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参:危険な大和撫子
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「はるはる、またな」
「おう」
放課後、松城高校の近くの十字路で、俺は中学からの友人で数少ない友人でもある依田と別れた。ちなみに、俺の名前である悠陽の読み方は「ゆうひ」なのだが、語呂がいいのか、依田からは「はるはる」とよく言われる。
腕時計に目を配ると、時間はまだ四時を越えていない。陽も高らかに昇っていることもあり、俺は寄り道をすることにした。普段なら真っ直ぐに家に帰るのだが、今日はちょっと気分が高まっていた。
歩いて二十分ほどで辿り着ける隣町の商店街まで来ると、俺は大きく腕を伸ばした。隣町、秦野町の商店街は品揃えがよく、距離も程々で丁度いい運動になるから、一、二か月に一度くらいは訪れるようにしている。
俺は早速気分揚々に本屋に向かおうとした。
高校二年になってから三週間――、ようやく依田とも普通の会話が出来るようになって来た。
今まで普通ではなかったのかと聞かれれば、そうだと迷わずに答えよう。
きっかけは、やはり始業式の日だ。
始業式が終わって一緒に依田と帰っていると、
「更科さん、超可愛いな!」「隣の席に座っているはるはるが羨ましいぜ」「なぁなぁ、今日の朝、更科さんと二人きりだったよな? なんか話した?」
など、話題の九割が更科さんに関するものだった。そして、発言者の九割も依田だ。俺はただ適当に相槌を打っていた。
このような話題が三週間近くも続いた。
俺は正直辛かったが、依田は楽しそうに語っていたから話は止まらなかった。
しかし、何も話が発展しないことに加え、日が経っても状況が変わらないということもあり、徐々に依田の口から更科さんという単語が少なくなってきた。そして、今日ついに更科さんの話をせずに、依田と帰り道を歩くことが出来た。
俺は思わず口を綻ばせた。
このまま行けば、五月までには普通で理想の生活を取り戻すことが出来るかもしれない。
一度壊れかけたと思った生活を取り戻すことが出来ると思うと、先を行く足も弾んでくる。周りから見れば、変人と間違われてしまうだろう。でも、それほどまでに嬉しいのだから仕方がない。
ここから、俺の高校生活を立て直せる!
そう心の中で握り拳を作ったところだった。
「……あれは?」
俺は長い黒髪をした松城高校の制服を着た女子が、うちの学校ではない制服の男三人に絡まれているところを目撃した。
女生徒は壁を背にして顔を下に俯かせ、男たちは逃げ道を塞ぐように言い寄っている。
女子の顔は隠れて分からないが、男子高校生が着ている制服は不良で有名な秦野高校のものだ。
周りの一般人が見て見ぬふりをして商店街を去っていく中、俺はその場に立ち尽くして彼らの動向を見続けていた。
面倒事が嫌いないつもの俺なら颯爽と逃げるはずなのに、何故かこの時の俺は逃げることが出来なかった。
絡まれている女子が、どうしても気になるのだ。あの長い黒髪……最近、よく目にしている気がしてならない。
そして、やがて現場に動きが起こる。
秦野高校の一人が女生徒の肩を掴み、その場を離れようとし始めたのだ。
その瞬間、俺は連れていかれる女子の顔が見えてしまった。
学校全体から美少女と称されて、いつも俺の隣の席に座っている大和撫子――、
更科茉莉、その人だった。
目の前の光景と状況を把握した時、俺の心臓が動悸を上げ、高く鳴り始めた。しかし、肝心の手足は動かない。
俺が動けずにいる内に、無抵抗な更科さんはそのまま秦野高校の連中に商店街の路地裏へと連れ込まれてしまった。
商店街は、何事もなかったかのようにいつも賑やかな商店街に戻っていた。道行く人が、道の真ん中で立ち呆けている俺を邪険にしながら進んでいく。それでも、俺はこの場を動くことは出来なかった。
俺の本能が、命の原動源である心臓を通して危険信号を告げている。警鐘と化した鼓動は、早くなる一方で、止まることを知らない。
知り合いが連れ去られる場面に遭遇するなんて、初めてだ。しかも、相手はここらでも有名になるほどの不良。下手に首を突っ込めば、人の目にも全く触れられない暗い路地裏で無残に袋叩きに合うことは確実だ。
なら、どうするか。
知らなかったふりをすればいい。見なかったことにすればいい。更科さんは俺のことには気付いていない。その体を反転し、後ろへと走り出せば、お前の望む高校生活は守られる。
簡単なことだ。
「……そうだ、諏訪悠陽」
俺は自らの考えを助長するように、自分の名前を呟いた。
誰も俺を責めはしない。誰だって、自分が傷つくのは怖いに決まっている。同じ場面になったら、誰しもが顔を背けるはずだ。悪い事ではないんだ。
だから、たった一歩を踏み出す小さな勇気を――、
俺は前に進むことに使った。
「は、はは……」
何やってるんだろうと、自嘲する。
俺一人行ったところで状況は変わらない。秦野高校の連中の怒りを煽るだけかもしれない。
体を叩く警鐘は更に強くなり、足取りもどこか覚束ない。
しかし、揉め事が嫌いな俺でも、この時ばかりは流石に更科さんのことを放っておくことは出来なかった。
俺は見てしまった。
更科さんが苦虫を噛み締めたような、恐怖におびえた顔をしていたのを確かに見たのだ。
ここで助けに行かなければ、逃げ出した後悔を一生背負って生きていく。
それだけではない。
俺の脳裏には更科さんの隣で過ごした三週間が、走馬灯のように流れていた。
――俺は、更科さんのことは苦手だ。
更科さんの隣の席に座っていると、否応でも目立ってしまう。慎ましく生きたい俺には、はた迷惑な話だ。
でも、更科さん自身が嫌いな訳ではない。むしろ、まだ何も知らないのだから、嫌いになりようがない。
だから、ここで見過ごすことは出来ない。見過ごしてしまったら、更科さんについて知る機会は二度となくなる。
花が咲いたように笑う更科さんに、萎れた花のような表情はして欲しくない。
俺一人が飛び出して行っても、何も出来ない。それは百も承知だ。
でも、女の子一人を逃がすための時間稼ぎなら……っ!
そう覚悟し、更科さんが連れていかれた路地裏の角を曲がった瞬間だった。
「――ッァ!」
「え?」
悲鳴と共に、誰かが俺の横を勢いよく転がって来て、俺の背後で止まった。予想外の事態に、俺の口から思わず呆けた声が出ると同時、足も止まる。
暗くて前がよく見えず、怖くて後ろを振り向くことは出来ない。
もしや、更科さんが彼らに反抗してしまったために、こんな酷い仕打ちを受けたのか?
状況が分からないまま、一瞬、そんな考えが脳裏を過ぎった。
しかし、そんな考えはすぐに否定される。
いくら秦野高校の不良だとしても、さすがに抵抗する女の子に対して、こんな仕打ちはあり得ない。
そして、否定材料は一つだけじゃない。推測を決定付ける証拠が、今も背後にある。
俺はゆっくりと後ろを振り向いた。
そこには――、
「うぅ、痛ぇ……」
呻き声を上げている秦野高校の一人が倒れ込んでいた。
仲間割れをするにしても、ここまで手加減抜きでやり合うということはないだろう。それに、一人だけやられるという可能性は考えられない。
俺の中で一つの確信が芽生える。
ちょうど目も暗い路地裏に慣れ始めて来た。俺は確信した答えを確かめるため、ゆっくりと視線を後ろから前へと移動させる。
緊張のあまり、唾を呑み込む音が喉から鳴った。鼓動の音は大きく、心臓が破裂しそうだ。
まさか。……まさか。
血の海の中でたった一人立っている人物は、俺に背中を向けながら、倒れ込む不良二人を当然のように横目で見下ろしていた。
その人物は、長い黒髪で、凛とした姿勢で、もう見慣れ始めた横顔で――、なのに俺は呼吸も忘れるくらい、浮世離れした彼女に目を奪われていた。
「――更科、茉莉……」
そして、現実と彼女を繋ぎ止めるように、助けようと思った隣の席の女の子の名前を、口の中で呟いた。
――この時、更科茉莉のことを、俺はまだ何一つ知っていなかった。
「はるはる、またな」
「おう」
放課後、松城高校の近くの十字路で、俺は中学からの友人で数少ない友人でもある依田と別れた。ちなみに、俺の名前である悠陽の読み方は「ゆうひ」なのだが、語呂がいいのか、依田からは「はるはる」とよく言われる。
腕時計に目を配ると、時間はまだ四時を越えていない。陽も高らかに昇っていることもあり、俺は寄り道をすることにした。普段なら真っ直ぐに家に帰るのだが、今日はちょっと気分が高まっていた。
歩いて二十分ほどで辿り着ける隣町の商店街まで来ると、俺は大きく腕を伸ばした。隣町、秦野町の商店街は品揃えがよく、距離も程々で丁度いい運動になるから、一、二か月に一度くらいは訪れるようにしている。
俺は早速気分揚々に本屋に向かおうとした。
高校二年になってから三週間――、ようやく依田とも普通の会話が出来るようになって来た。
今まで普通ではなかったのかと聞かれれば、そうだと迷わずに答えよう。
きっかけは、やはり始業式の日だ。
始業式が終わって一緒に依田と帰っていると、
「更科さん、超可愛いな!」「隣の席に座っているはるはるが羨ましいぜ」「なぁなぁ、今日の朝、更科さんと二人きりだったよな? なんか話した?」
など、話題の九割が更科さんに関するものだった。そして、発言者の九割も依田だ。俺はただ適当に相槌を打っていた。
このような話題が三週間近くも続いた。
俺は正直辛かったが、依田は楽しそうに語っていたから話は止まらなかった。
しかし、何も話が発展しないことに加え、日が経っても状況が変わらないということもあり、徐々に依田の口から更科さんという単語が少なくなってきた。そして、今日ついに更科さんの話をせずに、依田と帰り道を歩くことが出来た。
俺は思わず口を綻ばせた。
このまま行けば、五月までには普通で理想の生活を取り戻すことが出来るかもしれない。
一度壊れかけたと思った生活を取り戻すことが出来ると思うと、先を行く足も弾んでくる。周りから見れば、変人と間違われてしまうだろう。でも、それほどまでに嬉しいのだから仕方がない。
ここから、俺の高校生活を立て直せる!
そう心の中で握り拳を作ったところだった。
「……あれは?」
俺は長い黒髪をした松城高校の制服を着た女子が、うちの学校ではない制服の男三人に絡まれているところを目撃した。
女生徒は壁を背にして顔を下に俯かせ、男たちは逃げ道を塞ぐように言い寄っている。
女子の顔は隠れて分からないが、男子高校生が着ている制服は不良で有名な秦野高校のものだ。
周りの一般人が見て見ぬふりをして商店街を去っていく中、俺はその場に立ち尽くして彼らの動向を見続けていた。
面倒事が嫌いないつもの俺なら颯爽と逃げるはずなのに、何故かこの時の俺は逃げることが出来なかった。
絡まれている女子が、どうしても気になるのだ。あの長い黒髪……最近、よく目にしている気がしてならない。
そして、やがて現場に動きが起こる。
秦野高校の一人が女生徒の肩を掴み、その場を離れようとし始めたのだ。
その瞬間、俺は連れていかれる女子の顔が見えてしまった。
学校全体から美少女と称されて、いつも俺の隣の席に座っている大和撫子――、
更科茉莉、その人だった。
目の前の光景と状況を把握した時、俺の心臓が動悸を上げ、高く鳴り始めた。しかし、肝心の手足は動かない。
俺が動けずにいる内に、無抵抗な更科さんはそのまま秦野高校の連中に商店街の路地裏へと連れ込まれてしまった。
商店街は、何事もなかったかのようにいつも賑やかな商店街に戻っていた。道行く人が、道の真ん中で立ち呆けている俺を邪険にしながら進んでいく。それでも、俺はこの場を動くことは出来なかった。
俺の本能が、命の原動源である心臓を通して危険信号を告げている。警鐘と化した鼓動は、早くなる一方で、止まることを知らない。
知り合いが連れ去られる場面に遭遇するなんて、初めてだ。しかも、相手はここらでも有名になるほどの不良。下手に首を突っ込めば、人の目にも全く触れられない暗い路地裏で無残に袋叩きに合うことは確実だ。
なら、どうするか。
知らなかったふりをすればいい。見なかったことにすればいい。更科さんは俺のことには気付いていない。その体を反転し、後ろへと走り出せば、お前の望む高校生活は守られる。
簡単なことだ。
「……そうだ、諏訪悠陽」
俺は自らの考えを助長するように、自分の名前を呟いた。
誰も俺を責めはしない。誰だって、自分が傷つくのは怖いに決まっている。同じ場面になったら、誰しもが顔を背けるはずだ。悪い事ではないんだ。
だから、たった一歩を踏み出す小さな勇気を――、
俺は前に進むことに使った。
「は、はは……」
何やってるんだろうと、自嘲する。
俺一人行ったところで状況は変わらない。秦野高校の連中の怒りを煽るだけかもしれない。
体を叩く警鐘は更に強くなり、足取りもどこか覚束ない。
しかし、揉め事が嫌いな俺でも、この時ばかりは流石に更科さんのことを放っておくことは出来なかった。
俺は見てしまった。
更科さんが苦虫を噛み締めたような、恐怖におびえた顔をしていたのを確かに見たのだ。
ここで助けに行かなければ、逃げ出した後悔を一生背負って生きていく。
それだけではない。
俺の脳裏には更科さんの隣で過ごした三週間が、走馬灯のように流れていた。
――俺は、更科さんのことは苦手だ。
更科さんの隣の席に座っていると、否応でも目立ってしまう。慎ましく生きたい俺には、はた迷惑な話だ。
でも、更科さん自身が嫌いな訳ではない。むしろ、まだ何も知らないのだから、嫌いになりようがない。
だから、ここで見過ごすことは出来ない。見過ごしてしまったら、更科さんについて知る機会は二度となくなる。
花が咲いたように笑う更科さんに、萎れた花のような表情はして欲しくない。
俺一人が飛び出して行っても、何も出来ない。それは百も承知だ。
でも、女の子一人を逃がすための時間稼ぎなら……っ!
そう覚悟し、更科さんが連れていかれた路地裏の角を曲がった瞬間だった。
「――ッァ!」
「え?」
悲鳴と共に、誰かが俺の横を勢いよく転がって来て、俺の背後で止まった。予想外の事態に、俺の口から思わず呆けた声が出ると同時、足も止まる。
暗くて前がよく見えず、怖くて後ろを振り向くことは出来ない。
もしや、更科さんが彼らに反抗してしまったために、こんな酷い仕打ちを受けたのか?
状況が分からないまま、一瞬、そんな考えが脳裏を過ぎった。
しかし、そんな考えはすぐに否定される。
いくら秦野高校の不良だとしても、さすがに抵抗する女の子に対して、こんな仕打ちはあり得ない。
そして、否定材料は一つだけじゃない。推測を決定付ける証拠が、今も背後にある。
俺はゆっくりと後ろを振り向いた。
そこには――、
「うぅ、痛ぇ……」
呻き声を上げている秦野高校の一人が倒れ込んでいた。
仲間割れをするにしても、ここまで手加減抜きでやり合うということはないだろう。それに、一人だけやられるという可能性は考えられない。
俺の中で一つの確信が芽生える。
ちょうど目も暗い路地裏に慣れ始めて来た。俺は確信した答えを確かめるため、ゆっくりと視線を後ろから前へと移動させる。
緊張のあまり、唾を呑み込む音が喉から鳴った。鼓動の音は大きく、心臓が破裂しそうだ。
まさか。……まさか。
血の海の中でたった一人立っている人物は、俺に背中を向けながら、倒れ込む不良二人を当然のように横目で見下ろしていた。
その人物は、長い黒髪で、凛とした姿勢で、もう見慣れ始めた横顔で――、なのに俺は呼吸も忘れるくらい、浮世離れした彼女に目を奪われていた。
「――更科、茉莉……」
そして、現実と彼女を繋ぎ止めるように、助けようと思った隣の席の女の子の名前を、口の中で呟いた。
――この時、更科茉莉のことを、俺はまだ何一つ知っていなかった。
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