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4-12 底知れぬ殺気
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「あなた、危ないわよ!」
突如現れた長身の男――ペイリス・バークレットの正体を知らないリッカは、切羽詰まった声をペイリスの背中にぶつけた。
「心配してくれるのぉ、お姉さん。優しいんだねぇ」
しかし、ペイリスからはリッカの言葉を真剣に受け止める様子が一切見られなかった。リッカの言葉に体ごと振り向いたペイリスは、余裕に満ち溢れた笑みをリッカに向けて浮かべるだけだ。
どうしてここまでペイリスが余裕でいられるのかはリッカには分からないが、このままではピンデの放つ攻撃を直接喰らってしまうだろう。それは、生身の肉体を持った人間が耐えられるような攻撃ではない。
だけど、ペイリスを目にすると、リッカの見知った人物――クルム・アーレントと似たような雰囲気をどこか感じられた。クルムから発せられる安心感のようなものが、ペイリスからも伝わって来る。
ただし、状況はリッカ達にペイリスという人物が何者であるかを理解させてくれるほど、変化していない。
「くそォ、また邪魔をするのか! けど、今の俺はさっきまでの俺とは違う! こいつで一緒にぶっ飛ばしやるァアァ!」
先ほどよりも濃い光がピンデの手に集まり、まさに放出されるところだった。ピンデに背を向けているペイリスは、そのことに気が付いていない。
ペイリスが登場する先刻よりもピンデが激昂していることをリッカは即座に感じ取った。しかし、敵の攻撃から逃れられる状況ではないことを悟り、言葉なく目をきゅっと強く瞑った。オッドは無表情で傍観し、シンクは悔しそうに唇を噛み締めていた。
しかし、たった一人。ペイリスだけは終始笑みを絶やさずに、この状況さえも楽しんでいるようだった。
「――でもねぇ、優しいお姉さん」
この場に似つかない、緊張感に欠けた穏やかな声が響き渡る。
そして、その声にリッカが目を開いた瞬間、
「心配ご無用だよぉ」
「ぐぎゃあぁぁあぁ!」
特大級の攻撃を放つために力を蓄えていたピンデが、断末魔の叫びを上げて吹っ飛んでいった。手に集約されていたエネルギーは、虚しく霧散し、世界へと溶け込んでいく。
「……え?」
突然のことでリッカは理解が出来なかった。
いや、今現在ペイリスが片足を上げていることから、ピンデに蹴りを浴びせたことは予想が出来る。けれど、その速さは恐ろしく、目に見ることが出来なかった。
ペイリスのただの回し蹴りを喰らったピンデは、立ち上がることさえも出来ず、ぬかるんだ地面で、痛みに苦しみ、のたうち回るだけだ。
「結局、ガルフもクルムも来ないままかぁ。残念ながら、この勝負引き分け――、いやクルムの負けかなぁ」
ピンデが吹っ飛んだ先を冷酷にも似た穏やかな表情で見つめながら、ペイリスは独り言を呟いた。
ペイリスが呟いた言葉の意味は、リッカには分からない。けれど、ペイリスの言葉の中には聞き逃すことの出来ない単語が混ざっていた。
「……クルム? 今、あなたクルムって言った?」
「あれ、お姉さん、クルムのこと知ってるのぉ?」
ペイリスはきょとんとしたように首を傾げる。その疑問をそのままペイリスにぶつけたいところではあったが、リッカはぐっと堪えた。
「クルムは今、私ともう一人の子と一緒にダオレイスを回ってるところよ」
「へぇ、僕達を裏切ったクルムは今、こういう人達と一緒に過ごしてるんだ」
ペイリスの声音から、一切の感情が消えた。口元は笑みを浮かべているが、その目は一切笑っていない。まるで見定めるかのように、リッカと、そしてシンクのことを見つめている。
先ほどクルムと似た安心感を与えていたペイリスは、今やどこにもいない。
その変わり果てた雰囲気に、リッカの全身に悪寒が走るが、その恐怖心を押し殺し、
「裏切った……? どういうこと……?」
上擦らせながらも、何とか声を発することが出来た。
リッカはクルムと旅をしながらも、クルムのことをほとんど知らない。クルムの人物像について、世界政府から提示されている情報だけでは、傍にいるクルムとどうにも一致しないのだ。クルムの正体を見極めるために、一緒に旅をしているが、それでもクルムが悪事を働く姿など見たことがない。
だから、度が過ぎるほどのお人好しのくせに、何故罪人としての顔を持っているのか――、その理由が分からなかった。
しかし、今目の前にクルムの過去を知っている人物がいる。
ペイリスの口がゆっくりと動き始めた。果たして、その口から鬼が出るか蛇が出るか。
「終の夜――、って聞いたことがあるかなぁ」
「……確か、エスタ・ノトリアスが悪魔を対抗するために作った組織」
リッカは自分の頭の中から終の夜に関する知識を引き出して答えた。
けれど、リッカは終の夜に関して、良い印象を抱いてはいなかった。まだリッカがクルムと出会う前――、すなわちリッカが悪魔の存在を空想の世界のものだと思っていた時、終の夜は人々を悪魔から救っているという噂が嫌でも耳に入った。しかし、そのことがどうにもリッカには、悪魔という言葉を免罪符にして悪事を行なった人を過度に苦しめているようにしか思えなかったのだ。悪魔の存在を知り、悪魔によって苛まれている人を実際に目の当たりにして、余計にその想いは強くなっている。
しかし、リッカが終の夜をどう感じているか興味のないペイリスは、リッカの答えに満足のいったような笑みを浮かべた。
「僕はその終の夜の一員のペイリス・バークレット。そしてね、クルムも罪人にされる前は、僕らの仲間だったんだぁ」
「――っ!」
話の流れから予想は付いていたのにも関わらず、クルムが終の夜に所属していたことがあるという事実を知って、リッカは動揺を隠せなかった。上手く頭が回らず、ペイリスの言葉を静かに聞くことしか出来ない。
「でもぉ、組織とクルムとで意見の食い違いが発生しちゃってね。クルムは僕達の元から去っていったんだぁ。それで、クルムは一人で色々動いて、周りから裏切られて、結局は罪人になってるんだから意味がないよね。しかもぉ、相変わらず余計なことにまで口を突っ込んでるみたいだしぃ。僕達とずっと一緒に活動していれば、余計な苦労を背負うことなんてなかったのにねぇ」
間延びするペイリスの口調では、どこか真剣さに欠けはするものの、何となくクルムに関する最低限の新たな情報を掴むことが出来た。
リッカは終の夜について詳しく知らない。けれど、噂通りに行動する組織ならば、確かにクルムが終の夜を辞めるというのは想像が出来た。
それでも、今の話で腑に落ちないことがたくさんある。
その中でも最たることが――、
「……あなたは本当にクルムの仲間だったの?」
「え?」
リッカの発言が予想外だったのか、ペイリスは元々キョトンとしていた目を、更にキョトンとさせていた。
「本当に仲間だったら……いいえ、クルムがどんな想いで人と悪魔と向き合っているかを知っていたら、今みたいなクルムを馬鹿にするような発言は出ないと思うけど?」
「――ふーん。まるでお姉さんはクルムのことを知っているような口ぶりだねぇ」
ペイリスから発せられる雰囲気が更にまた変わった。
初めに姿を見せた時は風が吹いてもそのまま身を任せてそよぐように柔らかく、次にクルムとリッカに関係性があると知った時は雨一粒一粒をも的確に穿つように鋭かった。けれど、今は暴風雨に晒されるように、空気が重く痛い。
ペイリスの長身から向けられる視線は、明らかに敵意が籠められていて、威圧感が並大抵のものではなかった。しかし、リッカは視線を逸らすつもりもない。
「でもね、僕は何年もクルムと一緒に死線を掻い潜って来たんだよぉ。それをクルムと出会って時間も経っていないようなお姉さんに何が――」
ペイリスがリッカに対して一歩距離を詰めた瞬間、
「……うぅ、くそ……」
今まで痛みに耐えられず、地面で苦しみもがいていたピンデはゆっくりと体を起こし始めた。けれど、その立ち姿は限界ギリギリといったところで、重心も前のめりとなっていた。ペイリスの攻撃を一発でも喰らってしまえば、ピンデの意識はたちまちこの世界から離れてしまうだろう。
ペイリスは意図が含まれたような乾いた笑みをリッカに向けて浮かべると、ピンデの方に体を向ける。
「あ、まだ立ち上がるんだぁ。意外としぶといんだねぇ。じゃあ、お姉さん。もう少し話したかったけど……、仕事の方が大事だから戻らせてもらうねぇ」
「ま、待ちなさい!」
動き出したピンデに向かって歩みを進めるペイリスに、リッカは制止の声を掛ける。まだペイリスには聞きたいこともあったし、このままペイリスを放っておけば惨事が起こる気がした。
しかし、もう話は一区切りついたと言わんばかりに、ペイリスは一切足を止めようとしない。ペイリスの意識は、もはやピンデだけに注がれている。
「あららぁ、だいぶひどい状態になってるねぇ。でも、安心してぇ。これ以上悪魔に体を利用される前に、二度と罪を犯せないようにしてあげるからぁ」
ペイリスは笑みを崩さないまま、ピンデに向けてゆっくりと言い放つ。しかし、それはまるで死の鎌がゆっくりと、しかし確実に、首元を刈り取ろうとしているようで、聞いている人間からしたら薄気味悪く、恐怖を煽るものだ。
「……お、お前、この体がどうなってもいいのか!」
ピンデは自身の体を強調するように、右手で胸部に触れる。生身の体があることを主張し、ペイリスの同情を買おうという算段だ。
「うん、まぁ――、仕方ないよね。これが僕達、終の夜の使命。悪魔人への裁きであり、そして悪魔人への救いだよぉ」
しかし、まるで関係ないと言わんばかりにペイリスは唇を舐めると、更に一歩詰め寄った。
「く、くそ! せっかく体を得たのに……っ!」
ピンデの体を使って話をしているのは、その身に宿っている悪魔なのだろう。その口ぶりから、悪魔の狼狽ぶりが感じ取れる。悪魔はピンデの体を使って、思い切り唇を噛み締めた。ピンデの唇から流血が起こるが、血を気に留める気配は一切ない。利用している体なのだから、その体が死なない限り、自分が滅ぼされない限り、どうなろうと構わないのだ。
「大丈夫、痛いのは一瞬だけだから」
いつの間にか、ピンデの前に立ちはだかっていたペイリスはニコリと微笑むと、大きく右手を振るった。武器も何もない、ただの丸裸の拳だ。しかし、振り子の要領で、腕の長いペイリスから放たれる攻撃は、まるで弾丸のように目にも止まらぬ速さでピンデの心臓を目がけている。
「じゃあ、ピンデに救済があらんことを――」
そして、ペイリスの右拳がピンデに直撃する――
「させませんよ、ペイリスさん」
――直前、鈍い金属音が雨音を割って響いた。
予想外の障害物に、ペイリスはやんわりと痺れる右手を引き、様子を窺う。
ペイリスは自分の攻撃が阻まれた方向に目を向ければ、ピンデの心臓を守る盾のように一丁の銃があった。その銃を持つ手の先を伝っていく。
「クルム!」
そこにはクルム・アーレントがいた。
クルムがやって来たことを遠巻きながらも分かったリッカとシンクは、安堵に満ちた声でその名を呼ぶ。
そして、もう一人。クルムがやって来たことを、喜ぶ――否、楽しむ人物がいた。
「あれぇ、クルム、間に合ったんだぁ。でも、だいぶガルフにやられたみたいだねぇ」
攻撃を阻まれたというのに、まるで気にも留めずにニコニコと笑みを浮かべながら、ペイリスはクルムの全身を余すところなく眺める。
ペイリスの言う通り、クルムの体はボロボロだった。見た目だけで言うのならば、今しがたクルムが守ったピンデとそう大差はない。いや、ガルフによる攻撃を受け、更には先日の戦いでの負傷を引きづっていることを鑑みれば、クルムの方がダメージは深い。
しかし、クルムは平時と変わらない力強い双眸をペイリスに向けると、
「こんな傷、この人が受けた痛みに比べれば、何でもありませんよ」
「そっかぁ。さすがクルムだねぇ」
ペイリスはクルムの言葉にクスクスと笑った。まるで自分の予想が当たった時のような笑みだ。
しかし、途端に笑みを止めると、ペイリスは腕組みをしながらキョトンと首を傾げた。
「……でも、この場合、ルールはどうなるんだろぉ。ガルフは何も言ってなかったからなぁ」
元々、悪魔人が暴れるという計算は、ガルフの頭の中にはなかった。ピンデが覚醒する前に、ガルフかクルムのどちらかが事態を治めると確信していたからだ。しかし、クルムとガルフの攻防は予想よりも長く続き、ピンデに憑いている悪魔の力を深く目覚めさせてしまった。
だから、こうして悪魔の力を暴発させているピンデをペイリスが止めに入り、その後にクルムが合流した時のルールは明言されていなかった。
「うーん、悪魔の力が覚醒しちゃったから時間オーバーで、僕が片付けた方がいいのかなぁ。それとも、ガルフより先に来たクルムに任せた方がいいのかなぁ」
「僕にやらせてください」
「うん、分かったぁ」
邪気のない笑みで従順に応じると、ペイリスはクルムとピンデから離れていく。正直、ペイリスにとっては、クルムが悪魔人を片付けようか自分が片付けようかどちらでも良かったのだ。むしろ、余計な手間を掛けず、悩む時間もなくなり、ペイリスは良しとまでしている。
「……」
「……」
そして、クルムとピンデの二人きりになると、クルムはゆっくりと息を吐き、
「もう苦しむ必要はありませんよ」
「……っ」
見る者を安堵させる柔らかな笑みを浮かべた。
「今あなたを助けます」
クルムは右手をそっとピンデに伸ばす。
「……触るな」
「っ」
しかし、その右手は、ピンデに触れる直前で払いのけられてしまった。
ピンデは息を荒げながら、視線だけで人を殺せるような鋭い眼差しをクルムに向ける。
「俺にはミハエル様しか、ペシャルしかなかったんだ! それをいきなり潰された俺の気持ちが分かるか? やられたままで終わる訳にはいかねェ! 俺の大事な場所を奪ったあいつらを、いや、この腐った世界を赦さねェ! だから壊す! すべてを壊す! 全部全部全部全部ァァァァァアアァァ!」
ピンデの身の内に宿る悪魔が、ピンデの負の感情を駆り立てている。ピンデの言葉は止まらない。その怒りは、ピンデの心が満たされぬ限り終わらない。
しかし、それは壊れた器に、水を注ぎ続けるようなものだ。器が壊れている限り、けして満たされることはない。
だから、これからピンデは負の感情を抱きながら、満たされることのないものを満たすために生き続ける。そして、そのなれの果てに、多くの罪を背負い、しかるべき罰を受ける。
――これが、悪魔人と化した人間の末路だ。
「……確かに、辛い目にあったと思います。運命に嘆き、衝動に身を委ねたくなるのも分かります」
ピンデの体が一瞬ピクリと動くが、すぐさま惜しみない敵意の眼差しをクルムに突き刺す。
「けれど、それでは後々、更なる苦しみをあなたが負うことになります。だから、今ここであなたを救います!」
クルムはピンデに向けて――否、ピンデの内に潜む悪魔に向けて銃を構えた。
突如現れた長身の男――ペイリス・バークレットの正体を知らないリッカは、切羽詰まった声をペイリスの背中にぶつけた。
「心配してくれるのぉ、お姉さん。優しいんだねぇ」
しかし、ペイリスからはリッカの言葉を真剣に受け止める様子が一切見られなかった。リッカの言葉に体ごと振り向いたペイリスは、余裕に満ち溢れた笑みをリッカに向けて浮かべるだけだ。
どうしてここまでペイリスが余裕でいられるのかはリッカには分からないが、このままではピンデの放つ攻撃を直接喰らってしまうだろう。それは、生身の肉体を持った人間が耐えられるような攻撃ではない。
だけど、ペイリスを目にすると、リッカの見知った人物――クルム・アーレントと似たような雰囲気をどこか感じられた。クルムから発せられる安心感のようなものが、ペイリスからも伝わって来る。
ただし、状況はリッカ達にペイリスという人物が何者であるかを理解させてくれるほど、変化していない。
「くそォ、また邪魔をするのか! けど、今の俺はさっきまでの俺とは違う! こいつで一緒にぶっ飛ばしやるァアァ!」
先ほどよりも濃い光がピンデの手に集まり、まさに放出されるところだった。ピンデに背を向けているペイリスは、そのことに気が付いていない。
ペイリスが登場する先刻よりもピンデが激昂していることをリッカは即座に感じ取った。しかし、敵の攻撃から逃れられる状況ではないことを悟り、言葉なく目をきゅっと強く瞑った。オッドは無表情で傍観し、シンクは悔しそうに唇を噛み締めていた。
しかし、たった一人。ペイリスだけは終始笑みを絶やさずに、この状況さえも楽しんでいるようだった。
「――でもねぇ、優しいお姉さん」
この場に似つかない、緊張感に欠けた穏やかな声が響き渡る。
そして、その声にリッカが目を開いた瞬間、
「心配ご無用だよぉ」
「ぐぎゃあぁぁあぁ!」
特大級の攻撃を放つために力を蓄えていたピンデが、断末魔の叫びを上げて吹っ飛んでいった。手に集約されていたエネルギーは、虚しく霧散し、世界へと溶け込んでいく。
「……え?」
突然のことでリッカは理解が出来なかった。
いや、今現在ペイリスが片足を上げていることから、ピンデに蹴りを浴びせたことは予想が出来る。けれど、その速さは恐ろしく、目に見ることが出来なかった。
ペイリスのただの回し蹴りを喰らったピンデは、立ち上がることさえも出来ず、ぬかるんだ地面で、痛みに苦しみ、のたうち回るだけだ。
「結局、ガルフもクルムも来ないままかぁ。残念ながら、この勝負引き分け――、いやクルムの負けかなぁ」
ピンデが吹っ飛んだ先を冷酷にも似た穏やかな表情で見つめながら、ペイリスは独り言を呟いた。
ペイリスが呟いた言葉の意味は、リッカには分からない。けれど、ペイリスの言葉の中には聞き逃すことの出来ない単語が混ざっていた。
「……クルム? 今、あなたクルムって言った?」
「あれ、お姉さん、クルムのこと知ってるのぉ?」
ペイリスはきょとんとしたように首を傾げる。その疑問をそのままペイリスにぶつけたいところではあったが、リッカはぐっと堪えた。
「クルムは今、私ともう一人の子と一緒にダオレイスを回ってるところよ」
「へぇ、僕達を裏切ったクルムは今、こういう人達と一緒に過ごしてるんだ」
ペイリスの声音から、一切の感情が消えた。口元は笑みを浮かべているが、その目は一切笑っていない。まるで見定めるかのように、リッカと、そしてシンクのことを見つめている。
先ほどクルムと似た安心感を与えていたペイリスは、今やどこにもいない。
その変わり果てた雰囲気に、リッカの全身に悪寒が走るが、その恐怖心を押し殺し、
「裏切った……? どういうこと……?」
上擦らせながらも、何とか声を発することが出来た。
リッカはクルムと旅をしながらも、クルムのことをほとんど知らない。クルムの人物像について、世界政府から提示されている情報だけでは、傍にいるクルムとどうにも一致しないのだ。クルムの正体を見極めるために、一緒に旅をしているが、それでもクルムが悪事を働く姿など見たことがない。
だから、度が過ぎるほどのお人好しのくせに、何故罪人としての顔を持っているのか――、その理由が分からなかった。
しかし、今目の前にクルムの過去を知っている人物がいる。
ペイリスの口がゆっくりと動き始めた。果たして、その口から鬼が出るか蛇が出るか。
「終の夜――、って聞いたことがあるかなぁ」
「……確か、エスタ・ノトリアスが悪魔を対抗するために作った組織」
リッカは自分の頭の中から終の夜に関する知識を引き出して答えた。
けれど、リッカは終の夜に関して、良い印象を抱いてはいなかった。まだリッカがクルムと出会う前――、すなわちリッカが悪魔の存在を空想の世界のものだと思っていた時、終の夜は人々を悪魔から救っているという噂が嫌でも耳に入った。しかし、そのことがどうにもリッカには、悪魔という言葉を免罪符にして悪事を行なった人を過度に苦しめているようにしか思えなかったのだ。悪魔の存在を知り、悪魔によって苛まれている人を実際に目の当たりにして、余計にその想いは強くなっている。
しかし、リッカが終の夜をどう感じているか興味のないペイリスは、リッカの答えに満足のいったような笑みを浮かべた。
「僕はその終の夜の一員のペイリス・バークレット。そしてね、クルムも罪人にされる前は、僕らの仲間だったんだぁ」
「――っ!」
話の流れから予想は付いていたのにも関わらず、クルムが終の夜に所属していたことがあるという事実を知って、リッカは動揺を隠せなかった。上手く頭が回らず、ペイリスの言葉を静かに聞くことしか出来ない。
「でもぉ、組織とクルムとで意見の食い違いが発生しちゃってね。クルムは僕達の元から去っていったんだぁ。それで、クルムは一人で色々動いて、周りから裏切られて、結局は罪人になってるんだから意味がないよね。しかもぉ、相変わらず余計なことにまで口を突っ込んでるみたいだしぃ。僕達とずっと一緒に活動していれば、余計な苦労を背負うことなんてなかったのにねぇ」
間延びするペイリスの口調では、どこか真剣さに欠けはするものの、何となくクルムに関する最低限の新たな情報を掴むことが出来た。
リッカは終の夜について詳しく知らない。けれど、噂通りに行動する組織ならば、確かにクルムが終の夜を辞めるというのは想像が出来た。
それでも、今の話で腑に落ちないことがたくさんある。
その中でも最たることが――、
「……あなたは本当にクルムの仲間だったの?」
「え?」
リッカの発言が予想外だったのか、ペイリスは元々キョトンとしていた目を、更にキョトンとさせていた。
「本当に仲間だったら……いいえ、クルムがどんな想いで人と悪魔と向き合っているかを知っていたら、今みたいなクルムを馬鹿にするような発言は出ないと思うけど?」
「――ふーん。まるでお姉さんはクルムのことを知っているような口ぶりだねぇ」
ペイリスから発せられる雰囲気が更にまた変わった。
初めに姿を見せた時は風が吹いてもそのまま身を任せてそよぐように柔らかく、次にクルムとリッカに関係性があると知った時は雨一粒一粒をも的確に穿つように鋭かった。けれど、今は暴風雨に晒されるように、空気が重く痛い。
ペイリスの長身から向けられる視線は、明らかに敵意が籠められていて、威圧感が並大抵のものではなかった。しかし、リッカは視線を逸らすつもりもない。
「でもね、僕は何年もクルムと一緒に死線を掻い潜って来たんだよぉ。それをクルムと出会って時間も経っていないようなお姉さんに何が――」
ペイリスがリッカに対して一歩距離を詰めた瞬間、
「……うぅ、くそ……」
今まで痛みに耐えられず、地面で苦しみもがいていたピンデはゆっくりと体を起こし始めた。けれど、その立ち姿は限界ギリギリといったところで、重心も前のめりとなっていた。ペイリスの攻撃を一発でも喰らってしまえば、ピンデの意識はたちまちこの世界から離れてしまうだろう。
ペイリスは意図が含まれたような乾いた笑みをリッカに向けて浮かべると、ピンデの方に体を向ける。
「あ、まだ立ち上がるんだぁ。意外としぶといんだねぇ。じゃあ、お姉さん。もう少し話したかったけど……、仕事の方が大事だから戻らせてもらうねぇ」
「ま、待ちなさい!」
動き出したピンデに向かって歩みを進めるペイリスに、リッカは制止の声を掛ける。まだペイリスには聞きたいこともあったし、このままペイリスを放っておけば惨事が起こる気がした。
しかし、もう話は一区切りついたと言わんばかりに、ペイリスは一切足を止めようとしない。ペイリスの意識は、もはやピンデだけに注がれている。
「あららぁ、だいぶひどい状態になってるねぇ。でも、安心してぇ。これ以上悪魔に体を利用される前に、二度と罪を犯せないようにしてあげるからぁ」
ペイリスは笑みを崩さないまま、ピンデに向けてゆっくりと言い放つ。しかし、それはまるで死の鎌がゆっくりと、しかし確実に、首元を刈り取ろうとしているようで、聞いている人間からしたら薄気味悪く、恐怖を煽るものだ。
「……お、お前、この体がどうなってもいいのか!」
ピンデは自身の体を強調するように、右手で胸部に触れる。生身の体があることを主張し、ペイリスの同情を買おうという算段だ。
「うん、まぁ――、仕方ないよね。これが僕達、終の夜の使命。悪魔人への裁きであり、そして悪魔人への救いだよぉ」
しかし、まるで関係ないと言わんばかりにペイリスは唇を舐めると、更に一歩詰め寄った。
「く、くそ! せっかく体を得たのに……っ!」
ピンデの体を使って話をしているのは、その身に宿っている悪魔なのだろう。その口ぶりから、悪魔の狼狽ぶりが感じ取れる。悪魔はピンデの体を使って、思い切り唇を噛み締めた。ピンデの唇から流血が起こるが、血を気に留める気配は一切ない。利用している体なのだから、その体が死なない限り、自分が滅ぼされない限り、どうなろうと構わないのだ。
「大丈夫、痛いのは一瞬だけだから」
いつの間にか、ピンデの前に立ちはだかっていたペイリスはニコリと微笑むと、大きく右手を振るった。武器も何もない、ただの丸裸の拳だ。しかし、振り子の要領で、腕の長いペイリスから放たれる攻撃は、まるで弾丸のように目にも止まらぬ速さでピンデの心臓を目がけている。
「じゃあ、ピンデに救済があらんことを――」
そして、ペイリスの右拳がピンデに直撃する――
「させませんよ、ペイリスさん」
――直前、鈍い金属音が雨音を割って響いた。
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「クルム!」
そこにはクルム・アーレントがいた。
クルムがやって来たことを遠巻きながらも分かったリッカとシンクは、安堵に満ちた声でその名を呼ぶ。
そして、もう一人。クルムがやって来たことを、喜ぶ――否、楽しむ人物がいた。
「あれぇ、クルム、間に合ったんだぁ。でも、だいぶガルフにやられたみたいだねぇ」
攻撃を阻まれたというのに、まるで気にも留めずにニコニコと笑みを浮かべながら、ペイリスはクルムの全身を余すところなく眺める。
ペイリスの言う通り、クルムの体はボロボロだった。見た目だけで言うのならば、今しがたクルムが守ったピンデとそう大差はない。いや、ガルフによる攻撃を受け、更には先日の戦いでの負傷を引きづっていることを鑑みれば、クルムの方がダメージは深い。
しかし、クルムは平時と変わらない力強い双眸をペイリスに向けると、
「こんな傷、この人が受けた痛みに比べれば、何でもありませんよ」
「そっかぁ。さすがクルムだねぇ」
ペイリスはクルムの言葉にクスクスと笑った。まるで自分の予想が当たった時のような笑みだ。
しかし、途端に笑みを止めると、ペイリスは腕組みをしながらキョトンと首を傾げた。
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元々、悪魔人が暴れるという計算は、ガルフの頭の中にはなかった。ピンデが覚醒する前に、ガルフかクルムのどちらかが事態を治めると確信していたからだ。しかし、クルムとガルフの攻防は予想よりも長く続き、ピンデに憑いている悪魔の力を深く目覚めさせてしまった。
だから、こうして悪魔の力を暴発させているピンデをペイリスが止めに入り、その後にクルムが合流した時のルールは明言されていなかった。
「うーん、悪魔の力が覚醒しちゃったから時間オーバーで、僕が片付けた方がいいのかなぁ。それとも、ガルフより先に来たクルムに任せた方がいいのかなぁ」
「僕にやらせてください」
「うん、分かったぁ」
邪気のない笑みで従順に応じると、ペイリスはクルムとピンデから離れていく。正直、ペイリスにとっては、クルムが悪魔人を片付けようか自分が片付けようかどちらでも良かったのだ。むしろ、余計な手間を掛けず、悩む時間もなくなり、ペイリスは良しとまでしている。
「……」
「……」
そして、クルムとピンデの二人きりになると、クルムはゆっくりと息を吐き、
「もう苦しむ必要はありませんよ」
「……っ」
見る者を安堵させる柔らかな笑みを浮かべた。
「今あなたを助けます」
クルムは右手をそっとピンデに伸ばす。
「……触るな」
「っ」
しかし、その右手は、ピンデに触れる直前で払いのけられてしまった。
ピンデは息を荒げながら、視線だけで人を殺せるような鋭い眼差しをクルムに向ける。
「俺にはミハエル様しか、ペシャルしかなかったんだ! それをいきなり潰された俺の気持ちが分かるか? やられたままで終わる訳にはいかねェ! 俺の大事な場所を奪ったあいつらを、いや、この腐った世界を赦さねェ! だから壊す! すべてを壊す! 全部全部全部全部ァァァァァアアァァ!」
ピンデの身の内に宿る悪魔が、ピンデの負の感情を駆り立てている。ピンデの言葉は止まらない。その怒りは、ピンデの心が満たされぬ限り終わらない。
しかし、それは壊れた器に、水を注ぎ続けるようなものだ。器が壊れている限り、けして満たされることはない。
だから、これからピンデは負の感情を抱きながら、満たされることのないものを満たすために生き続ける。そして、そのなれの果てに、多くの罪を背負い、しかるべき罰を受ける。
――これが、悪魔人と化した人間の末路だ。
「……確かに、辛い目にあったと思います。運命に嘆き、衝動に身を委ねたくなるのも分かります」
ピンデの体が一瞬ピクリと動くが、すぐさま惜しみない敵意の眼差しをクルムに突き刺す。
「けれど、それでは後々、更なる苦しみをあなたが負うことになります。だから、今ここであなたを救います!」
クルムはピンデに向けて――否、ピンデの内に潜む悪魔に向けて銃を構えた。
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