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3-01 旅路の合間に
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***
「クルム、書けた!」
青く澄み渡る空の下、グリーネ大国のスーデル街道に備え付けられた簡易的な休憩所――雨風を防ぐにしても期待が持てないくらい年季の入った小屋から、シンク・エルピスの声が響き渡った。
そして、それと同時、シンクは喜々とした表情を見せながら、目の前にいるクルム・アーレントに日記帳を広げて見せつける。
日記帳には読解も難しいほど乱雑とした文字が並んでいた。正直、そこに何が書かれているのか、理解しようとすることさえ難しい。
しかし、そんな文字を、クルムは目を逸らすことなく見つめている。シンクはクルムが文字を見る様子を、少しだけ緊張したように静かに見守っていた。その証拠と言わんばかりに、シンクが持つ日記帳も微かに震えている。
クルムの隣に座るリッカ・ヴェントも、シンクが持つ日記帳を見つめている。
日記帳とにらめっこをしていたクルムは、やがて小さく頷いた。その仕草に、シンクは唇をぎゅっと結んだ。これからクルムが下す判決を、どんな結果だとしても受け入れるためだ。
そして、日記帳からシンクへと視線を移すと、
「正解です。もう基本となる母音は完璧ですね」
そこに書かれている文字を正しく読み取ったクルムは、シンクに笑顔を向けた。
その言葉に、シンクは満足そうに溢れんばかりの笑みを浮かべ、小さく握り拳を作った。先ほどの緊張した様子もどこかへ消え去ってしまったようだ。
「ははっ、だろ? やっぱり俺って天才なんだな!」
シンクは自分の鼻の下を指で擦りながら、自慢げに胸を張り始める。ここまで書くことが出来たのは自分一人の力だと言わんばかりの言い草は、誰が見ても調子に乗っている状態だ。
しかし、そんなシンクの腰を折るように、
「へー、すごーい。でも、最初は鉛筆も持てなくて、持ち方を教えるところから始まって、見よう見まねで書けばいい字も上手く書けず、四苦八苦しながらも優しく教えてあげてたのは誰だったかなぁ」
「んなっ!」
リッカは微笑を浮かべながら、シンクに語り掛けた。優しい口調なのに対して、その目は一切笑っていない。まるでシンクに真実を告白するように求めるように、問い詰めているかのようだ。
そう、文字の読み書きが出来ないシンクは、現在旅の隙間時間を使って、文字の習得に励んでいるのである。勿論、一人では出来ないため、クルムとリッカが一緒になって教えていた。しかし、物覚えの悪い――いや、そもそも勉強の要領を全く知らないシンクに、リッカがやきもきしながら教えているというのが現状だった。
そんな嫌な現実を突きつけられたシンクは、驚きに目を開き、言葉を失っている。
「あ、そっか。天才シンク・エルピス君は、もう私から教えてもらう必要なんてないよね?」
クスクスと喧嘩を売るかのような口調で語るリッカに、
「あ、ああ! リッカの助けなんて必要ないね。基本を頭に叩き込んだ今の俺なら、残りは一日あれば簡単に覚えられるぜ」
シンクは負けじと強気で答えた。まさに売り言葉に買い言葉だ。
しかし、シンクはまだ知らない。この先の文字の量は、今覚えた文字の量よりも――、
「へー、子音は母音の数の二倍はあるのに、それを一日で覚えられるんだ? たった五つの母音を覚えるのに二日も掛かったのはどこの誰だったかな? しかも、母音と子音は組み合わせないといけないんだよ? そんな風に言っちゃっていいのかなぁ」
「ぐぐぐっ」
シンクの言質を取ったリッカは、更にニヤニヤとしながらシンクに言葉の猛追を掛ける。何も知らずに言葉を紡いで自分の首を絞めたシンクは、何も言うことが出来ず、恨めしそうにリッカのことを睨み付けては唸り声を上げるだけだ。
それがシンクに出来る精一杯の反抗だ。
そして、双方の間で言葉を失い、睨み合いのタイミングとなったところで、
「はいはい、そろそろ次の町に着くので、ここまでで終わりです」
二人の間に挟まれていたクルムが小さく手を鳴らした。その音を合図にして、いがみ合っていたリッカとシンクは、繋がっているのではないかと言わんばかりに同じタイミングで顔を反対の方向へと逸らす。
その様子を見つめていたクルムの口角は微かに上がっており、二人を見守るように優しく目を細めていた。
ヴェルルを出立したクルム達は、スーデル街道という道を使ってグリーネ大国の中心都市シンギルに向かおうとしていた。
スーデル街道はビオス平原よりも平坦で、行く所々に町もあるため、子供でも通りやすい道だ。この街道を使えば、目的としているシンギルまで休憩を含めたとしても、一か月もあれば辿り着くことが出来るだろう。
その証拠に、シンクは一度も泣き言を言わずに前へと進んでいるので、このまま順調に行けば想定よりも早いペースでシンギルに辿り着くことが出来る。むしろ、最初にビオス平原を通ろうとしたこと自体が、無茶を通り越した行為だということを、シンクは知らない。
「シンク、リッカさんから色々教えてもらってるんだから、感謝の想いを忘れたら駄目ですよ。リッカさんも、あまりシンクをからかいすぎないようにしてくださいね」
クルムはシンクとリッカの顔を交互に見ながら、諭すように語り掛ける。その言葉にリッカとシンクは一瞬ばつの悪いような表情を浮かべたが、すぐに、
「へーい」
「楽しくってつい――」
二人ともに返事をするかと思いきや、言葉の合間で、リッカの口が急に閉ざされる。リッカは口をぎゅっと結びながら、クルムのことを見つめていた。
その突然の変わりように、クルムとシンクは違和感を覚え、
「リッカ?」
「リッカさん?」
「それ」
心配して二人がリッカの名前を呼んだ途端に、リッカは唐突にたった一言だけ漏らした。クルムは意図を察することが出来なかった。
「え?」
だから、自然にクルムの口からが疑問符が飛び出していた。
しかし、リッカはそのクルムの気付かない態度にすら不満を感じているように、じっとクルムを見つめる。その視線は、どこか問い詰めるように痛い。クルムはただ頭の中に疑問符を浮かべるばかりだ。
そんな様子に、リッカはあからさまに溜め息を吐くと、
「――呼び方」
足を組んで頬杖を突きながら、淡々と答えを放った。
「前から気になってたんだけど――、呼び方。シンクは呼び捨てなのに、どうして私はさん付けなの?」
そう説明を加えるリッカの顔は、若干赤みが交えられていた。
リッカに言われて、クルムは確かにそうだと気付いた。今まで当たり前のように呼んでいたから、自分では分からなかった。
クルム・アーレントという人間は、人のことが好きな故、どんな人も尊重している。そのため、いつ誰に対しても尊敬の念を持って接するように心がけている。その表れが、本人の自覚なしに、無意識的に敬称として出ていた。――シンクの場合は、自分が名付け親ということもあって、敬称に関しては例外になるのだが。
「あ、いえ。別に他意はないですよ。ただそういう風に呼ぶのが慣れてしまっているだけで――」
「なら、今から敬語禁止!」
「え」
声を張って目の前に人差し指を突き付けるリッカに、クルムは本能的に少し後ろへ移動する。
「なんか壁を感じるから、これから敬語禁止ね。私はありのままのクルムを知らなきゃいけないの」
クルムが移動して空いた分の距離を、再びリッカが詰め寄せる。また後退しようとするが、クルムの背にはシンクがいるため、もうこれ以上リッカと距離を空けることは出来なかった。クルムは背後にいるシンクに助けを求めようと目線を配るが、シンクはスーデル街道の先を見据えているようで、全く視線が合わなかった。
その様子に、リッカはご満悦とばかりに悪戯っ子のような笑みを浮かべる。
「じゃあ、ひとまず私の名前から呼んでみよっか」
「な、名前……ですか?」
たじたじになりながら聞き返すクルムの言葉に、リッカからの返事はない。無言の肯定として、より口角を上げて来る。ここまで来ると、リッカは名前を呼んでもらうということよりも、クルムとのやり取りを楽しんでいるようにさえ思える。
「あ、もちろん、敬称はなしだからね。さんはいっ」
そして、リッカは満面の笑みを浮かべながら、手を鳴らした。その一連の流れは、クルムに有無を言うことを許さない。
途端、身を包む空気は一転し、音の余韻を残して緊張した空気へと変わっていく。
先ほどまでスーデル街道を見つめていたシンクも、いつの間にかクルムに注目している。
改めて言われると、どこか恥ずかしさを覚えてしまう。いつも呼んでいる名前を、敬称を抜きにして呼べばいいだけなのだから、緊張する理由はどこにもないはずだ。
クルムは唇を震わせながら、
「り」
「り?」
一音言うと、リッカは嬉しそうにクルムの言葉を繰り返す。
「りっ」
「りっ?」
喉奥に何かが詰まったように、その次の言葉が出て来ない。
リッカは期待するように、再びクルムと同じ発音を繰り返す。
「りっか――」
あからさまにリッカの口角が上がり、クルムを見つめる瞳も大きく広がる。小さく握り拳を作っているのも、印象的だ。
その仕草から分かるように、リッカは勝利を確信しているのだろう。
しかし、そんなリッカの期待を、
「――さん」
いつもの言い慣れた敬称を続けて紡ぐことで、クルムは壊してしまった。その言葉に、リッカの力が肩から抜けていくのが目に見えて分かった。先ほどの表情も仕草も、一気に決壊していく。
「こ、ここまで期待させといて? いや、ある意味予想通りなんだけどさ……」
「すみません」
肩を落として目頭を押さえるリッカに、クルムは後頭部に触れながら申し訳なさそうにしていた。
やはり慣れというものはいきなり直すことは難しく、少しずつ矯正していかなければならないようだ。
そんなクルムとリッカのやり取りを見つめていたシンクは、呆れるように溜め息を吐いた。そして、硬くなった空気を解かすように、
「おい、二人とも! それよりもさ、もう次の町のオーヴに着くんだから、馬鹿やってないで早く行こうぜ!」
立ち上がり、スーデル街道の途中に佇む町――オーヴを指差しながら言った。今にも待ちきれないと言いたいように、シンクの表情は希望に満ち溢れている。
シンクの意欲的な姿に、クルムは子の成長を見守るような微笑みを浮かべ、リッカは訝しむような視線を当てた。
リッカは拗ねるように頬を膨らましながら、
「うっ、まさかシンクに言われるとは……って、あれ?」
「シンク、あの町の名前読めるんですか?」
ここで二人は、思わず聞き逃してしまいそうな点を拾い、シンクに問いかける。
確かに、これから行く町はオーヴという町だ。
けれども、どうしてシンクはこの町の名前を言い当てることが出来たのだろうか。
現在クルム達が休んでいる小屋からオーヴまでは距離が離れており、相当な視力を持っていなければオーヴと書かれた看板を読み解くことは出来ない。加えて、まだクルムとリッカは母音の基本的な読み書きしかシンクに教えていなかった。
「? 当然だろ? 全部母音で出来てるじゃん。まぁ、確かにウのところに変なのが付いてるし、オの後ろに変な棒もあるけどさ。けどまぁ、だいたいこんな読み方かなーって」
しかし、当たり前のような顔を浮かべるシンクに、クルムとリッカは益々驚くばかりだ。
確かにシンクの言う通り、オーヴという次の町は母音のみを用いて構成されている。シンクも読むことは難しくないだろう――、それがただの母音だけで出来ているのならば、だ。
まずは基本からと思っていたクルムとリッカは、オーヴという文字に付属している濁音や長音について、シンクに教えてはいなかった。
互いに何かを確認し合うように、二人は顔を見合わせた。どちらかが密かに教えていたのかもしれない。けれども、二人は同じように顔を横に振るだけだ。
「……俺、何か間違ってたか?」
その弱気な声に、二人はシンクを見つめる。予想と違った反応を見せているクルムとリッカに対し、シンクは心配を隠し切ることが出来ず、動揺をしているようだ。
そんな自信に溢れているいつもの姿とは違ったシンクに、クルムとリッカはどちらともなく笑いを零し始めた。
基本を応用して使うことは、まずはその基本を完全に理解していないとならないし、また柔軟性も必要となってくる。自分で考えるということをしなければ、まず閃きというものは生まれない。しかし、それも関心がなければ、考えるということさえしないだろう。
つまり、文字を学ぶということに対して、それほどシンクが意欲的だということだ。
そんな二人の心を知らないシンクは、戸惑いを隠せない表情で見つめている。
「ふふ、何でもありませんよ」
「やっぱ自分で天才って言うだけはあるのね」
「?」
クルムとリッカは、まるで子供の成長を優しく見守る親のような眼差しで、シンクのことを見つめている。
しかし、自分が分からない内に褒められたとしても、シンクにとっては疑問符しか浮かばない。
「さて、と……ほら。いつまでも突っ立てると、置いて行くよ」
リッカはそう言うと、椅子から腰を上げ、立ち呆けているシンクの横を通って次に訪れる町――オーヴに向かって歩き始めた。
「――……って、俺が先に行くって言ったんだろ!」
ようやく我に返ったシンクは、置いて行かれないようにリッカの後を追う。そして、そのままリッカの先を越し、勝ち誇ったような顔を見せた。
座ったままのクルムは二人の様子を見ると、小さく息を漏らし、椅子から立ち上がった。
二人を追いかける形でオーヴへと向かう道中、クルムの心は晴れ渡ったスーデル街道の空模様のように、清く穏やかだった。
「クルム、書けた!」
青く澄み渡る空の下、グリーネ大国のスーデル街道に備え付けられた簡易的な休憩所――雨風を防ぐにしても期待が持てないくらい年季の入った小屋から、シンク・エルピスの声が響き渡った。
そして、それと同時、シンクは喜々とした表情を見せながら、目の前にいるクルム・アーレントに日記帳を広げて見せつける。
日記帳には読解も難しいほど乱雑とした文字が並んでいた。正直、そこに何が書かれているのか、理解しようとすることさえ難しい。
しかし、そんな文字を、クルムは目を逸らすことなく見つめている。シンクはクルムが文字を見る様子を、少しだけ緊張したように静かに見守っていた。その証拠と言わんばかりに、シンクが持つ日記帳も微かに震えている。
クルムの隣に座るリッカ・ヴェントも、シンクが持つ日記帳を見つめている。
日記帳とにらめっこをしていたクルムは、やがて小さく頷いた。その仕草に、シンクは唇をぎゅっと結んだ。これからクルムが下す判決を、どんな結果だとしても受け入れるためだ。
そして、日記帳からシンクへと視線を移すと、
「正解です。もう基本となる母音は完璧ですね」
そこに書かれている文字を正しく読み取ったクルムは、シンクに笑顔を向けた。
その言葉に、シンクは満足そうに溢れんばかりの笑みを浮かべ、小さく握り拳を作った。先ほどの緊張した様子もどこかへ消え去ってしまったようだ。
「ははっ、だろ? やっぱり俺って天才なんだな!」
シンクは自分の鼻の下を指で擦りながら、自慢げに胸を張り始める。ここまで書くことが出来たのは自分一人の力だと言わんばかりの言い草は、誰が見ても調子に乗っている状態だ。
しかし、そんなシンクの腰を折るように、
「へー、すごーい。でも、最初は鉛筆も持てなくて、持ち方を教えるところから始まって、見よう見まねで書けばいい字も上手く書けず、四苦八苦しながらも優しく教えてあげてたのは誰だったかなぁ」
「んなっ!」
リッカは微笑を浮かべながら、シンクに語り掛けた。優しい口調なのに対して、その目は一切笑っていない。まるでシンクに真実を告白するように求めるように、問い詰めているかのようだ。
そう、文字の読み書きが出来ないシンクは、現在旅の隙間時間を使って、文字の習得に励んでいるのである。勿論、一人では出来ないため、クルムとリッカが一緒になって教えていた。しかし、物覚えの悪い――いや、そもそも勉強の要領を全く知らないシンクに、リッカがやきもきしながら教えているというのが現状だった。
そんな嫌な現実を突きつけられたシンクは、驚きに目を開き、言葉を失っている。
「あ、そっか。天才シンク・エルピス君は、もう私から教えてもらう必要なんてないよね?」
クスクスと喧嘩を売るかのような口調で語るリッカに、
「あ、ああ! リッカの助けなんて必要ないね。基本を頭に叩き込んだ今の俺なら、残りは一日あれば簡単に覚えられるぜ」
シンクは負けじと強気で答えた。まさに売り言葉に買い言葉だ。
しかし、シンクはまだ知らない。この先の文字の量は、今覚えた文字の量よりも――、
「へー、子音は母音の数の二倍はあるのに、それを一日で覚えられるんだ? たった五つの母音を覚えるのに二日も掛かったのはどこの誰だったかな? しかも、母音と子音は組み合わせないといけないんだよ? そんな風に言っちゃっていいのかなぁ」
「ぐぐぐっ」
シンクの言質を取ったリッカは、更にニヤニヤとしながらシンクに言葉の猛追を掛ける。何も知らずに言葉を紡いで自分の首を絞めたシンクは、何も言うことが出来ず、恨めしそうにリッカのことを睨み付けては唸り声を上げるだけだ。
それがシンクに出来る精一杯の反抗だ。
そして、双方の間で言葉を失い、睨み合いのタイミングとなったところで、
「はいはい、そろそろ次の町に着くので、ここまでで終わりです」
二人の間に挟まれていたクルムが小さく手を鳴らした。その音を合図にして、いがみ合っていたリッカとシンクは、繋がっているのではないかと言わんばかりに同じタイミングで顔を反対の方向へと逸らす。
その様子を見つめていたクルムの口角は微かに上がっており、二人を見守るように優しく目を細めていた。
ヴェルルを出立したクルム達は、スーデル街道という道を使ってグリーネ大国の中心都市シンギルに向かおうとしていた。
スーデル街道はビオス平原よりも平坦で、行く所々に町もあるため、子供でも通りやすい道だ。この街道を使えば、目的としているシンギルまで休憩を含めたとしても、一か月もあれば辿り着くことが出来るだろう。
その証拠に、シンクは一度も泣き言を言わずに前へと進んでいるので、このまま順調に行けば想定よりも早いペースでシンギルに辿り着くことが出来る。むしろ、最初にビオス平原を通ろうとしたこと自体が、無茶を通り越した行為だということを、シンクは知らない。
「シンク、リッカさんから色々教えてもらってるんだから、感謝の想いを忘れたら駄目ですよ。リッカさんも、あまりシンクをからかいすぎないようにしてくださいね」
クルムはシンクとリッカの顔を交互に見ながら、諭すように語り掛ける。その言葉にリッカとシンクは一瞬ばつの悪いような表情を浮かべたが、すぐに、
「へーい」
「楽しくってつい――」
二人ともに返事をするかと思いきや、言葉の合間で、リッカの口が急に閉ざされる。リッカは口をぎゅっと結びながら、クルムのことを見つめていた。
その突然の変わりように、クルムとシンクは違和感を覚え、
「リッカ?」
「リッカさん?」
「それ」
心配して二人がリッカの名前を呼んだ途端に、リッカは唐突にたった一言だけ漏らした。クルムは意図を察することが出来なかった。
「え?」
だから、自然にクルムの口からが疑問符が飛び出していた。
しかし、リッカはそのクルムの気付かない態度にすら不満を感じているように、じっとクルムを見つめる。その視線は、どこか問い詰めるように痛い。クルムはただ頭の中に疑問符を浮かべるばかりだ。
そんな様子に、リッカはあからさまに溜め息を吐くと、
「――呼び方」
足を組んで頬杖を突きながら、淡々と答えを放った。
「前から気になってたんだけど――、呼び方。シンクは呼び捨てなのに、どうして私はさん付けなの?」
そう説明を加えるリッカの顔は、若干赤みが交えられていた。
リッカに言われて、クルムは確かにそうだと気付いた。今まで当たり前のように呼んでいたから、自分では分からなかった。
クルム・アーレントという人間は、人のことが好きな故、どんな人も尊重している。そのため、いつ誰に対しても尊敬の念を持って接するように心がけている。その表れが、本人の自覚なしに、無意識的に敬称として出ていた。――シンクの場合は、自分が名付け親ということもあって、敬称に関しては例外になるのだが。
「あ、いえ。別に他意はないですよ。ただそういう風に呼ぶのが慣れてしまっているだけで――」
「なら、今から敬語禁止!」
「え」
声を張って目の前に人差し指を突き付けるリッカに、クルムは本能的に少し後ろへ移動する。
「なんか壁を感じるから、これから敬語禁止ね。私はありのままのクルムを知らなきゃいけないの」
クルムが移動して空いた分の距離を、再びリッカが詰め寄せる。また後退しようとするが、クルムの背にはシンクがいるため、もうこれ以上リッカと距離を空けることは出来なかった。クルムは背後にいるシンクに助けを求めようと目線を配るが、シンクはスーデル街道の先を見据えているようで、全く視線が合わなかった。
その様子に、リッカはご満悦とばかりに悪戯っ子のような笑みを浮かべる。
「じゃあ、ひとまず私の名前から呼んでみよっか」
「な、名前……ですか?」
たじたじになりながら聞き返すクルムの言葉に、リッカからの返事はない。無言の肯定として、より口角を上げて来る。ここまで来ると、リッカは名前を呼んでもらうということよりも、クルムとのやり取りを楽しんでいるようにさえ思える。
「あ、もちろん、敬称はなしだからね。さんはいっ」
そして、リッカは満面の笑みを浮かべながら、手を鳴らした。その一連の流れは、クルムに有無を言うことを許さない。
途端、身を包む空気は一転し、音の余韻を残して緊張した空気へと変わっていく。
先ほどまでスーデル街道を見つめていたシンクも、いつの間にかクルムに注目している。
改めて言われると、どこか恥ずかしさを覚えてしまう。いつも呼んでいる名前を、敬称を抜きにして呼べばいいだけなのだから、緊張する理由はどこにもないはずだ。
クルムは唇を震わせながら、
「り」
「り?」
一音言うと、リッカは嬉しそうにクルムの言葉を繰り返す。
「りっ」
「りっ?」
喉奥に何かが詰まったように、その次の言葉が出て来ない。
リッカは期待するように、再びクルムと同じ発音を繰り返す。
「りっか――」
あからさまにリッカの口角が上がり、クルムを見つめる瞳も大きく広がる。小さく握り拳を作っているのも、印象的だ。
その仕草から分かるように、リッカは勝利を確信しているのだろう。
しかし、そんなリッカの期待を、
「――さん」
いつもの言い慣れた敬称を続けて紡ぐことで、クルムは壊してしまった。その言葉に、リッカの力が肩から抜けていくのが目に見えて分かった。先ほどの表情も仕草も、一気に決壊していく。
「こ、ここまで期待させといて? いや、ある意味予想通りなんだけどさ……」
「すみません」
肩を落として目頭を押さえるリッカに、クルムは後頭部に触れながら申し訳なさそうにしていた。
やはり慣れというものはいきなり直すことは難しく、少しずつ矯正していかなければならないようだ。
そんなクルムとリッカのやり取りを見つめていたシンクは、呆れるように溜め息を吐いた。そして、硬くなった空気を解かすように、
「おい、二人とも! それよりもさ、もう次の町のオーヴに着くんだから、馬鹿やってないで早く行こうぜ!」
立ち上がり、スーデル街道の途中に佇む町――オーヴを指差しながら言った。今にも待ちきれないと言いたいように、シンクの表情は希望に満ち溢れている。
シンクの意欲的な姿に、クルムは子の成長を見守るような微笑みを浮かべ、リッカは訝しむような視線を当てた。
リッカは拗ねるように頬を膨らましながら、
「うっ、まさかシンクに言われるとは……って、あれ?」
「シンク、あの町の名前読めるんですか?」
ここで二人は、思わず聞き逃してしまいそうな点を拾い、シンクに問いかける。
確かに、これから行く町はオーヴという町だ。
けれども、どうしてシンクはこの町の名前を言い当てることが出来たのだろうか。
現在クルム達が休んでいる小屋からオーヴまでは距離が離れており、相当な視力を持っていなければオーヴと書かれた看板を読み解くことは出来ない。加えて、まだクルムとリッカは母音の基本的な読み書きしかシンクに教えていなかった。
「? 当然だろ? 全部母音で出来てるじゃん。まぁ、確かにウのところに変なのが付いてるし、オの後ろに変な棒もあるけどさ。けどまぁ、だいたいこんな読み方かなーって」
しかし、当たり前のような顔を浮かべるシンクに、クルムとリッカは益々驚くばかりだ。
確かにシンクの言う通り、オーヴという次の町は母音のみを用いて構成されている。シンクも読むことは難しくないだろう――、それがただの母音だけで出来ているのならば、だ。
まずは基本からと思っていたクルムとリッカは、オーヴという文字に付属している濁音や長音について、シンクに教えてはいなかった。
互いに何かを確認し合うように、二人は顔を見合わせた。どちらかが密かに教えていたのかもしれない。けれども、二人は同じように顔を横に振るだけだ。
「……俺、何か間違ってたか?」
その弱気な声に、二人はシンクを見つめる。予想と違った反応を見せているクルムとリッカに対し、シンクは心配を隠し切ることが出来ず、動揺をしているようだ。
そんな自信に溢れているいつもの姿とは違ったシンクに、クルムとリッカはどちらともなく笑いを零し始めた。
基本を応用して使うことは、まずはその基本を完全に理解していないとならないし、また柔軟性も必要となってくる。自分で考えるということをしなければ、まず閃きというものは生まれない。しかし、それも関心がなければ、考えるということさえしないだろう。
つまり、文字を学ぶということに対して、それほどシンクが意欲的だということだ。
そんな二人の心を知らないシンクは、戸惑いを隠せない表情で見つめている。
「ふふ、何でもありませんよ」
「やっぱ自分で天才って言うだけはあるのね」
「?」
クルムとリッカは、まるで子供の成長を優しく見守る親のような眼差しで、シンクのことを見つめている。
しかし、自分が分からない内に褒められたとしても、シンクにとっては疑問符しか浮かばない。
「さて、と……ほら。いつまでも突っ立てると、置いて行くよ」
リッカはそう言うと、椅子から腰を上げ、立ち呆けているシンクの横を通って次に訪れる町――オーヴに向かって歩き始めた。
「――……って、俺が先に行くって言ったんだろ!」
ようやく我に返ったシンクは、置いて行かれないようにリッカの後を追う。そして、そのままリッカの先を越し、勝ち誇ったような顔を見せた。
座ったままのクルムは二人の様子を見ると、小さく息を漏らし、椅子から立ち上がった。
二人を追いかける形でオーヴへと向かう道中、クルムの心は晴れ渡ったスーデル街道の空模様のように、清く穏やかだった。
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俺の名前は一之瀬悠太。23歳独身のどこにでもいる、ごく普通の会社員だ。昨日までは…
理由も分からず異世界に飛ばされてしまった主人公の悠太は、その世界で初めて出会った獣人の少女と少女に師匠と呼ばれているロリっ子魔女に魔術と、この世界で生きる術を学んでいく。やがて主人公はこの世界を旅しながらこの世界に連れて来られた理由と元の世界に帰る方法を探る冒険へと繰り出す。異世界ファンタジー作品です。
少し冷めた村人少年の冒険記
mizuno sei
ファンタジー
辺境の村に生まれた少年トーマ。実は日本でシステムエンジニアとして働き、過労死した三十前の男の生まれ変わりだった。
トーマの家は貧しい農家で、神から授かった能力も、村の人たちからは「はずれギフト」とさげすまれるわけの分からないものだった。
優しい家族のために、自分の食い扶持を減らそうと家を出る決心をしたトーマは、唯一無二の相棒、「心の声」である〈ナビ〉とともに、未知の世界へと旅立つのであった。
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