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戻るべき場所 ⑤
しおりを挟む第五話
由美子の父が亡くなったのはその年の四月のことだった。
まだ少し肌寒い日の早朝、ベッド脇に置いていた携帯電話が鳴った。
「今朝、お父さんが亡くなったの」
由美子は泣きじゃくっていた。付き合ってちょうど一年が経っていたが、初めて彼女の泣く声を聴いた。
由美子の父の容体は僕の知らないところでずいぶんと悪くなっていたようだが、彼女がそれを普段あまり口にしなかったのは、僕が余計な心配をすることを案じた優しさからに違いなかった。
そんな由美子を僕はいじらしく思い、すぐに駆けつけて抱きしめたくなった。
「どうすればいいかな?」
「今夜のお通夜は親戚がたくさん来ると思うの。リョウが居辛い気持ちになるのは嫌だから、明日のお葬式に来てくれる?」
「分かった、そうするよ。すごく心配だけど気持ちをしっかり持って」
由美子は「ありがとう」と言って電話を切った。
翌日、由美子の父の葬儀に参列した。
彼女の母や兄姉は僕と由美子が結婚するものと思っていただろうから、葬儀のあと火葬場へも一緒に行くことに対して何等違和感を表情に見せなかった。
お骨こそ拾わなかったが、葬儀のすべてが終わったあとも夜遅くまで僕は由美子の家にいた。
そして何人かの彼女の親戚にも紹介された。
僕は由美子と結婚することを決して疑わなかったし、彼女の父の葬儀の日だというのに、不謹慎にも幸せな気分になるのだった。
由美子は母と二人暮らしとなった。
僕は相変わらず仕事が終われば由美子の家に立ち寄り、様子を確認するとすぐに帰った。
やがて一時は憔悴していた母も次第に元気になり、三人で食事をして少し雑談し、それから僕は安心して帰るようになった。
由美子の忠告があってからは仕事も大切にするようになったし、忙しい日は彼女の家に寄らずに真っ直ぐアパートに帰る日も増えた。
しばらく平穏な日々が続いたが、由美子が週末に立ち寄ってくれたときや、休日にデートをしたときに、僕は必ずと言っていいほど「いつ結婚しようか?」と問いかけた。
「父が亡くなったから、今年は無理。来年の春以降まで待ってね」
当然の由美子の言葉に表向きは納得の顔をしながらも、僕は少しずつ苛立ちが増していった。
僕は二十七歳、由美子は二十二歳だったから、まだ結婚を急ぐ必要など存在しなかったのに、僕は早く結婚したくて焦った。
それは由美子を誰にも渡さず独占したいからにほかならなかった。
「私、どこにも行かないから安心して」
そのたびに由美子は苦笑いしながら答えてくれたが、僕は少しも安心しなかった。
翌年の春まで待てる自信がなく、苛立ちは日を増して次第に大きくなっていった。
気持ちの平静を保てない僕は、職場で仕事上の些細なことで同僚と言い合になってしまうこともあり、日常生活ではアパートの隣人とトラブルを引き起こし、ついに警察沙汰にまでなってしまった。
ある日の夜中、隣の部屋に住む僕と同年齢くらいの若い男が、泊まりに来ていた彼女と夜遅くまでイチャイチャしている声が、壁越しにずっと聞こえてきたのだ。
それまでにも何度か嬌声が断続的に聞こえたことがあったが、知らないうちに止んでいたし、あまり気にはならなかった。
だがこの夜、僕はどうにも我慢ができなかった。
三十分以上もふたりの楽しそうな声が続いたとき、僕は壁をこぶしでドンドンと何度も叩いた。
「うるさい!何時だと思っているんだ」
一度叩くとその行為が正当だと当然のように思い、意識しないうちに大声で叫んでしまった。
叫びながらも壁をこぶしで叩き続け、しばらくすると隣は静かになった。
そんなに叩き続けるつもりなどなかったが、叩いているうちに由美子との関係が思い通りにいかないことや、職場や自分を取り巻く環境の不自由さや様々な抑圧などに、次第に激しい怒りが伴ってきたのだ。
全くピント外れな怒りであることに気づくこともなく、半ば狂ったこころの状態で壁を叩き続けてしまった。
そして声が止んでから十数分が経って、隣の男が僕の部屋に文句を言ってきた。
ピンポンピンポンと三度も四度もチャイムを鳴らされたことで、さらに僕の怒りが増してそれは沸点に急上昇した。
「お前、何を馬鹿みたいに叩いてるんだ。関係ないだろうが、謝れよ」
「真夜中にうるさいんだよ。お前こそ、迷惑なことが分からんのか。そっちこそ、きちんと謝れ」
完全に血がのぼっていた。
無意識に玄関に立てかけていた傘を手に持っていた。殺意さえあったかも知れない。
「お前、あんなにずっと壁を叩き続けるなんて異常じゃないのか?何があったか知らないけど、八つ当たりするなよ、馬鹿」
男の言葉に僕の頭のどこかの部分がプツンと音を立てて切れた。
本当に音が出るんだなと一瞬だけ冷静に思いながらも、理性というパイプが切断された怒りの感情は止まらず、気がつけば持っていた傘で男の左耳のあたりを殴打していた。
「あうっ」と、短いうめき声を上げて男は玄関を出ていき、僕は勝ち誇った表情でドアをロックして部屋に戻った。
本当に自分が笑っていることが不思議だった。
数分後、男は戻って来て僕の部屋のドアをガンガンと何かで叩き続けながら、聞き取れない罵声の数々を浴びせ続けた。
近所迷惑もいい加減にしろと、僕はさらに腹立たしくなったが、絶対にドアを開ける気はなかったし、「腕が上がらなくなるまで勝手に叩け」と放っておいた。
だが間もなく警察官がふたりやってきた。
「警察だ、開けなさい。開けないと大変なことになるよ。開けなさい!」
仕方なくドアを開けると、男の手にはフライパンが握られていて、僕はそれを見て思わず大笑いしてしまった。
警察官はこの場において異様に笑い続ける僕に怪訝な表情を向けていたが、しばらくすると厳しい顔で咎めた。
「どうしたの、アンタ。彼を傘で殴ったことは認めるんだね?」
「はい」
「氏名は?」
「塚本亮一といいます」
「傷害罪になるよ。事件にするのならふたりとも警察署まで来てくれるかな。夜中だけど仕方がないよ」
ふたりの警察官は面倒くさそうな態度で言った。
「何が原因なの?」
「真夜中なのに隣がうるさくて・・・我慢できなくて壁を叩いてしまったんです」
「アンタは何していたの。音楽でもかけていたのかね?」
「いえ・・・」
隣の男はバツの悪そうな表情をしていた。
もし問題なければここで和解して終わったらどうかと警察官はアドバイスをした。
彼らもこんなつまらない喧嘩をいちいち取り上げたくなかったのだろう。
僕は男に「ちょっとカッとなってしまったんだ。申し訳なかった」と素直に頭を下げた。
「いや、俺のほうも夜中に悪かったよ」
耳の傷はたいしたことはなかったようで、警察官たちを間に挟んで、僕と男とのトラブルはその場で解決した。
由美子と一緒に暮らせないことや、結婚への道が明確に見えないことなどに、僕はかなり苛立っていたとしても、このような馬鹿げた事件を起こしてしまったことに、しばらくしてからようやく自己嫌悪と反省の念を感じるのだった。
だが、由美子の方がもっと追い詰められていたことに、僕は全く気づいていなかった。
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