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第十三話 「少女の正体」
しおりを挟む僕は、人の血を見るのにあまり慣れてはいない。
『暗殺者』という不吉な天職を持ってはいるけど、それは名ばかりで実際に誰かを殺したことはないからだ。
おそらく慣れている人の方が少ないだろう。
ゆえに僕は、現在目の前で起きている事象について、ごく一般的な反応を示した。
「えっ、ちょ、はいっ? な、なにやってんのリスカ……」
「……」
呆然と問いかけてみるが、リスカは応答しない。
ただ黙って、じっと顔を伏せている。
その視線の先にあるのは、たった今右手の剣で切ったばかりの左手首。
かなり深く切り込んだのか、どくどくと血が溢れている。
高級そうな床にぽたぽたと赤い雫が垂れるのを見つめていると、やがて遅れて焦りがやってきた。
僕ははっとして慌て出す。
「ど、どど、どうしようこれ!? しし、止血とか、手当てとか、なんかやった方がいいんじゃ……」
「……」
あたふたとリスカの周りで慌てるが、それでも彼女は反応を示さない。
とにかく何か止血できるものを用意しなきゃ。そう思ってポケットから黒いハンカチを取り出すと、すかさずリスカにそれを渡そうとした。
……のだが。
歩み寄った途端、ふと誰かの笑い声が、どこからか聞こえたような気がした。
「……ふ……フフ…………ハハハ」
「……?」
女の子の声?
というより、これは間違いなくリスカの声だった。
大人しくてしっかりした彼女に似つかわしくない笑い声だったが、それは確かに伏せられた顔から発せられている。
何がそんなにおかしいのだろうか? というか笑っている場合ではないだろう。
なんて思っていると、突然リスカがバッと顔を上げた。
「アハハハハハハハハハハハハハハハッ!!!!!」
「……」
少女の絶叫が耳に痛く響く中、僕はただ呆然と立ち尽くす。
聞いたことがあるはずなのに、聞いたことのないような声だった。
これは本当に彼女の声なのだろうか? 僕はそれを断定することができない。
先刻とはまるで別人のように、リスカは笑い狂っている。
よくよく見れば、上げられた彼女の顔は上気したように火照り、ヘーゼル色の瞳は真っ赤に豹変していた。
その赤い瞳が見つめる先には、先ほど破ることができなかった宝物庫の扉が立っている。
いったい何を……? と疑問に思った次の瞬間、リスカはもう一本の剣を腰から抜き、今度は二本で扉の破壊を試みた。
「う……らぁ!!!」
ガガンッガガンッ! と二撃の金属音が廊下に響き渡る。
先ほどとは違って、今度は確かな傷が扉に付き始めていた。
剣と扉が衝突し、火花と破片が飛び散る中、リスカは目にも留まらぬ連撃を続ける。
「脆い! 脆いです! 脆いですよ!」
右、左、右。
片方の剣を振った次の瞬間には、別の剣が構えられている。
それを振り終えた次には、先ほどの剣がまた戻ってくる。
それだけではなく、リスカは体を回転させて刃に重みを加えたり、声をしぼり出すことによって一層の力を手に込めているように見えた。
「アハハハハハハッ!!!」
やがてボコボコになった扉に、僅かな穴が開いてきた。
奥は真っ暗で何があるかまだわからないが、まず間違いなく宝が眠る宝物庫だろう。
隙間からそれを見たリスカが、またさらに連撃の速度を上昇させた。
それによって、扉の損傷はますます激しくなっていく。
そして最後の一撃――二本の剣を同時に振りかぶり、×字になるように全力で打ち込むと、扉はあっけなく奥へと吹き飛んでいった。
宝物庫への入口がようやく開ける。
リスカの後方からその光景を眺めて、僕は唖然とする他ない。
明らかに手首を切ってから、彼女の力は変貌した。
そのおかげで宝物庫へ入れるようになったのは、確かに喜ばしいことなのだけれど、なんだか素直に嬉しく思えない。
リスカの背中に言い知れぬ不安を抱きながら、僕は静寂を破るようにして口を開いた。
「す、すごいじゃんかリスカ! あんなに頑丈な扉をこんなに簡単に壊しちゃうなんて!」
「……」
二本の剣を持ち、立ち尽くしたままのリスカ。
先刻と同様、僕の声には応えない。
それでも僕は沈黙が怖かったので、懲りずに声を掛け続けることにした。
「や、やっぱりリスカに頼って正解だったな。んじゃ、宝物庫の扉も開けたということで、さっそく宝剣をちょろまかしてトンズラしましょうか。いや、それよりもまず怪我の治療の方が先かなぁ?」
「……」
少しおどけた感じでそう言うと、ようやくリスカは反応を見せてくれた。
宝物庫に向けていた赤眼を、ゆっくりとこちらに移し、無言で見つめてくる。
「……リ、リスカ?」
何か嫌な予感を覚えた僕は、冷や汗を滲ませながらリスカの名を呼んだ。
やっと反応してくれたのはよかったんだけど、無言で見つめられるとなんか怖い。
何を考えているんだろう……? と人知れず息を呑んでいると、不意に彼女がニコッと笑った。
「手強そうなの、見つけました」
「……はいっ?」
首を傾げたその瞬間――
眼前からリスカが”消えた”。
唐突に寒気を覚えた僕は、咄嗟に後方へと飛び退る。
すると信じ難いことに、いつの間にかリスカが目の前に立っていた。
同時に、真紅の刃が左から右に流れていく。
はらりと青みがかった僕の前髪が数本千切られた。
「ひえっ!」
背筋が凍え、思わず僕は廊下の隅まで後退する。
そして剣を振り抜いた体勢で止まるリスカに、僕は前髪を指し示しながら抗議した。
「ちょ、リスカさんリスカさん! いま僕のこと本気で殺そうとしてませんでしたか!?」
「……」
やはり彼女は何も答えない。
いや、この際答えてもらわなくてもわかる。
僕のことを殺すつもりだったのは明白だ。
寒気を覚えて後ろに下がっていなかったら、僕は確実に首を飛ばされていた。
その事実にまた怖気立っていると、不意にリスカは嬉しそうに微笑んだ。
「やっぱり、手強いですね」
「……」
……やばい。
話を聞いていないどころか、僕のことを殺すことしか考えてないぞこの子。
自ら手首を切って、力を上昇させただけかと思ったが。
あの大人しい性格まですっかり豹変してしまっている。
理性がぶっ飛んでいるんだ。
何らかのよからぬスキルを使用したのは確定的だな。
どうやって彼女を止めるべきだろうか? と頭を悩ませていると、唐突に横から知らぬ声が上がった。
「誰だそこにいるのは!?」
「――っ!?」
反射的に視線を移すと、上り階段から槍と盾を持った兵が下りてくるのが見えた。
思わず僕は顔をしかめる。
あれだけ大きな音を立てていたら、気付かれてしまうのは当然だ。
こいつは非常にまずい。このままでは二人とも見つかってしまう。
あくまでバレずに窃盗の依頼を完遂しようと思っていたので、できればここで見つかりたくはない。
そう危惧した僕は、咄嗟に隠密スキルを発動させた。
自身の肉体が次第に朧気になっていく。
リスカも一緒に姿を隠すべきなんだろうが、今の彼女の手を握るのはかなり難しいことだろう。
ていうかめちゃくちゃ怖いっす。だからこれは致し方がない。
かといって見捨てるわけにもいかず、姿を隠しながら行く末を見守っていると、やがて屋敷の兵たちが続々と宝物庫の前に押し寄せてきた。
そしてリスカを見るや、兵の一人が屋内全体に響く声で叫ぶ。
「侵入者だ! 宝物庫の宝を狙った賊が現れたぞ!」
一気に屋敷が騒がしくなった。
ここはやはり急いで逃げた方がいい。
せっかく宝物庫の扉が開いたのにもったいないが、捕まってしまうよりはマシだろう。
そう考えはするが、しかしリスカを見捨てて逃げるわけにもいかず、僕は廊下の隅に潜みながら手をこまねく。
すると、駈けつけてきた兵の一人が、リスカの顔を見てはっと目を見開いた。
彼女に見覚えでもあったのだろうか。
その予想はどうやら正しかったようで、そいつは先ほどの兵に続いて、再び屋敷全体に届く声で叫びを上げた。
「賊の正体は、狂戦士リスカ! 狂戦士リスカが攻め入ってきたぞ!」
「…………えっ?」
その声に、リスカは頷きを返すように笑みを浮かべた。
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