SECOND CRASH

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18・文乃

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 彼が出て行ってから私は眠ることも出来ず、かと言って起き上がって何をすることも出来ず、ただベッドに座っていた。

 すぐに戻ってくると言ったのに、彼は帰ってこなかった。
 日が昇っても帰ってこなかった。
 彼女と一夜明かしたということ。
 私を泥棒猫と呼んだ彼女と。


 外が明るくなって、やっと私はベッドを降りた。
 今日も休日ではなく朝から講義がある。準備して行かなくては。

 着替えて顔を洗って朝食を食べずに部屋を出る。
 いつも先に出る私を見送ってくれる彼の姿がないことを確認したくなくて目を伏せたまま鍵を掛けて早足で去る。
 階段を駆け下りて停めてある自転車の鍵を外して押してみると、後ろのタイヤがパンクしていた。
 昨日はなんともなかったのに。こんな早朝では自転車屋さんも開いていない。困ったなぁ。しばらくここに置かせてもらって週末にでも修理に出そうか。と思ったが、すぐに首を振った。
 だめ。ここに置いてはいけない。私はもうここには来ないのかも知れないから。来る理由がなくなるのかも知れないから。
 彼は、私の彼ではなかったのかも知れないから。
 だとしたら。
 私はアパートを振り返った。ここにはもう来ないとしたら。
 すぐに引き返して部屋に戻り、自分の持ち物を纏めた。洗面道具、多少の着替え、多少の本、スマホのコード、私のマグカップ。ナイロンバッグに詰めるとちょっと大荷物になった。
 これを肩に掛けて、いつものトートは手に持ち、また部屋を出る。
 鍵を掛けて、もうこれで最後かも、とドアを見上げた。
 この鍵も置いて行かなきゃ、とまた目を下ろすと、ドアポストがない。そういえばここ集合ポストしかない。集合ポストに入れる?と、階段を降りたが、集合ポストには鍵も付いていないし開けっぱなしの扉もあって、危なくてちょっとここには置いていけない。
 後で郵送でもしたらいい、といつものバッグのポケットに入れる。

 タイヤの凹んだ自転車を押して寮まで戻る。
 ただ歩くよりもずっと大変で、ハンドルを押す腕が痛くなるし狭い歩道だとすれ違う人を待たないといけない。地下道を通る時も登りが辛かった。そしてやっと登り切って外に出たら、雨が降り始めていた。傘を持っていないのに。
 秋雨は冷たくて薄いジャケットがすぐに濡れて中のシャツに沁みてくる。前髪から水滴が落ちてくる。あまりに濡れてコンビニに避難するのも恥ずかしくタイミングを逃してしまい、このまま寮まで行くしかないと決めて歩き続けるとさらに雨が激しくなった。ザーザーと音まで聞こえてくる。
 バッグの中まで濡れると困るのでトートは上で折り曲げて脇に挟み、ナイロンバッグも紐をきつく結んで胸に抱いた。
 こんな雨の中傘も差さずに歩いているのなんて私一人。荷物も多くて走れない。
 でも、雨に打たれて歩いている間は少し気が楽だった。
 沁みる雨や伝う水が冷たくて寒いと震えている間は、彼のことを考えずに済んでいたから。

 ひどく濡れていたので信号待ちしている間に結衣ちゃんに電話して玄関までタオル持って来てくれるように頼んだ。
 そしてスマホを脇に抱えたバッグに戻そうとして、指が冷えていたせいでそれを落としてしまった。最悪なことに水の溜った段差の下に落ちて派手に水しぶきが上がった。
 慌てて取り出してももうすっかり汚れてボタンに触れるだけで砂を押し込みそうで何もできなかった。
 とにかくそれをハンカチにくるんでまたバッグに入れて歩いた。

 寮に着いた頃にはずぶ濡れで、タオルを持って待ってくれていた結衣ちゃんが驚いていた。
「ちょっと何これ?どうして傘も差してないのよ?こんなに濡れてると思わなかった!ちょっと待っててタオル全然足りない!」
 そう言うなりバスタオルを一枚私の頭に被せて走り去った。
 私はやっと雨から逃れて濡れた顔を拭けるだけで安心して、濡れたバッグも靴脱ぎに下ろして濡れたジャケットも脱いだ。
 そして両手一杯にタオルを抱えた結衣ちゃんが戻ってきてくれて、もたもたしている私の代わりに全身タオルを当てて水気を吸ってくれて、バッグもジャケットも拭いてくれて私の部屋に持って行ってくれて、さっさとシャワー室に行きなさいと追い立ててくれた。
「私大学行くけど、文乃は休みなよ。風邪引いてるといけないし」
「大丈夫。シャワー浴びたら行くから。ありがと」
「無理しないでよ」
 そう言って結衣ちゃんは先に講義に向かった。
 私も急いでシャワーを浴びて着替えて教科書を揃えて雨の中傘を差して走って大学に向かった。
 遅刻したものの一コマ目から出席できたけれど、ずいぶん濡れたせいか少し寒気がした。夕方まで講義を受け、帰る頃には少し身体が熱かった。風邪薬を飲んで早めに寝たけれど、だめだった。翌日起き上がることができなかった。

 薬を飲んだせいもあり、前日寝ていなかったせいもあり、目覚めたのは昼近くだった。
 ただ目覚めても起き上がることができない。寒気が酷くて目眩がする。
 それほど酷い体調だったのに、それよりもまず目に入った自分の部屋が不思議だと思った。
 違う部屋。どうしてここで目覚めてるんだろう。どうして自分の部屋に帰ってきたんだっけ?
 そしてすぐに思い出した。
 あんなことがあったんだ。
 女の人が夜中に乗り込んできて彼を連れて行った。

 そうだった、あの部屋にはもう行けない。
 そう思い出して、またベッドに丸くなる。

 ただ、悲しいとか寂しいとかはまだはっきりと意識できていなかった。それよりも身体が熱くて寒くて苦しくて痛くて辛い。目眩もするしベッドを降りても歩けないとは思ったが、水が欲しいと思った。
 ずるりとベッドから降りて冷蔵庫まで這う。ドアを開けて掴んだペットボトルが冷たくて、床に落としてしまった。転がったそれを、這って追いかける。

 その時ドアがノックされた。
 誰か来てくれた、とすごくほっとした。誰か助けてくれる。
 もしかしたら彼かなと一瞬思い、彼がここに来れるはずがないと考え直し、返事をすると声が聞こえた。
「文乃?もしかして風邪?」
 結衣ちゃん。
「うん。やっぱり引いちゃった」
 そう応えながらゆっくりと立ち上がってドアにもたれながら鍵を開ける。
「ずぶ濡れだったもんねぇ。そうだと思ってお茶とおむすびと薬と、あ!大丈夫?!」
 ドアを開けた結衣ちゃんが、ふらつく私を支えてくれた。
「ベッド戻ってよ!すごく熱あるよ!大変!」
 結衣ちゃんは大柄で、小さい私を抱きかかえるようにしてベッドに連れて行ってくれた。
「はい、座って!これ温かいお茶ね!これでおむすび少しでも食べて、この薬飲んで、これおでこに貼る!」
 ちゃきちゃきと袋から出してお茶の蓋を取っておむすびのフィルムも剥いて私に持たせた。
「少し寒いよね。暖房入れるよ?」
 そう言って壁についているスイッチを入れる。
「このまま寝てなよ。夕方また来るから」
「……ありがと」
「バイト無理でしょ。代わるから」
「ありがと」
 つい、涙が出た。
「なんで泣いてんの?てか、なんであんなずぶ濡れになったのよ?」
 結衣ちゃんが笑って訊いてきた。

 昨日から結衣ちゃんに助けられっぱなし。ううん、元彼のストーカーの時からずっと。
 結衣ちゃんがいなければ私はどうなってたんだろう。今は結衣ちゃんを頼るしかない。今の私には結衣ちゃんしかいない。
 すっかり気弱になっていて、誰かに縋りたくて、私はついついあらましを話してしまった。
 曰く、昨日深夜に彼の部屋を女が訪ねてきたこと、合鍵を持っていたこと、泥棒猫と言われたこと、彼が慌てて出て行ったこと、一晩中戻って来なかったこと。彼に別に女の人がいるのではないかという疑惑が生まれ、荷物を纏めて雨の中帰ってきたこと。

「それ疑惑じゃないよね。確定」
 結衣ちゃんはあっさり断じた。
「でも、彼にまだ何も聞いてないから、」
 私はそう首を振ったが、
「ううん。それ以外無い。それ以外だったら、きちんと説明してから出て行ってるから。言わなかったってことはそういうこと」
 でも、と首を振ったが、
「二股。それが向こうの彼女にバレたの。今頃彼女を宥めて、次に文乃をごまかしに来るよ」
 そんな、
「そんな人じゃないと思ったんでしょ?そりゃそんな人じゃないフリするからね。全力で」
 結衣ちゃんは笑った。

「文乃を泥棒猫呼ばわりしたってことは、文乃よりも前から付き合ってる彼女だよね」
「やっぱイケメンは信用できないね。モテるんだからしょうがないって思ってるよ」
「文乃は元彼と別れたのにね。イケメンは二股で上手くやっていくつもりだったんだよ」

 結衣ちゃんに次々と彼の心情を説明されていく。そしてそれは論理的で間違っていない気がした。


「多分、今日バイト先に来るよね、彼。追い返すね」
 笑顔で言われた。
 でも私は高熱でぼんやりしていて言われた意味がよく分からず、返事をしたかどうかも覚えていない。
 お大事にね、と結衣ちゃんが部屋を出て行き、私はそのまま寝てしまった。





 夜に結衣ちゃんがまた来てくれた。
 目覚めてまたすぐ、彼の部屋じゃないことに気付く。寮の私の部屋で、結衣ちゃんがお見舞いに来てくれている。あんなことがあったから、とまた同じ事を思い出してグズグズしそうなところ、彼来たよ、と結衣ちゃんが報告してくれた。

「しれっと文乃のこと訊いてきたから、バイト辞めたって言っといた」
「しつこそうだったし、ストーカーから逃げるために引っ越したことにしたよ」
「多分またつけ回してくると思うから、用心しなよ」


 ストーカー?
 また?
 ああ、またって元彼の時のこと。
 別れるのが大変だった。やっと別れたばかりなのに、またあの騒動が起こるの?
 薬でうとうとしていて半分夢の中でそんなことを思った。

 お大事に、と結衣ちゃんが電気を消して出て行った。
 私はまたそのまま寝てしまった。
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