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日曜日
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黒い男とお母さんに挟まれて、まるで親子のように三人並んで手を繋いで広い庭を進み、開きっぱなしになっている広い玄関に立った。
健介は俯いているから何も見ていない。どこに向かっているのか知りたいとも思わない。
これ以上怖いことがなければそれでいいとだけ、思っている。
線香の匂いが漂っていることは感じていた。
感じていただけで、それが何を意味しているのかまで考えられない。
健介は、考えられなくなっていた。
昨夜のあまりに長く大きな恐怖が、健介の心を潰していた。
中から黒いエプロンをした女性が何人か現れたり消えたりした後に、黒い服を着た男性と年配の女性が現れた。
「いまさら……何の用だ!」
「お引き取りください!」
中には通さないとばかりに立ち塞がり、憎々しげな表情を隠さないその二人にお母さんが言った。
「ご無沙汰してました。新聞で広重さんが死んだって知ったから、お悔みに」
にこりと笑って明るく告げるお母さんに、二人がさらに怒りに顔を染める。
「お帰りください。あなたの弔問なんかお断りします」
お母さんがさらに笑った。
「私じゃないですよ。広重さんの息子、連れて来ました」
「……え?」
「産んだんです、私」
「オヤジの息子?」
「だってあの時、始末するように手切れ金渡したじゃないの!」
「あの時の子が、この健介です」
「嘘よ!」
「オヤジの子じゃないだろ!」
「どうぞ、調べてください」
「あの時の子供に間違いないです」
お母さんと黒い男が、嬉しそうに笑っていた。
健介は俯いていた。
どうしてこんな時に!
わざとね?騒ぎにしようとしてるのね!
帰りなさい!二度と敷居は跨がせない!
叫ぶ老婆を、黒いエプロンの女性たちが奥に連れて行った。
残った男性が、沓脱に降りて靴を履き、ついてくるようにお母さんに言った。
健介もお母さんと黒い男の二人に手を引かれて、ついていった。
庭を横切り向かった先は離れの建物。豪邸の本宅に比べると小さいが、こちらは南欧風のやはり豪華な造り。男性が大きな鍵を外してその扉を開いて、顔も向けずに言った。
「入れ」
靴を脱いで階段を上がり二階の一室に案内され、そこで少しの間待たされた。
最近まで誰かが使っていたのか、家具にそれほど汚れもなく小物も多少置いてある。
「若いヤツの部屋だったんだな」
黒い男がそう言って、棚から何かを取り出していた。シュっと何かが擦るような音が聞こえた。
健介はずっと俯いていた。
それから男性が呼びに来た。
「健介はここで待ってなさい」
お母さんがそう言って笑った。
健介が顔を上げた時には、もう三人の姿はなくドアは閉まっていた。
一人になった。
しかし健介は人形のように、ドアを見上げて立っていた。
人形のようにお母さんの言いつけを守るだけ。
怖くないのならそれでいい。
そこまで低下している意志を、ほんの少し見えない力が突いた。
急に健介は、目覚めた。
父さん?
突然健介は、部屋を見回した。
父さん。
父さんの匂い。
健介は匂いをたどり、キャビネットを見上げ、扉を開けてその黒い箱を見つけた。
アロガン。
さっき、黒い男が、このスプレーを押したんだ。
父さん。
僕、帰るよ。
帰る。
健介の意志がはっきりと蘇った。
三人が姿を消したドアを開けるのが怖かったから、健介は窓に走った。
二階だけどベランダから降りることができるかも知れない。
窓を開けて、椅子を持って行って、ベランダから下を覗けば、どこかに足場があるかも知れない。
そして健介は手すりにしがみついた。
しかし、だめだった。
何もない。
下は砂利を敷いているだけ。
逃げられない。
帰れない。
僕は。
健介はまた絶望しかけた。
でも首を振り、屋敷の周囲をぐるりと見回す。
黒い服を着た人があちこちに立っている。
こんなにたくさんの人がいるのに、誰も僕を助けてくれないの?
誰か、
そしてまた広い庭を見渡す。
大きな木が三本立っている。
その周囲に数人。
真ん中の木に寄り掛かっている、長身の男。
長い栗色の髪を一つにまとめて、手の中の携帯を見下ろしている。
見慣れない黒のスーツを着ているけど、あの人は、あれは、
あれは、
朱鷺ちゃん。
健介は俯いているから何も見ていない。どこに向かっているのか知りたいとも思わない。
これ以上怖いことがなければそれでいいとだけ、思っている。
線香の匂いが漂っていることは感じていた。
感じていただけで、それが何を意味しているのかまで考えられない。
健介は、考えられなくなっていた。
昨夜のあまりに長く大きな恐怖が、健介の心を潰していた。
中から黒いエプロンをした女性が何人か現れたり消えたりした後に、黒い服を着た男性と年配の女性が現れた。
「いまさら……何の用だ!」
「お引き取りください!」
中には通さないとばかりに立ち塞がり、憎々しげな表情を隠さないその二人にお母さんが言った。
「ご無沙汰してました。新聞で広重さんが死んだって知ったから、お悔みに」
にこりと笑って明るく告げるお母さんに、二人がさらに怒りに顔を染める。
「お帰りください。あなたの弔問なんかお断りします」
お母さんがさらに笑った。
「私じゃないですよ。広重さんの息子、連れて来ました」
「……え?」
「産んだんです、私」
「オヤジの息子?」
「だってあの時、始末するように手切れ金渡したじゃないの!」
「あの時の子が、この健介です」
「嘘よ!」
「オヤジの子じゃないだろ!」
「どうぞ、調べてください」
「あの時の子供に間違いないです」
お母さんと黒い男が、嬉しそうに笑っていた。
健介は俯いていた。
どうしてこんな時に!
わざとね?騒ぎにしようとしてるのね!
帰りなさい!二度と敷居は跨がせない!
叫ぶ老婆を、黒いエプロンの女性たちが奥に連れて行った。
残った男性が、沓脱に降りて靴を履き、ついてくるようにお母さんに言った。
健介もお母さんと黒い男の二人に手を引かれて、ついていった。
庭を横切り向かった先は離れの建物。豪邸の本宅に比べると小さいが、こちらは南欧風のやはり豪華な造り。男性が大きな鍵を外してその扉を開いて、顔も向けずに言った。
「入れ」
靴を脱いで階段を上がり二階の一室に案内され、そこで少しの間待たされた。
最近まで誰かが使っていたのか、家具にそれほど汚れもなく小物も多少置いてある。
「若いヤツの部屋だったんだな」
黒い男がそう言って、棚から何かを取り出していた。シュっと何かが擦るような音が聞こえた。
健介はずっと俯いていた。
それから男性が呼びに来た。
「健介はここで待ってなさい」
お母さんがそう言って笑った。
健介が顔を上げた時には、もう三人の姿はなくドアは閉まっていた。
一人になった。
しかし健介は人形のように、ドアを見上げて立っていた。
人形のようにお母さんの言いつけを守るだけ。
怖くないのならそれでいい。
そこまで低下している意志を、ほんの少し見えない力が突いた。
急に健介は、目覚めた。
父さん?
突然健介は、部屋を見回した。
父さん。
父さんの匂い。
健介は匂いをたどり、キャビネットを見上げ、扉を開けてその黒い箱を見つけた。
アロガン。
さっき、黒い男が、このスプレーを押したんだ。
父さん。
僕、帰るよ。
帰る。
健介の意志がはっきりと蘇った。
三人が姿を消したドアを開けるのが怖かったから、健介は窓に走った。
二階だけどベランダから降りることができるかも知れない。
窓を開けて、椅子を持って行って、ベランダから下を覗けば、どこかに足場があるかも知れない。
そして健介は手すりにしがみついた。
しかし、だめだった。
何もない。
下は砂利を敷いているだけ。
逃げられない。
帰れない。
僕は。
健介はまた絶望しかけた。
でも首を振り、屋敷の周囲をぐるりと見回す。
黒い服を着た人があちこちに立っている。
こんなにたくさんの人がいるのに、誰も僕を助けてくれないの?
誰か、
そしてまた広い庭を見渡す。
大きな木が三本立っている。
その周囲に数人。
真ん中の木に寄り掛かっている、長身の男。
長い栗色の髪を一つにまとめて、手の中の携帯を見下ろしている。
見慣れない黒のスーツを着ているけど、あの人は、あれは、
あれは、
朱鷺ちゃん。
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