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第五章 罪過
5-5 身代わりの恋人
しおりを挟む不意に、寒さを覚えた。
ふるりと身を震わせ、重たい瞼を開く。視界に映り込んだのは、薄暗い見慣れない部屋の天井。傍らの窓のカーテンからは、ぼんやりとした淡い光が漏れ、ぽつぽつと雨音が聞こえている。
靄の掛かった思考の中、暫し茫洋とそれらを眺めた後、砂音はハッとして視線を横に転じた。隣は空っぽ。そこに居た筈の彼女の姿は無い。
途端に不安が襲い、焦燥に駆られるままに布団を跳ね除けてベッドから出た。
素肌に直接外気が触れ、今一度冷えた体を震わせる。自分が何も着ていない状態だった事を思い出し、留まると付近に目を配った。床に無造作に落ちていた自身の服を見つけて掻き集め、釦を止める間も惜しむように乱雑に着用する。
それから、慌ただしく寝室を後にした。
リビングの方へ行くと、紫穂はそこに居た。明かりも点けずに薄暗いままの室内に、幽鬼のように。儚い翳りを背負って、後ろ姿を向けている。
それでも、彼女の存在を確認すると、砂音はホッと胸を撫で下ろした。――消えてしまったのかと、思った。
こちらに気が付いていない様子の彼女に、そっと呼び掛ける。
「……紫穂、さん」
呼び捨てにしかけて、躊躇うように敬称を取って付けた。砂音の声に弾かれたようにこちらを振り向いた紫穂は――泣いていた。
息を呑む。掛ける言葉を失って砂音がただ佇んでいると、彼女は見開いた瞳をふっと細めて、両手で顔を覆った。
「ごめんなさいっ! 私……私、なんて事を……貴方に、なんて酷い事を!」
押し殺したような慟哭が、響き渡る。萎れた花のように首をもたげて泣き崩れた彼女の姿に、昨夜の記憶の映像が脳裏に閃いては重なった。
――『兄さん……っ』
耳朶を衝く呼び声に、瞬間砂音は動きを止めた。細い首筋に埋めていた顔を持ち上げ、見下ろす。シーツの上の彼女は、横向きに顔を背けたまま瞼を固く閉ざしていた。そこから一雫涙が伝い落ちるのを見ると、強烈な罪悪感に襲われる。
自分は彼女を傷付けているだけではないのか。今からでも止めるべきだ。……そう思うのに、するりとこちらの頭部をかき抱くようにして、彼女の腕が絡んだ。縋るように、せがむように。
「やめないで、兄さん……」
切ない懇願の響きに、抗う術など無かった。ここで突き放してしまったら、きっと彼女は壊れてしまう。
『全てを忘れさせて欲しい』と、彼女は言った。それでも、彼女がこうして呼ぶのは、決して忘れる事の出来ない〝兄〟なのだ。
ならばせめて、現実の忘却を。ひと時の甘い夢を与えよう。――〝兄さん〟。彼女が、そう在る事を望むのなら。
「……〝紫穂〟」
耳元に、零す。敬称の無い呼び掛けに、一殺那彼女の肩がぴくりと跳ねた。――違っただろうか。この呼び方ではなかっただろうか。僅かな不安が滲む。しかし、すぐに彼女は応じるように、腕の力を強めてきた。
「兄さん……兄さんっ」
求めるように、何度も。繰り返し呼ぶ彼女の声に、小さく安堵の息を吐きながら、応えて返す。
「紫穂……紫穂」
――これでいい。これできっと、合っている。
彼女の呼び声。潤んだ瞳に映る熱。触れた肌の温もり。知りたかった、求めていた筈のもの。……けれど何故だか、泣きたくなった。
喉の奥が締め付けられる。無数の棘に貫かれたように胸が痛む。――ダメだ。悟られてはいけない。
それら全てを呑み込んで、見ないフリをして、砂音は微笑った。穏やかに、優しく、愛おしい義妹を見詰める〝兄〟として。
――痛い。
痛い痛い痛い。……それが、どうした。
腕の中で小さく震える彼女が、こちらの与える刺激に愛らしく反応を示す彼女が、愛おしい。守りたい。彼女の心を苛む全ての痛みと苦しみを――肩代わりしよう。それがこの胸の痛みなら、甘んじて受け容れよう。
「――大丈夫」
鮮明な痛みの記憶は、身体に残る生々しい感覚までも呼び覚まして、背筋をぞくりと戦慄かせた。
『大丈夫』――今一度、己に言い聞かせるように心中で唱えて、砂音は目の前の紫穂をそっと抱き締めた。割れ物に触れるように、繊細に。
「大丈夫だよ、紫穂さん。俺は、男の子だから」
その言葉に、腕の中で彼女がびくりと身を竦ませたのが分かった。
「俺は、大丈夫だから」
何も傷付いたりなんか、しない。――だから、そんな風に悲しまなくていい。
「泣かないで。……泣かないで、紫穂さん」
――君が泣くと、とても悲しいんだ。
「でも、私……っわたし、貴方の事を利用した! 貴方は貴方なのに! 私、どうかしてた!」
「……いいよ。それでも俺は、構わない。それに、利用したというのなら、俺だって同じだ」
予想外の言葉が返ってきたからだろう。紫穂は瞬間虚を衝かれたように目を丸くして、こちらを見上げた。その瞳を真っ直ぐに見詰め返し、砂音は告げる。
「俺は、君が好きだ」
瞠られた瞳に、驚愕の色が差す。
「……紫穂さんが、好きです」
当分伝えるつもりの無かった言葉。こんな風に告げる日が来るなんて、思いもしなかった。
彼女の瞳を彩る驚愕の中に、次第に絶望にも似た自責の念が拡がるのが見えた。――いけない。そうじゃない。君は悪くない。
「だから、頼ってくれて、嬉しかった。どんな形でも、必要として貰えて、嬉しかった。……俺は、自分が貴女の大切な人に似ているという事実を、利用したんだ」
――そうだ。悪いのは、俺だ。だから。
「俺の事……利用してよ。俺も、自分の立場を利用するから。……代わりでいい。傍に居させて欲しい」
君がそう望むのなら、俺は君の〝兄さん〟で居るから。
だから、泣かないで。笑っていて欲しい。その為ならば、痛くない。痛くなんて、ないから。
――サヨナラだけは、しないで。
胸に秘めた切願が伝わってしまったのか、紫穂は大きく見開いた瞳から、ぼろぼろと涙を溢れさせた。
「ごめんなさい。ごめんなさい」壊れたレコードのように繰り返し謝罪の言葉を吐き出しながら、砂音の背に腕を回して、しがみつく。それが、せめてもの償いだとでもいうかのように――強く。
恋慕と執着と、背徳と罪悪感。それらが結び合わせて――この日、二人は〝恋人〟になった。
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