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戻るべき場所 ②
しおりを挟む第二話
平成九年に初めて女性を愛した。
長尾由美子、二十一歳、五歳年下のごく普通の、どこにでもいるような女性を瞬時に好きになった。
異常なバブル景気が終焉を迎えて数年が経ち、あの阪神淡路大震災の悪夢のあと、阪神間の人々がもとの状態に戻ろうと必死になっていた復興途上のころだった。
僕は大学卒業後、実家のある愛媛には戻らず、大阪が本社のファイナンス会社に就職して三年が経っていた。
桜の季節も終わりを告げ、街では新しい人たちを祝う騒ぎがようやく収まったころ、取引先の接待のため、職場の上司に連れられて立ち寄ったバーに由美子はいた。
その夜、僕は彼女から、昼間は宝石貴金属店に勤めながら、週に三日だけその店でバイトをしていると聞いた。
僕は数日後、由美子の出勤の日にひとりでそのバーを訪ねた。
「来てくれたんだ、嬉しい」
由美子は大きな瞳をさらに大きく見開いて喜んでくれ、屈託のない笑顔がいきなり訪れたことに不安感を抱いていた僕を救ってくれた。
でも、僕はそのころまだクラブやバーなどの夜の社交場には慣れていなくて、由美子にどんな話をしてよいのか分からず、ひたすらウイスキーの水割りを飲み続けることしかできなかった。
由美子はグループ客や常連客の相手で忙しく、カウンターの片隅でじっとしている僕の前にはなかなか来てくれなかったが、僕は彼女の動きを見守り、客の誰かが発した言葉に答える由美子の声に耳を傾けるだけで満足していたし、全然退屈はしなかった。
やがて僕は由美子の出勤する日には必ずそのバーを覗くようになった。
そしてひたすら黙ってウイスキーを飲み続け、彼女の様子を見ているだけで満足し、毎回酔っ払ってフラフラになって帰った。
一ヶ月あまりが経つと、由美子が店をあがらせてもらう時刻まで粘り、駅まで一緒に帰るようになった。
当然のことだが、僕の給与の三分の一以上がその店で消えてしまう羽目になったが、僕は何の疑問もためらいも感じることはなく、ただ由美子と共有できる時間があることが幸せだった。
二ヶ月ほどが経ったある夜、いつものように由美子が店をあがらせてもらう時刻まで飲み続け、大阪駅まで急ぎ足で歩く途中、僕は彼女に初めて自分の思いを打ち明けた。
「君を見た瞬間に好きになったんだ。二十四時間、君のことが頭から離れないし仕事も手につかない」と。
その夜、僕と由美子は電車に乗らず、梅田の太融寺町にあるホテルに泊まった。
僕は最初に由美子を見てから二ヶ月あまり、一直線で彼女のこころへ突き進んだ。二十四時間、こころはずっと由美子で覆われ、夢の中でも由美子のことを思い続けた。
僕は由美子への決められた直線道路を、当たり前のようにわき目も振らずに突き進んだだけだった。
由美子も僕の気持ちをためらいなく受け入れてくれ、僕から由美子へ続く道路の信号は、ただの一度さえも赤や黄には変わることなく、すべて青信号が続いていた。
「もうお店に来なくてもいいよ。お金がいくらあっても足りないでしょ。これからは会いたいときに会えるんだから」
由美子は生意気に僕の懐具合を心配した。彼女の言葉に従って、バイト先への足は次第に遠のき、ついには飲みに行かなくなった。
由美子は大阪市内の平野区というところで両親と暮らし、僕は都島区の桜ノ宮というところの小さなアパートに住んでいた。
僕が勤める会社は業界では大手だったので待遇は悪くなく、無駄遣いさえしなければ貯蓄はそれなりに可能だったし、飲みに行かなくなってからは、彼女と一緒になるために貯蓄に精を出しはじめた。
そして貯蓄が順調に増えていったころ、僕は由美子に夜のバイトを辞めてくれないかと切望した。
だが由美子には家庭の事情があった。
若い女性が昼間勤めながら夜もバイトをするには、それなりの事情があるに決まっているのだが、女性に対する愛情の初心者だったため、そんなことさえ気がつかなかった。
「お金が要るのよ。恥ずかしい話なんだけど、うちは父が病気で母も具合が良くないの。だから、私の収入が頼りなのよ」
由美子の父はまだ五十歳を過ぎたばかりだったが、若いころから酒を飲み過ぎて肝臓病を患い、入退院を繰り返していると聞いていたし、母も清掃員のパートで働いていたが、体調が芳しくなく仕事を休みがちで、たいした収入にはならないとのことだった。
姉と兄は近くにそれぞれ家庭を築いていたが、実家を支援するほどの経済的な余裕はなさそうに思えた。
「ユミがバイトで稼ぐ程度のお金は僕が毎月渡すから、店を辞めてくれないか」
「そんなこと・・・塚本さん、私と本気なの?」
「本気?僕はいつだって真剣だよ。何をするにもきちんと考えている。僕は君が大好きなんだ」
「私、嫉妬深いからね。もし塚本さんが浮気なんかしたら、私、死んじゃうよ」
「絶対に誰にも目を向けないよ。ユミだけを大切にする。約束するよ」
間もなく由美子は僕のアパートで暮らすようになった。
六畳程度のフローリングの部屋に三畳程度の台所がついているだけの狭いアパートだったが、彼女は休みの日に掃除用具を持ってきて、汚れたユニットバスやキッチンや流しの周辺を二時間ほどもかけて洗剤でゴシゴシ磨いてくれた。
「きったないなぁ、どうやったらこんなに汚せるの」
親しみが増すにつれて由美子は僕のだらしない部分が分かってきたようで、遠慮のない辛らつな言葉が増えてきた。
でも、親しさのバロメータと分かっていたから、「ごめん」と謝りながらも、気持ちは嬉しさに満たされていた。
約束どおり、夜のバイトで得ていた同程度の金額を僕がプラスして、由美子の収入の一部とともに彼女が実家に手渡すようになったが、実家には僕が援助していることは内緒にしようとふたりで決めていた。
実家の近くには兄夫婦が住んでいたので、両親に何かあったときのことは特に心配はしなかった。
いつまでも末っ子の由美子に負担を求める彼女の両親や兄姉も、常々僕はおかしいと思っていたし、彼女は社会に出て以来、両親の暮らしを支え続けてきたのだから、いい加減に解放されるべきだと、少しばかり憤慨の念を抱いた。
でも由美子の家族ことを除けば、僕は彼女と知り合って三ヶ月あまりで、この世に存在する最も素敵な人を得た喜びに満たされていた。
平成九年の暑い夏のど真ん中のころだった。
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