鬼の閻火とおんぼろ喫茶

碧野葉菜

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理想と現実

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 私の腕から少女の腕へ、移動した子猫は微かに戸惑って見えたけれど、それは束の間。幸せそうに花笑はなえんだ彼女にぎゅっと包まれると、警戒心が綻んだようだった。
 毎日仕事で遅いご両親に代わって、彼女が引き取りに来た。
 きっとお互いに癒し癒される関係になれるだろう。

「あ、ありがとうございました、ではあたしはこれで」
「あっ……」

 子猫を迎えたピンク色のキャリーバッグを持ち上げ、踵を返す少女。
 咄嗟に声を漏らした私は、無意識のうちに伸ばしていた手に驚いた。
 少女は「どうしたんですか?」と言いたげに、不思議そうに小首を傾げている。
 
「う、ううん、なんでもない、ま、またよかったら、お店に遊びに来てね」

 行き場のない腕を引っ込め、しどろもどろになる。
 少女は軽く会釈すると、ちりりん、と帰りのベルを連れて夜の中へ消えて行った。
 
 私はその場に崩れ落ちる。
 とはいえ、怪我をしない程度にだ。
 こんな時でさえ、病院代を気にする根底心理が憎らしい。
 出て行こうとした小さな背中を見た瞬間、僅かながらやましい考えがよぎった。
 家族や友達にいい噂が広がって、少しでもお客様が増えないかなぁ、なんて。
 思わずココア色のエプロンを噛みしめ、震えながら泣き濡れたくなる。

「貧しさが悪いんや、貧しさが人をダメにするんや」
「帰ってきなよ、だいたいなにを考えているか想像はつくけどさ」

 藍之介はやれやれといったふうにため息混じりにパソコンを閉じた。

「それにしてもよくやるよね、自分に余裕なんてないくせに、捨て猫にお金と労力をかけるだなんて」

 冷たい床に座り込み壁面にもたれていた私は、藍之介の台詞で身体を起こした。

「そりゃあ、その時は必死だったから」
「萌香は目の前のことでいっぱいになる癖があるからね」
「よくご存知で」

 弱った子猫を動物病院に運び、家族が見つかるまでのお世話代。
 おそらくエアコンを修理できるほどの金額は飛んだ。
 ただ、それに関しての後悔は一切ない。
 あの時無視していたら、絶対に消えない胸の澱みとなって残ったはずだから。
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