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時刻表のないバス停(希望浜) ①
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ところどころ舗装が崩れていて、石ころや土がむき出しになった粗雑な大通りに面して、道路の事情に負けず劣らないボロボロの板張りで囲われた、今にも崩れ落ちそうな粗末なバス停があった。
通りが見渡せるように板は腰のあたりの高さまでしか張られておらず、さらにトタン屋根も付いていて雨露さえも凌げるように、親切かつご丁寧に造られている。
だがバス停の表示板には、目を近づけてしっかりと確認しないと判読が難しい文字で「希望浜」と書かれているだけで、時刻表の類はどこを探しても見当たらないのだ。
僕がこのバス停にたどり着いてから、もうかれこれ一昼夜を過ぎたが、バスは一向に道路上に現れない。
今朝方ひとりの女の子がひょっこり入ってきて、板敷の長椅子に横向きに体育座りになり、僕と同じようにずっとバスを待っているのだが、ひと眠りして目が覚めると、今度は彼女が仰向けになって眠っていたりもして、もうかれこれ八時間ほど同じ屋根の下にいるというのに言葉を交わしていない。
「いったいバスはいつやって来るんだろう」
二日目の夕陽がバス停の裏手にある雑木林の向こうに沈んでいくのを見ながら、無意識のうちにため息まじりに呟いた。女の子はそんな僕を不思議そうな顔で見ていた。
三日目の朝を迎え、バッグから硬くなってしまったライ麦パンを取り出し、義務感のようにそれを齧りながら、目的地の街で、「いつかきっと訪ねてくるに違いない」と思って待ってくれているかも知れない江美のことを思った。
いや、かも知れないではなく、彼女はきっと僕が現れるのを、根拠のない確信を持って待っているに違いないのだ。まるで僕と女の子がいつ現れるとも知れない「希望浜」バス停でバスを待っているように。
ここは中国地方の外れのまた外れ、バス停の裏側には竹藪と枯木とが続き、その向こうには寂しい日本海が波音も立てずに控えている。
目の前の大通りと言ったってメンテナンスなんておざなりで、雨が降ればアスファルトが剥げ落ちたたくさんの窪みに雨水が溜まり、車が跳ね上げる飛沫がこのバス停にも降りかかりそうだ。
このあたりは町の行政からも見放されてしまっているに違いない。
「こんなところまで来るんじゃなかった」と思った。
でも、妻の有希子がまったく予測しなかった急病で命を失ってしまったとあっては、僕の精神力を支えてくれる人は江美以外に思いつかなかった。それがたとえひとときだけの救いであったとしてもだ。
この先の生きる方向を見失ってしまった僕に、わずかでも力を与えてくれそうな人は江美以外にはいない。
あれは四日前のことだったはず、厚狭駅で美弥線に乗り換え、そこから山の中を列車はコトコトと一時間ほど走って長門湯本駅に着いた。江美が住んでいるはずの温泉町だ。
駅前から湯本温泉の中心街に五分ほど下って、音信川に架かる橋を渡ったところに彼女が嫁いだと聞いていた旅館があった。
だが、訪ねてみるとその古い温泉旅館は数年前に経営者が替わり、江美たち一家はどこかに出て行ってしまったとのことだった。
「どちらに引っ越されたのでしょうか?」
「さてねぇ、それがよう分からんのですわ。ともかくかなり経営が厳しい状態じゃったらしくて、それをうちのオーナーが買取ったもんで、そうっちゃね、もう二年ほど前のことですかな」
支配人という中年の男性は丁寧に説明をしてくれたが、江美を含めた一家の移り先については首を横に振るだけであった。
僕は落胆して列車に乗って日本海に向かった。長門市駅で山陰本線に乗り換えて東へ向かったが、その日は萩駅が終着駅となってしまった。
「江美は実家のある安来に帰ったに違いない。そうだ、安来に行けばきっと会える」
僕は休みたくなかった。江美が帰っているであろう安来方面へ、少しずつでも近づきたかった。萩駅で降りたあと、深夜の国道を東へ東へと歩いた。
途中のコンビニでライ麦パンと水と少しばかりのチョコレートを買って、日本海を左に見ながら海沿いの道を休みもせずにひたすら歩いた。
夜通し歩いて朝陽が日本海の水平線にもうすぐ顔を出すころに、「希望浜」と消えそうな文字で書かれたこのバス停にたどり着いた。もうここで東へ向かうバスを待とうと思ったのだ。
「でもいったい何だって言うんだ?」
バスが一向に来ないばかりか、ヒッチハイクをする車一台すら通らない。こんな町は地図に載っているのかさえ疑わしいと少し苛立ったりもしたが、僕にはすでに急ぐべきことが何も存在しない。
時刻表のないバス停でずっと待っていると、気がつけば三日目、本当にやれやれだが、こうなったらバスが来るまで根比べである。
板塀の上から朝陽が差し込んできて、向かいに寝ていた女の子が眩しそうな目をこすりながら起き上がった。
「バスはまだですか?」
「来ないね、まったく。ところで君はここからバスに乗ったことがあるんだよね?」
当然、彼女はこのあたりに住む女の子だろうと思って訊いた。
「分かりません。私はここに初めて来たから」
「初めて来たって、どこからここに来たの?」
「大島です」
「大島?」
僕の質問には答えず、彼女は布製の少し大きなバッグからおにぎりを一個取り出し、ゆっくりとラップをはがして両手でしっかりと持ち直し、それから前歯を見せて齧った。
「固くなっちゃった」
「何日前のおにぎりなの?」
「おじいちゃんが船で送ってくれたのがおとといの朝だったから、その日の早くにおばあちゃんがにぎってくれたはず」
そう言って少しだけ彼女は笑った。
「それじゃ固くなるのは無理もないね。僕のこのパンもカチカチだ」
いつ来るかも分からないバスを待つふたりの会話としてはのんき過ぎると思いもしたが、ともかく二日も待ったのだから、ここで諦めるわけにはいかない。
「おじさんはもう今日で三日目なんだ」
「でも、今日はきっと来るわ」
女の子は妙に自信有りげに言うのであった。
通りが見渡せるように板は腰のあたりの高さまでしか張られておらず、さらにトタン屋根も付いていて雨露さえも凌げるように、親切かつご丁寧に造られている。
だがバス停の表示板には、目を近づけてしっかりと確認しないと判読が難しい文字で「希望浜」と書かれているだけで、時刻表の類はどこを探しても見当たらないのだ。
僕がこのバス停にたどり着いてから、もうかれこれ一昼夜を過ぎたが、バスは一向に道路上に現れない。
今朝方ひとりの女の子がひょっこり入ってきて、板敷の長椅子に横向きに体育座りになり、僕と同じようにずっとバスを待っているのだが、ひと眠りして目が覚めると、今度は彼女が仰向けになって眠っていたりもして、もうかれこれ八時間ほど同じ屋根の下にいるというのに言葉を交わしていない。
「いったいバスはいつやって来るんだろう」
二日目の夕陽がバス停の裏手にある雑木林の向こうに沈んでいくのを見ながら、無意識のうちにため息まじりに呟いた。女の子はそんな僕を不思議そうな顔で見ていた。
三日目の朝を迎え、バッグから硬くなってしまったライ麦パンを取り出し、義務感のようにそれを齧りながら、目的地の街で、「いつかきっと訪ねてくるに違いない」と思って待ってくれているかも知れない江美のことを思った。
いや、かも知れないではなく、彼女はきっと僕が現れるのを、根拠のない確信を持って待っているに違いないのだ。まるで僕と女の子がいつ現れるとも知れない「希望浜」バス停でバスを待っているように。
ここは中国地方の外れのまた外れ、バス停の裏側には竹藪と枯木とが続き、その向こうには寂しい日本海が波音も立てずに控えている。
目の前の大通りと言ったってメンテナンスなんておざなりで、雨が降ればアスファルトが剥げ落ちたたくさんの窪みに雨水が溜まり、車が跳ね上げる飛沫がこのバス停にも降りかかりそうだ。
このあたりは町の行政からも見放されてしまっているに違いない。
「こんなところまで来るんじゃなかった」と思った。
でも、妻の有希子がまったく予測しなかった急病で命を失ってしまったとあっては、僕の精神力を支えてくれる人は江美以外に思いつかなかった。それがたとえひとときだけの救いであったとしてもだ。
この先の生きる方向を見失ってしまった僕に、わずかでも力を与えてくれそうな人は江美以外にはいない。
あれは四日前のことだったはず、厚狭駅で美弥線に乗り換え、そこから山の中を列車はコトコトと一時間ほど走って長門湯本駅に着いた。江美が住んでいるはずの温泉町だ。
駅前から湯本温泉の中心街に五分ほど下って、音信川に架かる橋を渡ったところに彼女が嫁いだと聞いていた旅館があった。
だが、訪ねてみるとその古い温泉旅館は数年前に経営者が替わり、江美たち一家はどこかに出て行ってしまったとのことだった。
「どちらに引っ越されたのでしょうか?」
「さてねぇ、それがよう分からんのですわ。ともかくかなり経営が厳しい状態じゃったらしくて、それをうちのオーナーが買取ったもんで、そうっちゃね、もう二年ほど前のことですかな」
支配人という中年の男性は丁寧に説明をしてくれたが、江美を含めた一家の移り先については首を横に振るだけであった。
僕は落胆して列車に乗って日本海に向かった。長門市駅で山陰本線に乗り換えて東へ向かったが、その日は萩駅が終着駅となってしまった。
「江美は実家のある安来に帰ったに違いない。そうだ、安来に行けばきっと会える」
僕は休みたくなかった。江美が帰っているであろう安来方面へ、少しずつでも近づきたかった。萩駅で降りたあと、深夜の国道を東へ東へと歩いた。
途中のコンビニでライ麦パンと水と少しばかりのチョコレートを買って、日本海を左に見ながら海沿いの道を休みもせずにひたすら歩いた。
夜通し歩いて朝陽が日本海の水平線にもうすぐ顔を出すころに、「希望浜」と消えそうな文字で書かれたこのバス停にたどり着いた。もうここで東へ向かうバスを待とうと思ったのだ。
「でもいったい何だって言うんだ?」
バスが一向に来ないばかりか、ヒッチハイクをする車一台すら通らない。こんな町は地図に載っているのかさえ疑わしいと少し苛立ったりもしたが、僕にはすでに急ぐべきことが何も存在しない。
時刻表のないバス停でずっと待っていると、気がつけば三日目、本当にやれやれだが、こうなったらバスが来るまで根比べである。
板塀の上から朝陽が差し込んできて、向かいに寝ていた女の子が眩しそうな目をこすりながら起き上がった。
「バスはまだですか?」
「来ないね、まったく。ところで君はここからバスに乗ったことがあるんだよね?」
当然、彼女はこのあたりに住む女の子だろうと思って訊いた。
「分かりません。私はここに初めて来たから」
「初めて来たって、どこからここに来たの?」
「大島です」
「大島?」
僕の質問には答えず、彼女は布製の少し大きなバッグからおにぎりを一個取り出し、ゆっくりとラップをはがして両手でしっかりと持ち直し、それから前歯を見せて齧った。
「固くなっちゃった」
「何日前のおにぎりなの?」
「おじいちゃんが船で送ってくれたのがおとといの朝だったから、その日の早くにおばあちゃんがにぎってくれたはず」
そう言って少しだけ彼女は笑った。
「それじゃ固くなるのは無理もないね。僕のこのパンもカチカチだ」
いつ来るかも分からないバスを待つふたりの会話としてはのんき過ぎると思いもしたが、ともかく二日も待ったのだから、ここで諦めるわけにはいかない。
「おじさんはもう今日で三日目なんだ」
「でも、今日はきっと来るわ」
女の子は妙に自信有りげに言うのであった。
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