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時刻表のないバス停(希望浜) ③
しおりを挟む女の子がしばらく黙ったままで、しかも二週間前に母親が亡くなったと聞いたからには、とおり一遍な慰め言葉などかけられるはずもなく、僕は相変わらず竹藪と枯木の向こうの日本海に目を向けながら、彼女が置かれている状況を推測してみた。
今の世の中はイレギュラーな出来事が日常的に起こり、それは蔓延している。戦後の高度成長期から日本経済が安定期に入る時代に生まれ育った僕は、昔を振り返ってみると、社会や人々の日常生活において、イレギュラーな出来事はそれほど多くなかった記憶がある。
つまり、人々は目の前の一本道を歩くがごとくに突き進んでいけばよかったように思うのだ。
だが、今の時代は何だって言うんだ。社会も暮らしも意外な出来事や想定外の展開の連続と言っても過言ではないし、もはや日々イレギュラーな出来事が当たり前となっている変な世の中だ。
だから、中学生くらいの女の子が突然僕の前に現れて、母親が二週間前に亡くなって、その墓参りに行くのだと聞いたところで大して驚きもしなかった。
だが、問題はそんなことではなくて、なぜ彼女が母親のラストシーンにも立ち会えずに、今になってひとりで母の墓標に向かわなければならないのかが疑問に思うのであった。
「おじさんは?」
「えっ?」
「おじさんはどこに向かうの?」
「ああ、僕はね、昔すごく懇意にしていた女の人を訪ねようと思って、それでここでバスを待っているんだ」
江美と会わなくなって、もうかれこれ五年が過ぎる。最後に会ったのは、彼女が突然、何の前触れも気配もなく、僕の住んでいる町に現れたときだ。
遥か昔、当時僕が通っていた大阪の北摂の大学の正門前で、ある朝江美に突然待ち伏せをされたことがある。だから、神出鬼没は江美の得意技というか、無意識のうちにやってしまう彼女の癖のようなものだと思うのだ。
五年前の僕は、転勤のため大阪から東京に移り住んで半年近くが過ぎたころだった。いつものように朝の通勤ラッシュ時に、最寄りのJR蒲田駅の東口からエスカレータを上がり、人ごみの中を急ぎ足で改札口に向かっていた。
そして、中央改札口への手前にある券売機が並んでいる端のあたりに、まるで時空の瞬間移動で今さっき現れたような感じで江美が立っているのを見つけたのだった。
そのときの彼女は、別れてから十年あまり経っているにも関わらず昔とほとんど変わっていなくて、僕は一瞬で江美だと分かった。
「すみませんが、昔すごく世話になった女性が今朝早く馬車に乗ってこの駅に現れると聞いたのですが、ご存知ありませんか?」
僕の声は驚きを必死で隠してもかすかに震えていたに違いなかったが、江美は正面をぼんやり見つめたまますぐには気づかなかった。
「えっ?」
江美が僕を見、僕は含み笑いで感情を抑えた。数秒間、見つめ合ったままの沈黙があった。
「その素敵な女性は、今あなたの目の前にいるようですわ。お気づきじゃないのかしら?」
江美は少し首を傾げて微笑み、そして言った。
「ようやくいろんなことにキリがついたから浩一に会いに来たのよ。久しぶりね」
僕は江美と別れてから有希子と結婚し、しばらくは大阪に住んでいたが転勤によって東京に移り、ようやく仕事も私生活も落ち着いてきたころだった。
この日、僕は予定通り仕事には行ったが早退し、有楽町で江美と再び会ってふたりの過去を懐かしんだ。有希子には旧友が東京に来たからと、結婚してから初めて嘘をついて、江美と品川のホテルで一夜だけ昔に戻ったのだった。
このとき江美はまだ独身を通していると言った。ふたりの間の命を失くしてしまった衝撃的な事件から、彼女はまだ立ち直れないでいたのかと僕は心配した。考えてみれば、簡単に立ち直れることではなかったのだ。
「やっぱりずっと尾を引いていたんだね」
「違うのよ。ずっと体調も悪かったから実家でのんびりしていたの。でも三年ほど前から父の紹介で地元の農協に勤めたの。そこで冴えない年下の職員と知り合って、先日プロポーズされたってわけ」
江美はあまり嬉しそうでもなく、けだるい表情で言った。でもまんざらでもなさそうだった。
江美との恋愛の中身を思い起こすと今でも惨めな気持ちになってしまうが、その裏側には不甲斐なかった学生時代の僕を支えてくれた彼女への感謝の気持ちが存在するからであった。
別れてから十年余りが経って思いもよらずに江美が目の前に現れたというのに、その夜もやはり惨めな気持ちのまま江美に寄り添って朝を迎え、そして別れた。
今度こそネクストはもうないと思った。そして、その翌年に江美から山口県の長門湯本温泉にある老舗旅館に嫁いだと便りが届き、僕はふたりの辛い過去がようやくエンディングを迎えたのだと思った。
「ねえ、おじさん、何考えているの?」
女の子が首を少し傾げて訊いた。僕は追憶に浸っていて、目の前の彼女の問いかけに気付かなかったらしい。
「ごめん、ちょっと昔のことを思い出していたんだよ」
「そうなの。それで、おじさんの行き先はここからバスに乗れば着くのね?」
「それは分からないんだ。ともかく東へ東へと行かないといけないんだけど、目的の町は日本海が近いからね、海沿いを走って行けば間違いないはずなんだ」
女の子は「そうね」と言って体育座りになり、小さく欠伸をした。
時刻はもうお昼前になっていた。そしてバスは相変わらずやって来なかった。
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