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13・理久
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盆が過ぎた頃に彼女が帰省先から戻ってきた。だから俺も急いで戻った。
何週間も会えなかったわけでもないし電話もメールも毎日していたけど、やはり生身に会いたかった。
ただその生身にも相変わらず毎日会えるわけでも何時間一緒にいられるわけでもなかったけれど。相変わらずバイト後の何十分かだけ。
それでも会う毎にどんどん近付いている確信はある。始めの時ほど拒まれなくなったこともあるし、キスもしてしまったこともあるし。
ただそれまで立ち寄っていた公園は寮が近すぎるからと別の場所に移った。そこも何度か行くと別の場所に移ろうと言われた。どんな場所でも二人でいられるのならどこでも楽園だが、キス以上は進めないところが地獄だ。
彼女に会う度に抱きたいと思うし、彼女に会えない時も抱きたいと思っているし、毎日毎日常に彼女を抱きたいと願いつつ叶わない忍耐の日々を送っていた。
ある時つい、どうして好きでもない男と付き合ったりしたのかと、責めるようなことを訊いてしまった。彼女は口を噤み俯いてしまい、慌てて謝ろうとしたが、ポツポツと答えてくれた。
「……嫌いじゃなかったから。相手が嬉しそうだったし、いいことしてるような気になってたんだと思う」
そうか、と頷いた。
正直な気持ちだと思う。
ただただ、俺の方が先に出会っていればこんなことにはなっていなかった。それだけのことで、彼女のせいでも元彼のせいでも俺のせいでもない。それなのにいつまでこんな状態が続くのか、見えない未来にいらつくこともあった。
そしてその耐える日々が終わったのは、突然だった。
ある夜彼女をバイト先で待っていると、いつもは元彼の目を警戒して俺の姿は確認するものの一人で先に歩いて行ったものなのに、その時は真っ直ぐ俺の元に駆けてきた。
俺は驚いて、いいのか?大丈夫か?と一瞬周囲を見回したが、日の落ちた夜の街でみなそれぞれに忙しく誰も俺らに目を向けてもいない。そして彼女は俺だけを真っ直ぐ見て真っ直ぐ走ってくる。
再び目を向けてその姿を見て、気付いた。
彼女が笑顔で真っ直ぐ俺に向かって駆けてくる。周囲に目を配ることもなく。
笑っている。
つまり、終わったのだ。
彼女の苦しみと俺の忍耐が終わったのだ。
そして、始まるんだ、と分かった。
とっくに始まってはいたけど、本当に始まってはいなかった。
始まるんだ、と確信した時には、駆けてきた彼女は俺の腕の中にいた。
彼女の笑顔ですぐに気付いてもよさそうなものなのに、こうして抱きつかれるまで俺はその意味を考えていた。
それほどに、信じられなかったのだ。これまでの忍耐の日々がこんなに突然終わることが。
「やっと、別れました。彼、実家に帰った」
「そう」
「うん」
「やっとだ」
「うん」
本当に終わった。本当に始まる。
夜の街角で俺は彼女をきつく抱きしめた。
「じゃあ、今日はこのまま俺の部屋に来て」
「……」
「嫌?」
「……私が、言おうと思ってたのに」
「え?」
「あなたの、部屋に」
「うんいいよ。すぐ帰るっちゃ」
「すぐ帰るっちゃ」
彼女が俺の訛りを笑って可愛く繰り返した。
その後寮に寄り彼女が着替えやお泊まりセットを入れたバッグを持ち出して、二人で俺の部屋に向かった。
初めて手を繋いで歩いた。
やっと始まる。
俺のアパートに着いて部屋の鍵を開けて彼女に先に中に入ってもらい俺も入ってまた鍵を掛けて、そのドアに彼女を押しつけてキスした。
電気も点けず暗い狭い玄関の中で、唇を離さないまま抱きしめて、ジャケットの中の今まで触れられなかった彼女の形を薄いシャツ越しに手で確かめていく。
ずっと触れたかったから、ずっと抱きたかったから、我慢するつもりはなかった。
だけどシャツの中に指を滑らせると彼女が震え始めたので、手を止めた。
小さな窓からの月明かりが壁を照らす間接照明だけの薄闇もしばらくいると目が慣れてくるもので、震える身体を少し離して顔を覗いてみると怯えるような表情で目も潤んでいる。
「怖い?」
そう訊くと、笑みを作って首を振った。
「……怖く、ないけど」
そう囁いて、一度ため息をついて目を伏せた。
「少し、緊張する」
少し緊張する。
そう言われて、俺もそうだと気付いた。
やっと望みが叶うから興奮してるだけだと思っていたけど、それだけじゃない。
自分の部屋に連れ込んで、ずっと触れたかった彼女の肌に指を這わせ、欲しかった匂いに包まれて、細い囁きを耳元で聞いて。
これだけでも今までできなかったことで、つい焦るように力が入ってしまうし、気が昂ぶって息が弾み胸が苦しくて、興奮していると自分で感じたけど、それだけじゃなかった。
緊張している。まるで初めてのように。
初めてじゃないのに。
俺も。恐らく彼女も。
そう思い付いたときに彼女に訊かれた。
「……あなたは、初めて?」
俺は、首を振った。
すると彼女は少しだけ間を置き、少し笑って言った。
「よかった」
その寂しげな笑顔で、分かった。
俺も、彼女も、初めてじゃない。
よかった、というのは、俺も初めてじゃないこと。自分だけが経験済みだとしたら辛いということだと思う。
それでも、経験済みだということが既に辛い。
互いに。
それでも。
今は俺の腕の中にいるし、彼女は俺一人を見詰めている。
それで十分だと思う。
彼女にもそう思って欲しい。
元彼のことなんか1秒でも思い出して欲しくない。思い出させない。
そう決めてまた抱きしめようとしたら、彼女の方が先に両腕を俺の首に伸ばしてきた。
俺も彼女の背中に腕を回し、まるで密着するようにぴたりと抱きしめる。
彼女の身体はやはり細かく震えている。
まるで初めてのように。
いや。初めてか。
俺に抱かれるのは初めてだ。
ここで、俺の部屋で、俺に抱かれるのは、確かに初めてなんだ。
そうだよな。俺だって初めてだ。
彼女をここに連れ込むのも、ここで彼女を抱くのも初めてだ。
そうだよな。
そうだ。
初めてだ。
「俺も緊張する」
彼女の耳元で囁いた。
「一緒だね」
彼女が笑い声で応えた。
何週間も会えなかったわけでもないし電話もメールも毎日していたけど、やはり生身に会いたかった。
ただその生身にも相変わらず毎日会えるわけでも何時間一緒にいられるわけでもなかったけれど。相変わらずバイト後の何十分かだけ。
それでも会う毎にどんどん近付いている確信はある。始めの時ほど拒まれなくなったこともあるし、キスもしてしまったこともあるし。
ただそれまで立ち寄っていた公園は寮が近すぎるからと別の場所に移った。そこも何度か行くと別の場所に移ろうと言われた。どんな場所でも二人でいられるのならどこでも楽園だが、キス以上は進めないところが地獄だ。
彼女に会う度に抱きたいと思うし、彼女に会えない時も抱きたいと思っているし、毎日毎日常に彼女を抱きたいと願いつつ叶わない忍耐の日々を送っていた。
ある時つい、どうして好きでもない男と付き合ったりしたのかと、責めるようなことを訊いてしまった。彼女は口を噤み俯いてしまい、慌てて謝ろうとしたが、ポツポツと答えてくれた。
「……嫌いじゃなかったから。相手が嬉しそうだったし、いいことしてるような気になってたんだと思う」
そうか、と頷いた。
正直な気持ちだと思う。
ただただ、俺の方が先に出会っていればこんなことにはなっていなかった。それだけのことで、彼女のせいでも元彼のせいでも俺のせいでもない。それなのにいつまでこんな状態が続くのか、見えない未来にいらつくこともあった。
そしてその耐える日々が終わったのは、突然だった。
ある夜彼女をバイト先で待っていると、いつもは元彼の目を警戒して俺の姿は確認するものの一人で先に歩いて行ったものなのに、その時は真っ直ぐ俺の元に駆けてきた。
俺は驚いて、いいのか?大丈夫か?と一瞬周囲を見回したが、日の落ちた夜の街でみなそれぞれに忙しく誰も俺らに目を向けてもいない。そして彼女は俺だけを真っ直ぐ見て真っ直ぐ走ってくる。
再び目を向けてその姿を見て、気付いた。
彼女が笑顔で真っ直ぐ俺に向かって駆けてくる。周囲に目を配ることもなく。
笑っている。
つまり、終わったのだ。
彼女の苦しみと俺の忍耐が終わったのだ。
そして、始まるんだ、と分かった。
とっくに始まってはいたけど、本当に始まってはいなかった。
始まるんだ、と確信した時には、駆けてきた彼女は俺の腕の中にいた。
彼女の笑顔ですぐに気付いてもよさそうなものなのに、こうして抱きつかれるまで俺はその意味を考えていた。
それほどに、信じられなかったのだ。これまでの忍耐の日々がこんなに突然終わることが。
「やっと、別れました。彼、実家に帰った」
「そう」
「うん」
「やっとだ」
「うん」
本当に終わった。本当に始まる。
夜の街角で俺は彼女をきつく抱きしめた。
「じゃあ、今日はこのまま俺の部屋に来て」
「……」
「嫌?」
「……私が、言おうと思ってたのに」
「え?」
「あなたの、部屋に」
「うんいいよ。すぐ帰るっちゃ」
「すぐ帰るっちゃ」
彼女が俺の訛りを笑って可愛く繰り返した。
その後寮に寄り彼女が着替えやお泊まりセットを入れたバッグを持ち出して、二人で俺の部屋に向かった。
初めて手を繋いで歩いた。
やっと始まる。
俺のアパートに着いて部屋の鍵を開けて彼女に先に中に入ってもらい俺も入ってまた鍵を掛けて、そのドアに彼女を押しつけてキスした。
電気も点けず暗い狭い玄関の中で、唇を離さないまま抱きしめて、ジャケットの中の今まで触れられなかった彼女の形を薄いシャツ越しに手で確かめていく。
ずっと触れたかったから、ずっと抱きたかったから、我慢するつもりはなかった。
だけどシャツの中に指を滑らせると彼女が震え始めたので、手を止めた。
小さな窓からの月明かりが壁を照らす間接照明だけの薄闇もしばらくいると目が慣れてくるもので、震える身体を少し離して顔を覗いてみると怯えるような表情で目も潤んでいる。
「怖い?」
そう訊くと、笑みを作って首を振った。
「……怖く、ないけど」
そう囁いて、一度ため息をついて目を伏せた。
「少し、緊張する」
少し緊張する。
そう言われて、俺もそうだと気付いた。
やっと望みが叶うから興奮してるだけだと思っていたけど、それだけじゃない。
自分の部屋に連れ込んで、ずっと触れたかった彼女の肌に指を這わせ、欲しかった匂いに包まれて、細い囁きを耳元で聞いて。
これだけでも今までできなかったことで、つい焦るように力が入ってしまうし、気が昂ぶって息が弾み胸が苦しくて、興奮していると自分で感じたけど、それだけじゃなかった。
緊張している。まるで初めてのように。
初めてじゃないのに。
俺も。恐らく彼女も。
そう思い付いたときに彼女に訊かれた。
「……あなたは、初めて?」
俺は、首を振った。
すると彼女は少しだけ間を置き、少し笑って言った。
「よかった」
その寂しげな笑顔で、分かった。
俺も、彼女も、初めてじゃない。
よかった、というのは、俺も初めてじゃないこと。自分だけが経験済みだとしたら辛いということだと思う。
それでも、経験済みだということが既に辛い。
互いに。
それでも。
今は俺の腕の中にいるし、彼女は俺一人を見詰めている。
それで十分だと思う。
彼女にもそう思って欲しい。
元彼のことなんか1秒でも思い出して欲しくない。思い出させない。
そう決めてまた抱きしめようとしたら、彼女の方が先に両腕を俺の首に伸ばしてきた。
俺も彼女の背中に腕を回し、まるで密着するようにぴたりと抱きしめる。
彼女の身体はやはり細かく震えている。
まるで初めてのように。
いや。初めてか。
俺に抱かれるのは初めてだ。
ここで、俺の部屋で、俺に抱かれるのは、確かに初めてなんだ。
そうだよな。俺だって初めてだ。
彼女をここに連れ込むのも、ここで彼女を抱くのも初めてだ。
そうだよな。
そうだ。
初めてだ。
「俺も緊張する」
彼女の耳元で囁いた。
「一緒だね」
彼女が笑い声で応えた。
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