戻るべき場所

Pero

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戻るべき場所 ⑥

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       第六話
 
 六月の入梅宣言がされて数日経った日の朝、由美子から電話がかかってきた。

 何かに怯えているように声を震わせ、喋り辛そうにしながらも、自分が急変したことをゆっくりと僕に伝えた。

「リョウ、私・・・顔の半分が動かないの」

「動かないって、どういうこと?」

「分からない。どうしよう、リョウ」

 由美子は電話の向こうで静かに泣いていた。

「顔だけなのか、手や足はどうなの?」

「他はなんともないの。顔だけが半分動かないの。口も曲がったままだし、歯磨きするのも大変なの」

「痛いの?」

「ううん、痛みは全然ないのよ。でも片方の目がおかしくて、瞬きもできないの。自分の顔じゃないみたい」

「ちゃんと聞き取れるから、ゆっくり喋れば大丈夫だよ。会社を休んですぐに病院へ行くんだ。できるだけ大きな病院がいい。僕も今日は休むから」

「ありがとう。Y市民病院へ行ってみる。お父さんが入院していた病院で、よく知っているから」

「じゃあ僕もすぐに支度するから」

「ごめんね、リヨウ」

「何でそんなふうに言うんだ、僕たち、恋人同士なんだろ?」

 由美子はしばらく涙ぐんでいたが、今度は少し笑ってから、「そうね、恋人同士よね」と言って電話を切った。
 
 体調不良を理由に休むと会社に連絡したあと、僕は急いで駆けつけた。

 Y市民病院は天王寺駅から関西本線に乗り換えて久宝寺駅で下車し、駅の南方向に十数分歩いたところにある巨大な総合病院だった。

 形成外科の担当だと受付で聞き、行ってみると由美子の母が診療室前のソファーに心配そうに座っていた。
 
「ああ、塚本さん、来てくれたのですね。すみませんね、お仕事休まれたんですか?」

「仕事なんでどうでもいいんですよ、お母さん。それより由美子さんの具合はどうなんですか?」

「今診てもらっているんですけど、痛みも何もないのに顔の半分が動かないって言うんです。いったいどうしたんでしょうね」

 由美子の突然の事態に、母は戸惑いの表情を見せて落ち着かない様子だった。

 無理もないことなのだが、顔などに痛みがないのが救いだった。

 顔面神経麻痺という症状については無知だったが、命にどうこう問題があるわけではないと母が担当医から聞いたことを知って、病院への途中ずっと緊張していた気持ちが少し緩んだ。

 診療と検査は一時間半ほどを要し、結局由美子はこの日から入院することになった。

 医師の話では少なくとも一ヶ月の入院は必要とのことで、母は入院手続きのあと荷物を取りに家に帰り、僕は由美子の入院病棟の部屋まで付き添った。

 看護師が慣れた手順で六人部屋の明るい窓際のベッドを用意し、必要なものを揃えてくれて、あっという間の入院完了となった。
 
「先生はどうだって?」

「うん、よく分からないんだけど、急性の顔面神経麻痺だから薬物療法で治るって。すぐには元に戻らないらしいんだけど、大丈夫だろうって」

「それならいいんだけど、でもどうしてなんだろう。なぜ急に顔が半分麻痺してしまったのかな?」

「そうね、何の自覚症状もなかったのに・・・」

 由美子は眼帯をかけてもらっていた。

 片方の目と眉毛が、動く側のそれらと位置がずれていて、口は半分が動かず、だらりと下がったままの状態だった。

 つまり、顔半分の神経が動かないから、片方の目と頬と口の半分の動きが止まっているのだ。

 まるで正月に子供たちが福笑いの遊びで、目や口を見当違いな場所に置いてしまったように、由美子の顔は笑いごとではなく悲しいほど歪んで見えた。
 
「お茶を飲んでもね、注意しないと口元からこぼれちゃうのよ」

 由美子は泣き笑い顔でそう言った。

 僕はベッドの仕切りのカーテンをすべて閉めて、由美子の隣に座り、そしてそっと抱きしめた。

 由美子の身体を抱くのは久しぶりで、いつもの微かなコロンの香りが首筋あたりから伝わってくると、この上ない幸せを感じるのだった。

 由美子が顔面麻痺で当惑しているというのに、僕は自分勝手な幸せに浸っていた。
 
 由美子が入院してから、僕は仕事が終わればY市民病院へ向かった。

 残業で遅くなって面会時間が過ぎてしまっても、少しでも由美子の顔が見たかった。

 もちろん彼女の病状を心配してのことなのだが、僕はほんのわずかな時間だけでも会いたいがために、毎日のように立ち寄った。

    顔面神経麻痺は四、五日経っても何の回復も見られず、医師が治療法を模索している様子だったが、結局ステロイドの投与をすぐに開始することになった。

 ステロイドは劇薬だから副作用が心配だが、薬物療法が最も適切との医師の判断だった。
 
「週に三日をワンクールとして、一ヶ月にツークール投与するらしいの。投与と言っても点滴するって先生が言ってた。
 私、注射なんて大嫌いだし、点滴って針を刺した状態なんでしょ?絶対嫌だけど、こればかりは仕方がないわ。ともかくそれで効果が見られなかったら、一ヶ月のクール数を増やすこともあるんだって。だからすぐに退院は無理だし、長引くかもしれないわ」

 由美子は抑揚のない口調で言った。

    唇の半分が動かないから喋り辛そうだったが、異変があった日の由美子に比べるとずいぶんと落ち着いていた。

 顔面神経麻痺だといっても、痛みが全くと言ってよいほどないから、まだ平静を保てるのだろうと僕は思った。

「時間がかかってもきっと元に戻るよ。しかし何が原因で突然こうなったのかな?」

「分からない。今度、診療のときに先生に聞いてみる。どうして急に麻痺してしまったのかって」

「そうだな」
 
 僕は由美子が急に顔面神経麻痺になってしまった原因は、菌による感染などよりも精神的なことではないかと思っていた。

 おそらく父の他界から母の体調のことなども含めた心配事に加えて、この僕が与え続けた精神的なストレスが原因に違いないのだ。

 ある日、書店で医学書を立ち読みしてみたら、案の定、極度のストレスからも突発性の顔面神経麻痺は起こると書かれていた。


 
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