戻るべき場所

Pero

文字の大きさ
上 下
14 / 16

戻るべき場所 14

しおりを挟む

       第14話

 
 僕は今、部屋の窓から眼下に大阪の風景が広がっている山の上の病院にいる。

 JRと阪急電車の高架のずっと向こうに淀川がほんの微かに見える。

 山間部の短い距離の部分を新幹線の高架が走っていて、トンネルから突然現れた美しいフォルムを描く新幹線列車は、ほんの数秒間だけ疾風のように勇ましく駆け抜け、次のトンネルに消える。毎回見惚れてしまう光景である。
 
 もうここに入って十年あまりにもなる。

 でもずっとこの病院で治療しているわけではない。
 むしろ病院を出て社会復帰していた年月のほうが長い位だ。

 由美子から「別れる必要」を宣告されたあと、しばらく僕は誰とも接触を持たず、まるで廃人のような暮らしを送った。

 蓄えがなくなればそれで終わり、自殺のマニュアル本なんかを買ってきて、最終行為の手段の選択に迷っていた。
 
 由美子は二ヶ月か三ヶ月おきに僕の様子を見に来てくれた。

 彼女は幸せへ突き進みながらも僕のことをずっと気にかけてくれていた。

 彼女が来てくれるたびに僕は一瞬だけ喜びに浸れるのだが、一緒にいる時間が長くなればなるほど、あの恐ろしい夜のことがよみがえってきて身体が震えだす。

「もう無理に来なくてもいいよ」と由美子に訴えると、彼女は彼女で「そんなこと言わないで、辛くなるから」と言って泣く、ということを繰り返していた。
 
 もはや僕と由美子とは元に戻ることなど不可能なのだ。

 だが、彼女は次の男性へ移った多くの女性が、前の男と共有した時間をテレビを切るように消去するようなことはせず、別れる必要があった僕の元へ、忘れる必要など感じることもなく定期的に来てくれた。

 そんな律儀ともいえる由美子がときどき会いに来てくれるたびに、僕は嬉しさと不安とを伴った複雑な気持ちでドアを開けるのだった。
 
 由美子の勧めでこの病院に相談したのが、彼女に振られた翌年の平成十一年春のことだった。

 年が明けてから職場にいったんは復帰したのだが、仕事中や会社への行き帰りの雑踏の中で突然こころが破裂した。

 そのたびに、その場に蹲って動けなくなってしまうことや、大声で意味不明なことを叫びながら走り出すといったことを繰り返した。

 警察に保護されたときに身内の人の連絡先を聞かれたが、「身内は誰もいない。でもすぐに来てくれる人がひとりだけいる」と、そのたびに僕は言った。

 由美子はすぐに駆けつけてくれた。

「リョウ、可哀相なリョウ、もう大丈夫よ」

 由美子は警察に来てくれたとき、最初にそう言った。

 でも僕は可哀相な男だとは決して思わなかった。
 なぜなら、連絡すると、すぐに駆けつけてくれる由美子が存在しているのだから。
 
「ユミ、僕はもうだめだな。働けない人間になってしまったよ」

「そんなことないわ。ゆっくりと治せばいいのよ」

「いや、だめだろう。僕はきっと重い病気なんだ。落ち着いているときと、パニックになったときの差が激しすぎる。自分ではどうすることもできないんだよ。生まれつきの性質に違いない」

「私の責任なのよ。ごめんなさい」

「ユミに責任なんてあるわけないじゃないか。ユミはむしろ被害者なんだよ。顔面神経麻痺だって、僕の異常な気持ちがユミには大きなストレスとなっていたことが原因に違いないんだから」
 
 確かに僕は異常とも言えるほど由美子を愛した。

 でもその愛は自己愛の裏返しに他ならなかった。

 いくら由美子を思う気持ちが強烈だったとしても、それは自分のためのものだった。

 こころの浅い位置で僕は由美子を激しく思っていたに過ぎず、彼女を形成しているすべてのものを僕は愛しいと思っていたが、それは今になって考えてみると押し付けの愛情だったに違いなかった。

 由美子を一途に愛している自分自身を愛しく感じていたに過ぎなかった。

 由美子の立場や気持ちを汲み取っての愛情ではなく、こころの深い位置の愛とは程遠いものだったのだ。
 
しおりを挟む
感想 1

あなたにおすすめの小説

ちょっと大人な体験談はこちらです

神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な体験談です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではPixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

【完結】もう無理して私に笑いかけなくてもいいですよ?

冬馬亮
恋愛
公爵令嬢のエリーゼは、遅れて出席した夜会で、婚約者のオズワルドがエリーゼへの不満を口にするのを偶然耳にする。 オズワルドを愛していたエリーゼはひどくショックを受けるが、悩んだ末に婚約解消を決意する。だが、喜んで受け入れると思っていたオズワルドが、なぜか婚約解消を拒否。関係の再構築を提案する。その後、プレゼント攻撃や突撃訪問の日々が始まるが、オズワルドは別の令嬢をそばに置くようになり・・・ 「彼女は友人の妹で、なんとも思ってない。オレが好きなのはエリーゼだ」 「私みたいな女に無理して笑いかけるのも限界だって夜会で愚痴をこぼしてたじゃないですか。よかったですね、これでもう、無理して私に笑いかけなくてよくなりましたよ」

サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由

フルーツパフェ
大衆娯楽
 クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。  トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。  いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。  考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。  赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。  言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。  たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。

淫らな蜜に狂わされ

歌龍吟伶
恋愛
普段と変わらない日々は思わぬ形で終わりを迎える…突然の出会い、そして体も心も開かれた少女の人生録。 全体的に性的表現・性行為あり。 他所で知人限定公開していましたが、こちらに移しました。 全3話完結済みです。

小さなことから〜露出〜えみ〜

サイコロ
恋愛
私の露出… 毎日更新していこうと思います よろしくおねがいします 感想等お待ちしております 取り入れて欲しい内容なども 書いてくださいね よりみなさんにお近く 考えやすく

極悪家庭教師の溺愛レッスン~悪魔な彼はお隣さん~

恵喜 どうこ
恋愛
「高校合格のお礼をくれない?」 そう言っておねだりしてきたのはお隣の家庭教師のお兄ちゃん。 私よりも10歳上のお兄ちゃんはずっと憧れの人だったんだけど、好きだという告白もないままに男女の関係に発展してしまった私は苦しくて、どうしようもなくて、彼の一挙手一投足にただ振り回されてしまっていた。 葵は私のことを本当はどう思ってるの? 私は葵のことをどう思ってるの? 意地悪なカテキョに翻弄されっぱなし。 こうなったら確かめなくちゃ! 葵の気持ちも、自分の気持ちも! だけど甘い誘惑が多すぎて―― ちょっぴりスパイスをきかせた大人の男と女子高生のラブストーリーです。

アルバートの屈辱

プラネットプラント
恋愛
妻の姉に恋をして妻を蔑ろにするアルバートとそんな夫を愛するのを諦めてしまった妻の話。 『詰んでる不憫系悪役令嬢はチャラ男騎士として生活しています』の10年ほど前の話ですが、ほぼ無関係なので単体で読めます。

処理中です...