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第三章 君にもう一度、恋をする。

3-4 縺れる心

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 恋は早い者勝ちの競争だ。走って、動いて、この手で掴み取りに行かなければ、決して手には入らない。

 息せき切らせて、校舎中を走り回って、彼女達は遂には立ち止まった。
 肩で荒い呼吸を繰り返しながら、傍らに控えた仲間達と顔を見合わせる。皆、徒労感の中に諦観の色を滲ませていた。

「ダメ、見付からない」
「何処に居るんだろう、時任君」

 彼女達は、砂音を追っていたクラスメイト達だ。リーダー格の少女が砂音に想いを寄せており、取り巻きである友人達が彼女の恋を応援しているといった関係性だった。
 これまで親友の千真のガードが硬く砂音に容易に近付けずにいた所、この頃は砂音が単独で行動するようになったので、これを機にとお近付きになろうとしている訳なのだが……どういう訳か、いつもするりと逃げられてしまう。

 彼に関する変な噂も流れているので、リーダーは焦っていた。このままでは、彼が他の女にむしり盗られてしまう。
 実際、彼に近寄ろうとしているのは自分達だけではないようで、休み時間の鬼ごっこにはしばしば他クラスや他学年の子達も見掛けていた。あの子達よりも早く、接触しなくては。

 成果のない隠れんぼに友人達が疲れた顔をして、もう教室に戻ろうかと漏らす中、リーダーだけはまだ諦め切れない想いを抱えていた。
 こうしている間にも、何処の馬の骨とも知れない女が、時任君に媚を売っているかもしれないのだ。
 少しの情報も漏らすまいと、耳を済ませながら廊下の端から端まで視線を巡らせる。――その会話が聞こえてきたのは、そんな時だった。

「更科さん、絶対時任先輩の事好きだよね」

 不意に耳に届いた砂音の名に、ハッとして声の出処を探ると、三人組の女生徒達が廊下の向こう側から歩いてくるのが窺えた。スカートとリボンタイの色が赤なので、一年生だろう。

「ねー、本人は否定してるけど、めっちゃ分かりやすいよね。何で自覚がないんだろ」
「幼馴染だから、かえって自分の気持ちに気付きにくいとかあるのかもよ」
「今頃二人で上手くやってるかなぁ。後で首尾を聞かせて貰わなきゃ!」

 幼馴染……? 今頃二人で?
 不穏な単語の羅列に、彼女の心はざわめいた。


 ◆◇◆


 ――『……うん、居るよ。好きな人』

 痛みを孕んだ切ない彼の声が、耳から離れなかった。
 あの後、何を話したのか、よく覚えていない。当たり障りのない会話だけ交わして、昼休みを終えた。
 朱華は何だかぼんやりしてしまって、午後の授業もまるで抜け殻だった。それは、戻ってきた彼女の様子のおかしい事に、新しく出来た友人達が心配する程で。口々に何かあったのかと問われたが、朱華は罪悪感を覚えつつ、全て曖昧に躱した。

 砂音の好きな人がどんな人かなんて、訊ける訳もなかった。聞いたら打ちひしがれるだろう自分が居て、そんな自分に辟易したのも有るが、何よりも。

 ――音にぃの、あんな辛そうな顔。

 見ているこちらまで、胸をふさがれた。
 ともすれば泣き出してしまうのではないかとすら思った。実際は彼は気丈に振舞って、その後はいつものように笑顔を絶やさずに居たのだが、その笑顔すらも何だか擦り切れそうに映った。
 それ程までに、彼のその人への想いは強かったのだと……思い知らされる。
 いや、違う。強ではなく、強のだ。彼の中では、未だその想いを消化しきれていないのだから。

 そう思うと、また胸が傷んだ。
 ちくちく、ズキズキ。どうしてだろう、もう彼に恋はしないと決めたのに。
 これはきっと、小学生の頃の自分の心が傷んでいるのだ。あの頃の、彼に恋をしたまま置き去りにされていた幼い自分が、痛い痛いと泣いているのだ。
 きっとそうに違いない。だから、これは決して今現在の自分の痛みではない――。

 朱華が自分に言い聞かせるように物思いに耽っていると、そんな彼女の頭を冷やすように、突如頭上から文字通り冷水を浴びせられた。
 大量の冷たい水をゲリラ豪雨のように勢い良く被った朱華は、瞬間思考が真っ白になった。
 ただでさえぼんやり心ここに在らずだったので、現状を把握するのに手間取る。

 ここは……そう、御手洗トイレの個室だ。今は放課後。小林さん達は部活があるので、帰宅部の自分は一人行動をしていた。そして、個室に入って座した途端に……これだ。
 この水は一体? と、朱華が頭上を振り仰ぐよりも先に、扉の外から声が降ってきた。

「あっ、ごめ~ん! 入ってたぁ? 掃除してて、気付かなかったぁ」

 傍らから聞こえてくる別のクスクス笑いを聞かずとも、揶揄するような口調で成されたその内容が、真実ではない事はすぐに伝わった。
 声の主はわざと朱華に水を掛けたのだ。あまりに突然の事に理由も分からずに朱華が固まったままでいると、その声はつと低められ、こう続いた。

「幼馴染だか何だか知らないけど、調子に乗ってんじゃねえよ。時任君は誰にでも優しいんだから、勘違いすんなよ」

 その言葉で、合点がいった。
 これはもしかして、少女漫画とかでよくある、あれか? 恋敵ライバルからの牽制みたいなやつか? ……実際にやる奴が居るとは思わなかった。

 驚き過ぎて逆に冷静に朱華がそんな事を考えている間に、扉の外の気配は遠ざかっていく。急くように小走りに駆けていく幾つかの小さな足音を唖然と聞いている内に、次第に沸々ふつふつと煮え滾る感情が湧いてきた。
 それは怒りだが、やられた事に対してではない。やっておいて、顔も見せずに逃げるように去っていく――その卑怯な振る舞いに、だ。

 ぷつん、と頭の片隅で何かが切れる音がした直後、朱華は立ち上がった。開錠して素早くドアをすり抜けると、無造作に床に置かれたバケツに足が当たり、蹴飛ばした。それには構わずそのまま廊下まで飛び出すと、前方を歩く四人組の女生徒達の存在を捕捉し、直感的に彼女らを犯人と断定して、追跡した。
 だって、ここは一階。一年生の教室のフロアなのに、彼女達のスカートは青――砂音と同じ、三年生のカラーだったから。

 まさか追ってくるとは思っていなかっただろうが、四人組の女子達はすぐに朱華の接近に気が付いた。振り向いて盛大にギョッとした様子を見せると、揃って脱兎の如く急激に足を速める。

「待てや、オラぁあ!!」

 全身ずぶ濡れで廊下を水浸しにするのも厭わずに、般若の如く怒れる形相で迫りくる朱華の姿に、先輩女子達は最早並々ならぬ恐怖を感じていた。

「きゃああああっ!!」

 本気マジものの悲鳴が上がる。必死に逃げ惑うか弱い女子達を、兇相の元ヤンが追い掛ける。――これでは、どちらが被害者か分からない。周囲の第三者の生徒達は、あまりの光景に皆動きを止めて青ざめていた。

 戦慄の鬼ごっこが終わりを迎えたのは、下駄箱に差し掛かった時だった。冷静な判断力をなくしたのか、とにかくその場から逃れたかったのか、四人組がモタモタと靴を履き変えようとしている所に、当然鬼……朱華は追い付いた。
 慌て過ぎて靴もまともに履けずに足を縺れさせてその場に将棋倒しになり、四人は完全に逃げ場を失った。
「もう逃げられねーぞ」と朱華が追い討ちを掛けるように告げると、彼女達の喉元からは「ひっ!」と引き攣ったような声が漏れた。

 ――さぁ、覚悟はいいか?

「このあたし相手に喧嘩を売るたぁ、いい度胸じゃねえか。それだけは褒めてやる。……だがな、あたしは、そうやってコソコソ逃げ隠れしながら影で陰険な手を使ってくる奴が大嫌いなんだよ。言いたい事があんなら、正々堂々タイマンで真正面からぶつかってこいや!」
「しっ、知らないわよ! あんたみたいなヤンキーじゃないんだから!」

 ドスの利いた朱華の口上を受けて皆が怯んで言葉を呑む中、中央の一人だけが真っ向から意見を返してきた。その女子がどうやら彼女達のリーダー格であるらしい。
 震える足を鼓舞するように拳を握って立ち上がりながら、リーダーの少女は言った。

「大体、あんたが悪いんじゃない! 幼馴染だか何だか知らないけど、今更急に出て来て! あたしなんか、三年間ずっと時任君と同じクラスだったんだからね! あたしの方が、先に……っずっと好きだったんだから! 後から来といて、邪魔しないでよ!」

 切々と語られた彼女の想いは、傍から聞いていれば、めちゃくちゃな言い分だ。

 ――あたしの方が先に。あたしの方が、あんたよりも、ずっと……。
 
 それを言ったら幼馴染の朱華の方が遥かに年季が入っている筈であり、高校からのクラスメイトの彼女の論理は簡単に破綻する。
 しかし、彼女のあまりの懸命さに、朱華の胸にも幾分か響くものがあった。一殺那返す言葉を失っていると、不意に、その場に思いがけない声が掛かった。

「朱華ちゃん?」

 その呼び方、そして聞き慣れた穏やかな声で、呼び掛けてきた相手が誰かはすぐに分かった。話題の中心人物――砂音、まさにその人だった。
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