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番外編 もしもの話
第一王子のやり直し3
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先代国王夫妻の庇護に入ったカローナの公務に第一王子が常に付き添っていた。
成人してない王子の婚約者には視察や慰問、社交での王子のパートナーを務める程度しか求められない。
第一王子に恋い焦がれる令嬢達はカローナを潰したくても、常に第一王子が一緒のため手を出せない。第二妃主催のお茶会が終わり立ち上がったカローナに侯爵令嬢が近づく。
「マグナ様、貴方は殿下を満足させる自信はありますの?」
豊満な体を持つ侯爵令嬢の挑戦的な笑みにカローナは微笑み返す。4年の年齢差は大きく身体的に並んでも釣り合わないのは仕方がなく、カローナは心身共に成長途中であることをよくわかっている。そしてもう一つ大事なことを知っているので、令嬢達の揺さぶりに心を乱さず、傷つかない。
「ご満足いただけるように精一杯励みます」
「そんな」
「カローナ、」
侯爵令嬢にとって挑発的な笑みを浮かべたカローナへの反撃の言葉は第一王子の声が聞こえたため飲み込まれた。つり上げた眉を下げ笑みを浮かべて声の主に期待するように見つめる侯爵令嬢に第一王子は一切の視線を向けず、カローナの手を繋ぐ。
「待たせたか」
「いいえ。殿下、ありがとうございます」
カローナを黄金の瞳で見つめ黙り込む第一王子にニッコリと笑う。
「殿下のお部屋でお茶をご用意します。私にもお教えくださいませ」
頷く第一王子と手を繋ぎカローナは執務室に向かってゆっくり足を進める。第一王子が迎えに来たなら貴重な時間を無礼な侯爵令嬢の相手に使うつもりはない。家格の高いカローナは、無礼な目の前の侯爵令嬢の相手をせず許される立場である。家格の低い者から家格の高い者の声をかけるのはマナー違反であり、王子が手を引くカローナの足を止めるのを許されるのは王族だけである。カローナは悔しそうに見つめる無礼な令嬢の視線に答える優しさはない。そして、期待する眼差しをどんなに注いでも鈍感な王子様が気づかないことは絶対に教えるつもりもない。
「そなたは、」
気まずい顔で言いよどむ可愛らしい婚約者にカローナは楽しさをこらえきれずに口元を手で隠してクスクスと笑う。
「私は殿下と一緒にいられればそれだけで十分です。お散歩はまた連れて行ってください」
カローナの笑顔につられて第一王子が自然に零した大好きな笑顔にさらに笑みを深める。
お茶会の後は二人で私的に外出予定だったが急な執務が入った。それでもカローナの迎えだけはと執務室を抜け出していた。カローナは第一王子が忙しいのを知っている。それでも迎えに来てくれるのが嬉しく、手を繋いで歩く時間はカローナにとって特別である。
第一王子の腹心達はカローナが執務室に姿を見せるといつも歓迎する。集中すると声が届かない主に呼び掛けられる貴重な存在であり、凄まじい集中力を持つ第一王子が集中した時に耳に入るのはカローナの声だけだった。
カローナはお茶を用意した後は、第一王子の執務を隣に座って静かに眺め、わからないときだけ質問する。
第一王子はカローナの質問に答えながらペンを走らせる。カローナの質問に答えると見落としや新たに気付くことも多く、有り難かった。また隣に座っているカローナに教えるのは楽しく、愛らしい声の問いかけ、答えると尊敬した視線を向けられ、記憶よりも幼いカローナの頭を撫でると初めて会った時の無邪気な可愛らしい笑みが見れるのは役得だった。第一王子は無意識に優しく微笑み、その顔にカローナがいつも見惚れているのを、腹心達は温かく見守っていた。
第一王子がカローナを構っても、ペンを進める手は早く執務に全く支障はでない。
ただカローナは第一王子に教わっているつもりなので役に立っている自覚はない。優しく聡明な王子様の役に立てるように頑張ろうとさらに決意を固めるだけだった。
7才のカローナも11歳の王子も貴族として必要も知識はほとんど頭に入っているので、授業の時間は減り、ほとんど執務に移行していた。
腹心達は知らないが王族で一番和やかな執務室は第一王子の部屋であり、それを良く知る訪問者が足を運んだ。
扉が開き、カローナは訪問者を見て立ち上がる。
「カローナ、礼はいい。そのままで」
「かしこまりました。お茶の用意を。殿下、休憩を」
第一王子はカローナの声に顔をあげると父親がいた。第一王子の執務室に国王が足を運ぶのは休憩したい時なので、腹心に手を止めて休憩するように命じるとカローナとポプラがお茶を用意し戻ってきた。
ポプラは家臣の控えの間にお茶を並べ、カローナは国王と第一王子の前にお茶を用意し、第一王子の隣に座る。
「カローナ、これを」
国王に渡された箱の中には色とりどりの飴が詰まっていた。
「ありがとうございます。殿下と大事にいただきます」
国王は嬉しそうに笑い飴を息子に見せるカローナと優しい顔でお茶を飲みながら応じる息子に目元を弛ませ眺める。
第一王子とカローナの仲睦まじい姿は国王にとっては癒しだった。先程までの怖い妃達のやり取りとは別世界のようだった。
第一王子を後継に指名すれば殺伐とした後宮の雰囲気は変わるだろうかと甘味のあるお茶を飲みながら思い始めていた。そして、わざわざ自分好みのお茶を用意した将来の義娘の気遣いに荒んだ心を癒されていた。国王にとってカローナのいる長男の部屋は数少ない心休まる場所になっていた。
****
カローナはお茶会が終ったので第一王子の執務室で従姉から贈られた物語を読んでいた。第一王子とトネリは火急の用で呼び出され留守である。
ノックの音がしてもカローナは答えない。部屋の主が留守なのでカローナに入出許可を出す権限はなく、扉に一瞬だけ視線を向けてすぐに本に視線を戻した。
カローナは扉が開き入室した第二王子に驚きを隠し、本を置いて立ち上がり礼をする。
「頭をあげて。少し話をしたいんだが場所を変えないか?」
頭をあげたカローナは穏やかな表情で第一王子からいつでも使うように許された言葉を口にする。
「申し訳ありません。私は第一王子殿下よりここで待つように命を受けております。また誤解を招く行動はお許しくださいませ」
婚約者がいるのに、しかも、第二王子と二人でいる光景は様々な憶測を生むのをカローナはよくわかっていた。
「兄上も心が狭い。カローナ、私は君を大事に想っている。望みがあるなら言ってごらん?」
「ありがとうございます。私はお言葉だけで充分です」
「遠慮しないでいい。君が初恋を叶えたいなら協力するよ」
第二王子はカローナの初恋を第三王子と思っていた。庭園で第三王子と逢瀬を重ね、泣きながらサンの名前を呼ぶカローナを見ていた。実際はカローナの初恋は初めて会った第一王子である。
「お気遣いありがとうございます。恋とは自身の手で叶えるものですのでお気持ちだけありがたくいただきます。臣下として殿下の寛大なお心に感謝申し上げます」
「兄上は君以外の令嬢と親しくしてるよ」
優しい声でいたわるような顔を向ける第二王子にカローナは上品に微笑み返す。王子に必要な社交があるので、仕方のないことである。それでもカローナが一番大事にされているのはわかっていた。
「殿下のお心のままに」
カローナが礼をすると扉が乱暴に開き第一王子が第二王子を睨みつけカローナを背に庇う。
「何か用か?」
「いえ、書類を届けに」
「勝手に部屋に入るのは関心せぬ」
「失礼しました。兄上、初恋は叶わないといいますが、迷信でしょう」
「何が言いたい?」
カローナは喧嘩を始めた第一王子の手を握る。二人の喧嘩に口を挟むカローナに王族同士の話に口を挟むのは良くないと不満の声が囁かれはじめたので、新しく覚えた喧嘩の止め方だった。
「カローナ?」
手を繋げば必ず第一王子が声を掛けてくれるので、不敬にならずに喧嘩を止められる。眉間の皺がなくなった第一王子にカローナはニコリと笑う。
「おかえりなさいませ。お二人でお話されるならお茶をご用意しますか?」
「いらぬ。カローナ、」
「ありがとうございます」
第一王子はカローナの手を引いて部屋を出る。第二王子の訪問を聞いて慌てて戻ってきたため、じっとりと汗をかく王子の手にカローナは笑みを深くする。
「フィン様、まだ読んでる途中ですが、小国の皇子様は初恋を叶えて大国のお姫様と婚姻しました。そしてお姫様もその皇子様に恋をしました。初恋の結末は当人次第ですね。やはりハッピーエンドのお話を読むと幸せになりますわ。でもどんな物語の王子様よりもフィン様が一番素敵です」
「ハッピーエンドか」
「はい。フィン様、今日は馬で送ってくださいませ。物語を読んでいたら羨ましくなってしまいました」
第一王子は目を輝かせるカローナに優しく笑って頷く。
「乗せぬからな」
「一人で乗馬しませんわ。今日もフィン様のお馬様に。私、少し大きくなったので嫌がられますか?」
「ありえん。カローナが大人になっても問題ない」
「その頃には私もフィン様のように颯爽と馬を疾走させられるでしょうか」
第一王子は乗馬の苦手なカローナにはできればやめてほしかった。
「疾走させたいなら私がいくらでも」
「フィン様とは時間が許すならゆっくりがいいです」
この日は馬車ではなくカローナは第一王子の馬に相乗りしてマグナ公爵邸への帰路を進んだ。第二王子は全く揺さぶりのきかなかったカローナの背中を歪んだ笑みを浮かべて見ていたのは気付かなかった。第一王子は第二王子に危害を加えられていない様子にほっとしていた。
弟が自分の留守に訪ねてくるとは思わず用事はトネリに任せ、報せを聞いて慌ててかけつけた。カローナは心配そうな顔をする第一王子にニッコリと笑いかける。
「フィン様、私は貴方がいれば何も怖くありません。だから大丈夫です」
第一王子は馬からカローナを降ろすと首に自然に手が回りニコニコと抱き上げられる姿に笑う。初めて出会った頃の幼いカローナを思い出した。あの時と決意は変わらない。でも全く正反対のことをしていた。大事に守りたかった少女をずっと傷つけていた。
カローナは第一王子の瞳が暗くなったのに気付いても何も言わずに頬にそっと口づける。
第一王子は頬に触れられる感覚で我に返る。カローナは気付いてない第一王子の頬にもう一度口づける。
「!?」
赤面し凝視する第一王子にカローナは笑う。
「物語のマネです。本当は額なんですが届かなくて」
読んでいる物語に額への口づけは祝福と綴られていた。でも暗い瞳が明るくなったので成功かとカローナは満足して笑う。カローナにとっての太陽が曇るなら、雲を取り払うのは大事なお役目だった。
第一王子はカローナに口づけたくても自分に許されるのかわからなかった。
「フィン様がしてくださいますか?」
楽しそうに話し期待をこめた顔のカローナに負けて、第一王子はそっと額に口づけを落とす。カローナは真っ赤な顔の第一王子を見ながら楽しそうに笑う。第一王子もずっと楽しそうに笑うカローナにつられて優しく笑う。
「祝福の意味がわかりましたわ。これは幸せになれますわ。ありがとうございます」
第一王子はマグナ公爵邸に着いたので物語の話に夢中なカローナを腕から降ろし、晩餐を共にして帰った。
馬に乗りながら考えていた。カローナが隣にいてくれるのが幸せだった。手を伸ばしたい。でもカローナの幸せを考えるとわからなくなった。
トネリは暗い顔の第一王子を出迎えた。
「カローナを幸せにしたい。でも傷つけたくない」
トネリは第一王子の弱音を聞き、新しい作戦を授ける。第一王子とカローナの両片思いを応援する準備はいつでも整えられていた。
二人が本当の意味で結ばれるのがいつになるか賭けが行われているのは第一王子は知らない。
***
第一王子は横暴な態度がなくなり、落ち着いた様子に家臣達の目も徐々に変わっていった。
何より、婚約者のために悩んでいる姿は年相応でつい応援したくなる。王宮にカローナが参内するときは必ず迎えにいく姿は微笑ましく、どう見てもカローナに慕われているのに気付かずに、傷つけたくない、できれば好かれたいと悩む姿を温かい目で見つめる者が多かった。
第一王子はお忍びに初めてカローナを連れてきた。
二人はローブを着て手を繋いでゆっくりと民に紛れて歩く。視察は常に一緒だったため金髪と黒髪の第一王子と婚約者は有名だった。第一王子の視察に邪魔ではないなら一緒に行きたいと願ったのはカローナである。
カローナは不思議そうな顔で第一王子を見ていた。
「カローナ、どうした?」
「フィン様、どうして正体を隠すのですか?」
「素が見えるし、気を遣わなんだろう」
「せっかく王子様いるなら会いたいと思います。民の前に顔を出すのも大事ではありませんか?でも御身が危険に」
ブツブツと呟くカローナに第一王子は笑う。
「護衛も忍ばせておるし、大丈夫だ。カローナが言うなら、」
第一王子はローブのフードを脱ぐと輝かしい金髪の少年に周囲の視線が集まる。
「あれは!?」
「まさか?」
「殿下!!」
輝かしい金髪を持つのは王族というのは民の常識である。
「人気者ですね」
カローナは第一王子に集まる視線を見ながら笑っていた。
「殿下、お隣にいらっしゃるのは」
第一王子がカローナのフードを脱がす。
「カローナ様だ」
「カローナ様!!」
カローナは呼ばれる声に笑みを浮かべて上品に手を振る。王族が民を喜ばせるのは大事な役目であり、カローナは飴と鞭の使い方を母親と王太后から教わっている。
「デートですか?」
「そうだろうか。デートとは何をすればいい?」
「贈り物ですかね。これはいかがでしょうか?」
店主に髪飾りを見せられ第一王子は購入しカローナの髪に飾り笑みを浮かべる。
「カローナはなんでも似合うな」
「フィン様」
カローナば第一王子の称賛に頬をほのかに染める。民達は初々しい二人の空気を邪魔しないように声を掛けるのをやめて、微笑ましく見守る。
婚約者からの贈り物は素直に有り難く受け取るものと教わってからは、第一王子からの贈り物をカローナは笑顔で受け取るようになっていた。
先代国王夫妻とマグナ公爵夫人の教育のもと、カローナの歪められた常識を正された。その陰には第一王子達の多大な努力があった。
カローナの妃教育の進行の確認に王太后が話を聞いても、王宮や後宮での話を、外部に口にするのは禁止と諌められていたカローナは微笑むだけで無言を貫く。王宮での教えを聞いても笑みを浮かべたまま口を開かないカローナを第一王子が説得するとようやく重い口を開いた。
先代国王夫妻と第一王子はカローナが無感情な顔で語る歪んだ常識と王妃像に言葉を失い、王太后が質問すればするほど、歪みは深まる。
6歳で自分を駒として認識し、3歳から感情を殺し、自由に話すことを禁止され、助けを求めることも弱音も甘えも許されない常に笑顔を強要され壊れかけているカローナに3人は気付いた。
王太后の想像以上の酷さだった。第一王子は顔を歪ませた。母親と共に笑顔を浮かべて視察する様子を見ていたのにカローナが壊れかけているのを全く気付いていなかった。
「カローナ、すまぬ、傍にいてやれば」
「殿下、お顔を上げてください。至らないのは私です」
第一王子の謝罪と苦しそうな顔にカローナが穏やかな顔で答える様子に王太后が首を振ってカローナを抱き上げる。
「カローナ、違うのよ。王族だって感情を出すことを許される。国王と王妃は対等。全てを国王の意のままに身を捧げて、自分を持ってはいけないなんて間違えよ。王族である前に人なのよ。王宮であった辛いことを両親やフィンに伝えていいのよ。全部自分が悪いなんて思わなくていいの」
「投げるか」
「じい様、やめてください。カローナが怖がります」
「カローナ、第一妃はほぼ王妃教育を受けていない。だから間違いなのよ」
「カローナ、母上の言葉は忘れよ。どうか忘れてくれ。私はそのような教えは知らぬ。」
カローナにとって意図はわからなくても第一王子の言葉が絶対である。
「かしこまりました」
カローナは第一王子の懇願する声に頷く。
第一王子と王太后に正されれば、第一妃の教えは間違いだと受け入れる。第一妃は国王の次に優先すべきは第一王子と教え込んだ自身の教えが第一妃の首を絞めていた。それから第一妃が何を言っても第一王子が否定すればカローナは信じなくなった。
王太后は誤った常識を教え込まれているカローナに真実を、第一妃の後宮入りするまでの話を伝えることにした。夜伽の知識も与えられているカローナに配慮はいらないと思いつつも言葉を濁して語り出した。
衝撃を受けたのはカローナではなく第一王子だった。
第一王子も第一妃によって歪められた後宮の真実に自分はまた何も知らずにいたことに気付き、常に自信満々の優雅な母親から心が離れた。カローナへの冷遇と教えられた嘘を知ってからは、母の言葉に常に疑惑の視線をむける自分に気付き、共に時間を過ごさない方がお互いのためだと食事さえ共にしなくなった。
第一王子はカローナの傍にできるだけいることを決めた。王宮では特に。
すでに王族関係は心を無にすることを体が覚えていたカローナは事実を聞いても何も感じなかった。
カローナに必要なのは教育ではなくリハビリだった。
カローナの大事な妹のイナナを巻き込みリハビリが始まった。第一王子はかける言葉を見つけられず、カローナの手を繋いで傍にいることしかできなかった。
そしてマグナ公爵夫妻は先代国王夫妻よりカローナを洗脳した第一妃の話を聞き、愛娘を抱きしめ泣いた。カローナは両親に目を丸くしていた。
おかしいと思う部分はあったのに娘の強がりと仮面に気付けなかった。王家の命令でも権力を使って介入しなかったことに後悔していた。カローナが全てに耐えたのはイナナのためと聞いてマグナ公爵夫人がさらに涙を流す。小さい体で妹を人質に取られ、人形になることを望まれた愛娘。第一王子から謝罪をされた時もこの惨状に気付けなかった。カローナが言わないのではなく言えなかったと。カローナは自分を抱きしめ謝る両親にずっと困惑しながら慰めの言葉をかけていた。
マグナ公爵夫妻がこれ以上カローナが第一妃に虐げられないように手を回そうとするのを先代国王夫妻が止め、王家の相手は王族がすると冷笑を浮かべる姿に譲った。その会話を隠れてイナナが聞いていたのを誰も気付かなかった。
両家の怖い話が始まる前にカローナは第一王子に手を引かれて退室した。
両親が泣くのを初めて見たカローナは第一王子に手を繋がれ歩き困惑しながらも笑みを浮かべていた。
第一王子は昔、好きだったカローナの笑顔を浮かべている姿が切なかった。カローナがいつも浮かべていた笑顔。一番怒っていいのに、両親を必死に慰めていた。第一王子は膝を折って、カローナの視線に合わせる。
「殿下?」
第一王子は穏やかな顔で首を傾げるカローナをそっと抱きしめた。自分の体の中にすっぽりとおさまる小さい、力を入れれば折れそうな体。ずっと守って大事にしたかった女の子。傷つけたのは自分。それでも腕の中の少女を守りたい。これ以上傷つけたくない。そしてもう傷がつかないようにと。
「守れなくてすまぬ。そなただけは・・・」
カローナは無言で第一王子の腕の中で無意識に呟いた言葉を拾う。第一王子の胸から顔を上げると、太陽のような光を宿す瞳と目が合う。昔、会った妖精の陽だまりのような優しい色ではない。第一王子の決意を秘めた強い瞳に、カローナが何も感じないように3年掛けて凍らせた心が少しだけ溶ける。第一王子の言葉が初めてカローナの耳に届いた日だった。この日から頭で理解するのでなく、少しずつ心で感じるようになった。カローナの冷たい世界に太陽が姿を見せ始めた瞬間だった。
第一王子とカローナは先代国王夫妻とマグナ公爵夫妻に育て直されていた。第一王子は頻繁にカローナに会いに訪問しそのまま晩餐を共にして王宮に戻る日が増えていた。
国王は父は物理的に母は心理的に怖いので逆らえない。宰相さえも口を出せない。大柄で物理を好む先代の王は恐れられていた。ただ重鎮達が最も恐れたのは淑やかな笑顔で心理的に罰を与える妃である。先代国王の怒気や殺気に笑顔で付き合えるのは王太后だけであり、正妃以外は後宮に迎え入れなかった。
先代国王は騎士達に人気が高く幼い第一王子は騎士達に先代国王の話を聞いて憧れを抱いていた。そして時々王宮を訪問する父親と違い堂々とした振舞いにさらに憧れを強くした。
真実を知った第一王子は両親よりも祖父母の教えを忠実に守り優先する。すでに第一王子は両親は信用できなくなっていた。
妃教育を受けていない母親に3歳のカローナを任せたことも正気の沙汰とは思えなかった。
第一王子は王族とカローナの謁見は常に付き添い、都合がつかない時はマグナ公爵夫人とイナナを頼った。そして、謁見の後には必ず時間を作って会いにいった。
第一王子達が常に傍にいるため第二妃はカローナに近づけない。第一王子と不仲にさせようと動いても無駄だった。3年間第一妃の叱責に耐えたカローナは令嬢や夫人達の厳しい言葉も笑顔で受け流し動じない。そして途中で必ず第一王子が駆けつけ、カローナを連れて消えてしまい第二妃の策が余計に二人の絆を深めさせていた。
****
国王は王位争いを望んでいなかった。
後継の指名はしなかったが、一言も兄弟で争えとは口に出していない。国王は亡くなった兄とは仲がよく、喧嘩もしなかった。自分に何かあれば国を頼むと豪快に笑う兄の冗談に笑っていた頃が懐かしかった。国に害悪なら躊躇わず殺していいと言われても、できませんと即答し、反乱が起これば兄と共に首を差し出そうと思っていた。いつも堂々としている兄の背中は憧れだった。武術が苦手な自分に適材適所、戦いは自分や騎士に任せて、守りの指揮を頼むと頭を撫でてくれる手が好きだった。困ればいつも助けてくれ、怖い父親も宥めてくれた。兄の役に立てるように宰相から学び、頼もしい兄が治める国が楽しみだった。帝王学を学んでも自分が王になると思ったことは一度もなかった。
6歳上の兄が亡くなったのは12歳の時。国中が優秀な王太子の死に嘆き、葬儀が終わり自室に引きこもった国王の部屋に無理矢理入ってきたのは鍵をかけた扉を壊した兄の婚約者。
自分宛の手紙を突きつけられても、兄の死を認めたくなく、手紙を受け取らない様子に婚約者は封を開けて、手紙の内容を無理矢理視界に入れた。
「頼む。お前ならできる」と書いてあった。
「何かあったら頼むよって渡されてたの。私よりも貴方を優先って酷い人。忘れて幸せになれって言葉は聞かないわ。私はずっとあの人のために祈りを捧げる。いい加減に現実を見なさいよ!!あの人がいなくなって悲しいのは貴方だけじゃない。あの人はいつもあなたを優秀な弟って言ってたわ。憶病だけどいざとなったらできるって。あの人の弟なら信頼に応えなさいよ!!」
「できない」
「もういいわ」
そして無理矢理腕を掴まれ部屋から連れ出され、両親の前に突き出され、恐怖の王太子教育が始まった。
王太子になった途端に見向きもしなかった令嬢達に囲まれ、生活が一変する。
救いだったのは教師が両親でないことだけ。怖い両親が苦手だったのでいつも兄の背中に隠れていた。気付いたら成人が近づき、自分の回りにいる令嬢は二人だけ。宰相の勧めで、淑やかそうな令嬢を婚約者に選び、流れるままに王位を継いでできるだけ平穏に過ごしたかった。それなのに時が立つほど平穏から離れていく。王位に興味のなかった国王には兄弟で王位を争う気持ちが理解できない。
王位争いに積極的なのは第二王子と第一妃。今までは第二妃は第一妃の自滅を楽しみながら、最終的には玉座は宰相を味方につけた第二王子のものと確信を持っていたので余裕があった。第二妃は大好きな第一妃の苦痛に歪んだ顔を思い浮かべ時を待つだけだったが状況が変わった。
実情を知らない家臣達には第一王子と第二王子の対立に見えていた。
第一王子は第一妃に第二王子に負けるなと教えられていたが、国王になれとは言われていない。帝王学を学んでも、第一王子は民が幸せなら王には自身がならなくてもいいと思っている。
カローナは第一王子の真意に気付いていなかった。
第一王子派の筆頭はマグナ公爵家である。第一王子と第二王子がもうすぐ成人を迎えるため真剣に動き出さないといけない時期を迎えた。
カローナは調べた勢力図をじっと眺めて思考を巡らす。
平凡から聡明と評価を変えた第三王子は留学で他国を回っていたが後見のない第三王子は王位争いに不干渉を貫いている。
カローナは帰国した第三王子に探りを入れても王位に興味はなさそうだったので敵は第二王子派のみ。
第一王子の味方は文官が少ないので、文官を狙うべきか、他国の支持を集めるか、地方貴族を取り込むかと思考を巡らせていた。カローナの悩んでいる姿に第一王子が気付く。
「カローナ、何を見ておる?」
王宮でのカローナの居場所は第一王子の私室か執務室である。
「殿下の腹心達が留学に行きました。新しい側近候補を迎え入れるべきですが宰相閣下のおすすめはいけません。第二王子派の方は信用できません。イナナとお父様にも見込みのある方を探してもらってますが、ほぼ第二王子派に」
第一王子は真剣に悩むカローナの頭に手を置く。
「カローナ、王族が争うのは民のためにならん。私は王にならなくてもいい」
カローナは目を丸くして第一王子の顔を見上げる。
「殿下?」
第一王子はカローナの赤い瞳を見つめしばらくしてゆっくりと口を開く。
「もし、臣下に降りたら、」
カローナは寂しそうに言葉を止めた第一王子を見て、にっこり笑う。
いつも手を握ってくれる不器用な王子様が好きだった。無性に頼りないところさえも。
「お父様のお考え次第ですが、殿下の望みでしたら最後までお付き合い致します。もし殺されそうになるなら亡命しましょう。おじい様が爵位を用意して迎えてくださると。いつでもおいでとおっしゃるので、隣国に領民をつれて逃げるのも一つですね。でも第二王子殿下や妃殿下が納得しますかね・・」
カローナがブツブツと呟くのを第一王子は聞きながら、恐る恐る口を開く。
「カローナ、辛くないか?」
「フィン様が守ってくださるので大丈夫ですよ。辛くて泣きたい時はフィン様に甘えさせていただきます。たくさん泣いて、その後はイナナと3人でお菓子を食べればいいのです」
「サンはいいのか?」
カローナは懐かしい名前にクスクスと笑い出す。
「フィン様も会ったんですね。サンは妖精ですから、子供にしか見えないんですよ。」
「よ、妖精?」
「気づいてないんですね。はい。妖精のサンとは幼い頃によくお話しました。でも社交デビューの話を聞いてから会えなくなりました。貴族の穢れた世界に踏み込んだ私は純粋なサンと会えません。でも私にはフィン様がいてくださるのでもう平気ですよ」
「私は、そなたがサントスを好いているのかと」
「どうして第三王子殿下が?厄介払いしたくなりましたか?」
「違う。私はそなたに不満はない。そなたの幸せを一番に・・」
「私にとっての王子様はフィン様だけです。それに幸せですよ。幸せのためにこれからを決めないといけません」
第一王子は2度だけ寝起きのカローナからサンの名前を聞いた。カローナの幸せを想うなら手を解かないといけないかとずっと迷っていた。
「カローナ、抱きしめてもいいか」
頬を染めて頷くカローナを第一王子はそっと抱きしめる。
「カローナ、私はそなたを、」
カローナを抱きしめて肩に顔を埋める第一王子の辛そうな声を聞いて、体の熱が冷め頭も冷える。カローナは時々苦しそうな顔で自分を見る第一王子に気付いていた。
「フィン様、おばあ様のおっしゃるとおり悲しいことは半分こしましょう」
「私はそなたをずっと傷つけ、苦しめてきた。それでも共にと願った」
カローナは長女であり、面倒見が良く世話好きである。第一王子と出会い10年経ち王子の中で一番頼りないのは第一王子と思っていた。
カローナは第二妃より第二王子派に誘われ婚約者の変更を匂わされたが断った。武術以外に欠点のない優秀な第二王子。でもカローナは頼りない第一王子のほうが好きだった。一人だと目の離せない第一王子の側で世話をやき、笑いかけられる瞬間が好きでたまらなかった。
第一王子はカローナに幸せになってほしい。できれば自分が幸せにしたい。でも自信がなかった。昔は気付かず傷つけ、ずっと後悔していた。隣で笑うカローナを愛しく思っても、どうすればいいかわからない。
カローナは第一王子の腕の中で静かに懺悔を聞いていた。カローナをずっと第一王子が傷つけて、ずっと後悔していたと。そしてカローナは第三王子と結ばれるのが幸せと。カローナは身に覚えはなく話の内容を全く理解できない。それでも一つだけ許せなかった。
「殿下、私は怒ってます」
第一王子は腕を解かないといけないとわかっていても離したくなかった。迷って、決めようとしたのに、失いたくなかった。それでも、カローナが去っていくのを見送らないとと。
「カローナ、」
カローナは苦しそうな第一王子の言葉を遮る。
「ずっと後悔して傷ついていたのに黙っているなんて酷いです。私は殿下が連れ出してくださったので、夢が叶いました。私にとって怖くて冷たい場所は貴方がいれば温かく優しい場所に変わります。殿下の傷を癒すすべはわかりません。でも私は、私が笑っている時に一人で、殿下が、傷ついていたなんて」
カローナは王宮も後宮も嫌いだったが第一王子が隣にいるなら違う。自分が幸せだった時に第一王子が苦しんでいたことが悲しくて、瞳から涙が零れる。
「カローナ、すま」
第一王子の暗い声で謝罪しようとする様子にカローナの中で何かが切れる音がした。カローナは涙を拭いわかっていない第一王子の胸を押して顔を上げ睨みつける。
「謝罪の言葉は聞きたくありません。私は、ずっと・・。それに共にいていいかわからない?第三王子殿下と一緒に幸せになったほうがいい?戯言もいい加減になさいませ。もう決めました。私はいざとなれば、マグナを捨てます。殿下の傍にいます。私がもう一人のカローナを忘れるほど幸せにして差し上げます。ぐるぐる悩んで、後悔する暇などあげませんわ。殿下、かがんでください」
カローナが厳しい口調で怒る姿に茫然としながらも膝を折った第一王子の胸を掴んで強引に口づけ、目を見張る顔に綺麗な笑みを浮かべた。
「これで殿下は余計なことは考えられません。反省するまでお名前は呼びません。覚悟してくださいませ」
カローナは第一王子の胸から手を離し、足早に部屋を出て行く。
カローナの母親は恋をして国を飛び出した皇女である。カローナもその血を引いていた。帰宅するため馬車に乗り、冷静になったカローナは自分の行為を思い出し赤面した顔を手で覆い羞恥に震える。最初は悲しかったが途中で怒りが我慢できなかった。自分を前にして他のカローナをずっと思い浮かべていた第一王子にも。夢でも自分の居場所を取られるのが嫌だった。もっと早くに話を聞かなかった自身に後悔していた。
第一王子は視野が狭いと思っても自身も同じだと反省し、これからは自分が頑張ることを決めたが、自身の行為を思い出し平静を装い第一王子に会える気がしなかった。当分会うのは控えて、カローナは頼りない婚約者のためにさらに本格的に動き出すことを決めた。そして今頃きっと自分のことで頭がいっぱいの第一王子を思い浮かべて笑った。
トネリは固まっている第一王子の前で手を振っても声を掛けても反応がない。二人っきりになりたそうだったので外していた。第一王子はいつもカローナを送っていたのに、一人で帰るカローナを見て、様子を見に戻ってきた。
トネリの留学の話はカローナが潰した。これ以上第一王子の腹心を減らすわけにはいかず、トネリの生家にはマグナ公爵家が後見につき、第二王子派に手出しはさせなかった。
しばらくして第一王子が呟いた。
「怒らせた。だがなぜ怒ったかわからん」
「殿下、もう少し事情を教えていただかないと何も言えません」
第一王子はトネリにカローナとのやり取りを説明した。トネリは初めての痴話喧嘩に笑いをこらえる。
トネリは第一王子の昔話を夢の世界の話と捉えていた。そして第一王子が鈍いのはよく知っていた。
「殿下、嫉妬ですよ。同じ存在でも違うカローナ様でしょう?自分と一緒にいる時に他の女性を重ねていたと知れば、温和なカローナ様でも怒りますよ。しかも、第三王子殿下と結ばれたほうが幸せになれるって言えば傷つきますよ。カローナ様は殿下の隣で幸せそうですよ。謝罪しないと。夢に妬くカローナ様もお可愛らしい。すみません」
トネリは我慢できずに笑い出す。
「傷つけた。私はカローナを・・」
第一王子はカローナが関わると頼りなかった。最初は第一王子がカローナの世話を甲斐甲斐しくやいていたがいつの間にか立場が逆転した。
カローナはきめ細かく、視野が広く、気が利く。
第一王子は目の前の転んだ幼女がいれば抱き上げ、家まで送る。カローナは一人で出歩く幼女の背景を調べ介入が必要なら、第一王子にさり気なく声をかけ動かす。
第一王子の苦手や見落としを息をするように補う。
幼女から少女に成長し、カローナを意識して言葉に濁す第一王子の言葉を上手に読み解く。不器用な王子と器用なカローナ。
ただカローナにも欠点はある。運動が苦手で乗馬さえ見ている方がハラハラする腕前の持ち主。乗馬が必要な時は第一王子がいつも相乗りして前に乗せる。カローナが苦手なことは全て第一王子が得意なため何も問題なかった。
誰もが匙を投げたカローナの乗馬の練習に根気強く付き合ったのは第一王子とイナナである。
馬から落馬するカローナを何度も受け止めたのは第一王子。イナナが馬を殺処分しようとしたのをカローナに嗜められていたのは笑い話として有名である。
情けなく弱った今の王子の相手はカローナが適任である。トネリとしては飛び出したカローナを追いかけて欲しかったが期待していけないのはよく知っている。
カローナを傷つけた、自分には幸せにできないと落ち込む姿がさらに笑いを誘う。民に威厳があり頼もしいと慕われる王子と正反対で。
「信じられないならカローナ様に任せましょう。殿下の苦手を補うのはカローナ様の得意なことでしょう?きっと幸せにしてくださいますよ。それとも、花でも持って求婚しにいかれますか?」
「求婚・・?」
笑うのを堪えて、真顔を作ったトネリは鈍い主にゆっくりと問いかける。自分本位に見える第一王子は実は他人優先の思考の持ち主と知るものは少ない。
「婚約者が恋人になってもいいと思いますよ。殿下、正直に教えてください。カローナ様が第三王子殿下と結ばれて殿下は幸せになりますか?ご自分のことだけ考えてください」
第一王子は首を横に振る。
「なれん。カローナのいない世界は真っ暗だ」
「なら簡単です。私もカローナ様も殿下の幸せを願っております。たまには昔のように堂々と自分本位に命じてください。自分が幸せになるために欲を持っていいんです。不幸な王様が治める国よりも幸せな王様が治める国の方が臣下は幸せですよ」
「行ってくる」
窓から出て行く第一王子をトネリは見送る。将軍にも負けない第一王子に護衛はいらなかった。
第一王子は途中で庭園の花を眺め一輪の赤い薔薇を手折り厩に向かった。
****
カローナはマグナ公爵邸に帰り自室で兎の縫いぐるみを抱いていた。
「お姉様、」
「イナナ、ごめんね。後にして、ちょっと今は・・」
カローナは書類を持つ妹と冷静に話ができる心境ではなかった。
赤面しているカローナを見てイナナは笑う。
カローナが第一王子を慕っているのは一目瞭然で、イナナは赤面する姉も可愛いと笑みを浮かべて第一王子の側近候補の資料は後で渡すために立ち去る。
第一王子派の中心はカローナとイナナである。第一妃は息子に見放され、プライドをマグナ公爵夫人とイナナが叩き折り、王太后に叱責されたために静かに妃の執務だけこなし、人格が変わったと囁かれていた。
先触れのない第一王子の訪問をイナナは受け入れて姉の部屋に通す。
第一王子はカローナの部屋に入り昔、贈った縫いぐるみに顔を埋めている真っ赤なカローナを見て、口づけられたのを思い出し顔に熱が籠った。
「カローナ」
カローナは幻聴だと思っていた。顔を上げると、赤面している第一王子が見えて笑う。第一王子は赤面して微笑んだカローナの顔を見たら何も言えなくなった。移動しながら考えていた言葉は頭から吹き飛んだ。無言でずっと持っていた一輪の薔薇をカローナに差し出すとカローナが目を丸くする。
第一王子の指から血が流れていた。
薔薇の棘を取り除いていなかった。カローナは夢さえ抜けている王子に苦笑し、薔薇を受け取り、傷だらけの手を掴み、流れ出る血をハンカチで拭いながら手当てをする。
第一王子は自分の手にハンカチを巻き、微笑んだ顔にトネリの言葉を思い出す。
「カローナ」
カローナは第一王子の声に顔をあげる。第一王子はカローナのいない世界で生きたくない。何も考えずに自分本位の願いを伝えていいかわからない。好きでたまらない赤い瞳を見たら我慢できなかった。
「私は、そなたが、いないと駄目だ。共に歩んでくれぬか?」
カローナは赤面して必死に言葉にする夢の中の第一王子も本物と一緒で不器用だと笑いたくなるのを我慢する。本物よりも饒舌なのは夢のおかげかと感心しながら夢でも空気を読むのは大事なので真面目な顔を作る。
「はい。そのかわりもう秘密はなしですよ。」
第一王子は拒絶されずに安堵し、カローナの真っ赤な真顔に咎める口調に怒らせたことをようやく思い出した。
「気をつける」
「ちゃんと言葉にしてください。私は何があっても傍を離れません。覚悟してください」
「ぜ、善処する。」
「はい。お願いします。殿下」
カローナの言葉が嬉しいのに、殿下と呼ばれるのが寂しかった。
「名を」
「夢といえ反省するまでお仕置きです。でもよくできたらご褒美あげますよ」
甘い笑みを浮かべたカローナを見て、第一王子の熱が一気に上がった。第一王子は意識をするとさらに言葉にできない。自分がまた傷つけてしまうかもしれないと怖くてたまらなかった。
第一王子はカローナを抱きしめる。
「カローナ、いずれ、言うから、待っててくれぬか……」
第一王子にとって精一杯だった。良く考えて冷静な時でないと伝えられない。それにどう言葉にしていいかわからなかった。
「はい。殿下のお心のままに」
イナナは二人のやり取りを聞いていた。イナナは第一王子をヘタレと心の中で罵ったが姉が笑顔なので今は許すことにした。第一王子はカローナとイナナの時間を邪魔しなかったので敵と認識されていなかった。
抱き合う二人を邪魔しないようにイナナは姉の部屋に人払いを命じる。
第一王子はカローナが夢だと思っているとは気づかなかった。翌日からカローナは伯父夫婦の元に逃げ込みながら地方貴族を第一王子派にするため動いていた。
カローナは第一王子の顔を赤面せずに見られるようになる方法の相談を伯母にしていた。その頃第一王子はイナナから姉が姿を消したと聞き血相を変えて捜索しているとはカローナも伯父夫婦も知らない。
姉を怒らせた第一王子への細やかな報復は忘れないイナナだった。
成人してない王子の婚約者には視察や慰問、社交での王子のパートナーを務める程度しか求められない。
第一王子に恋い焦がれる令嬢達はカローナを潰したくても、常に第一王子が一緒のため手を出せない。第二妃主催のお茶会が終わり立ち上がったカローナに侯爵令嬢が近づく。
「マグナ様、貴方は殿下を満足させる自信はありますの?」
豊満な体を持つ侯爵令嬢の挑戦的な笑みにカローナは微笑み返す。4年の年齢差は大きく身体的に並んでも釣り合わないのは仕方がなく、カローナは心身共に成長途中であることをよくわかっている。そしてもう一つ大事なことを知っているので、令嬢達の揺さぶりに心を乱さず、傷つかない。
「ご満足いただけるように精一杯励みます」
「そんな」
「カローナ、」
侯爵令嬢にとって挑発的な笑みを浮かべたカローナへの反撃の言葉は第一王子の声が聞こえたため飲み込まれた。つり上げた眉を下げ笑みを浮かべて声の主に期待するように見つめる侯爵令嬢に第一王子は一切の視線を向けず、カローナの手を繋ぐ。
「待たせたか」
「いいえ。殿下、ありがとうございます」
カローナを黄金の瞳で見つめ黙り込む第一王子にニッコリと笑う。
「殿下のお部屋でお茶をご用意します。私にもお教えくださいませ」
頷く第一王子と手を繋ぎカローナは執務室に向かってゆっくり足を進める。第一王子が迎えに来たなら貴重な時間を無礼な侯爵令嬢の相手に使うつもりはない。家格の高いカローナは、無礼な目の前の侯爵令嬢の相手をせず許される立場である。家格の低い者から家格の高い者の声をかけるのはマナー違反であり、王子が手を引くカローナの足を止めるのを許されるのは王族だけである。カローナは悔しそうに見つめる無礼な令嬢の視線に答える優しさはない。そして、期待する眼差しをどんなに注いでも鈍感な王子様が気づかないことは絶対に教えるつもりもない。
「そなたは、」
気まずい顔で言いよどむ可愛らしい婚約者にカローナは楽しさをこらえきれずに口元を手で隠してクスクスと笑う。
「私は殿下と一緒にいられればそれだけで十分です。お散歩はまた連れて行ってください」
カローナの笑顔につられて第一王子が自然に零した大好きな笑顔にさらに笑みを深める。
お茶会の後は二人で私的に外出予定だったが急な執務が入った。それでもカローナの迎えだけはと執務室を抜け出していた。カローナは第一王子が忙しいのを知っている。それでも迎えに来てくれるのが嬉しく、手を繋いで歩く時間はカローナにとって特別である。
第一王子の腹心達はカローナが執務室に姿を見せるといつも歓迎する。集中すると声が届かない主に呼び掛けられる貴重な存在であり、凄まじい集中力を持つ第一王子が集中した時に耳に入るのはカローナの声だけだった。
カローナはお茶を用意した後は、第一王子の執務を隣に座って静かに眺め、わからないときだけ質問する。
第一王子はカローナの質問に答えながらペンを走らせる。カローナの質問に答えると見落としや新たに気付くことも多く、有り難かった。また隣に座っているカローナに教えるのは楽しく、愛らしい声の問いかけ、答えると尊敬した視線を向けられ、記憶よりも幼いカローナの頭を撫でると初めて会った時の無邪気な可愛らしい笑みが見れるのは役得だった。第一王子は無意識に優しく微笑み、その顔にカローナがいつも見惚れているのを、腹心達は温かく見守っていた。
第一王子がカローナを構っても、ペンを進める手は早く執務に全く支障はでない。
ただカローナは第一王子に教わっているつもりなので役に立っている自覚はない。優しく聡明な王子様の役に立てるように頑張ろうとさらに決意を固めるだけだった。
7才のカローナも11歳の王子も貴族として必要も知識はほとんど頭に入っているので、授業の時間は減り、ほとんど執務に移行していた。
腹心達は知らないが王族で一番和やかな執務室は第一王子の部屋であり、それを良く知る訪問者が足を運んだ。
扉が開き、カローナは訪問者を見て立ち上がる。
「カローナ、礼はいい。そのままで」
「かしこまりました。お茶の用意を。殿下、休憩を」
第一王子はカローナの声に顔をあげると父親がいた。第一王子の執務室に国王が足を運ぶのは休憩したい時なので、腹心に手を止めて休憩するように命じるとカローナとポプラがお茶を用意し戻ってきた。
ポプラは家臣の控えの間にお茶を並べ、カローナは国王と第一王子の前にお茶を用意し、第一王子の隣に座る。
「カローナ、これを」
国王に渡された箱の中には色とりどりの飴が詰まっていた。
「ありがとうございます。殿下と大事にいただきます」
国王は嬉しそうに笑い飴を息子に見せるカローナと優しい顔でお茶を飲みながら応じる息子に目元を弛ませ眺める。
第一王子とカローナの仲睦まじい姿は国王にとっては癒しだった。先程までの怖い妃達のやり取りとは別世界のようだった。
第一王子を後継に指名すれば殺伐とした後宮の雰囲気は変わるだろうかと甘味のあるお茶を飲みながら思い始めていた。そして、わざわざ自分好みのお茶を用意した将来の義娘の気遣いに荒んだ心を癒されていた。国王にとってカローナのいる長男の部屋は数少ない心休まる場所になっていた。
****
カローナはお茶会が終ったので第一王子の執務室で従姉から贈られた物語を読んでいた。第一王子とトネリは火急の用で呼び出され留守である。
ノックの音がしてもカローナは答えない。部屋の主が留守なのでカローナに入出許可を出す権限はなく、扉に一瞬だけ視線を向けてすぐに本に視線を戻した。
カローナは扉が開き入室した第二王子に驚きを隠し、本を置いて立ち上がり礼をする。
「頭をあげて。少し話をしたいんだが場所を変えないか?」
頭をあげたカローナは穏やかな表情で第一王子からいつでも使うように許された言葉を口にする。
「申し訳ありません。私は第一王子殿下よりここで待つように命を受けております。また誤解を招く行動はお許しくださいませ」
婚約者がいるのに、しかも、第二王子と二人でいる光景は様々な憶測を生むのをカローナはよくわかっていた。
「兄上も心が狭い。カローナ、私は君を大事に想っている。望みがあるなら言ってごらん?」
「ありがとうございます。私はお言葉だけで充分です」
「遠慮しないでいい。君が初恋を叶えたいなら協力するよ」
第二王子はカローナの初恋を第三王子と思っていた。庭園で第三王子と逢瀬を重ね、泣きながらサンの名前を呼ぶカローナを見ていた。実際はカローナの初恋は初めて会った第一王子である。
「お気遣いありがとうございます。恋とは自身の手で叶えるものですのでお気持ちだけありがたくいただきます。臣下として殿下の寛大なお心に感謝申し上げます」
「兄上は君以外の令嬢と親しくしてるよ」
優しい声でいたわるような顔を向ける第二王子にカローナは上品に微笑み返す。王子に必要な社交があるので、仕方のないことである。それでもカローナが一番大事にされているのはわかっていた。
「殿下のお心のままに」
カローナが礼をすると扉が乱暴に開き第一王子が第二王子を睨みつけカローナを背に庇う。
「何か用か?」
「いえ、書類を届けに」
「勝手に部屋に入るのは関心せぬ」
「失礼しました。兄上、初恋は叶わないといいますが、迷信でしょう」
「何が言いたい?」
カローナは喧嘩を始めた第一王子の手を握る。二人の喧嘩に口を挟むカローナに王族同士の話に口を挟むのは良くないと不満の声が囁かれはじめたので、新しく覚えた喧嘩の止め方だった。
「カローナ?」
手を繋げば必ず第一王子が声を掛けてくれるので、不敬にならずに喧嘩を止められる。眉間の皺がなくなった第一王子にカローナはニコリと笑う。
「おかえりなさいませ。お二人でお話されるならお茶をご用意しますか?」
「いらぬ。カローナ、」
「ありがとうございます」
第一王子はカローナの手を引いて部屋を出る。第二王子の訪問を聞いて慌てて戻ってきたため、じっとりと汗をかく王子の手にカローナは笑みを深くする。
「フィン様、まだ読んでる途中ですが、小国の皇子様は初恋を叶えて大国のお姫様と婚姻しました。そしてお姫様もその皇子様に恋をしました。初恋の結末は当人次第ですね。やはりハッピーエンドのお話を読むと幸せになりますわ。でもどんな物語の王子様よりもフィン様が一番素敵です」
「ハッピーエンドか」
「はい。フィン様、今日は馬で送ってくださいませ。物語を読んでいたら羨ましくなってしまいました」
第一王子は目を輝かせるカローナに優しく笑って頷く。
「乗せぬからな」
「一人で乗馬しませんわ。今日もフィン様のお馬様に。私、少し大きくなったので嫌がられますか?」
「ありえん。カローナが大人になっても問題ない」
「その頃には私もフィン様のように颯爽と馬を疾走させられるでしょうか」
第一王子は乗馬の苦手なカローナにはできればやめてほしかった。
「疾走させたいなら私がいくらでも」
「フィン様とは時間が許すならゆっくりがいいです」
この日は馬車ではなくカローナは第一王子の馬に相乗りしてマグナ公爵邸への帰路を進んだ。第二王子は全く揺さぶりのきかなかったカローナの背中を歪んだ笑みを浮かべて見ていたのは気付かなかった。第一王子は第二王子に危害を加えられていない様子にほっとしていた。
弟が自分の留守に訪ねてくるとは思わず用事はトネリに任せ、報せを聞いて慌ててかけつけた。カローナは心配そうな顔をする第一王子にニッコリと笑いかける。
「フィン様、私は貴方がいれば何も怖くありません。だから大丈夫です」
第一王子は馬からカローナを降ろすと首に自然に手が回りニコニコと抱き上げられる姿に笑う。初めて出会った頃の幼いカローナを思い出した。あの時と決意は変わらない。でも全く正反対のことをしていた。大事に守りたかった少女をずっと傷つけていた。
カローナは第一王子の瞳が暗くなったのに気付いても何も言わずに頬にそっと口づける。
第一王子は頬に触れられる感覚で我に返る。カローナは気付いてない第一王子の頬にもう一度口づける。
「!?」
赤面し凝視する第一王子にカローナは笑う。
「物語のマネです。本当は額なんですが届かなくて」
読んでいる物語に額への口づけは祝福と綴られていた。でも暗い瞳が明るくなったので成功かとカローナは満足して笑う。カローナにとっての太陽が曇るなら、雲を取り払うのは大事なお役目だった。
第一王子はカローナに口づけたくても自分に許されるのかわからなかった。
「フィン様がしてくださいますか?」
楽しそうに話し期待をこめた顔のカローナに負けて、第一王子はそっと額に口づけを落とす。カローナは真っ赤な顔の第一王子を見ながら楽しそうに笑う。第一王子もずっと楽しそうに笑うカローナにつられて優しく笑う。
「祝福の意味がわかりましたわ。これは幸せになれますわ。ありがとうございます」
第一王子はマグナ公爵邸に着いたので物語の話に夢中なカローナを腕から降ろし、晩餐を共にして帰った。
馬に乗りながら考えていた。カローナが隣にいてくれるのが幸せだった。手を伸ばしたい。でもカローナの幸せを考えるとわからなくなった。
トネリは暗い顔の第一王子を出迎えた。
「カローナを幸せにしたい。でも傷つけたくない」
トネリは第一王子の弱音を聞き、新しい作戦を授ける。第一王子とカローナの両片思いを応援する準備はいつでも整えられていた。
二人が本当の意味で結ばれるのがいつになるか賭けが行われているのは第一王子は知らない。
***
第一王子は横暴な態度がなくなり、落ち着いた様子に家臣達の目も徐々に変わっていった。
何より、婚約者のために悩んでいる姿は年相応でつい応援したくなる。王宮にカローナが参内するときは必ず迎えにいく姿は微笑ましく、どう見てもカローナに慕われているのに気付かずに、傷つけたくない、できれば好かれたいと悩む姿を温かい目で見つめる者が多かった。
第一王子はお忍びに初めてカローナを連れてきた。
二人はローブを着て手を繋いでゆっくりと民に紛れて歩く。視察は常に一緒だったため金髪と黒髪の第一王子と婚約者は有名だった。第一王子の視察に邪魔ではないなら一緒に行きたいと願ったのはカローナである。
カローナは不思議そうな顔で第一王子を見ていた。
「カローナ、どうした?」
「フィン様、どうして正体を隠すのですか?」
「素が見えるし、気を遣わなんだろう」
「せっかく王子様いるなら会いたいと思います。民の前に顔を出すのも大事ではありませんか?でも御身が危険に」
ブツブツと呟くカローナに第一王子は笑う。
「護衛も忍ばせておるし、大丈夫だ。カローナが言うなら、」
第一王子はローブのフードを脱ぐと輝かしい金髪の少年に周囲の視線が集まる。
「あれは!?」
「まさか?」
「殿下!!」
輝かしい金髪を持つのは王族というのは民の常識である。
「人気者ですね」
カローナは第一王子に集まる視線を見ながら笑っていた。
「殿下、お隣にいらっしゃるのは」
第一王子がカローナのフードを脱がす。
「カローナ様だ」
「カローナ様!!」
カローナは呼ばれる声に笑みを浮かべて上品に手を振る。王族が民を喜ばせるのは大事な役目であり、カローナは飴と鞭の使い方を母親と王太后から教わっている。
「デートですか?」
「そうだろうか。デートとは何をすればいい?」
「贈り物ですかね。これはいかがでしょうか?」
店主に髪飾りを見せられ第一王子は購入しカローナの髪に飾り笑みを浮かべる。
「カローナはなんでも似合うな」
「フィン様」
カローナば第一王子の称賛に頬をほのかに染める。民達は初々しい二人の空気を邪魔しないように声を掛けるのをやめて、微笑ましく見守る。
婚約者からの贈り物は素直に有り難く受け取るものと教わってからは、第一王子からの贈り物をカローナは笑顔で受け取るようになっていた。
先代国王夫妻とマグナ公爵夫人の教育のもと、カローナの歪められた常識を正された。その陰には第一王子達の多大な努力があった。
カローナの妃教育の進行の確認に王太后が話を聞いても、王宮や後宮での話を、外部に口にするのは禁止と諌められていたカローナは微笑むだけで無言を貫く。王宮での教えを聞いても笑みを浮かべたまま口を開かないカローナを第一王子が説得するとようやく重い口を開いた。
先代国王夫妻と第一王子はカローナが無感情な顔で語る歪んだ常識と王妃像に言葉を失い、王太后が質問すればするほど、歪みは深まる。
6歳で自分を駒として認識し、3歳から感情を殺し、自由に話すことを禁止され、助けを求めることも弱音も甘えも許されない常に笑顔を強要され壊れかけているカローナに3人は気付いた。
王太后の想像以上の酷さだった。第一王子は顔を歪ませた。母親と共に笑顔を浮かべて視察する様子を見ていたのにカローナが壊れかけているのを全く気付いていなかった。
「カローナ、すまぬ、傍にいてやれば」
「殿下、お顔を上げてください。至らないのは私です」
第一王子の謝罪と苦しそうな顔にカローナが穏やかな顔で答える様子に王太后が首を振ってカローナを抱き上げる。
「カローナ、違うのよ。王族だって感情を出すことを許される。国王と王妃は対等。全てを国王の意のままに身を捧げて、自分を持ってはいけないなんて間違えよ。王族である前に人なのよ。王宮であった辛いことを両親やフィンに伝えていいのよ。全部自分が悪いなんて思わなくていいの」
「投げるか」
「じい様、やめてください。カローナが怖がります」
「カローナ、第一妃はほぼ王妃教育を受けていない。だから間違いなのよ」
「カローナ、母上の言葉は忘れよ。どうか忘れてくれ。私はそのような教えは知らぬ。」
カローナにとって意図はわからなくても第一王子の言葉が絶対である。
「かしこまりました」
カローナは第一王子の懇願する声に頷く。
第一王子と王太后に正されれば、第一妃の教えは間違いだと受け入れる。第一妃は国王の次に優先すべきは第一王子と教え込んだ自身の教えが第一妃の首を絞めていた。それから第一妃が何を言っても第一王子が否定すればカローナは信じなくなった。
王太后は誤った常識を教え込まれているカローナに真実を、第一妃の後宮入りするまでの話を伝えることにした。夜伽の知識も与えられているカローナに配慮はいらないと思いつつも言葉を濁して語り出した。
衝撃を受けたのはカローナではなく第一王子だった。
第一王子も第一妃によって歪められた後宮の真実に自分はまた何も知らずにいたことに気付き、常に自信満々の優雅な母親から心が離れた。カローナへの冷遇と教えられた嘘を知ってからは、母の言葉に常に疑惑の視線をむける自分に気付き、共に時間を過ごさない方がお互いのためだと食事さえ共にしなくなった。
第一王子はカローナの傍にできるだけいることを決めた。王宮では特に。
すでに王族関係は心を無にすることを体が覚えていたカローナは事実を聞いても何も感じなかった。
カローナに必要なのは教育ではなくリハビリだった。
カローナの大事な妹のイナナを巻き込みリハビリが始まった。第一王子はかける言葉を見つけられず、カローナの手を繋いで傍にいることしかできなかった。
そしてマグナ公爵夫妻は先代国王夫妻よりカローナを洗脳した第一妃の話を聞き、愛娘を抱きしめ泣いた。カローナは両親に目を丸くしていた。
おかしいと思う部分はあったのに娘の強がりと仮面に気付けなかった。王家の命令でも権力を使って介入しなかったことに後悔していた。カローナが全てに耐えたのはイナナのためと聞いてマグナ公爵夫人がさらに涙を流す。小さい体で妹を人質に取られ、人形になることを望まれた愛娘。第一王子から謝罪をされた時もこの惨状に気付けなかった。カローナが言わないのではなく言えなかったと。カローナは自分を抱きしめ謝る両親にずっと困惑しながら慰めの言葉をかけていた。
マグナ公爵夫妻がこれ以上カローナが第一妃に虐げられないように手を回そうとするのを先代国王夫妻が止め、王家の相手は王族がすると冷笑を浮かべる姿に譲った。その会話を隠れてイナナが聞いていたのを誰も気付かなかった。
両家の怖い話が始まる前にカローナは第一王子に手を引かれて退室した。
両親が泣くのを初めて見たカローナは第一王子に手を繋がれ歩き困惑しながらも笑みを浮かべていた。
第一王子は昔、好きだったカローナの笑顔を浮かべている姿が切なかった。カローナがいつも浮かべていた笑顔。一番怒っていいのに、両親を必死に慰めていた。第一王子は膝を折って、カローナの視線に合わせる。
「殿下?」
第一王子は穏やかな顔で首を傾げるカローナをそっと抱きしめた。自分の体の中にすっぽりとおさまる小さい、力を入れれば折れそうな体。ずっと守って大事にしたかった女の子。傷つけたのは自分。それでも腕の中の少女を守りたい。これ以上傷つけたくない。そしてもう傷がつかないようにと。
「守れなくてすまぬ。そなただけは・・・」
カローナは無言で第一王子の腕の中で無意識に呟いた言葉を拾う。第一王子の胸から顔を上げると、太陽のような光を宿す瞳と目が合う。昔、会った妖精の陽だまりのような優しい色ではない。第一王子の決意を秘めた強い瞳に、カローナが何も感じないように3年掛けて凍らせた心が少しだけ溶ける。第一王子の言葉が初めてカローナの耳に届いた日だった。この日から頭で理解するのでなく、少しずつ心で感じるようになった。カローナの冷たい世界に太陽が姿を見せ始めた瞬間だった。
第一王子とカローナは先代国王夫妻とマグナ公爵夫妻に育て直されていた。第一王子は頻繁にカローナに会いに訪問しそのまま晩餐を共にして王宮に戻る日が増えていた。
国王は父は物理的に母は心理的に怖いので逆らえない。宰相さえも口を出せない。大柄で物理を好む先代の王は恐れられていた。ただ重鎮達が最も恐れたのは淑やかな笑顔で心理的に罰を与える妃である。先代国王の怒気や殺気に笑顔で付き合えるのは王太后だけであり、正妃以外は後宮に迎え入れなかった。
先代国王は騎士達に人気が高く幼い第一王子は騎士達に先代国王の話を聞いて憧れを抱いていた。そして時々王宮を訪問する父親と違い堂々とした振舞いにさらに憧れを強くした。
真実を知った第一王子は両親よりも祖父母の教えを忠実に守り優先する。すでに第一王子は両親は信用できなくなっていた。
妃教育を受けていない母親に3歳のカローナを任せたことも正気の沙汰とは思えなかった。
第一王子は王族とカローナの謁見は常に付き添い、都合がつかない時はマグナ公爵夫人とイナナを頼った。そして、謁見の後には必ず時間を作って会いにいった。
第一王子達が常に傍にいるため第二妃はカローナに近づけない。第一王子と不仲にさせようと動いても無駄だった。3年間第一妃の叱責に耐えたカローナは令嬢や夫人達の厳しい言葉も笑顔で受け流し動じない。そして途中で必ず第一王子が駆けつけ、カローナを連れて消えてしまい第二妃の策が余計に二人の絆を深めさせていた。
****
国王は王位争いを望んでいなかった。
後継の指名はしなかったが、一言も兄弟で争えとは口に出していない。国王は亡くなった兄とは仲がよく、喧嘩もしなかった。自分に何かあれば国を頼むと豪快に笑う兄の冗談に笑っていた頃が懐かしかった。国に害悪なら躊躇わず殺していいと言われても、できませんと即答し、反乱が起これば兄と共に首を差し出そうと思っていた。いつも堂々としている兄の背中は憧れだった。武術が苦手な自分に適材適所、戦いは自分や騎士に任せて、守りの指揮を頼むと頭を撫でてくれる手が好きだった。困ればいつも助けてくれ、怖い父親も宥めてくれた。兄の役に立てるように宰相から学び、頼もしい兄が治める国が楽しみだった。帝王学を学んでも自分が王になると思ったことは一度もなかった。
6歳上の兄が亡くなったのは12歳の時。国中が優秀な王太子の死に嘆き、葬儀が終わり自室に引きこもった国王の部屋に無理矢理入ってきたのは鍵をかけた扉を壊した兄の婚約者。
自分宛の手紙を突きつけられても、兄の死を認めたくなく、手紙を受け取らない様子に婚約者は封を開けて、手紙の内容を無理矢理視界に入れた。
「頼む。お前ならできる」と書いてあった。
「何かあったら頼むよって渡されてたの。私よりも貴方を優先って酷い人。忘れて幸せになれって言葉は聞かないわ。私はずっとあの人のために祈りを捧げる。いい加減に現実を見なさいよ!!あの人がいなくなって悲しいのは貴方だけじゃない。あの人はいつもあなたを優秀な弟って言ってたわ。憶病だけどいざとなったらできるって。あの人の弟なら信頼に応えなさいよ!!」
「できない」
「もういいわ」
そして無理矢理腕を掴まれ部屋から連れ出され、両親の前に突き出され、恐怖の王太子教育が始まった。
王太子になった途端に見向きもしなかった令嬢達に囲まれ、生活が一変する。
救いだったのは教師が両親でないことだけ。怖い両親が苦手だったのでいつも兄の背中に隠れていた。気付いたら成人が近づき、自分の回りにいる令嬢は二人だけ。宰相の勧めで、淑やかそうな令嬢を婚約者に選び、流れるままに王位を継いでできるだけ平穏に過ごしたかった。それなのに時が立つほど平穏から離れていく。王位に興味のなかった国王には兄弟で王位を争う気持ちが理解できない。
王位争いに積極的なのは第二王子と第一妃。今までは第二妃は第一妃の自滅を楽しみながら、最終的には玉座は宰相を味方につけた第二王子のものと確信を持っていたので余裕があった。第二妃は大好きな第一妃の苦痛に歪んだ顔を思い浮かべ時を待つだけだったが状況が変わった。
実情を知らない家臣達には第一王子と第二王子の対立に見えていた。
第一王子は第一妃に第二王子に負けるなと教えられていたが、国王になれとは言われていない。帝王学を学んでも、第一王子は民が幸せなら王には自身がならなくてもいいと思っている。
カローナは第一王子の真意に気付いていなかった。
第一王子派の筆頭はマグナ公爵家である。第一王子と第二王子がもうすぐ成人を迎えるため真剣に動き出さないといけない時期を迎えた。
カローナは調べた勢力図をじっと眺めて思考を巡らす。
平凡から聡明と評価を変えた第三王子は留学で他国を回っていたが後見のない第三王子は王位争いに不干渉を貫いている。
カローナは帰国した第三王子に探りを入れても王位に興味はなさそうだったので敵は第二王子派のみ。
第一王子の味方は文官が少ないので、文官を狙うべきか、他国の支持を集めるか、地方貴族を取り込むかと思考を巡らせていた。カローナの悩んでいる姿に第一王子が気付く。
「カローナ、何を見ておる?」
王宮でのカローナの居場所は第一王子の私室か執務室である。
「殿下の腹心達が留学に行きました。新しい側近候補を迎え入れるべきですが宰相閣下のおすすめはいけません。第二王子派の方は信用できません。イナナとお父様にも見込みのある方を探してもらってますが、ほぼ第二王子派に」
第一王子は真剣に悩むカローナの頭に手を置く。
「カローナ、王族が争うのは民のためにならん。私は王にならなくてもいい」
カローナは目を丸くして第一王子の顔を見上げる。
「殿下?」
第一王子はカローナの赤い瞳を見つめしばらくしてゆっくりと口を開く。
「もし、臣下に降りたら、」
カローナは寂しそうに言葉を止めた第一王子を見て、にっこり笑う。
いつも手を握ってくれる不器用な王子様が好きだった。無性に頼りないところさえも。
「お父様のお考え次第ですが、殿下の望みでしたら最後までお付き合い致します。もし殺されそうになるなら亡命しましょう。おじい様が爵位を用意して迎えてくださると。いつでもおいでとおっしゃるので、隣国に領民をつれて逃げるのも一つですね。でも第二王子殿下や妃殿下が納得しますかね・・」
カローナがブツブツと呟くのを第一王子は聞きながら、恐る恐る口を開く。
「カローナ、辛くないか?」
「フィン様が守ってくださるので大丈夫ですよ。辛くて泣きたい時はフィン様に甘えさせていただきます。たくさん泣いて、その後はイナナと3人でお菓子を食べればいいのです」
「サンはいいのか?」
カローナは懐かしい名前にクスクスと笑い出す。
「フィン様も会ったんですね。サンは妖精ですから、子供にしか見えないんですよ。」
「よ、妖精?」
「気づいてないんですね。はい。妖精のサンとは幼い頃によくお話しました。でも社交デビューの話を聞いてから会えなくなりました。貴族の穢れた世界に踏み込んだ私は純粋なサンと会えません。でも私にはフィン様がいてくださるのでもう平気ですよ」
「私は、そなたがサントスを好いているのかと」
「どうして第三王子殿下が?厄介払いしたくなりましたか?」
「違う。私はそなたに不満はない。そなたの幸せを一番に・・」
「私にとっての王子様はフィン様だけです。それに幸せですよ。幸せのためにこれからを決めないといけません」
第一王子は2度だけ寝起きのカローナからサンの名前を聞いた。カローナの幸せを想うなら手を解かないといけないかとずっと迷っていた。
「カローナ、抱きしめてもいいか」
頬を染めて頷くカローナを第一王子はそっと抱きしめる。
「カローナ、私はそなたを、」
カローナを抱きしめて肩に顔を埋める第一王子の辛そうな声を聞いて、体の熱が冷め頭も冷える。カローナは時々苦しそうな顔で自分を見る第一王子に気付いていた。
「フィン様、おばあ様のおっしゃるとおり悲しいことは半分こしましょう」
「私はそなたをずっと傷つけ、苦しめてきた。それでも共にと願った」
カローナは長女であり、面倒見が良く世話好きである。第一王子と出会い10年経ち王子の中で一番頼りないのは第一王子と思っていた。
カローナは第二妃より第二王子派に誘われ婚約者の変更を匂わされたが断った。武術以外に欠点のない優秀な第二王子。でもカローナは頼りない第一王子のほうが好きだった。一人だと目の離せない第一王子の側で世話をやき、笑いかけられる瞬間が好きでたまらなかった。
第一王子はカローナに幸せになってほしい。できれば自分が幸せにしたい。でも自信がなかった。昔は気付かず傷つけ、ずっと後悔していた。隣で笑うカローナを愛しく思っても、どうすればいいかわからない。
カローナは第一王子の腕の中で静かに懺悔を聞いていた。カローナをずっと第一王子が傷つけて、ずっと後悔していたと。そしてカローナは第三王子と結ばれるのが幸せと。カローナは身に覚えはなく話の内容を全く理解できない。それでも一つだけ許せなかった。
「殿下、私は怒ってます」
第一王子は腕を解かないといけないとわかっていても離したくなかった。迷って、決めようとしたのに、失いたくなかった。それでも、カローナが去っていくのを見送らないとと。
「カローナ、」
カローナは苦しそうな第一王子の言葉を遮る。
「ずっと後悔して傷ついていたのに黙っているなんて酷いです。私は殿下が連れ出してくださったので、夢が叶いました。私にとって怖くて冷たい場所は貴方がいれば温かく優しい場所に変わります。殿下の傷を癒すすべはわかりません。でも私は、私が笑っている時に一人で、殿下が、傷ついていたなんて」
カローナは王宮も後宮も嫌いだったが第一王子が隣にいるなら違う。自分が幸せだった時に第一王子が苦しんでいたことが悲しくて、瞳から涙が零れる。
「カローナ、すま」
第一王子の暗い声で謝罪しようとする様子にカローナの中で何かが切れる音がした。カローナは涙を拭いわかっていない第一王子の胸を押して顔を上げ睨みつける。
「謝罪の言葉は聞きたくありません。私は、ずっと・・。それに共にいていいかわからない?第三王子殿下と一緒に幸せになったほうがいい?戯言もいい加減になさいませ。もう決めました。私はいざとなれば、マグナを捨てます。殿下の傍にいます。私がもう一人のカローナを忘れるほど幸せにして差し上げます。ぐるぐる悩んで、後悔する暇などあげませんわ。殿下、かがんでください」
カローナが厳しい口調で怒る姿に茫然としながらも膝を折った第一王子の胸を掴んで強引に口づけ、目を見張る顔に綺麗な笑みを浮かべた。
「これで殿下は余計なことは考えられません。反省するまでお名前は呼びません。覚悟してくださいませ」
カローナは第一王子の胸から手を離し、足早に部屋を出て行く。
カローナの母親は恋をして国を飛び出した皇女である。カローナもその血を引いていた。帰宅するため馬車に乗り、冷静になったカローナは自分の行為を思い出し赤面した顔を手で覆い羞恥に震える。最初は悲しかったが途中で怒りが我慢できなかった。自分を前にして他のカローナをずっと思い浮かべていた第一王子にも。夢でも自分の居場所を取られるのが嫌だった。もっと早くに話を聞かなかった自身に後悔していた。
第一王子は視野が狭いと思っても自身も同じだと反省し、これからは自分が頑張ることを決めたが、自身の行為を思い出し平静を装い第一王子に会える気がしなかった。当分会うのは控えて、カローナは頼りない婚約者のためにさらに本格的に動き出すことを決めた。そして今頃きっと自分のことで頭がいっぱいの第一王子を思い浮かべて笑った。
トネリは固まっている第一王子の前で手を振っても声を掛けても反応がない。二人っきりになりたそうだったので外していた。第一王子はいつもカローナを送っていたのに、一人で帰るカローナを見て、様子を見に戻ってきた。
トネリの留学の話はカローナが潰した。これ以上第一王子の腹心を減らすわけにはいかず、トネリの生家にはマグナ公爵家が後見につき、第二王子派に手出しはさせなかった。
しばらくして第一王子が呟いた。
「怒らせた。だがなぜ怒ったかわからん」
「殿下、もう少し事情を教えていただかないと何も言えません」
第一王子はトネリにカローナとのやり取りを説明した。トネリは初めての痴話喧嘩に笑いをこらえる。
トネリは第一王子の昔話を夢の世界の話と捉えていた。そして第一王子が鈍いのはよく知っていた。
「殿下、嫉妬ですよ。同じ存在でも違うカローナ様でしょう?自分と一緒にいる時に他の女性を重ねていたと知れば、温和なカローナ様でも怒りますよ。しかも、第三王子殿下と結ばれたほうが幸せになれるって言えば傷つきますよ。カローナ様は殿下の隣で幸せそうですよ。謝罪しないと。夢に妬くカローナ様もお可愛らしい。すみません」
トネリは我慢できずに笑い出す。
「傷つけた。私はカローナを・・」
第一王子はカローナが関わると頼りなかった。最初は第一王子がカローナの世話を甲斐甲斐しくやいていたがいつの間にか立場が逆転した。
カローナはきめ細かく、視野が広く、気が利く。
第一王子は目の前の転んだ幼女がいれば抱き上げ、家まで送る。カローナは一人で出歩く幼女の背景を調べ介入が必要なら、第一王子にさり気なく声をかけ動かす。
第一王子の苦手や見落としを息をするように補う。
幼女から少女に成長し、カローナを意識して言葉に濁す第一王子の言葉を上手に読み解く。不器用な王子と器用なカローナ。
ただカローナにも欠点はある。運動が苦手で乗馬さえ見ている方がハラハラする腕前の持ち主。乗馬が必要な時は第一王子がいつも相乗りして前に乗せる。カローナが苦手なことは全て第一王子が得意なため何も問題なかった。
誰もが匙を投げたカローナの乗馬の練習に根気強く付き合ったのは第一王子とイナナである。
馬から落馬するカローナを何度も受け止めたのは第一王子。イナナが馬を殺処分しようとしたのをカローナに嗜められていたのは笑い話として有名である。
情けなく弱った今の王子の相手はカローナが適任である。トネリとしては飛び出したカローナを追いかけて欲しかったが期待していけないのはよく知っている。
カローナを傷つけた、自分には幸せにできないと落ち込む姿がさらに笑いを誘う。民に威厳があり頼もしいと慕われる王子と正反対で。
「信じられないならカローナ様に任せましょう。殿下の苦手を補うのはカローナ様の得意なことでしょう?きっと幸せにしてくださいますよ。それとも、花でも持って求婚しにいかれますか?」
「求婚・・?」
笑うのを堪えて、真顔を作ったトネリは鈍い主にゆっくりと問いかける。自分本位に見える第一王子は実は他人優先の思考の持ち主と知るものは少ない。
「婚約者が恋人になってもいいと思いますよ。殿下、正直に教えてください。カローナ様が第三王子殿下と結ばれて殿下は幸せになりますか?ご自分のことだけ考えてください」
第一王子は首を横に振る。
「なれん。カローナのいない世界は真っ暗だ」
「なら簡単です。私もカローナ様も殿下の幸せを願っております。たまには昔のように堂々と自分本位に命じてください。自分が幸せになるために欲を持っていいんです。不幸な王様が治める国よりも幸せな王様が治める国の方が臣下は幸せですよ」
「行ってくる」
窓から出て行く第一王子をトネリは見送る。将軍にも負けない第一王子に護衛はいらなかった。
第一王子は途中で庭園の花を眺め一輪の赤い薔薇を手折り厩に向かった。
****
カローナはマグナ公爵邸に帰り自室で兎の縫いぐるみを抱いていた。
「お姉様、」
「イナナ、ごめんね。後にして、ちょっと今は・・」
カローナは書類を持つ妹と冷静に話ができる心境ではなかった。
赤面しているカローナを見てイナナは笑う。
カローナが第一王子を慕っているのは一目瞭然で、イナナは赤面する姉も可愛いと笑みを浮かべて第一王子の側近候補の資料は後で渡すために立ち去る。
第一王子派の中心はカローナとイナナである。第一妃は息子に見放され、プライドをマグナ公爵夫人とイナナが叩き折り、王太后に叱責されたために静かに妃の執務だけこなし、人格が変わったと囁かれていた。
先触れのない第一王子の訪問をイナナは受け入れて姉の部屋に通す。
第一王子はカローナの部屋に入り昔、贈った縫いぐるみに顔を埋めている真っ赤なカローナを見て、口づけられたのを思い出し顔に熱が籠った。
「カローナ」
カローナは幻聴だと思っていた。顔を上げると、赤面している第一王子が見えて笑う。第一王子は赤面して微笑んだカローナの顔を見たら何も言えなくなった。移動しながら考えていた言葉は頭から吹き飛んだ。無言でずっと持っていた一輪の薔薇をカローナに差し出すとカローナが目を丸くする。
第一王子の指から血が流れていた。
薔薇の棘を取り除いていなかった。カローナは夢さえ抜けている王子に苦笑し、薔薇を受け取り、傷だらけの手を掴み、流れ出る血をハンカチで拭いながら手当てをする。
第一王子は自分の手にハンカチを巻き、微笑んだ顔にトネリの言葉を思い出す。
「カローナ」
カローナは第一王子の声に顔をあげる。第一王子はカローナのいない世界で生きたくない。何も考えずに自分本位の願いを伝えていいかわからない。好きでたまらない赤い瞳を見たら我慢できなかった。
「私は、そなたが、いないと駄目だ。共に歩んでくれぬか?」
カローナは赤面して必死に言葉にする夢の中の第一王子も本物と一緒で不器用だと笑いたくなるのを我慢する。本物よりも饒舌なのは夢のおかげかと感心しながら夢でも空気を読むのは大事なので真面目な顔を作る。
「はい。そのかわりもう秘密はなしですよ。」
第一王子は拒絶されずに安堵し、カローナの真っ赤な真顔に咎める口調に怒らせたことをようやく思い出した。
「気をつける」
「ちゃんと言葉にしてください。私は何があっても傍を離れません。覚悟してください」
「ぜ、善処する。」
「はい。お願いします。殿下」
カローナの言葉が嬉しいのに、殿下と呼ばれるのが寂しかった。
「名を」
「夢といえ反省するまでお仕置きです。でもよくできたらご褒美あげますよ」
甘い笑みを浮かべたカローナを見て、第一王子の熱が一気に上がった。第一王子は意識をするとさらに言葉にできない。自分がまた傷つけてしまうかもしれないと怖くてたまらなかった。
第一王子はカローナを抱きしめる。
「カローナ、いずれ、言うから、待っててくれぬか……」
第一王子にとって精一杯だった。良く考えて冷静な時でないと伝えられない。それにどう言葉にしていいかわからなかった。
「はい。殿下のお心のままに」
イナナは二人のやり取りを聞いていた。イナナは第一王子をヘタレと心の中で罵ったが姉が笑顔なので今は許すことにした。第一王子はカローナとイナナの時間を邪魔しなかったので敵と認識されていなかった。
抱き合う二人を邪魔しないようにイナナは姉の部屋に人払いを命じる。
第一王子はカローナが夢だと思っているとは気づかなかった。翌日からカローナは伯父夫婦の元に逃げ込みながら地方貴族を第一王子派にするため動いていた。
カローナは第一王子の顔を赤面せずに見られるようになる方法の相談を伯母にしていた。その頃第一王子はイナナから姉が姿を消したと聞き血相を変えて捜索しているとはカローナも伯父夫婦も知らない。
姉を怒らせた第一王子への細やかな報復は忘れないイナナだった。
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