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1.ジョンの話
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1.ジョンの話
空を眺めていた。窓からぼんやりと頬杖をついて。
空は薄く曇っていて、少し離れた場所に立つ大きな木がいつもより黒く見えた。
天に届くような大きな木の枝が動くのが見えて、――動物ではなく――、誰かがいるのを知った。
見間違いかと長く見つめたが確実だった。でも人が果たしてそんな高い場所に上れるのかどうか。
それはずいぶん前の、ぼくが子供だったころの出来事。
ぼくはその人物を観察した。年齢はぼくと同じくらいの子供か、少し年上。金色の髪をした子供はよもや見られているとも知らず、ひとり枝の上を器用に歩き、葉っぱを触っては空を眺め、伸びをし、緑の香りを何度も胸いっぱいに吸い込んでいた。
空に近い高さにいる、知らない誰かが人間の少年ではないことがやがてわかった。
だって後ろに翼が見えたのだ。
*
その日、ぼくは寝床でハッと目を覚ました。
部屋のどこかから誰かのいびきが聞えてくる。目を閉じ、長くため息をついた。
この大部屋の、六人か七人かが入れる部屋の、昨日ははじめ一番奥で寝ようとした。窓際のベッドで。でも外が騒がしくて眠れやしない!
昨日は夏至だった。誰もが一年でいちばん日の長いのを祝っていた。何やら儀式が終わった通りには若い男女に、そんなに若いとはいえない男女に、とにかくたくさんの仲良くやっている者たちで溢れかえっていた。はしゃぎまわる子供たちが足元を駆け抜けていき、男どもは大量の酒を飲み、魚やじゃがいも、いろんな酢漬けにパンに肉、チーズにベリーと、胃袋にいろんなものを詰め込んでいた。
こんな日に楽器を持って歌をうたいだしたところでいったい誰が聞いてくれるだろうか。
もちろん誰かは聞くだろう。何といっても続けて聞いてみたくなるだろうさ!
ただ、ぼくの気がのらなかった。
お祭りみたいな歌をうたうのはそのときの気分じゃなかった。
街の広場にたくさんの花と人とが溢れているのを見て、楽器を取り出すこともせずに、酒を少し飲んだ後この宿に戻ってきた。
部屋には自分以外まだ誰もいなかったからどこで寝ようと勝手にできた。それで窓際の場所はやめて、部屋の真ん中あたりで寝ることにした。笑い声や歌声が聞えてきたけど、耳をふさいで寝た。
目を覚ました今は朝の早い時間だった。もちろんあたりは明るい。このむさ苦しい部屋を後にして水を飲みに行くことにした。
部屋を出て木の廊下を歩いていくと、金色の長い髪をして、ぼくよりもどこか大人びた若い男が壁にもたれて立っていた。こんな時間に? まぁ一晩中起きてるやつらのほうが多いのだから。
男はこっちを見て控えめに微笑んだ。「やあ」
ぼくはああ、と答えた。
ああ、と答えながら、ちょっと奇妙な感じがした。
ぼくは通り過ぎようとした。すると男が何かをこっちに差し出した。「手紙を預かってきてる」
「は?」
「長い黒髪に黒ずくめの服。冬ならカラスみたいな黒いマントを羽織っている。楽器を背負って街から街へと渡り歩いて歌をうたう。ジョン・グランウィック。きみで間違いないだろう?」
男は氷のように薄いブルーの瞳をしていた。引き締まった顔に静かに笑みを浮かべて、手紙というものをこちらに変わらず差し出していた。
一瞬、返事に迷った。
そうだとも、そいつは自分の名前で間違いない。だけどなぜ見ず知らずの男がこっちの名前と顔を分かってるんだ?
そもそも自分はどんな場所にも一週間とはいない流れ者。楽器をかついで人の集まる酒場へと出かけ、歌をうたってお金を稼ぐ。誰もこちらの名前を聞かないし、自分から名乗ることもない。
もちろんどこかで名乗ったことはあるだろう。でも手紙をもらうような誰かなんて思いつかない。
「さぁ。どうかな」
答えながら、面倒はごめんだといつもの結論に落ち着いた。
「長く旅をしてる」ぼくは低く話した。「なんでも簡単に信用しないほうが身のためさ」
男はさっと手紙を自分の方に戻した。静かな笑みと大人びた目はそのままで、少しにやっとした。
「おれはマグナス。おれもそうだ、ずっと長く旅をしてる。でも割と相手を信用するほうさ。そのほうが生きやすい」
ぼくは相手を眺めた。氷のように静かな雰囲気なのに、獣の強さを持っているであろう筋肉のついた体。困難に出遭ったとしても問題なく対処できる冷静さ。
背がある程度高いのはこっちも負けてはいなかったが。
「ああ、だろうね。きみの場合は誰かを信用して万一のことが起きたところでどうってことないだろうから。大きな剣を持ってる。いずれにしろ初めっから何か企む連中の方が逃げてくさ」
そういうとぼくはその場を立ち去った。いくらか歩いて、床が石でできた水の出る場所まで来ると手や顔を洗い、水を飲んだ。
ぼくに手紙を渡すだって? 家族はいないし、育った場所からは逃げ出したみたいなものだ。名前を知っていたところでここにいるってどうしてわかる? こんな文無しの人間を担いだところでなんにも得はないはずだ。
ぼくは手持ちの布で顔や手を拭いた。
男のいるところからは壁が目隠しとなり、こちらは見えないはずだった。それなのに背中や首やらにざわざわとした奇妙な視線を感じた。
いくらかの苛立ちを覚え、覚悟を決めて後ろを振り返った。すると床にグレーの毛並みに黒い点々の散らばったネコが座っていた。普通のネコよりはかなり大きめ、たてがみもわさわさとついている。大きな三角の耳を持っていて、それに立派過ぎる牙が見えた。
ネコはじっとこちらを見つめていた。
何かがおかしいとこちらもネコを見ていると、それが話しだしたのだ。
「まどろっこしい。素直に手紙を受け取ればいいものを。マグナスとオレさまは急いでいるのだ。こんな間抜けな歌うたいを連れていかねばならないこちらの身にもなって……」
夏至の日っていうのはちょっと普通じゃないことが起きるのかもしれない。少ししわがれた声で喋るネコを呆気にとられて見ていると、さっきの男が静かに近付いてきてネコの後ろに立った。
「こいつはサフソルム。山猫の、まぁ一種さ。少々口は悪いが気にせずおれたちに付き合ってくれないか? 訳は手紙に書いてある」
空を眺めていた。窓からぼんやりと頬杖をついて。
空は薄く曇っていて、少し離れた場所に立つ大きな木がいつもより黒く見えた。
天に届くような大きな木の枝が動くのが見えて、――動物ではなく――、誰かがいるのを知った。
見間違いかと長く見つめたが確実だった。でも人が果たしてそんな高い場所に上れるのかどうか。
それはずいぶん前の、ぼくが子供だったころの出来事。
ぼくはその人物を観察した。年齢はぼくと同じくらいの子供か、少し年上。金色の髪をした子供はよもや見られているとも知らず、ひとり枝の上を器用に歩き、葉っぱを触っては空を眺め、伸びをし、緑の香りを何度も胸いっぱいに吸い込んでいた。
空に近い高さにいる、知らない誰かが人間の少年ではないことがやがてわかった。
だって後ろに翼が見えたのだ。
*
その日、ぼくは寝床でハッと目を覚ました。
部屋のどこかから誰かのいびきが聞えてくる。目を閉じ、長くため息をついた。
この大部屋の、六人か七人かが入れる部屋の、昨日ははじめ一番奥で寝ようとした。窓際のベッドで。でも外が騒がしくて眠れやしない!
昨日は夏至だった。誰もが一年でいちばん日の長いのを祝っていた。何やら儀式が終わった通りには若い男女に、そんなに若いとはいえない男女に、とにかくたくさんの仲良くやっている者たちで溢れかえっていた。はしゃぎまわる子供たちが足元を駆け抜けていき、男どもは大量の酒を飲み、魚やじゃがいも、いろんな酢漬けにパンに肉、チーズにベリーと、胃袋にいろんなものを詰め込んでいた。
こんな日に楽器を持って歌をうたいだしたところでいったい誰が聞いてくれるだろうか。
もちろん誰かは聞くだろう。何といっても続けて聞いてみたくなるだろうさ!
ただ、ぼくの気がのらなかった。
お祭りみたいな歌をうたうのはそのときの気分じゃなかった。
街の広場にたくさんの花と人とが溢れているのを見て、楽器を取り出すこともせずに、酒を少し飲んだ後この宿に戻ってきた。
部屋には自分以外まだ誰もいなかったからどこで寝ようと勝手にできた。それで窓際の場所はやめて、部屋の真ん中あたりで寝ることにした。笑い声や歌声が聞えてきたけど、耳をふさいで寝た。
目を覚ました今は朝の早い時間だった。もちろんあたりは明るい。このむさ苦しい部屋を後にして水を飲みに行くことにした。
部屋を出て木の廊下を歩いていくと、金色の長い髪をして、ぼくよりもどこか大人びた若い男が壁にもたれて立っていた。こんな時間に? まぁ一晩中起きてるやつらのほうが多いのだから。
男はこっちを見て控えめに微笑んだ。「やあ」
ぼくはああ、と答えた。
ああ、と答えながら、ちょっと奇妙な感じがした。
ぼくは通り過ぎようとした。すると男が何かをこっちに差し出した。「手紙を預かってきてる」
「は?」
「長い黒髪に黒ずくめの服。冬ならカラスみたいな黒いマントを羽織っている。楽器を背負って街から街へと渡り歩いて歌をうたう。ジョン・グランウィック。きみで間違いないだろう?」
男は氷のように薄いブルーの瞳をしていた。引き締まった顔に静かに笑みを浮かべて、手紙というものをこちらに変わらず差し出していた。
一瞬、返事に迷った。
そうだとも、そいつは自分の名前で間違いない。だけどなぜ見ず知らずの男がこっちの名前と顔を分かってるんだ?
そもそも自分はどんな場所にも一週間とはいない流れ者。楽器をかついで人の集まる酒場へと出かけ、歌をうたってお金を稼ぐ。誰もこちらの名前を聞かないし、自分から名乗ることもない。
もちろんどこかで名乗ったことはあるだろう。でも手紙をもらうような誰かなんて思いつかない。
「さぁ。どうかな」
答えながら、面倒はごめんだといつもの結論に落ち着いた。
「長く旅をしてる」ぼくは低く話した。「なんでも簡単に信用しないほうが身のためさ」
男はさっと手紙を自分の方に戻した。静かな笑みと大人びた目はそのままで、少しにやっとした。
「おれはマグナス。おれもそうだ、ずっと長く旅をしてる。でも割と相手を信用するほうさ。そのほうが生きやすい」
ぼくは相手を眺めた。氷のように静かな雰囲気なのに、獣の強さを持っているであろう筋肉のついた体。困難に出遭ったとしても問題なく対処できる冷静さ。
背がある程度高いのはこっちも負けてはいなかったが。
「ああ、だろうね。きみの場合は誰かを信用して万一のことが起きたところでどうってことないだろうから。大きな剣を持ってる。いずれにしろ初めっから何か企む連中の方が逃げてくさ」
そういうとぼくはその場を立ち去った。いくらか歩いて、床が石でできた水の出る場所まで来ると手や顔を洗い、水を飲んだ。
ぼくに手紙を渡すだって? 家族はいないし、育った場所からは逃げ出したみたいなものだ。名前を知っていたところでここにいるってどうしてわかる? こんな文無しの人間を担いだところでなんにも得はないはずだ。
ぼくは手持ちの布で顔や手を拭いた。
男のいるところからは壁が目隠しとなり、こちらは見えないはずだった。それなのに背中や首やらにざわざわとした奇妙な視線を感じた。
いくらかの苛立ちを覚え、覚悟を決めて後ろを振り返った。すると床にグレーの毛並みに黒い点々の散らばったネコが座っていた。普通のネコよりはかなり大きめ、たてがみもわさわさとついている。大きな三角の耳を持っていて、それに立派過ぎる牙が見えた。
ネコはじっとこちらを見つめていた。
何かがおかしいとこちらもネコを見ていると、それが話しだしたのだ。
「まどろっこしい。素直に手紙を受け取ればいいものを。マグナスとオレさまは急いでいるのだ。こんな間抜けな歌うたいを連れていかねばならないこちらの身にもなって……」
夏至の日っていうのはちょっと普通じゃないことが起きるのかもしれない。少ししわがれた声で喋るネコを呆気にとられて見ていると、さっきの男が静かに近付いてきてネコの後ろに立った。
「こいつはサフソルム。山猫の、まぁ一種さ。少々口は悪いが気にせずおれたちに付き合ってくれないか? 訳は手紙に書いてある」
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