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しおりを挟む女子児童や生徒らの体操服がブルマからハーフパンツに切り替わっていったのが今から二十五年程前の事だった。鈴木虎呼郎が小学生の高学年だった頃の話だ。
虎呼郎の個人的な経験談だ。
あの頃、当事者の女子達だったか先生方だったかが「都会の学校ではもうブルマなんて穿かせていませんよ」というような話をしていた覚えがあるから全国一律で「二十五年前」ではなかったとは思うが。
またブルマの廃止に伴って、男子の体操服もそれまでの短パンからハーフパンツへと切り替わった。
何が言いたいのかというと。鈴木虎呼郎は思春期の盛りに「短パン」と「ハーフパンツ」の両方に触れてきたという事で、時に議論となりがちなそのどちらも虎呼郎は嫌いではないという話だった。
現実に戻ろう――。
――虎呼郎の自宅マンション。
「おじさーん」
とやってきた今夜の少年、里見達矢はその身を体操服に包んでいた。
「……ッ!?」
一度は言葉を呑んだ後、虎呼郎がどうにか振り絞った「第一声」は、
「さ、寒くないかい?」
であった。白地にブルーのラインが入った半袖の上着と、ブルー地に白いラインが入ったハーフパンツを少年は身に付けていた。体操服のハーフパンツ独特の、汚れを落としやすいようになのだろうか素材にポリエステルでも混ぜていそうなあの微妙な光沢が実に懐かしかった。
「だいじょうぶー」と少年は元気に答える。
「今日は何でそんな格好を?」
いそいそと靴を脱いで、当然のように部屋の中へと入っていった少年の背中に虎呼郎は問い掛ける。
「あのねー。今日ねー、体育でねー、マット運動したんだけどねー」
いつにも増して本日の少年はテンションが高めだった。
「マット運動? 懐かしい響きだな」
「それでねー。倒立前転って知ってる? おじさん。今日ねー、倒立前転したから。出来たから。おじさん、見てー」
言いながら達矢は勢い良く両手を床に叩き付けた。そのまま床を蹴る。両方の足が高く舞い上がった。
「おわーッ!?」と虎呼郎は慌てて走り寄ると少年の足首を宙で掴み取った。
「あははははッ」と少年が大きく笑った。
「なんでー? おじさん。止めたらダメだよ。前転にならないよー」
逆立ちの格好で少年は文句を言ったが、
「いやいやいや、少年。今のは勢いが強過ぎだった」
虎呼郎が受け止めていなければ少年は酷い勢いで背中から床に落ちていただろう。
「えー?」と少年は納得のいっていないような声を出す。
「そもそも。マットも敷いていないフローリングで倒立前転は禁止だ」
「あー……」と今度は渋々ながらも分かってくれたような声を少年は出した。
虎呼郎は、
「それじゃあ。足を戻すぞ」
一声掛けてからゆっくりと掴んでいた少年の足を床に近付ける。単純に手を離してやっても良かったのだが虎呼郎は大事を取った。万が一にも少年が怪我をするような事態は避けたかったし、そのような事が起きてしまった際には鳴ったであろう騒音も避けたかった。今は夜である。
……しかし。咄嗟に掴んでしまったが細い足首だな。
虎呼郎の親指と中指はぴったりとくっついていた。達矢の足首はすっぽりと虎呼郎の手の中に収まってしまっていた。
「少年にはノータッチ」を旨としていた虎呼郎だったが流石にあの状況――この状態ではそうも言っていられない。だからといって、これ幸いと「細い足首だな」やら「くるぶしも小さい気がする」などと少年の肢体を満喫して良いわけはなかった。
……反省だ。虎呼郎は目を閉じて、邪な思いを振り払うかのように首を横に振る。
「おじさーん」
少年の声が聞こえた。目を開ける。虎呼郎は自然と声の聞こえてきた下方に視線を落とした。
「――ッ!?」
逆立ち状態の少年の足首を虎呼郎は掴んでいるのだ。下を向けばハーフパンツから伸びる細い脚とその根本を真上から覗き込むようなかたちとなる。昔の短パンよりも長い裾が重力に負けてめくれ返り、少年の白い太ももの裏側があらわとなっていた。
はじめから剥き出しとなっているよりも隠されていたものが姿を現したというその事実に余計、ドキドキとしてしまう。それは虎呼郎の特殊な性癖ではなくて、万人に共通する「常識」なのではなかろうか。
……虎呼郎の気の所為、記憶違いであろうか。短パンとハーフパンツの違いはその裾の長さだけではなくて、裾周りのサイズにもあるのではないだろうか。
虎呼郎が思うにはハーフパンツの裾周りは短パンのそれよりも大きい気がした。
……隙間が広い。
隙間の狭い短パンであれば、暗い陰となって認められなかったのではないかという「中身」がハーフパンツの広い隙間には窺えてしまえそうだった。シーリングライト――天井に張り付けられていた照明器具からの光をしっかりとその隙間に迎え入れてしまっていた。
虎呼郎は慌てて前を向く。「――ッ!?」と気が付き、目を逸らすまでの時間は、ほんの一瞬であった。そのほんの一瞬の間に虎呼郎は色々と考えてしまった。
……交通事故に遭ってしまった瞬間、全てがスローモーションに感じるという例のアレを体験してしまったのかもしれない。確かに「危機」であった。
「嬉々」ではなかった。
虎呼郎は誓って「中身」を見ていない。見えてしまうかもしれないと考えて、すぐに前を向いた。嘘じゃない。
「おじさーん。おじさんってば」
下方より再び声が聞こえた。
「な、なんだい?」
虎呼郎は真っ直ぐに前を向いたまま少年に応える。
「だから。ちょっと待ってって。そのまま。そのまま。僕の足、持ってて」
「ん? え? このまま下ろしちゃ駄目なのかい?」
「うん。ダメ。持ってて。ちゃんと。ぎゅっと持っててね」
少年に言われた直後から、
「おわッ!? ととと。何? 何だ? 少年。コラ。暴れるな」
その足首を掴んでいた虎呼郎の手元にずっしりとした重みが加わった。揺さぶられる。振り回されそうになる。少年は何がしたいのだろうか。
――二人の体勢をおさらいしておこう。両手を床に付けて逆立ち状態の少年。逆さまになった少年の背中と向き合うようにして虎呼郎は立っていた。右の手で少年の左足首を、左の手で少年の右足首を掴んでいた。その両足を元の位置に戻してやろうと虎呼郎がゆっくりと腕を伸ばしていたところに「待って」と少年に声を掛けられた。
「行くよ? 行くよ?」と少年が言う。
「何だ何だ何だ? 行くって何の話だ?」
「手、離しちゃダメだよ。ゼッタイ」
「分かった、分かった、分かった。何をするのか分からないが手は離さない!」
半ば自棄っぱちに虎呼郎は宣言をしてやった。
少年が笑った気がした。次の瞬間、
「――せーのッ!」
前を向いていた虎呼郎のすぐ目の前に少年の顔が現れた。
「んわあぉッ!?」
虎呼郎は本当に大きく驚いてしまったが先に宣言していた通りに少年の足首を掴んでいた手だけは離さなかった。
「おーじさんッ」と少年が虎呼郎の首に抱き着いた。
「もう手、離していーよ?」
「あ、ああ……」と虎呼郎は少年に言われるがまま、その手を離した。
……何だ何だ何だ? 何がどうなったんだ……?
虎呼郎は混乱していた。
少年が「――せーのッ!」と叫んだ、虎呼郎の両手に強い重みが加わった、引っ張られる、踏ん張った。すると目の前に少年の顔が現れたのだ。驚いた。
少年と向かい合い、一人称視点でその「技」を食らってしまった虎呼郎には意味が分からなかったかもしれないが。三人称視点で見てみれば、少年は虎呼郎に掴まれていた足首を支点として腹筋と勢いを使って――ぶんッと180度以上も回ってみせたのだ。プロレス技の「フランケンシュタイナー」を逆再生したような「技」だった。
……先日のキャッチボールでも最後に感じたが。もしかしたらこの里見達矢少年は物凄く運動神経が良いのか……? いや「運動神経が良い」どころの話ではないのではないか。
先程の倒立前転も虎呼郎が下手に助けにいかなければ、あの勢いであっても上手に無事に成功させていたのだろうか。虎呼郎が予見してしまったような背中からの落下はなかったのか。虎呼郎は余計な事をしてしまったのか。
……いや。そうじゃない。仮に里見達矢が「出来る」と確信して起こした行動であろうとも、大人の目で見て、常識的に考えて、それが「危険」だと判断されるならば止めるべきなのだ。
子供の「確信」ほど信用のならないものはない。大人の注意は必要だ。
……この少年がただの「子供」ではないとでも言うのなら話は別だが。
「……少年」と虎呼郎は声を掛ける。
「ん? なあに?」と少年は虎呼郎の耳元で応えた。
「少年は体操教室だとか忍術学園だとかに通っていたりするのかい?」
虎呼郎は思い浮かんだ事をそのまま口に出してしまっていた。後半などは特に荒唐無稽な思い付きだった。
「忍術学園ッ? あるの? この近くに?」
少年が食い付いた。しかし、その反応は「NO」という事だろう。
「いや。知らないが」
「えー……。なにそれー……」と少年は心底、残念そうな声を出す。忍術学園がもし近場にあれば是非とも通いたかったという事かな。男の子だなあ……などと虎呼郎は思わず微笑んでしまった。気を取り直す。
「……忍術学園には通ってなさそうだけど。体操教室には?」
「通ってないよー? なに? なんで?」
とぼけているわけでもなく本当に分かっていないような声色で少年は言っていた。虎呼郎は答える。
「いまの何か……『――ぐるんッ』てのが体操のプロか忍者みたいだったからね」
すると少年は、
「えーッ?」
少しだけ大きな声を出した。そして、
「今のくらいなら多分、誰でも出来るよー」
事も無げに言い放って「あはは」と笑った。
「そう……なのかい?」と虎呼郎は眉を歪ませる。
……「誰でも出来る」か。果たして本当にそうなのだろうか。いや。体が小さくて体重の軽い子供特有の身軽さというものは確かにあるにはあるのだろうが、それにしても……であった。
「う~むむ……」
その首根っこから愛くるしい少年をぶら下げているにも関わらず、この状況を堪能するどこかその事自体にも気が付いていない、全く気が回っていないくらいに虎呼郎は深く考え込んでしまっていた。もしかしたら。この少年は未来のオリンピック金メダリストかもしれないなあなどと。それは親バカにも似た思考だったかもしれない。
「――おじさーん? おじさんってば。だいじょうぶ? どっか痛くしちゃった? 頭? 頭?」
虎呼郎の首に回す事で両手が塞がっていた少年に「痛いの? 痛いの? 飛んでいかない?」と頬擦りされてしまった鈴木虎呼郎が、
「ふひゃひゃふ――ッ!?」
と上げた声とそのときの顔はとてもじゃあないが「親」が出すような声でも顔でもなかったが。
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