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72.ジョンの話

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72.ジョンの話
 眠ることなどとんでもないと思っていたのに、いつの間にか眠り込んでいた。夜が明けかけていて、うす曇りの天気のもと目を覚ました。
 地面はもうびくともしなくなっていた。ぼくはまず海岸にサフソルムを探しに行った。姿は見えず、――どうせ誰も周囲にはいない前提で――、大声で海に向かって叫んでみた。「サフソルム――!」
 海は何にも答えてくれなかった。大声は静寂に吸い込まれていった。どこにも反応はなかった。ふと海の大蛇が出てきたら困ると思い、大声で呼ぶということはそれきりでやめた。
 肩を落として、海から離れ、また木の生えている道の辺りまでやってきた。するとそこに見たこともないような大きなカラスがいた。
 もちろん赤い鳥のほうがぼくを乗せることができるくらいだからその比ではなかった。しかし普通のカラスの何倍かの大きさだったのだ。
 カラスは首を傾げ、斜めにぼくの姿を見た。そしてぽんぽんと跳んで少し道を進むと、立ち止まってぼくを振り返った。それははたして、ぼくについてこいといっているように見えた。
 ぼくはカラスをこれまでにいじめたことがあったかどうかを思い出そうとした。ぼくがカラスから何か仕返しをされるようなことをしたことがあったかどうかを思い出そうとしたのだ。
 何もなかった。黒づくめのカラスみたいなマントをはおっている人間は食べ物を分けてやることがあったとしても、いじめたことなど一度もなかった。
 ぼくはカラスの後をついていくことにした。
 カラスは少し飛んだり、跳ねたりしながら道案内をした。のしのしと長く歩き続けた後で飛び立ってしまうこともしなかった。元いた海からは徐々に離れ、やがて鬱蒼とした森のなかへと入っていった。
 海にも誰もいなかったが、濃い緑が生い茂るそこでも一人として誰かに出会うことはなかった。ただ道だけがずっと続いていた。どこかに通じているであろう道が。
 カラスが導くままに長く歩いた後に、ふと誰かの泣き声を聞いた。
 ぼくは用心した。先を行くカラスが立ち止まっていた。その近くに見たことのある人物が木の切り株のようなところに突っ伏し、声を押し殺して泣いていた。
 カラスは黙ってたたずんでいた。カラスが先を行くのなら声などかけずに通り過ぎようと思ったのだが。
 ぼくは少しためらった後で声をかけた。「きみ、どうかしたのか?」
 死ぬほど驚いて、こちらを振り返ったのは酒をさんざん飲ませたがった二人組の顔のきれいなほうだった。
「ああ、あんたは……。大変なことが起きたんだ。フォブが」きれいな顔の男は涙をぬぐって、息をついだ。「地震があった後、地面が動いたんだ。地面が動いたから地震が起きたのかもしれないけど。地面が砂みたいになって底なしになったんだ。フォブはそこに足をとられた。おれはフォブの手をつかんだよ。でもどんどん沈んでいっちまった。フォブは自分は重いんだからおれに手を離せといったんだ。さもないとお前も引きずり込まれるぞって。おれは手を放すつもりはなかった。だけどフォブは自分で手を振り払って……」
 きれいな顔の男はまたワッと泣いた。
「なんていっていいか言葉が見つからないよ」ぼくは正直にいった。「ここはぼくの元々の世界じゃないから。ここではそんな恐ろしいことが当たり前なのかどうか……」
「当たり前なものか!」男は顔をあげて語気を強めて返したが、ふと近くにいたカラスに気が付いて今度は叫び声をあげた。「カラ……カラスッ!」
「ここはぼくの元々の世界じゃないからぼくがこのカラスにびっくりするのはわかるけど、きみの世界においてこういうでっかいカラスにいちいち驚いてたら何事も進まないだろう?」
「あんた、酒を無理やり飲まされたことで怒ってるんだ」
「怒ってないよ。いまは混乱と失意の気持ちがあるばかりさ」
「そのカラスはどうした?」
「ネコとはぐれたんだ。そこへカラスが現れてついてこいと」
「イェンドートのところへ連れていかれるんだ」
 ぼくは黙った。
 きれいな顔の男は自分の服から一枚の紙きれを取り出し、見せた。「読んでみろよ」
 日付や場所の意味は分からなかったがイェンドートの名前があった。「つまりこの紙の通りにぼくに酒を飲ませたということか」
「おれたちは指示通りにやった。あいつらに褒められることがあったとしても、こんな目に遭わされる筋合いはない」
 男は泣くのをきっぱりとやめた。「大ガラスはあいつらの使いだよ。この紙も大ガラスからもらったんだ。あんたが何のために連れていかれるのかわからないけど、おれもあいつらに会って一言いってやらなきゃ気がすまない」
「いったいどうしてイェンドートがぼくに会いたがっているんだろう」
「知るかよ」
 ぼくはカラスを見た。カラスはまた小首を傾げてこっちを見た。
「サフソルムに会って、元の仲間とも再会したい。カラスについていって、もしきみのいうようにイェンドートに会えるんならそれを頼んでみるよ」
 頭にふと、海の姫君がいっていた言葉がよみがえった。マグナスはイェンドートの雷で落とされたのさ――。
 カラスが再び道を進みだした。ぼくと男は一緒に後を付いていった。
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