながらも、懸命に涙を抑えていた。
冷え切っていた思考が緩み、暖かさが広がる。身体は痛んで仕方なかったが、柳はクリスに向かって微笑みかけようとした。
「なに笑ってんの……?! 痛いんでしょ……?! ばかじゃないの……!」
教師に助け起こされ、保健室へ移動すると告げられた。
次の授業が始まっていたが教師が気を使ってくれ、クリスを同行させてくれた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「……信じらんない……なんで柳のことをこんな目にあわせるの……」
保険医が頬の傷の消毒を終え、大きなガーゼを当てた。この後病院に行くように勧められる。クリスは椅子に座った柳を前にして、床に視線を落としながらつぶやいていた。
「なんなの……! くやしい……!!」
目を合わせると、クリスはくしゃりと顔を歪めた。柳は痛みで今まで言えなかった疑問を、ふと口にする。
「……なんで、クリスのほうが泣きそうなの?」
クリスは黙り込み、唇を強く噛んだ。そんなことをしたら痛くなってしまうのに。
「あんたが……そんなだからだよ……」
この出来事は柳にとって、他人との深い関わり合いをさらに避けること、自己を守るために感情を抑制し、表面上の完璧な仮面を維持することの重要性をより強固に感じる契機となった。
どれだけ他人からの影響を受けにくい強固な内面を持っているかを示しているが、同時に心の中で孤独と隔絶感が増していく。この孤立感は、他人との本当のつながりを持つことから自分を遠ざける。己を他人から遠ざけ、自己保護の壁を高く築き続ける。
過去の痛みから学んだ教訓がいつまでも渦巻いていた。
まだ、まだ足りない。もっと高く、厚く。そして誰にも立ち入らせないように。
「ごめんね、クリス……心配させて……」
クリスが泣いてしまう。だから、こんなことはもう無いようにしたい。
経験を重ねるうち、増えてゆく選択肢の山から自分の本当の感情すらも探し出せなくなってゆく。仮面は保護する防護壁であると同時に、他人との真の繋がりを阻んでしまう牢獄となっていった。
「ほんとに……そうだよ、あんたのこと私……」
穏やかさという仮面を、その顔を、自分自身だと思い込ませなければならない。人を信用してはならない。自分の情報を与えてはならない。
「心配……したんだよ……!」
強い感情が、邪魔だ。
怒りを、恐怖を、悔しさを排しても、痛みを切り離そうとしても、クリスは泣いてしまう。平気な顔がまだまだ下手なのかもしれない。柳は己の未熟さを反省した。
「泣かせて……ごめん」
クリスの大きな瞳が、大きく揺らいでいる。謝るとまた、透明な粒が落ちた。
声にならないのか、悲痛な細い声が保健室に響いた。保険医が彼女の肩を抱く。しゃくり上げて暫くの間泣き続けている。
「………ひ……ぅ、………ッく、バカ……!」
ああ、またやってしまった。どうしていつも。
容姿は端正で、スポーツも学業もトップクラスの成績を収めていた。そのため誰もが彼を慕い尊敬していたが、それが同時に妬みを生む原因ともなっていた。
柳はネオトラバースの分野で自身の才能を生かし、幼年ルールの「スターライトチェイス」から「ネオトラバース」のジュニアクラスを飛び越えて高校生と対戦する機会を得ると、その存在はさらに際立った。
しかし、その輝きはある大柄な先輩の目には逆に挑戦的に映ったようだ。
先輩は自分よりも柳が注目を浴びるのを快く思わず、彼を貶めるために仲間を引き連れ、柳を孤立させた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
体育倉庫での出来事は、突如として始まった。
先輩は怒りに任せて柳の顔を殴りつけた。まだ同級生たちと比べても小柄な体は金属製の籠に突っ込み、ロックが外れてバスケットボールが散らばってゆく。
柳は一切反撃せず、その場に崩れ落ちた。鉄骨に打ちつけた腕が、痛い。殴られた顔が痛い。
───しかし、頭は一気に冷たく冴え渡り、罵詈雑言を浴びる程にますます回転率を上げてゆく。
骨は多分、折れていない。それなら……大した問題じゃない。
「……ゴホッ……」
すぐに立ち上がり、痛みに顔を歪めながらも冷静さを保ち続けた。
「……何をしても良いですが、これで、……ゲホ……あなたに何か変化がありますか?」
その言葉に先輩はさらに怒りを募らせ、柳の胴を蹴り上げ、力いっぱい壁に叩きつけた。この一撃の勢いは激しく、後ろに控えていた仲間たちも一瞬、やばいんじゃないかなどと言ったほどだった。
「……ぅうっ! ……ッ…………! ……アぐ…………! …………ァ……!!」
柳は壁に背を打ちつけ、咳き込みながらも息を整え、そして問いかける。今が空腹で良かった。腹に何か入っていたら、全て吐きだしていたかもしれない。
「……同じ場所で学ぶ仲間なのに……どうして……傷つけ合おうとするんですか?」
一切の抵抗をしない意思を示すように、転がったままの柳が発した言葉は、聞き遂げられたようだった。聞くに耐えないような暴言を続けていた先輩は突然黙り、また拳を握りながら向かってきた。身体はなぜか動かない。
柳の言葉は攻撃者に対する内面の葛藤と、自己防衛への執着を表しているものとなっていた。
外が騒がしい。しかし反響と倉庫内のざわめきで様子がわからない。
「……骨折は嫌だな……内蔵も……」
それは聞こえないくらいに小さく、つい漏れ出た言葉だった。数少ないこだわりを持つ対象。大好きな競技。努力を重ねてきたのに、そのせいで今、試合に出られなくなるかも知れない。折角出られることになったのに……。
すでに過去の重大な裏切りによって警戒心を強く持っていた柳は、自己防衛のための心理的な仮面をさらに厚くすることを、無意識のうちに選択していた。
「腹立つんだよ、その取り澄ましたようなツラが! バカにしやがって!」
先輩のことは知らなかったし、バカにした覚えもない。
だが心の奥底では今後更に感情を抑え、他人との感情的な距離を置くためのさらなる理由を得る結果になった。弱みや本当の感情を他人に見せることが危険であるという認識を、強化する。
物音と騒ぐ声を聞いていた女子生徒が教師を呼んだらしく、彼らの介入によって柳は助け出された。
「先生! こっち! 今さっきすごい音が……」
「東雲くんがまだ中にいるんです!」
複数の教師が倉庫の扉を開けて入ってきたとき、その後ろにいた数人の中に、金色の髪を持つ見知った顔があった。
クラスメイトの女子が他に二人おり、一緒に教師を呼びに行っていたらしかった。
怯えた様子で立ちすくんでいたが、教師が自分の無事を確認して腰を下ろすと、名前を呼びながら駆け寄ってくる。
「柳……! 怪我してる……!」
クリスは泣きそうな顔をしながらも、懸命に涙を抑えていた。
冷え切っていた思考が緩み、暖かさが広がる。身体は痛んで仕方なかったが、柳はクリスに向かって微笑みかけようとした。
「なに笑ってんの……?! 痛いんでしょ……?! ばかじゃないの……!」
教師に助け起こされ、保健室へ移動すると告げられた。
次の授業が始まっていたが教師が気を使ってくれ、クリスを同行させてくれた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「……信じらんない……なんで柳のことをこんな目にあわせるの……」
保険医が頬の傷の消毒を終え、大きなガーゼを当てた。この後病院に行くように勧められる。クリスは椅子に座った柳を前にして、床に視線を落としながらつぶやいていた。
「なんなの……! くやしい……!!」
目を合わせると、クリスはくしゃりと顔を歪めた。柳は痛みで今まで言えなかった疑問を、ふと口にする。
「……なんで、クリスのほうが泣きそうなの?」
クリスは黙り込み、唇を強く噛んだ。そんなことをしたら痛くなってしまうのに。
「あんたが……そんなだからだよ……」
この出来事は柳にとって、他人との深い関わり合いをさらに避けること、自己を守るために感情を抑制し、表面上の完璧な仮面を維持することの重要性をより強固に感じる契機となった。
どれだけ他人からの影響を受けにくい強固な内面を持っているかを示しているが、同時に心の中で孤独と隔絶感が増していく。この孤立感は、他人との本当のつながりを持つことから自分を遠ざける。己を他人から遠ざけ、自己保護の壁を高く築き続ける。
過去の痛みから学んだ教訓がいつまでも渦巻いていた。
まだ、まだ足りない。もっと高く、厚く。そして誰にも立ち入らせないように。
「ごめんね、クリス……心配させて……」
クリスが泣いてしまう。だから、こんなことはもう無いようにしたい。
経験を重ねるうち、増えてゆく選択肢の山から自分の本当の感情すらも探し出せなくなってゆく。仮面は保護する防護壁であると同時に、他人との真の繋がりを阻んでしまう牢獄となっていった。
「ほんとに……そうだよ、あんたのこと私……」
穏やかさという仮面を、その顔を、自分自身だと思い込ませなければならない。人を信用してはならない。自分の情報を与えてはならない。
「心配……したんだよ……!」
強い感情が、邪魔だ。
怒りを、恐怖を、悔しさを排しても、痛みを切り離そうとしても、クリスは泣いてしまう。平気な顔がまだまだ下手なのかもしれない。柳は己の未熟さを反省した。
「泣かせて……ごめん」
クリスの大きな瞳が、大きく揺らいでいる。謝るとまた、透明な粒が落ちた。
声にならないのか、悲痛な細い声が保健室に響いた。保険医が彼女の肩を抱く。しゃくり上げて暫くの間泣き続けている。
「………ひ……ぅ、………ッく、バカ……!」
ああ、またやってしまった。どうしていつも。
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