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肆:大和撫子の素顔
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***
――俺、諏訪悠陽は目の前にいる更科茉莉のことを何も知らない。
更科さんは、俺と同じ二年三組で隣の席に座っていて、三週間前に松城高校に転入して来たばかりの学友だ。ちなみに、三週間経った今でも、俺は更科さんと指折りで数えられるくらいしか言葉を交わしてない。
そんな隣の席の更科さんは、人の目を惹きつけて止まない美貌の持ち主だったため、転入後すぐに学校中の話題を掻っ攫っていった。
長く黒い髪と整われた容姿、そしてその凛とした姿勢は、大和撫子を彷彿とさせ、可憐でお淑やかというのが学校の中の誰もが持つ共通認識だ。いや、共通認識だった。
しかし、今や俺の中の認識は覆されてしまった。
「――更科、茉莉……」
俺は信じ難い目の前の光景を前にして、普段隣の席に座っている更科さんの名前を小さく呟いた。
血の海に立つ更科さんを、俺は初めて見た。むしろ、誰かが血の海に立つ現場に立ち会うこと自体初めてだ。
どう動くのが正解なのか、正直分からなかった。
なぜ、こんな事態になっているのか。――簡単だ。
隣町の秦野高校の連中に絡まれ、商店街の路地裏に連れて行かれた更科さんを助けるため、勇気を奮い出して路地裏に突入したところ、異常事態に遭遇した。
言葉にするのは容易いが、それを現実のものとして受け入れるのは難しい。
俺はどうすることも出来ず、路地裏に立ち尽くして、更科さんに意識を奪われていた。
こんな状況だというのに、更科さんは凛としていて、美しく、ここにあるもの全てが更科茉莉という人間を引き立てるためにあるように感じられる。
「……ちィ」
俺の存在に気付いた更科さんの一言目は、舌打ちだった。人の心を落ち着かせていた彼女の声音からは、全く想像も出来ないほど音が低く、鈍く奏でられる。
そして、それは俺の想定外の出来事だった。
敵意丸出しの舌打ち。俺の予想が正しければ、それが意味するのは――。
「まだ仲間がいたの?」
更科さんは凛とさせていた姿勢を崩し、ゆらゆらとこちらに近づき始めた。まるでその姿は死神だ。
俺は更科さんの姿に、心臓が握り潰されるほどの恐怖を抱く。
予想通り、更科さんは俺のことを秦野高校の一味――すなわち、駆除すべき敵として認識している。
薄暗い路地裏の中、先ほど俺の方に顔を向けたばかりなことに加えて、興奮気味の更科さんには、俺が隣の席に座っているクラスメイトだということが分かっていないようだった。
様々な悪状況が絶妙に織り連なってしまった。
そのように考えている瞬間だった。
「あんたも玉潰されたくなけりゃ――」
更科さんは姿勢を低くすると同時、いきなりトップスピードに乗り、十分にあったはずの俺との距離を一瞬にしてゼロにした。
――やばい。
更科さんは地面すれすれの位置から右拳を振り上げようとしていた。風が下から吹き上がる。
――これはマジでやばい。
脳に危険信号が走る。人生で一番やばい場面だと直感が告げている。俺の未来が色んな意味で潰される!
宣言通り、俺の体の中心やや下を目がけて、更科さんは勢いよく拳を振り上げ――、
「ちょ、ちょっと待て! 俺だよ、俺! 隣の席の諏訪!」
――られないように、藁をも縋る思いで、必死に声を張る。緊張のあまり、変に声が裏返ってしまったが、言い直す余裕はない。
「……へ?」
更科さんの右手は、俺の股間を超えて上昇し、俺の襟元を掴んだ。そのまま体が更科さんの近くへと力強く引っ張られる。
更科さんの顔が今まで一番近かった。もしも、こんな状況でなければ、違う感情を抱いていたかもしれない、と客観的に考える自分がいることに驚いた。
しかし、そんな淡い考えもすぐに消え去る。
更科さんの目はまだ鋭く尖っていて、下手な動きをすれば命を刈られるだろう。
俺は命乞いをするように、今出来る限りの笑顔を更科さんに向けた。
「……っ!」
やがて、俺のことを隣の席に座っているクラスメイトとして認識してくれたのか、更科さんは喉を鳴らした。そのことをきっかけにして、襟首を掴んでいた手の力が弱まり、顔もみるみる紅くなり始めた。そして、ついに襟首が解放される。
更科さんは先ほどまで俺を掴んでいた右手を左手で隠した。
「わ、私……私……」
そして、更科さんは視線をきょろきょろとさせながら呟くと、
「全部違うの――ッ!」
そう高らかに悲鳴を上げるように、路地裏から逃げていった。
「ゴホゴホッ。……何だったんだ?」
更科さんに置いて行かれた俺は、頭の中に様々な疑問符が浮かんでいた。
嵐が過ぎ去ったように静かになった路地裏を、俺は冷静になって改めて見てみる。
「これ、全部更科さんがやったってことだよな……?」
更科さんが立っていた場所に血だらけになって倒れている秦野高校の不良二人。俺の後ろにも同じように倒れている、もう一人の不良。壮絶な戦場の後が垣間見られる、散らかったゴミ箱。地面には所々血が付いている。
まさしく、見るも無残な状況だった。
俺は絶句し、渇いた笑いしか出せなかった。そして、一通り笑い終わった後に、溜め息を吐く。
とりあえず、秦野高校の不良たちの生存確認をしなければいけない。後ろの一人が呻き声を上げていたから、前の二人も大丈夫だとは思うが、念には念をだ。
俺は倒れている二人に近づくと、ゆっくりと膝を地面に着け、二人同時に触れる。まだ生きていた。
あの攻撃を身に受けて生きているとは、人間の体は思ったよりも頑丈なのかもしれない。更科さんの拳を体感する間もなく音を上げた俺のことを棚に上げて、そう思った。
「んじゃあ、あとは――」
唯一、俺に残された出来ることと言えば――、ポケットの中にある携帯を取り出そうとした手を止めて、ふと考えた。
警察や救急車を呼んだとして、こいつらが更科さんのことを暴露したら、更科さんはどうなる?
そう思うと、携帯に手が伸びなかった。
このまま放っておくにはあまりにも悲惨すぎると思ったが、自業自得だ。反省させるのも、一つの手だろう。
俺はその考えに至り、事が大きくならない内に、この場を去ることにした。
「――ってか、女の子が玉潰すとか言うなよな……」
――俺、諏訪悠陽は目の前にいる更科茉莉のことを何も知らない。
更科さんは、俺と同じ二年三組で隣の席に座っていて、三週間前に松城高校に転入して来たばかりの学友だ。ちなみに、三週間経った今でも、俺は更科さんと指折りで数えられるくらいしか言葉を交わしてない。
そんな隣の席の更科さんは、人の目を惹きつけて止まない美貌の持ち主だったため、転入後すぐに学校中の話題を掻っ攫っていった。
長く黒い髪と整われた容姿、そしてその凛とした姿勢は、大和撫子を彷彿とさせ、可憐でお淑やかというのが学校の中の誰もが持つ共通認識だ。いや、共通認識だった。
しかし、今や俺の中の認識は覆されてしまった。
「――更科、茉莉……」
俺は信じ難い目の前の光景を前にして、普段隣の席に座っている更科さんの名前を小さく呟いた。
血の海に立つ更科さんを、俺は初めて見た。むしろ、誰かが血の海に立つ現場に立ち会うこと自体初めてだ。
どう動くのが正解なのか、正直分からなかった。
なぜ、こんな事態になっているのか。――簡単だ。
隣町の秦野高校の連中に絡まれ、商店街の路地裏に連れて行かれた更科さんを助けるため、勇気を奮い出して路地裏に突入したところ、異常事態に遭遇した。
言葉にするのは容易いが、それを現実のものとして受け入れるのは難しい。
俺はどうすることも出来ず、路地裏に立ち尽くして、更科さんに意識を奪われていた。
こんな状況だというのに、更科さんは凛としていて、美しく、ここにあるもの全てが更科茉莉という人間を引き立てるためにあるように感じられる。
「……ちィ」
俺の存在に気付いた更科さんの一言目は、舌打ちだった。人の心を落ち着かせていた彼女の声音からは、全く想像も出来ないほど音が低く、鈍く奏でられる。
そして、それは俺の想定外の出来事だった。
敵意丸出しの舌打ち。俺の予想が正しければ、それが意味するのは――。
「まだ仲間がいたの?」
更科さんは凛とさせていた姿勢を崩し、ゆらゆらとこちらに近づき始めた。まるでその姿は死神だ。
俺は更科さんの姿に、心臓が握り潰されるほどの恐怖を抱く。
予想通り、更科さんは俺のことを秦野高校の一味――すなわち、駆除すべき敵として認識している。
薄暗い路地裏の中、先ほど俺の方に顔を向けたばかりなことに加えて、興奮気味の更科さんには、俺が隣の席に座っているクラスメイトだということが分かっていないようだった。
様々な悪状況が絶妙に織り連なってしまった。
そのように考えている瞬間だった。
「あんたも玉潰されたくなけりゃ――」
更科さんは姿勢を低くすると同時、いきなりトップスピードに乗り、十分にあったはずの俺との距離を一瞬にしてゼロにした。
――やばい。
更科さんは地面すれすれの位置から右拳を振り上げようとしていた。風が下から吹き上がる。
――これはマジでやばい。
脳に危険信号が走る。人生で一番やばい場面だと直感が告げている。俺の未来が色んな意味で潰される!
宣言通り、俺の体の中心やや下を目がけて、更科さんは勢いよく拳を振り上げ――、
「ちょ、ちょっと待て! 俺だよ、俺! 隣の席の諏訪!」
――られないように、藁をも縋る思いで、必死に声を張る。緊張のあまり、変に声が裏返ってしまったが、言い直す余裕はない。
「……へ?」
更科さんの右手は、俺の股間を超えて上昇し、俺の襟元を掴んだ。そのまま体が更科さんの近くへと力強く引っ張られる。
更科さんの顔が今まで一番近かった。もしも、こんな状況でなければ、違う感情を抱いていたかもしれない、と客観的に考える自分がいることに驚いた。
しかし、そんな淡い考えもすぐに消え去る。
更科さんの目はまだ鋭く尖っていて、下手な動きをすれば命を刈られるだろう。
俺は命乞いをするように、今出来る限りの笑顔を更科さんに向けた。
「……っ!」
やがて、俺のことを隣の席に座っているクラスメイトとして認識してくれたのか、更科さんは喉を鳴らした。そのことをきっかけにして、襟首を掴んでいた手の力が弱まり、顔もみるみる紅くなり始めた。そして、ついに襟首が解放される。
更科さんは先ほどまで俺を掴んでいた右手を左手で隠した。
「わ、私……私……」
そして、更科さんは視線をきょろきょろとさせながら呟くと、
「全部違うの――ッ!」
そう高らかに悲鳴を上げるように、路地裏から逃げていった。
「ゴホゴホッ。……何だったんだ?」
更科さんに置いて行かれた俺は、頭の中に様々な疑問符が浮かんでいた。
嵐が過ぎ去ったように静かになった路地裏を、俺は冷静になって改めて見てみる。
「これ、全部更科さんがやったってことだよな……?」
更科さんが立っていた場所に血だらけになって倒れている秦野高校の不良二人。俺の後ろにも同じように倒れている、もう一人の不良。壮絶な戦場の後が垣間見られる、散らかったゴミ箱。地面には所々血が付いている。
まさしく、見るも無残な状況だった。
俺は絶句し、渇いた笑いしか出せなかった。そして、一通り笑い終わった後に、溜め息を吐く。
とりあえず、秦野高校の不良たちの生存確認をしなければいけない。後ろの一人が呻き声を上げていたから、前の二人も大丈夫だとは思うが、念には念をだ。
俺は倒れている二人に近づくと、ゆっくりと膝を地面に着け、二人同時に触れる。まだ生きていた。
あの攻撃を身に受けて生きているとは、人間の体は思ったよりも頑丈なのかもしれない。更科さんの拳を体感する間もなく音を上げた俺のことを棚に上げて、そう思った。
「んじゃあ、あとは――」
唯一、俺に残された出来ることと言えば――、ポケットの中にある携帯を取り出そうとした手を止めて、ふと考えた。
警察や救急車を呼んだとして、こいつらが更科さんのことを暴露したら、更科さんはどうなる?
そう思うと、携帯に手が伸びなかった。
このまま放っておくにはあまりにも悲惨すぎると思ったが、自業自得だ。反省させるのも、一つの手だろう。
俺はその考えに至り、事が大きくならない内に、この場を去ることにした。
「――ってか、女の子が玉潰すとか言うなよな……」
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