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番外編
皇太子夫婦の日常8
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ルオが報告を終えた頃、慰労会が行われていた。
リーンとラディルは慰労会で調査団に労りと感謝の言葉を告げて笑顔で退席する。調査団員は豪華な料理と酒を楽しみながらようやく帰ってこれたとほっとする。穏やかな皇太子はいつの間にか冷たい短気な男に成長していた。見目麗しい妃殿下にそっくりな愛らしい皇子が同じ血を引いているのが不思議に思い、同じ瞳の色なのにこんなに印象が違うのかとラディルの顔を眺めていた。ラディルは集まる視線にニコッと笑って手を振ってリーンに手を引かれて退席して行った。ルオの無茶に振り回された者達はどうか妃殿下に似るように祈りを捧げながら用意された酒を流し込む。労りのカケラもない皇太子と違い慈愛に満ちた微笑みで貴重なお役目を果たしたと労りの席を用意する皇太子妃は正反対だった。ルオが怖いため、リーンとラディルを引きとめる者はいなかった。
家臣を労わる役目を終えたリーンとラディルは宝物庫に運び込まれた宝を眺めていた。ルオが訪ねた時はリーンは初めて見る文献に夢中で読み耽り、ラディルはイナの解説を聞きながら宝を眺めている。二人との時間を楽しみにしていたルオが呆然としている様子に気付いたルオの護衛騎士はラディルに冒険の話を聞きたくありませんか?と声を掛けた。ラディルは何度か瞬きをして、大好きな単語に目を輝かせルオに洞窟の話をねだりに駆け寄る。ルオは愛妻にそっくりの顔ではしゃぐ愛息子に満面の笑みを浮かべ、抱き上げて強請られるまま話し出す。ルオの護衛騎士はラディルとの時間を奪われたイナナに睨まれたが気づかないフリをする。調査中にルオの世話役として苦労させられたのでこれ以上、ルオを宥めるのは勘弁して欲しかった。家臣の心情など気に留めないルオは罠の話にさらに目を輝かせるラディルにいずれ連れて行くと伝えるとにっこり笑う顔を見て初めて初代の洞窟が見つかり罠を解除してよかったと思っていた。
ルオの話が終わってもリーンは文献から顔を上げない。食事の時間になり呼びかけても反応しないリーンからルオは文献を取り上げる。名残惜しそうに文献を見つめるリーンに負けて後日、離宮に持ち出す許可をもらうと話すとしぶしぶ頷き、ルオに差し出される手を取った。リーンは文献に夢中でルオへの労り時間を作ったことが頭から抜け落ちていた。ルオは放っておいたら眠らずに読み続けそうなリーンに昼間だけ持ち出す許可をもらうことを心に決める。文献に夢中なリーンに自身が放っておかれるのは避けたかった。宝物庫に入ったルオに視線を向けずにずっと文献に夢中な様子にひそかに傷ついていた。
ルオに手を引かれリーンは離宮に戻ると大事なことを思い出した。
文献よりも大事なことだった。ただ場所を選ばなければいけない慎重な話題だった。
食事を終えて、ラディルをイナに預け、ルオと二人っきりになったリーンは誰も中に入れないように護衛騎士に命じ、会話が聞こえないように寝室にルオの手を引いて移動した。
ルオは二人になりたいと甘えるリーンに顔が緩んでいた。
リーンは浮かれるルオに気づかない。ルオが大国のしかも王族所有の印のある剣を持ってる理由を聞かなければいけなかった。怖くても向き合わなければいけないためリーンは平静を装い穏やかな笑みを浮かべる。
「ルオ、見慣れない剣があったけど、どうしたの?」
ルオはリーンの張り付けた笑いを見て自身の勘違いに気づく。そして大事な伝言を伝えていないことにも。
「もらった。義兄上がリーンに片付いたと伝えてほしいって。伝えるの忘れてごめん。」
「お兄様が来たの!?」
「ああ。忙しそうだった。王子殿下を連れて帰られたよ」
リーンは衝撃の事実に息を飲み目を丸くする。
第二王子への手紙を託した侍従はまだ戻らない。リーンはずっと待っていたので返事が欲しかった。無駄を嫌う王族の筆頭の義兄ならと考えを改めた。
第一王子の断罪に動いているだろう第二王子に、リーンは小国に害がないように裁くならご自由にと書状を送った。書状を使えば第二王子なら簡単に断罪できる。書状がなくても裁けるが、リーンが動いた事実さえ認識してもらえばいいかと思い直す。
兄が言うなら解決したとリーンはほっとしたが、問題はまだ残っており大事な話の途中だったと王族の仮面を被り直した。
「ルオ、義兄様に何か言われた?」
リーンにとって一番大事なのは第一王子がルオに余計なことを言っていないか。大国の姫の役割を知られたらリーンはルオを殺さないといけないので、穏やかな顔を作り、ルオに気付かれないように探るように瞳を見つめる。
ルオは冷たい瞳で見つめるリーンを抱き上げてベッドに腰を下ろす。
「何が言いたいかよくわからなかった。リーンを愛してるか聞かれたから、愛してるしどんなリーンでも添い遂げますって答えた」
「え?」
リーンはルオの行動も言動も予想外過ぎて思わず首を傾げる。
「薬を使われたからか意識が朦朧としてずっとぼんやりしてた。ただリーンのことを聞かれたのは覚えてる。俺はリーンが俺の事を嫌いになっても愛すし妃として側に置くって。リーンになら俺があげられるものはなんでもあげるよ」
ルオに嘘をついてる様子はなく、いつもと様子は変わらない。
義兄がルオに薬を盛ったことにリーンは自分の読みの甘さを後悔して拳を握る。
「ルオ、薬って」
心配そうに自分を見つめ拳を握りしてるリーンの手にそっと手を重ねてルオは優しく笑いかける。
「デジロに薬をもらったから問題ない。リーン、小国よりも母国を大事に思って動いていいよ。リーンが大事にしたいものを教えてくれれば俺は精一杯頑張るから。大事なものなんてそれぞれ違う。俺は小国民よりリーンとラディルが大事だよ。皇帝になってもかわらない。二人と幸せに生きるために国を豊かにして大きくするよ。無理に一つを選ばなくていい。リーンが俺の首が欲しいならあげるよ。俺はリーンが好きでたまらない。小国民がリーンを殺せと言ったら国を捨てて連れて逃げるよ。リーンさえ傍にいてくれれば俺はどんなことも耐えられる」
リーンにはルオの優しい声から聞こえる言葉の意味がわからなかった。皇太子としてはいさめなければいけない言葉ばかりである。
大国のために生きるリーンはルオを騙し続ける。それでもルオはいいと言う。大国の姫でもなく皇太子妃でもないリーンを求めてくれるのは家族以外でルオだけ。真実は言えない。リーンは民よりルオを選べない。リーンの冷たい顔をルオは知らない。ルオの言葉はいつもリーンの胸を暖かくしてくれた。リーンの頭の中はごちゃごちゃになり王族の仮面も被れなかった。リーンの瞳をから涙がポツリと流れ頬をつたって握った拳に落ちた。
「ルオ、ごめんなさい。離さないで。ルオといたい」
弱った声で迷子のような顔をして握った手を震わせ涙を流すリーンをルオは強く抱きしめる。ルオはリーンとラディルさえいればいい。
「俺は何があってもリーンを手放さない。どんなリーンも愛しているよ。リーンがいないと生きられないかもな」
リーンは陽気な声でふざけているルオの胸からゆっくりと顔をあげる。
「バカ」
「否定はしない。リーンは我儘言いながら俺に甘えていればいい。曲がりなりにも俺は皇太子。国では2番の権力者だ。大国の姫は我儘なんだろう?」
大国の姫は我儘とリーンはよく自分のことを言っていた。他国の貴族や王子は大国の王族をよく知っているのでこの言葉で押し通せることが多い。
大国の姫に小国の皇太子と堂々と言えるのは度胸があるのか、愚かなのかは判断できない。リーンは陽気にふざけるルオを静かに見つめる。
リーンはふざけていると思ってもルオは本気だった。声が明るいのは離さないでと甘える妻に浮かれているだけである。
「もし私が冷酷な人間だったら?」
「想像つかないけど・・・。必死で謝って許してもらうだろうな」
先程から予想の斜め上の返答をするルオにリーンは首を傾げる。
「え?」
「そこまで怒らせたくないけどな。俺はリーンを嫌うことはない。それに兄上と比べたらマシだろう?」
ルオにとってリーンが冷酷になって恐怖の別居生活は避けたい。そして自分も皇族らしくないがそれ以上にまずい人物を知っている。
リーンは陽気に話す夫に固まる。リーンはルオを騙し続けることに罪悪感を抱いている。
でも抱きしめる腕の持ち主はリーンが気付かなければ一生オルとして騙すつもりだった。今もオルとしてたくさんの人を騙している。リーンはオルよりも自分がまともだと思っている。自分の欲求、しかも食欲を満たす為に戦争を招くような危険な行為はしない。ルオはオルに成りすますのに罪悪感のカケラもない。
皇太子夫妻に騙されている国民が滑稽に思えた。騙されても民達は幸せそうに笑って自分達を慕ってくれている。
リーンは噴き出して、肩を震わせて笑い出した。ルオは妻の豹変に目を見張ったが涙が止まり楽しそうならいいとつられて笑う。
ルオはリーンが側にいて笑顔を見せてくれるならそれだけでいい。リーンは笑いながら優しい顔で自分を見る夫のことを考えていた。
ルオはリーンの予想をいつも超える。大国にも小国にも役にたてるように頑張ればいいと。ルオとならできる気がした。ルオはリーンにないものをたくさん持っている。義兄達に会い押しつぶされそうになっていたリーンの心がようやく軽くなった瞬間だった。
リーンはルオの評価と解釈だけは間違っていることに生涯気づかなかった。
リーンはルオの左胸に耳をあててゆっくりと目を閉じる。ルオは寝息をたてはじめたリーンを抱いたままゆっくりと寝転び、神々しい金髪を梳いた。
王子達の話は覚えていたが忘れろと言われので誰にも、リーンにも話せない。義兄はリーンのためにならないことはしないと信じていた。
大国の王族はルオには想像がつかないが闇が深いのは感じた。意味のわからない話もあった。なによりルオにとって絶対に忘れられない話があった。
大国にリーンを差し出せと言わせないくらい力をつけないといけなかった。リーンは大国に負けない国にすると言っている。
諦めた初恋が叶い、小国の皇子が大国の姫を妃にする奇跡がおき、女神のような妃の心も手に入れた。ルオの諦めたものが腕の中にいる。自分の傍で愛をくれる夢のような奇跡が起きていた。腕の中で眠る奇跡の化身に比べたら、小国を大きくすることもできる気がした。ルオの妃は女神で息子も天使である。女神と天使がいればできないことはない。ルオはゆっくり目を閉じ夢の世界に意識を飛ばした。
***
ルオは朝食の席でリーンの前に用意された薬湯を見て、食事の手を止める。ラディルの前にはきちんと料理が用意され食事をしていることにほっと息をついた。
「リーン、食事は?」
「食欲が・・・。でもデジロ様がいるから大丈夫。体に合わせて調合してくれるの。毎日薬湯が飲めるの幸せ」
「美味しくないのに」
「ラディルも大きくなったらわかるわ。」
幸せそうに笑うリーンの味覚は薬湯に関してはおかしかった。苦みを抑えても薬湯を美味しいと幸せそうに飲めるのはリーンだけである。ラディルは不思議そうな顔で母を見ながら行儀よくパンを口に運ぶ。イナに母の食事は特別のため真似してはいけないと教えられていた。
ルオはラディルの食育だけはリーンに任せられないと思いながら、幸せそうな顔で薬湯を飲むリーンに複雑だった。
「ルー様も欲しい?」
「リーンの薬湯を取ったりしないよ」
ルオが薬湯を欲しがっていると勘違いしたリーンに苦笑すると、嬉しそうに頷きまた薬湯を飲みはじめる。ルオはラディルに食欲がないのかと心配されたので優しい息子に違うと伝えパンを手に伸ばした。
***
ルオは執務室にいるデジロを捕まえリーンの体調を聞いた。
デジロは薬の整理の邪魔をされ嫌そうな顔でルオに振り返る。丁度リーンがラディルと手を繋いで入ってきたので、顔を眺めて呟く。
「姫様は連日の不眠と疲労で食事が喉を通りません。昨夜はよく眠れたようですが。不眠が解消するなら明後日あたりからスープなら召し上がるでしょう」
デジロは用件を伝えたので自身の作業を再開する。
デジロを迎えてからリーンの体重が増え、気に入らなくてもルオは医務官としてデジロの優秀さを認めていた。体調不良には見えないのに正反対な診断結果にできるだけ安静に過ごさせようと一人で頷いていた。
ルオは約束通り宝物庫から持ち出した文献を渡すと嬉しそうに駆け寄り笑う可愛いらしい妻が心配で堪らなかった。
ラディルの授業は小国の歴史だったが貴重な文献が目の前にあるためラディルは小国の古語の勉強も始まった。リーンが読み上げ、時々デジロが直しを入れ、ルオの側近は古語が読めないので必死に書き写す。ルオはリーンを夢中にさせる文献に嫉妬しながら余計な物を残した初代に心の中で恨みながら執務を進めていた。
突然護衛騎士がリーンとラディルを背に庇い剣に手を掛ける。窓が開き、緊張感の高まる中、窓から中に入って来た人物に視線が集まる。侵入者を見て最初に動いたのはリーンだった。
「スサナ、ラディルを連れて今すぐに別室に。呼ぶまで近づけないで」
リーンの冷たい声にスサナがラディルを抱き上げラディルの護衛騎士に囲まれ退室する。リーンはラディルの姿がなくなったので護衛騎士の背中から飛び出し侵入者のオルの顔に向かって拳を勢いよく突き出す。
「何するんだよ!?」
リーンの拳を島国に婿入りしたルオの双子の兄であるオルは軽々と避ける。リーンは躱されても、オルに睨まれても全く当たらなくても殴ろうとする手を止めない。
「あの時は無理でしたが絶対に殴るって決めてました」
「やめろよ」
リーンにとっては渾身の、それ以外にとってはゆっくりとした拳は一向にかする様子もなく、主の願いを叶えるためにリーンの護衛騎士がオルを羽交い締めにする。リーンはオルの頬に狙いを定めて拳を付き出した。オルはリーンの手を蹴りあげようとしたが勢い余りオルの足はリーンの頭に直撃し、頭に衝撃を受け視界がぼやけたリーンの体は傾く。
「姫様!?」
倒れる体をオルを放り投げた護衛騎士が抱きとめるとリーンは気を失っていた。
リーンの拳に力がないことは明らかで誰もオルが反撃するとは思わなかった。
「デジロ、リーンを!!」
デジロは怒鳴り声を上げるルオに呼ばれてゆっくり歩いてリーンに近づき、顔を見て頭を確認するとコブができていた。
「さすが姫様。虚弱体質は健在。」
デジロは関心するように呟き護衛騎士に抱かれたリーンの頭に薬草を貼る。
「デジロ、リーンは!?」
「しばらくしたら起きます。」
ルオは眠るリーンの頬に手を添えてほっと息を吐く。リーンの無事に安心して一瞬力が抜けたが、元凶を思い出しオルを睨みつける。
「兄上、なんて」
「先に手を出したのはリーンだろ?正当防衛だ」
ルオの言葉を遮り、悪気のカケラもない兄にルオが声を荒げる。
「兄上はリーンに殴られても当然だよ。リーンに、まず女性に手を出すなよ。」
オルは大げさな弟を呆れた顔で見る。
「大げさだ。案外弱いんだな」
「リーンのどこを見て強く見えるんだよ!? 風に飛ばされそうだろう!? この華奢な体を、」
双子が騒いでいるのは執務室である。二人の服装も髪の長さも違っていたので見分けをつけるのは簡単であり、入れ替わりを知らない家臣が顔を見合わせ呟く。
「兄上?」
「ルオ殿下?」
焦ったルオも勝手に不法侵入したオルも悪い。ルオの家臣で入れ替わりを知っていたのは侍従と幼馴染の護衛騎士だけである。リーンの家臣は双子の事情は知っていても興味がないので視線を向けない。たとえ目の前で入れ替わりのくだらない事情を口に出し、子供のように喧嘩をする姿に家臣に呆れられ見捨てられても。
「お前、バカだな」
「兄上が勝手に来るから悪い!!なんで忍びこんできたんだよ!!」
「ルオ、戻ろう。やはり入れ替わりは駄目だ」
「は!? 嫌だよ。前も断った」
「俺は島国の生活に耐えられない。お前の所為だ。責任とれ」
「知らないよ。いい加減にして」
「なんで種芋を送ってきたんだよ。子供の祝いならもっとまともな物を寄越せ。どうしてうちに芋ばかり贈るんだよ。」
ルオは心底嫌そうな顔をしているオルに子供ができたことは知らなかった。ルオの名前を自由に使えるのはリーンだけである。
嫌悪しても贈り物をする律儀なリーンとは正反対の贈り物に文句をつける兄の非常識さに呆れはてる。
ルオはリーンに贈り物をする男達が不愉快でも、文句を言ったことはない。そしてルオの記憶の中では一番酷いものを贈ったのは目の前のを兄である。
「いらないなら捨てればいい。腐った果物を贈る兄上には言われたくない。あれの所為でリーンは倒れた」
「知るか。おかげで島国の主食が芋に変わった!! 今までルーラが食事に何も言わなかった。だが子供の教育に良くないから、俺にも同じ芋を食べろと、毎日食卓に芋しか並ばない!! あんなものを毎日食えるか!?」
「知らないよ。子供を作ったんだから責任とれよ。俺は」
ルオとオルの喧嘩を止まらない。
ラディルがスサナの目を盗み、執務室に入り大好きな母の姿を探すと長椅子で眠っている。父の怒った声が聞こえても優先するのは母である。頭に薬草が貼られている母を見て、具合が悪い時はデジロに診察してもらうことを覚えていたラディルはデジロのズボンを引っ張る。
「先生、お母様はどうしたの?」
「蹴られて眠られてますが、すぐ起きますよ」
「蹴る?」
デジロは首を傾げる生徒にリーンとオルの攻防を丁寧に教えた。デジロは聞かれればなんでも答える人間であり、まだ幼い無知なラディルには丁寧に教えてほしいとリーンに頼まれていた。
ラディルは母が人を殴ることを見たことがない。怒っても頬をつねったり、頬を突っつくだけである。頬をつねられるのはラディルではなくルオである。ラディルはどんな時も事情を聞くことを母から教わっていた。
「お母様はどうして?」
「姫様は酷いことをたくさんされたんです。その仕返しに攻撃されましたが、躱されてしまいました」
リーンに危害を加えたのでさらにオルへの嫌悪が強くなったイナが忌々しそうに答え、デジロを睨む。
「デジロ、匂いは美味しそうか無臭の苦みの強い薬湯作って」
「まぁいいけど。」
デジロはラディルの授業がなくなり暇だったので執務室の隅で調合を始める。皇太子宮の共同執務室は広間と同じ広さがあるが実際に利用しているのは6分の1のスペースだった。執務室と調理場以外の部屋は全て2階に作られていた。
リーンはゆっくりと目を開けた。
「お母様、大丈夫?」
心配そうに見るラディルをリーンは抱き寄せて頭を撫でる。
「うん。嫌な夢を見てたみたい。」
リーンは聞こえる声に頭を触ると薬草が手に触れ悪夢ではないと気付く。
「ラディル、お母様はお仕事があるからイナ達とお散歩に行ってらっしゃい」
リーンはラディルの教育に悪いオルと会わせたくない。綺麗事だけでは生きていけないのはわかっていても親としては悪い見本は分別のつく年齢になってから目に入れさせたい。
「姫様、そろそろ食事ですが」
イナにリーンはラディルに別室で食事をとらせるように命じる。イナはラディルをスサナに預けるために手を引いて出て行く。
デジロに差し出された薬湯を受け取り口に含み、聞こえる声に荒れる心を必死に抑えようと努力していた。幸いなことにリーンは双子の言葉は聞き取れていない。
リーンの薬湯の香ばしい匂いに気付いたオルが近づいた。
「リーン、それは何だ?」
「関係ありません」
公式の訪問でなければオルに礼儀を尽くすつもりはないリーンは目の前にいるオルから顔を背ける。リーンの手からコップが無くなり、自分の手を眺めてきょとんとする。オルはリーンから奪った薬湯を口に含み顔を顰める。
「何だこれ・・。飲めたものじゃない。お前、おかしいんじゃないか」
呆れる声にリーンは薬湯がオルに取られたことを気づき顔をあげて眉を吊り上げて睨む。
「返してください。私の薬湯勝手に飲んで、侮辱するなど許しません」
好戦的なリーンにオルはニヤリと笑う。
「俺は相手になってもいいけど、」
オルとリーンの声が聞こえてルオが慌てて駆け寄る。ルオはオルの相手をやめて執務を再開した。声が聞こえなくなり諦めたと思った兄がまさかリーンの傍にいるとは思わなかった。
「兄上、いい加減にして」
リーンはオルへのイライラが止まらない。自分が負けたのは悔しい。一番許せないのはデジロの薬湯をバカにされたこと。
拳を作って震えているリーンをルオが抱きしめた。また兄に殴りかかり、反撃されないように。ふと兄の手にリーンの薬湯があるのに気付いて顔を顰める。ルオはオルに取られることは慣れているがリーンの物を取るのは許せない。
喉が渇いていた時に匂いにつられて、欲求に忠実に手を出したとしても非常識な行動だった。オルは宮殿なら何をしても許されると思っていた。特に弟に全ての権限がある場所なら尚更。
「人の物をとるなよ。それ返して」
オルは薬湯を気に入らなかったので素直にルオに渡す。
ルオはオルから受け取った薬湯を怒りで震えているリーンを落ち着かせるためにゆっくりと飲ませる。口に広がる薬湯の優しい味にリーンの震えは止まったが悲しみに襲われる。リーンは連日の疲労にオルが加わり、心身共に限界が近かった。一晩ゆっくり眠っても回復していなかった。この優しい薬湯の侮辱が許せないのにリーンは無力だった。リーンは自分がおかしいことに気づいていなかった。
「ルオ、薬湯、酷い。でもまだ勝てない」
人前で瞳を潤ませて悲しそうな顔をするリーンは初めてだった。リーンの家臣の目が変わり、オルとたった一人を覗いては動揺して動けなかった。
リーンの泣き顔に慣れているデジロがリーンの頭に手を伸ばし撫でる。
「殿下、姫様はこれ以上興奮させたら倒れます。休ませてください」
「やだ。許せない」
いつもは気持ちよさそうな顔をしてデジロの声に頷くリーンは首を横に振る。主の不要なものを処分するのは家臣の務めである。動揺から徐々に回復した者達が動き出し、護衛騎士が剣に手をかける。戻ってきたイナも懐に手を入れニコリと笑う。
「姫様、私が斬ってさしあげます。ですからお休みください」
「姫様、イナにお任せください。処分します。」
リーンは何度か瞬きをして兄の教えを思い出しす。できないことは家臣が助けてくれるからリーンは正しい使い方を覚えるんだという教えを。リーンは自分の家臣を見て泣きそうな顔のままゆっくりと頷く。
「兄上、俺は譲らない。リーンに手を出したら次は斬るから。リーン行こうか」
ルオはリーンを抱き上げて寝室に足を進め、リーンはゆっくりと薬湯を飲んでいた。
薬湯を飲み終わり、ルオに優しく抱きしめられ、頭を撫でる手に力が抜けてうとうとして眠りについた。ルオはリーンの手からコップを取り、優しくベッドに寝かせる。眠るリーンを見ながら、ルオは入れ替わりたいと騒ぐ兄にため息をつく。
その頃オルが母親に嘘をつき島国での暮らしが辛いと訴えているとは予想もしなかった。オルは逃げ足は早くリーンの護衛騎士も宮殿に逃げられると手を出さなかった。
***
ルオが執務室に戻るとオルはいなかった。
「殿下、呼び方は」
ルオは双子皇子の入れ替わりに気づいた家臣達にごまかすのは諦めた。
「他言無用。ルオだけど公式ではオル」
「そんな気はしてました」
「は?」
笑っている家臣の一人の声にルオは目を見張る。
「リーン様を追いかてた頃のルオ殿下にそっくりでしたから。もしかしてとは思ってましたが・・」
「食にうるさい殿下が無関心になりましたから、違和感はありましたよ」
「見分けがつくのか?」
執務室で双子の喧嘩を聞いていた家臣は双子の入れ替わりの事情を知った。昔はわからなかったが今は見分けられる自信もあった。
初夜の後のリーンの豹変の理由も納得できた。
「リーン様を前に出せば簡単です。婚約者が入れ替われば怒りますよ。よく頑張りましたね」
ルオは婚姻当初リーンに嫌われていた。初夜で無体を強いたのかと想像さえしたが詳しい事情は聞けなかった。
事情を知った家臣はルオに同情していた。リーンに片思いをしていたルオなら余計に辛かっただろうと。ルオは労われるとは思っていなかった。
事情を知っていた侍従は容赦なく和やかな空気を壊すように書類をルオの前に音を立てて置く。オルの訪問でほとんど執務が進まず、早急に確認すべきことがあった。
「また入れ替わるんですか?」
侍従の言葉にルオは首を横に振る。
「まさか。リーンとラディルを連れて行っていいなら入れ替わってもいいけど」
「リーン様とラディル様は置いていってください」
侍従にとってルオがいなくなるより二人がいなくなるほうが問題である。
「なら譲らない。島国の芋の話はわかるか?」
「リーン様は島国の姫のルーラ様に飢饉に強い食料の相談をされていました。環境に左右されない何種類かの種芋をルーラ様とルオ殿下の祝いとして贈られました。芋の栽培に成功して島国の主食は芋になりつつあるそうです」
ルオはリーンの芋の研究を思い出した。栄養価が低そうだが腹持ちは良かったが兄が嫌いそうな食材である。無自覚で兄に嫌がらせをしたリーンに小さく笑う。
「殿下、皇后陛下がお呼びです」
ルオは嫌な予感がしたので忙しかったが顔だけ出すことにした。
母親のもとを訪ねるとルオの予感が当たり上機嫌に母から差し出されたお菓子を食べているオルがいた。リーンは新商品のお菓子を皇后に献上していたため皇后の部屋には種類豊富なお菓子があり、皇后はお茶会の際の手土産にしていた。オルは見たことのないお菓子を食べ、製作者がリーンと聞いて感動し、リーンに頼めば食べ放題と気付き初めてリーンが魅力的に思えた。
ルオは目の前で上機嫌なオルの所為でリーンは寝込んでいると思うと殴りたかったが母の前では許されないので空いている席に座る。
皇后は上機嫌でお菓子を食べるオルを眺め、しばらくしてルオを見つめた。
「オルは元に戻すべきと」
「母上、ご存知だったんですか?」
ルオは皇后が事情をどこまで知っているかわからなかった。皇后は息子の言葉におっとりと微笑んだ。
「寝込んだリーンがずっとルオの名前を呼んでたから。私は陛下と貴方達が納得しているなら口を出すつもりはなかったわ」
母の前者の言葉にリーンを思い出し、ルオの荒んだ心が少しだけ回復した。早く執務を終わらせて眠るリーンの傍に行きたかった。ルオは元に戻るつもりはなく現実的にも無理である。
「母上、全てが遅すぎます。」
「もともとこの国の皇太子は俺だった」
オルの無責任な言葉にルオは呆れる。
「全部捨てて逃げたのに?兄上は5年も共に暮らした家族に情はないの?子供も産まれるんだろう?」
「ルーラは恐ろしい女だった。俺は知らなかった・・・。」
数年前にリーンを選んだルオに趣味が悪いと言い、リーンと喧嘩した記憶はないんだろうか・・。ルオは兄も自分と同じで記憶力が弱いことを思い出して、すでに記憶にないかと一人で頷く。嫌そうに呟く兄は家族と上手くいってないんだろうかと、兄の心配をしても、戻るべきとの言葉を聞いた瞬間にルオはオルへの心配を捨てた。ルオはなにを言われても戻りたくない。
「俺はリーンもラディルも愛しているから譲らない」
「ルオならうまくやるだろうが」
オルが欲望に忠実で頑固なことはよく知っていたが、ルオにも譲れないものができた。
「嫌だ。現実的に無理だ。」
険悪な双子を初めて見て困惑した皇后は頼りになる義娘がいないことに気付いた。
「ルオ、リーンも呼んだけどどうしたの?」
「リーンは寝込んでます。兄上に危害を加えられたので」
ルオはリーンを蹴ったことは生涯許さないと決めていた。
「正当防衛だ。先に手を出したのはリーンだ」
リーンの軽く遅い拳は護衛に抑えられても避けれたのは明らかだった。ルオの知る兄はあんなに早く反撃できる人間ではなかった。オルは弓と短剣は得意だが剣や体術は苦手で剣と体術の授業はいつもルオに押し付けて逃げていた。
「当たってなかっただろう。リーンの拳なんて痛くない。いつから反射で蹴りが出るようになったんだよ・・。」
「島国民は物理で解決する。ルオのほうが得意だろう?」
ルオは別に物理も荒事も得意ではない。どんな事情でも変わる気はない。
「絶対に嫌だ。」
「いつも仲が良かったのに・・どうしたのかしら・・。陛下も呼ぼうかしら」
皇后は初めて見る双子の喧嘩に困っていた。オルとルオの喧嘩は止まらず、しばらくして侍従がルオを呼びにきたため、ルオが退席したため収まった。
ルオはオルの頑固さはよくわかっている。母親が自分達に甘い事も…。リーンがオルの滞在理由を知れば怒ることが目に見えていたのでオルをどうやって送り返すか悩んでいた。
その頃ラディルは眠る母を見つめていた。ラディルは大好きな母に意地悪したオルが嫌いになった。リーンが眠っているのはオルが蹴とばした所為だと思い、どうやって母を守れるか悩みながらずっと眺めていた。
リーンが目覚めたのはラディルが眠る時間だった。
ゆっくり起きたリーンを見てラディルはベッドから起き上がり、寝室を出てイナを呼ぶ。イナに手伝ってもらいデジロから預かった薬湯にお湯をいれ、ゆっくりとリーンに渡す。リーンはラディルの優しさに胸が暖かくなり、薬湯を受け取り幸せな味がする薬湯を飲んで笑みを零した。
ラディルは大好きな母の笑みに、ニコッと笑う。ルオが寝室に行くとリーンとラディルが微笑み合っていた。頭の痛くなる兄の横暴に悩んでいたことは一瞬で頭から消え、ルオはリーン達を抱きしめ、幸せに浸った。
***
翌朝リーン達は皇后に朝食の席に招待された。
母からの招待と聞いた瞬間にルオの幸せな時間が壊れた。3人での朝食はルオにとって至福の時間である。
ルオはオルにラディルを会わせたくないというリーンの希望を聞いて、ラディルの同席だけ断る。ルオはリーンも休ませたかったが、リーンが拒んだ。
食事の席に着くとリーンはラディルのことを謝罪し、綺麗な笑みを浮かべて皇帝夫妻とオルに挨拶をする。
オルはリーンの穏やかな様子に機嫌が直ったと思っていた。穏やかな様子に昔のリーンを思い出しルーラよりもうまくやれるだろうと。オルは都合の悪いことはすぐに忘れる男だった。
和やかな話題が広がる中、オルの言葉に一部の者の動きが止まる。
「父上、過ちを正しましょう。俺達は元に戻るべきです。いつまでも民を騙すわけにはいきません。皇太子と指名されたのはルオではなく俺です。」
リーンはオルの言葉に何かが切れる音がした。入れ替わり騙したのは目の前で真摯な顔をしているオルである。自分の欲望に目が眩んだ・・・。何度思い出しても理解できない最低な人間である。自分の人を見る目のなさに嫌気がした。先ほどから重ねられる入れ替わりの罪に苦しむ言葉にリーンの心がどんどん冷え、冷笑を浮かべた自分に気付いて慌てて穏やかな笑みを浮かべる。
食事中にずっと我慢していた吐き気も消えた。
ルオが顔を顰めて口を開こうとすると寒気に襲われた。ルオは冷たい空気に隣を見るとリーンは穏やかな笑みを浮かべて食事をしている。そっと覗いたリーンの瞳は結婚当初のルオと共に社交をこなしていた頃とそっくりでトラウマを刺激され恐怖に襲われ冷たい汗が背中を流れた。
リーンは目の前の料理の最後の一口を飲みこみ、優雅に食後の紅茶を口に運ぶ。紅茶を飲み干し、戻るべきと熱弁するオルに微笑みかける。
「オル様が皇太子と主張されるなら役目が果たせるか、示してください」
「リーン?」
ルオは穏やかな声でオルの主張を受け入れようとしているにリーンに恐る恐る声をかけて、顔を見た。
「今日の執務をオル様にお願いします。ルー様は私のかわりに視察に行ってください」
ルオはリーンが自分の声に振り返り、瞳を合わせてくれたことに安心したが見覚えのある冷たい瞳に反射で頷く。一歩間違えれば恐怖の別居生活だった。
皇帝は何も言えなかった。昨夜皇后から聞いた話は恐怖で寝込みたかった。
皇后が気づいたことよりもリーンが入れ替わりを知っていたことに恐怖に震えた。
新婚当初は、留学中は時間の許す限りリーンに付き添っていたルオが公務以外は側にいないことに違和感を覚えたがリーンに不自由がないか聞いてもルオへの不満を一切話さず、よくしていただいておりますと微笑んでいた。パーティーでは親しげに寄り添っていたので、違和感は杞憂と思い隣で意味深に皇太子夫妻を見ている宰相も見ないフリをした。
皇帝が安心したのはルオがリーンを連れてお忍びに出かけると聞き、様子を見に行ったときだった。寄り添う二人を見て、小国の危機は去ったと・・・。しばらくして、離縁騒動がおきたがすぐに収まった。冷酷な顔で罰を命じるルオに引いても信頼する宰相がルオを逞しくなったと評価するので、見て見ぬふりをして何も言わなかった。
ルオはリーンに関しては過剰な反応をするが、二人はいつも幸せそうで、国も豊かになりつつある。病弱でも出来た義娘と可愛い孫に恵まれてようやく皇家は安泰と安心していた。
伝説の初代の洞窟も見つかり皇帝には良い風が吹いているように感じていた。
突然帰国したオルと皇后の主張を聞くまでは・・。妻からオルが悩んでいると話を聞いた皇帝は頭が真っ白になった。
家族の情に厚い皇后は悩みを抱えて極秘で帰国したオルを心配していた。リーンが皇后の仕事を引き継ぎ、視察と夫人との茶会しかこなしていなかったため、国が豊かになるに伴い増えた業務の量を知らなかった。またリーンは皇后の願いをいつも叶えていた。リーンの用意する土産や晩餐や接待の評判はよく皇后の評価も上がっていた。貴族達は皇后の仕事をリーンが全て取り仕切るとは気づかず、皇后の思い付きもリーンが手を回し、皇后の名で催されていた。
皇后は自分の話をいつも真摯に受け止め、形にしてくれるリーンを信頼していた。双子の入れ替わりを知っても、嫌な顔をせずに笑顔で受け入れてくれる心の広い義娘と。オルの悩みもリーンなら解決してくれると信じていた。皇后のリーンへの不満は自分に甘えてくれないことだけだった。
皇后は息子に頼られると甘やかしてしまう癖があり今はオルのことで頭がいっぱいだった。自分を頼りにしないルオやラディルのことは頭から離れていた。
大国の姫と婚約するまでは小国は外交も最低限しかしなかった。そのため限られた貴族以外は外の世界に疎い。皇后は世継ぎを産み、皇帝に寄り添い民を慈しむことを求められた。小国の貴族は穏やかだが一部に野心を持つ者もいる。宰相は後者で皇帝を自分の意のままに操っていた。皇后を自分の娘にすれば他の貴族からの邪魔も入らない。そのため美しい娘を慈愛に満ち、家族を一心に信じるように育てあげ皇后に押し、皇帝は信頼する宰相の言葉を快く受け入れた。
野心を持つ宰相をリーンは貴族らしいと評価し上手く付き合っていた。宰相とリーンは本質が似ていたため手を組んでいた。
皇帝は二人の入れ替わりを許さなかった。皇后は皇帝の言葉は全て従ってきたが、母としては受け入れられなかった。オルはルオのほうが島国にふさわしい。自分は嘘をついて生きるのは嫌だと母に悲痛な顔で訴えていた。一晩寝ればオル達も冷静になると期待していたが、まさか朝食の席にルオ達を招待して、切り出すとは思っていなかった。皇帝にとって人払いをしていたことだけが幸いだった。
皇帝は穏やかに笑っているが大国の姫であるリーンが怖かった。リーンが嫁いで外国からの訪問者が増えた。訪問者の話を聞き、リーンは大国の国王陛下のお気に入りで諸外国の王族からも好かれていることを知った。
ただ決して怒らせてはいけないことを知ったのはルオとリーンの離縁騒動の後だった。嘘をついた令嬢は他国に嫁いだ。小国から嫁いだ令嬢を快く迎えた王太子夫妻は友人の皇太子妃の話を聞いた。リーンを悪女と貶めた令嬢は王太子に斬られ、皇帝にリーンが不遇な扱いを受けるなら貰い受けると書状が届き、ルオが動いて収めた。小国の恥となる令嬢を他国に送った公爵家の血縁者は爵位を剥奪し平民に落とされた。王太子夫妻がリーンに会うためにわざわざ足を運び、過剰に心配されたリーンは不思議に思いながらも接待し取りなしていた。
リーンに離縁されたら小国の危機だった。大国に入れ替わりが知られれば攻め滅ぼされ、大国が動かなくてもリーンのために他国が動く。皇帝に言える言葉は一つだけだった。
「リーンの好きにしなさい」
「ありがとうございます」
穏やかに微笑み礼をしたリーンに皇后とオルだけが笑っていた。
リーンがオルを諫めない皇帝に一瞬冷たい視線をむけたのは誰も気付かなかった。
リーンは離宮に戻り、ルオ達の目を盗んで朝食を全て吐き出し懐かしい血の味には気付かないフリをする。イナにラディルをオルに決して近づけないように命じ、朝食を食べ終わったラディルをリーンは抱きしめる。
「ラディル、今日は離宮で過ごして。皇太子宮には絶対に近づかないで。お母様はやらないといけないことがあるの」
初めて聞く母の冷たい声にラディルは母の胸から顔を出した。
「お母様?」
「デジロ様は離宮に呼ぶから。」
リーンの顔をじっと見つめて、しばらくするとラディルは首を横に振る。
「お勉強はお休み。スサナと離宮で遊ぶ。先生とイナはいらない」
ラディルは変な母が心配だったので母の強い味方のデジロとイナに傍にいてほしかった。
「リーン様、お任せください。何かあれば報せます。護衛も離しません。目を離しません」
スサナはラディルが目を盗んで抜け出したことを反省していた。リーンに咎められなくても次はないとラディルの護衛達と綿密な計画を立てていた。
リーンはやる気満々の頼もしいスサナにラディルを任せ、息子の額に口づけを落として立ち去る。
ルオはリーン達の様子を見ながら、リーンの冷たい空気に冷たい汗が止まらず怯えていたが余計なことは言わずに視察に出かけた。ルオは自身に冷たい視線を向ける存在には気付かなかった。
リーンとラディルは慰労会で調査団に労りと感謝の言葉を告げて笑顔で退席する。調査団員は豪華な料理と酒を楽しみながらようやく帰ってこれたとほっとする。穏やかな皇太子はいつの間にか冷たい短気な男に成長していた。見目麗しい妃殿下にそっくりな愛らしい皇子が同じ血を引いているのが不思議に思い、同じ瞳の色なのにこんなに印象が違うのかとラディルの顔を眺めていた。ラディルは集まる視線にニコッと笑って手を振ってリーンに手を引かれて退席して行った。ルオの無茶に振り回された者達はどうか妃殿下に似るように祈りを捧げながら用意された酒を流し込む。労りのカケラもない皇太子と違い慈愛に満ちた微笑みで貴重なお役目を果たしたと労りの席を用意する皇太子妃は正反対だった。ルオが怖いため、リーンとラディルを引きとめる者はいなかった。
家臣を労わる役目を終えたリーンとラディルは宝物庫に運び込まれた宝を眺めていた。ルオが訪ねた時はリーンは初めて見る文献に夢中で読み耽り、ラディルはイナの解説を聞きながら宝を眺めている。二人との時間を楽しみにしていたルオが呆然としている様子に気付いたルオの護衛騎士はラディルに冒険の話を聞きたくありませんか?と声を掛けた。ラディルは何度か瞬きをして、大好きな単語に目を輝かせルオに洞窟の話をねだりに駆け寄る。ルオは愛妻にそっくりの顔ではしゃぐ愛息子に満面の笑みを浮かべ、抱き上げて強請られるまま話し出す。ルオの護衛騎士はラディルとの時間を奪われたイナナに睨まれたが気づかないフリをする。調査中にルオの世話役として苦労させられたのでこれ以上、ルオを宥めるのは勘弁して欲しかった。家臣の心情など気に留めないルオは罠の話にさらに目を輝かせるラディルにいずれ連れて行くと伝えるとにっこり笑う顔を見て初めて初代の洞窟が見つかり罠を解除してよかったと思っていた。
ルオの話が終わってもリーンは文献から顔を上げない。食事の時間になり呼びかけても反応しないリーンからルオは文献を取り上げる。名残惜しそうに文献を見つめるリーンに負けて後日、離宮に持ち出す許可をもらうと話すとしぶしぶ頷き、ルオに差し出される手を取った。リーンは文献に夢中でルオへの労り時間を作ったことが頭から抜け落ちていた。ルオは放っておいたら眠らずに読み続けそうなリーンに昼間だけ持ち出す許可をもらうことを心に決める。文献に夢中なリーンに自身が放っておかれるのは避けたかった。宝物庫に入ったルオに視線を向けずにずっと文献に夢中な様子にひそかに傷ついていた。
ルオに手を引かれリーンは離宮に戻ると大事なことを思い出した。
文献よりも大事なことだった。ただ場所を選ばなければいけない慎重な話題だった。
食事を終えて、ラディルをイナに預け、ルオと二人っきりになったリーンは誰も中に入れないように護衛騎士に命じ、会話が聞こえないように寝室にルオの手を引いて移動した。
ルオは二人になりたいと甘えるリーンに顔が緩んでいた。
リーンは浮かれるルオに気づかない。ルオが大国のしかも王族所有の印のある剣を持ってる理由を聞かなければいけなかった。怖くても向き合わなければいけないためリーンは平静を装い穏やかな笑みを浮かべる。
「ルオ、見慣れない剣があったけど、どうしたの?」
ルオはリーンの張り付けた笑いを見て自身の勘違いに気づく。そして大事な伝言を伝えていないことにも。
「もらった。義兄上がリーンに片付いたと伝えてほしいって。伝えるの忘れてごめん。」
「お兄様が来たの!?」
「ああ。忙しそうだった。王子殿下を連れて帰られたよ」
リーンは衝撃の事実に息を飲み目を丸くする。
第二王子への手紙を託した侍従はまだ戻らない。リーンはずっと待っていたので返事が欲しかった。無駄を嫌う王族の筆頭の義兄ならと考えを改めた。
第一王子の断罪に動いているだろう第二王子に、リーンは小国に害がないように裁くならご自由にと書状を送った。書状を使えば第二王子なら簡単に断罪できる。書状がなくても裁けるが、リーンが動いた事実さえ認識してもらえばいいかと思い直す。
兄が言うなら解決したとリーンはほっとしたが、問題はまだ残っており大事な話の途中だったと王族の仮面を被り直した。
「ルオ、義兄様に何か言われた?」
リーンにとって一番大事なのは第一王子がルオに余計なことを言っていないか。大国の姫の役割を知られたらリーンはルオを殺さないといけないので、穏やかな顔を作り、ルオに気付かれないように探るように瞳を見つめる。
ルオは冷たい瞳で見つめるリーンを抱き上げてベッドに腰を下ろす。
「何が言いたいかよくわからなかった。リーンを愛してるか聞かれたから、愛してるしどんなリーンでも添い遂げますって答えた」
「え?」
リーンはルオの行動も言動も予想外過ぎて思わず首を傾げる。
「薬を使われたからか意識が朦朧としてずっとぼんやりしてた。ただリーンのことを聞かれたのは覚えてる。俺はリーンが俺の事を嫌いになっても愛すし妃として側に置くって。リーンになら俺があげられるものはなんでもあげるよ」
ルオに嘘をついてる様子はなく、いつもと様子は変わらない。
義兄がルオに薬を盛ったことにリーンは自分の読みの甘さを後悔して拳を握る。
「ルオ、薬って」
心配そうに自分を見つめ拳を握りしてるリーンの手にそっと手を重ねてルオは優しく笑いかける。
「デジロに薬をもらったから問題ない。リーン、小国よりも母国を大事に思って動いていいよ。リーンが大事にしたいものを教えてくれれば俺は精一杯頑張るから。大事なものなんてそれぞれ違う。俺は小国民よりリーンとラディルが大事だよ。皇帝になってもかわらない。二人と幸せに生きるために国を豊かにして大きくするよ。無理に一つを選ばなくていい。リーンが俺の首が欲しいならあげるよ。俺はリーンが好きでたまらない。小国民がリーンを殺せと言ったら国を捨てて連れて逃げるよ。リーンさえ傍にいてくれれば俺はどんなことも耐えられる」
リーンにはルオの優しい声から聞こえる言葉の意味がわからなかった。皇太子としてはいさめなければいけない言葉ばかりである。
大国のために生きるリーンはルオを騙し続ける。それでもルオはいいと言う。大国の姫でもなく皇太子妃でもないリーンを求めてくれるのは家族以外でルオだけ。真実は言えない。リーンは民よりルオを選べない。リーンの冷たい顔をルオは知らない。ルオの言葉はいつもリーンの胸を暖かくしてくれた。リーンの頭の中はごちゃごちゃになり王族の仮面も被れなかった。リーンの瞳をから涙がポツリと流れ頬をつたって握った拳に落ちた。
「ルオ、ごめんなさい。離さないで。ルオといたい」
弱った声で迷子のような顔をして握った手を震わせ涙を流すリーンをルオは強く抱きしめる。ルオはリーンとラディルさえいればいい。
「俺は何があってもリーンを手放さない。どんなリーンも愛しているよ。リーンがいないと生きられないかもな」
リーンは陽気な声でふざけているルオの胸からゆっくりと顔をあげる。
「バカ」
「否定はしない。リーンは我儘言いながら俺に甘えていればいい。曲がりなりにも俺は皇太子。国では2番の権力者だ。大国の姫は我儘なんだろう?」
大国の姫は我儘とリーンはよく自分のことを言っていた。他国の貴族や王子は大国の王族をよく知っているのでこの言葉で押し通せることが多い。
大国の姫に小国の皇太子と堂々と言えるのは度胸があるのか、愚かなのかは判断できない。リーンは陽気にふざけるルオを静かに見つめる。
リーンはふざけていると思ってもルオは本気だった。声が明るいのは離さないでと甘える妻に浮かれているだけである。
「もし私が冷酷な人間だったら?」
「想像つかないけど・・・。必死で謝って許してもらうだろうな」
先程から予想の斜め上の返答をするルオにリーンは首を傾げる。
「え?」
「そこまで怒らせたくないけどな。俺はリーンを嫌うことはない。それに兄上と比べたらマシだろう?」
ルオにとってリーンが冷酷になって恐怖の別居生活は避けたい。そして自分も皇族らしくないがそれ以上にまずい人物を知っている。
リーンは陽気に話す夫に固まる。リーンはルオを騙し続けることに罪悪感を抱いている。
でも抱きしめる腕の持ち主はリーンが気付かなければ一生オルとして騙すつもりだった。今もオルとしてたくさんの人を騙している。リーンはオルよりも自分がまともだと思っている。自分の欲求、しかも食欲を満たす為に戦争を招くような危険な行為はしない。ルオはオルに成りすますのに罪悪感のカケラもない。
皇太子夫妻に騙されている国民が滑稽に思えた。騙されても民達は幸せそうに笑って自分達を慕ってくれている。
リーンは噴き出して、肩を震わせて笑い出した。ルオは妻の豹変に目を見張ったが涙が止まり楽しそうならいいとつられて笑う。
ルオはリーンが側にいて笑顔を見せてくれるならそれだけでいい。リーンは笑いながら優しい顔で自分を見る夫のことを考えていた。
ルオはリーンの予想をいつも超える。大国にも小国にも役にたてるように頑張ればいいと。ルオとならできる気がした。ルオはリーンにないものをたくさん持っている。義兄達に会い押しつぶされそうになっていたリーンの心がようやく軽くなった瞬間だった。
リーンはルオの評価と解釈だけは間違っていることに生涯気づかなかった。
リーンはルオの左胸に耳をあててゆっくりと目を閉じる。ルオは寝息をたてはじめたリーンを抱いたままゆっくりと寝転び、神々しい金髪を梳いた。
王子達の話は覚えていたが忘れろと言われので誰にも、リーンにも話せない。義兄はリーンのためにならないことはしないと信じていた。
大国の王族はルオには想像がつかないが闇が深いのは感じた。意味のわからない話もあった。なによりルオにとって絶対に忘れられない話があった。
大国にリーンを差し出せと言わせないくらい力をつけないといけなかった。リーンは大国に負けない国にすると言っている。
諦めた初恋が叶い、小国の皇子が大国の姫を妃にする奇跡がおき、女神のような妃の心も手に入れた。ルオの諦めたものが腕の中にいる。自分の傍で愛をくれる夢のような奇跡が起きていた。腕の中で眠る奇跡の化身に比べたら、小国を大きくすることもできる気がした。ルオの妃は女神で息子も天使である。女神と天使がいればできないことはない。ルオはゆっくり目を閉じ夢の世界に意識を飛ばした。
***
ルオは朝食の席でリーンの前に用意された薬湯を見て、食事の手を止める。ラディルの前にはきちんと料理が用意され食事をしていることにほっと息をついた。
「リーン、食事は?」
「食欲が・・・。でもデジロ様がいるから大丈夫。体に合わせて調合してくれるの。毎日薬湯が飲めるの幸せ」
「美味しくないのに」
「ラディルも大きくなったらわかるわ。」
幸せそうに笑うリーンの味覚は薬湯に関してはおかしかった。苦みを抑えても薬湯を美味しいと幸せそうに飲めるのはリーンだけである。ラディルは不思議そうな顔で母を見ながら行儀よくパンを口に運ぶ。イナに母の食事は特別のため真似してはいけないと教えられていた。
ルオはラディルの食育だけはリーンに任せられないと思いながら、幸せそうな顔で薬湯を飲むリーンに複雑だった。
「ルー様も欲しい?」
「リーンの薬湯を取ったりしないよ」
ルオが薬湯を欲しがっていると勘違いしたリーンに苦笑すると、嬉しそうに頷きまた薬湯を飲みはじめる。ルオはラディルに食欲がないのかと心配されたので優しい息子に違うと伝えパンを手に伸ばした。
***
ルオは執務室にいるデジロを捕まえリーンの体調を聞いた。
デジロは薬の整理の邪魔をされ嫌そうな顔でルオに振り返る。丁度リーンがラディルと手を繋いで入ってきたので、顔を眺めて呟く。
「姫様は連日の不眠と疲労で食事が喉を通りません。昨夜はよく眠れたようですが。不眠が解消するなら明後日あたりからスープなら召し上がるでしょう」
デジロは用件を伝えたので自身の作業を再開する。
デジロを迎えてからリーンの体重が増え、気に入らなくてもルオは医務官としてデジロの優秀さを認めていた。体調不良には見えないのに正反対な診断結果にできるだけ安静に過ごさせようと一人で頷いていた。
ルオは約束通り宝物庫から持ち出した文献を渡すと嬉しそうに駆け寄り笑う可愛いらしい妻が心配で堪らなかった。
ラディルの授業は小国の歴史だったが貴重な文献が目の前にあるためラディルは小国の古語の勉強も始まった。リーンが読み上げ、時々デジロが直しを入れ、ルオの側近は古語が読めないので必死に書き写す。ルオはリーンを夢中にさせる文献に嫉妬しながら余計な物を残した初代に心の中で恨みながら執務を進めていた。
突然護衛騎士がリーンとラディルを背に庇い剣に手を掛ける。窓が開き、緊張感の高まる中、窓から中に入って来た人物に視線が集まる。侵入者を見て最初に動いたのはリーンだった。
「スサナ、ラディルを連れて今すぐに別室に。呼ぶまで近づけないで」
リーンの冷たい声にスサナがラディルを抱き上げラディルの護衛騎士に囲まれ退室する。リーンはラディルの姿がなくなったので護衛騎士の背中から飛び出し侵入者のオルの顔に向かって拳を勢いよく突き出す。
「何するんだよ!?」
リーンの拳を島国に婿入りしたルオの双子の兄であるオルは軽々と避ける。リーンは躱されても、オルに睨まれても全く当たらなくても殴ろうとする手を止めない。
「あの時は無理でしたが絶対に殴るって決めてました」
「やめろよ」
リーンにとっては渾身の、それ以外にとってはゆっくりとした拳は一向にかする様子もなく、主の願いを叶えるためにリーンの護衛騎士がオルを羽交い締めにする。リーンはオルの頬に狙いを定めて拳を付き出した。オルはリーンの手を蹴りあげようとしたが勢い余りオルの足はリーンの頭に直撃し、頭に衝撃を受け視界がぼやけたリーンの体は傾く。
「姫様!?」
倒れる体をオルを放り投げた護衛騎士が抱きとめるとリーンは気を失っていた。
リーンの拳に力がないことは明らかで誰もオルが反撃するとは思わなかった。
「デジロ、リーンを!!」
デジロは怒鳴り声を上げるルオに呼ばれてゆっくり歩いてリーンに近づき、顔を見て頭を確認するとコブができていた。
「さすが姫様。虚弱体質は健在。」
デジロは関心するように呟き護衛騎士に抱かれたリーンの頭に薬草を貼る。
「デジロ、リーンは!?」
「しばらくしたら起きます。」
ルオは眠るリーンの頬に手を添えてほっと息を吐く。リーンの無事に安心して一瞬力が抜けたが、元凶を思い出しオルを睨みつける。
「兄上、なんて」
「先に手を出したのはリーンだろ?正当防衛だ」
ルオの言葉を遮り、悪気のカケラもない兄にルオが声を荒げる。
「兄上はリーンに殴られても当然だよ。リーンに、まず女性に手を出すなよ。」
オルは大げさな弟を呆れた顔で見る。
「大げさだ。案外弱いんだな」
「リーンのどこを見て強く見えるんだよ!? 風に飛ばされそうだろう!? この華奢な体を、」
双子が騒いでいるのは執務室である。二人の服装も髪の長さも違っていたので見分けをつけるのは簡単であり、入れ替わりを知らない家臣が顔を見合わせ呟く。
「兄上?」
「ルオ殿下?」
焦ったルオも勝手に不法侵入したオルも悪い。ルオの家臣で入れ替わりを知っていたのは侍従と幼馴染の護衛騎士だけである。リーンの家臣は双子の事情は知っていても興味がないので視線を向けない。たとえ目の前で入れ替わりのくだらない事情を口に出し、子供のように喧嘩をする姿に家臣に呆れられ見捨てられても。
「お前、バカだな」
「兄上が勝手に来るから悪い!!なんで忍びこんできたんだよ!!」
「ルオ、戻ろう。やはり入れ替わりは駄目だ」
「は!? 嫌だよ。前も断った」
「俺は島国の生活に耐えられない。お前の所為だ。責任とれ」
「知らないよ。いい加減にして」
「なんで種芋を送ってきたんだよ。子供の祝いならもっとまともな物を寄越せ。どうしてうちに芋ばかり贈るんだよ。」
ルオは心底嫌そうな顔をしているオルに子供ができたことは知らなかった。ルオの名前を自由に使えるのはリーンだけである。
嫌悪しても贈り物をする律儀なリーンとは正反対の贈り物に文句をつける兄の非常識さに呆れはてる。
ルオはリーンに贈り物をする男達が不愉快でも、文句を言ったことはない。そしてルオの記憶の中では一番酷いものを贈ったのは目の前のを兄である。
「いらないなら捨てればいい。腐った果物を贈る兄上には言われたくない。あれの所為でリーンは倒れた」
「知るか。おかげで島国の主食が芋に変わった!! 今までルーラが食事に何も言わなかった。だが子供の教育に良くないから、俺にも同じ芋を食べろと、毎日食卓に芋しか並ばない!! あんなものを毎日食えるか!?」
「知らないよ。子供を作ったんだから責任とれよ。俺は」
ルオとオルの喧嘩を止まらない。
ラディルがスサナの目を盗み、執務室に入り大好きな母の姿を探すと長椅子で眠っている。父の怒った声が聞こえても優先するのは母である。頭に薬草が貼られている母を見て、具合が悪い時はデジロに診察してもらうことを覚えていたラディルはデジロのズボンを引っ張る。
「先生、お母様はどうしたの?」
「蹴られて眠られてますが、すぐ起きますよ」
「蹴る?」
デジロは首を傾げる生徒にリーンとオルの攻防を丁寧に教えた。デジロは聞かれればなんでも答える人間であり、まだ幼い無知なラディルには丁寧に教えてほしいとリーンに頼まれていた。
ラディルは母が人を殴ることを見たことがない。怒っても頬をつねったり、頬を突っつくだけである。頬をつねられるのはラディルではなくルオである。ラディルはどんな時も事情を聞くことを母から教わっていた。
「お母様はどうして?」
「姫様は酷いことをたくさんされたんです。その仕返しに攻撃されましたが、躱されてしまいました」
リーンに危害を加えたのでさらにオルへの嫌悪が強くなったイナが忌々しそうに答え、デジロを睨む。
「デジロ、匂いは美味しそうか無臭の苦みの強い薬湯作って」
「まぁいいけど。」
デジロはラディルの授業がなくなり暇だったので執務室の隅で調合を始める。皇太子宮の共同執務室は広間と同じ広さがあるが実際に利用しているのは6分の1のスペースだった。執務室と調理場以外の部屋は全て2階に作られていた。
リーンはゆっくりと目を開けた。
「お母様、大丈夫?」
心配そうに見るラディルをリーンは抱き寄せて頭を撫でる。
「うん。嫌な夢を見てたみたい。」
リーンは聞こえる声に頭を触ると薬草が手に触れ悪夢ではないと気付く。
「ラディル、お母様はお仕事があるからイナ達とお散歩に行ってらっしゃい」
リーンはラディルの教育に悪いオルと会わせたくない。綺麗事だけでは生きていけないのはわかっていても親としては悪い見本は分別のつく年齢になってから目に入れさせたい。
「姫様、そろそろ食事ですが」
イナにリーンはラディルに別室で食事をとらせるように命じる。イナはラディルをスサナに預けるために手を引いて出て行く。
デジロに差し出された薬湯を受け取り口に含み、聞こえる声に荒れる心を必死に抑えようと努力していた。幸いなことにリーンは双子の言葉は聞き取れていない。
リーンの薬湯の香ばしい匂いに気付いたオルが近づいた。
「リーン、それは何だ?」
「関係ありません」
公式の訪問でなければオルに礼儀を尽くすつもりはないリーンは目の前にいるオルから顔を背ける。リーンの手からコップが無くなり、自分の手を眺めてきょとんとする。オルはリーンから奪った薬湯を口に含み顔を顰める。
「何だこれ・・。飲めたものじゃない。お前、おかしいんじゃないか」
呆れる声にリーンは薬湯がオルに取られたことを気づき顔をあげて眉を吊り上げて睨む。
「返してください。私の薬湯勝手に飲んで、侮辱するなど許しません」
好戦的なリーンにオルはニヤリと笑う。
「俺は相手になってもいいけど、」
オルとリーンの声が聞こえてルオが慌てて駆け寄る。ルオはオルの相手をやめて執務を再開した。声が聞こえなくなり諦めたと思った兄がまさかリーンの傍にいるとは思わなかった。
「兄上、いい加減にして」
リーンはオルへのイライラが止まらない。自分が負けたのは悔しい。一番許せないのはデジロの薬湯をバカにされたこと。
拳を作って震えているリーンをルオが抱きしめた。また兄に殴りかかり、反撃されないように。ふと兄の手にリーンの薬湯があるのに気付いて顔を顰める。ルオはオルに取られることは慣れているがリーンの物を取るのは許せない。
喉が渇いていた時に匂いにつられて、欲求に忠実に手を出したとしても非常識な行動だった。オルは宮殿なら何をしても許されると思っていた。特に弟に全ての権限がある場所なら尚更。
「人の物をとるなよ。それ返して」
オルは薬湯を気に入らなかったので素直にルオに渡す。
ルオはオルから受け取った薬湯を怒りで震えているリーンを落ち着かせるためにゆっくりと飲ませる。口に広がる薬湯の優しい味にリーンの震えは止まったが悲しみに襲われる。リーンは連日の疲労にオルが加わり、心身共に限界が近かった。一晩ゆっくり眠っても回復していなかった。この優しい薬湯の侮辱が許せないのにリーンは無力だった。リーンは自分がおかしいことに気づいていなかった。
「ルオ、薬湯、酷い。でもまだ勝てない」
人前で瞳を潤ませて悲しそうな顔をするリーンは初めてだった。リーンの家臣の目が変わり、オルとたった一人を覗いては動揺して動けなかった。
リーンの泣き顔に慣れているデジロがリーンの頭に手を伸ばし撫でる。
「殿下、姫様はこれ以上興奮させたら倒れます。休ませてください」
「やだ。許せない」
いつもは気持ちよさそうな顔をしてデジロの声に頷くリーンは首を横に振る。主の不要なものを処分するのは家臣の務めである。動揺から徐々に回復した者達が動き出し、護衛騎士が剣に手をかける。戻ってきたイナも懐に手を入れニコリと笑う。
「姫様、私が斬ってさしあげます。ですからお休みください」
「姫様、イナにお任せください。処分します。」
リーンは何度か瞬きをして兄の教えを思い出しす。できないことは家臣が助けてくれるからリーンは正しい使い方を覚えるんだという教えを。リーンは自分の家臣を見て泣きそうな顔のままゆっくりと頷く。
「兄上、俺は譲らない。リーンに手を出したら次は斬るから。リーン行こうか」
ルオはリーンを抱き上げて寝室に足を進め、リーンはゆっくりと薬湯を飲んでいた。
薬湯を飲み終わり、ルオに優しく抱きしめられ、頭を撫でる手に力が抜けてうとうとして眠りについた。ルオはリーンの手からコップを取り、優しくベッドに寝かせる。眠るリーンを見ながら、ルオは入れ替わりたいと騒ぐ兄にため息をつく。
その頃オルが母親に嘘をつき島国での暮らしが辛いと訴えているとは予想もしなかった。オルは逃げ足は早くリーンの護衛騎士も宮殿に逃げられると手を出さなかった。
***
ルオが執務室に戻るとオルはいなかった。
「殿下、呼び方は」
ルオは双子皇子の入れ替わりに気づいた家臣達にごまかすのは諦めた。
「他言無用。ルオだけど公式ではオル」
「そんな気はしてました」
「は?」
笑っている家臣の一人の声にルオは目を見張る。
「リーン様を追いかてた頃のルオ殿下にそっくりでしたから。もしかしてとは思ってましたが・・」
「食にうるさい殿下が無関心になりましたから、違和感はありましたよ」
「見分けがつくのか?」
執務室で双子の喧嘩を聞いていた家臣は双子の入れ替わりの事情を知った。昔はわからなかったが今は見分けられる自信もあった。
初夜の後のリーンの豹変の理由も納得できた。
「リーン様を前に出せば簡単です。婚約者が入れ替われば怒りますよ。よく頑張りましたね」
ルオは婚姻当初リーンに嫌われていた。初夜で無体を強いたのかと想像さえしたが詳しい事情は聞けなかった。
事情を知った家臣はルオに同情していた。リーンに片思いをしていたルオなら余計に辛かっただろうと。ルオは労われるとは思っていなかった。
事情を知っていた侍従は容赦なく和やかな空気を壊すように書類をルオの前に音を立てて置く。オルの訪問でほとんど執務が進まず、早急に確認すべきことがあった。
「また入れ替わるんですか?」
侍従の言葉にルオは首を横に振る。
「まさか。リーンとラディルを連れて行っていいなら入れ替わってもいいけど」
「リーン様とラディル様は置いていってください」
侍従にとってルオがいなくなるより二人がいなくなるほうが問題である。
「なら譲らない。島国の芋の話はわかるか?」
「リーン様は島国の姫のルーラ様に飢饉に強い食料の相談をされていました。環境に左右されない何種類かの種芋をルーラ様とルオ殿下の祝いとして贈られました。芋の栽培に成功して島国の主食は芋になりつつあるそうです」
ルオはリーンの芋の研究を思い出した。栄養価が低そうだが腹持ちは良かったが兄が嫌いそうな食材である。無自覚で兄に嫌がらせをしたリーンに小さく笑う。
「殿下、皇后陛下がお呼びです」
ルオは嫌な予感がしたので忙しかったが顔だけ出すことにした。
母親のもとを訪ねるとルオの予感が当たり上機嫌に母から差し出されたお菓子を食べているオルがいた。リーンは新商品のお菓子を皇后に献上していたため皇后の部屋には種類豊富なお菓子があり、皇后はお茶会の際の手土産にしていた。オルは見たことのないお菓子を食べ、製作者がリーンと聞いて感動し、リーンに頼めば食べ放題と気付き初めてリーンが魅力的に思えた。
ルオは目の前で上機嫌なオルの所為でリーンは寝込んでいると思うと殴りたかったが母の前では許されないので空いている席に座る。
皇后は上機嫌でお菓子を食べるオルを眺め、しばらくしてルオを見つめた。
「オルは元に戻すべきと」
「母上、ご存知だったんですか?」
ルオは皇后が事情をどこまで知っているかわからなかった。皇后は息子の言葉におっとりと微笑んだ。
「寝込んだリーンがずっとルオの名前を呼んでたから。私は陛下と貴方達が納得しているなら口を出すつもりはなかったわ」
母の前者の言葉にリーンを思い出し、ルオの荒んだ心が少しだけ回復した。早く執務を終わらせて眠るリーンの傍に行きたかった。ルオは元に戻るつもりはなく現実的にも無理である。
「母上、全てが遅すぎます。」
「もともとこの国の皇太子は俺だった」
オルの無責任な言葉にルオは呆れる。
「全部捨てて逃げたのに?兄上は5年も共に暮らした家族に情はないの?子供も産まれるんだろう?」
「ルーラは恐ろしい女だった。俺は知らなかった・・・。」
数年前にリーンを選んだルオに趣味が悪いと言い、リーンと喧嘩した記憶はないんだろうか・・。ルオは兄も自分と同じで記憶力が弱いことを思い出して、すでに記憶にないかと一人で頷く。嫌そうに呟く兄は家族と上手くいってないんだろうかと、兄の心配をしても、戻るべきとの言葉を聞いた瞬間にルオはオルへの心配を捨てた。ルオはなにを言われても戻りたくない。
「俺はリーンもラディルも愛しているから譲らない」
「ルオならうまくやるだろうが」
オルが欲望に忠実で頑固なことはよく知っていたが、ルオにも譲れないものができた。
「嫌だ。現実的に無理だ。」
険悪な双子を初めて見て困惑した皇后は頼りになる義娘がいないことに気付いた。
「ルオ、リーンも呼んだけどどうしたの?」
「リーンは寝込んでます。兄上に危害を加えられたので」
ルオはリーンを蹴ったことは生涯許さないと決めていた。
「正当防衛だ。先に手を出したのはリーンだ」
リーンの軽く遅い拳は護衛に抑えられても避けれたのは明らかだった。ルオの知る兄はあんなに早く反撃できる人間ではなかった。オルは弓と短剣は得意だが剣や体術は苦手で剣と体術の授業はいつもルオに押し付けて逃げていた。
「当たってなかっただろう。リーンの拳なんて痛くない。いつから反射で蹴りが出るようになったんだよ・・。」
「島国民は物理で解決する。ルオのほうが得意だろう?」
ルオは別に物理も荒事も得意ではない。どんな事情でも変わる気はない。
「絶対に嫌だ。」
「いつも仲が良かったのに・・どうしたのかしら・・。陛下も呼ぼうかしら」
皇后は初めて見る双子の喧嘩に困っていた。オルとルオの喧嘩は止まらず、しばらくして侍従がルオを呼びにきたため、ルオが退席したため収まった。
ルオはオルの頑固さはよくわかっている。母親が自分達に甘い事も…。リーンがオルの滞在理由を知れば怒ることが目に見えていたのでオルをどうやって送り返すか悩んでいた。
その頃ラディルは眠る母を見つめていた。ラディルは大好きな母に意地悪したオルが嫌いになった。リーンが眠っているのはオルが蹴とばした所為だと思い、どうやって母を守れるか悩みながらずっと眺めていた。
リーンが目覚めたのはラディルが眠る時間だった。
ゆっくり起きたリーンを見てラディルはベッドから起き上がり、寝室を出てイナを呼ぶ。イナに手伝ってもらいデジロから預かった薬湯にお湯をいれ、ゆっくりとリーンに渡す。リーンはラディルの優しさに胸が暖かくなり、薬湯を受け取り幸せな味がする薬湯を飲んで笑みを零した。
ラディルは大好きな母の笑みに、ニコッと笑う。ルオが寝室に行くとリーンとラディルが微笑み合っていた。頭の痛くなる兄の横暴に悩んでいたことは一瞬で頭から消え、ルオはリーン達を抱きしめ、幸せに浸った。
***
翌朝リーン達は皇后に朝食の席に招待された。
母からの招待と聞いた瞬間にルオの幸せな時間が壊れた。3人での朝食はルオにとって至福の時間である。
ルオはオルにラディルを会わせたくないというリーンの希望を聞いて、ラディルの同席だけ断る。ルオはリーンも休ませたかったが、リーンが拒んだ。
食事の席に着くとリーンはラディルのことを謝罪し、綺麗な笑みを浮かべて皇帝夫妻とオルに挨拶をする。
オルはリーンの穏やかな様子に機嫌が直ったと思っていた。穏やかな様子に昔のリーンを思い出しルーラよりもうまくやれるだろうと。オルは都合の悪いことはすぐに忘れる男だった。
和やかな話題が広がる中、オルの言葉に一部の者の動きが止まる。
「父上、過ちを正しましょう。俺達は元に戻るべきです。いつまでも民を騙すわけにはいきません。皇太子と指名されたのはルオではなく俺です。」
リーンはオルの言葉に何かが切れる音がした。入れ替わり騙したのは目の前で真摯な顔をしているオルである。自分の欲望に目が眩んだ・・・。何度思い出しても理解できない最低な人間である。自分の人を見る目のなさに嫌気がした。先ほどから重ねられる入れ替わりの罪に苦しむ言葉にリーンの心がどんどん冷え、冷笑を浮かべた自分に気付いて慌てて穏やかな笑みを浮かべる。
食事中にずっと我慢していた吐き気も消えた。
ルオが顔を顰めて口を開こうとすると寒気に襲われた。ルオは冷たい空気に隣を見るとリーンは穏やかな笑みを浮かべて食事をしている。そっと覗いたリーンの瞳は結婚当初のルオと共に社交をこなしていた頃とそっくりでトラウマを刺激され恐怖に襲われ冷たい汗が背中を流れた。
リーンは目の前の料理の最後の一口を飲みこみ、優雅に食後の紅茶を口に運ぶ。紅茶を飲み干し、戻るべきと熱弁するオルに微笑みかける。
「オル様が皇太子と主張されるなら役目が果たせるか、示してください」
「リーン?」
ルオは穏やかな声でオルの主張を受け入れようとしているにリーンに恐る恐る声をかけて、顔を見た。
「今日の執務をオル様にお願いします。ルー様は私のかわりに視察に行ってください」
ルオはリーンが自分の声に振り返り、瞳を合わせてくれたことに安心したが見覚えのある冷たい瞳に反射で頷く。一歩間違えれば恐怖の別居生活だった。
皇帝は何も言えなかった。昨夜皇后から聞いた話は恐怖で寝込みたかった。
皇后が気づいたことよりもリーンが入れ替わりを知っていたことに恐怖に震えた。
新婚当初は、留学中は時間の許す限りリーンに付き添っていたルオが公務以外は側にいないことに違和感を覚えたがリーンに不自由がないか聞いてもルオへの不満を一切話さず、よくしていただいておりますと微笑んでいた。パーティーでは親しげに寄り添っていたので、違和感は杞憂と思い隣で意味深に皇太子夫妻を見ている宰相も見ないフリをした。
皇帝が安心したのはルオがリーンを連れてお忍びに出かけると聞き、様子を見に行ったときだった。寄り添う二人を見て、小国の危機は去ったと・・・。しばらくして、離縁騒動がおきたがすぐに収まった。冷酷な顔で罰を命じるルオに引いても信頼する宰相がルオを逞しくなったと評価するので、見て見ぬふりをして何も言わなかった。
ルオはリーンに関しては過剰な反応をするが、二人はいつも幸せそうで、国も豊かになりつつある。病弱でも出来た義娘と可愛い孫に恵まれてようやく皇家は安泰と安心していた。
伝説の初代の洞窟も見つかり皇帝には良い風が吹いているように感じていた。
突然帰国したオルと皇后の主張を聞くまでは・・。妻からオルが悩んでいると話を聞いた皇帝は頭が真っ白になった。
家族の情に厚い皇后は悩みを抱えて極秘で帰国したオルを心配していた。リーンが皇后の仕事を引き継ぎ、視察と夫人との茶会しかこなしていなかったため、国が豊かになるに伴い増えた業務の量を知らなかった。またリーンは皇后の願いをいつも叶えていた。リーンの用意する土産や晩餐や接待の評判はよく皇后の評価も上がっていた。貴族達は皇后の仕事をリーンが全て取り仕切るとは気づかず、皇后の思い付きもリーンが手を回し、皇后の名で催されていた。
皇后は自分の話をいつも真摯に受け止め、形にしてくれるリーンを信頼していた。双子の入れ替わりを知っても、嫌な顔をせずに笑顔で受け入れてくれる心の広い義娘と。オルの悩みもリーンなら解決してくれると信じていた。皇后のリーンへの不満は自分に甘えてくれないことだけだった。
皇后は息子に頼られると甘やかしてしまう癖があり今はオルのことで頭がいっぱいだった。自分を頼りにしないルオやラディルのことは頭から離れていた。
大国の姫と婚約するまでは小国は外交も最低限しかしなかった。そのため限られた貴族以外は外の世界に疎い。皇后は世継ぎを産み、皇帝に寄り添い民を慈しむことを求められた。小国の貴族は穏やかだが一部に野心を持つ者もいる。宰相は後者で皇帝を自分の意のままに操っていた。皇后を自分の娘にすれば他の貴族からの邪魔も入らない。そのため美しい娘を慈愛に満ち、家族を一心に信じるように育てあげ皇后に押し、皇帝は信頼する宰相の言葉を快く受け入れた。
野心を持つ宰相をリーンは貴族らしいと評価し上手く付き合っていた。宰相とリーンは本質が似ていたため手を組んでいた。
皇帝は二人の入れ替わりを許さなかった。皇后は皇帝の言葉は全て従ってきたが、母としては受け入れられなかった。オルはルオのほうが島国にふさわしい。自分は嘘をついて生きるのは嫌だと母に悲痛な顔で訴えていた。一晩寝ればオル達も冷静になると期待していたが、まさか朝食の席にルオ達を招待して、切り出すとは思っていなかった。皇帝にとって人払いをしていたことだけが幸いだった。
皇帝は穏やかに笑っているが大国の姫であるリーンが怖かった。リーンが嫁いで外国からの訪問者が増えた。訪問者の話を聞き、リーンは大国の国王陛下のお気に入りで諸外国の王族からも好かれていることを知った。
ただ決して怒らせてはいけないことを知ったのはルオとリーンの離縁騒動の後だった。嘘をついた令嬢は他国に嫁いだ。小国から嫁いだ令嬢を快く迎えた王太子夫妻は友人の皇太子妃の話を聞いた。リーンを悪女と貶めた令嬢は王太子に斬られ、皇帝にリーンが不遇な扱いを受けるなら貰い受けると書状が届き、ルオが動いて収めた。小国の恥となる令嬢を他国に送った公爵家の血縁者は爵位を剥奪し平民に落とされた。王太子夫妻がリーンに会うためにわざわざ足を運び、過剰に心配されたリーンは不思議に思いながらも接待し取りなしていた。
リーンに離縁されたら小国の危機だった。大国に入れ替わりが知られれば攻め滅ぼされ、大国が動かなくてもリーンのために他国が動く。皇帝に言える言葉は一つだけだった。
「リーンの好きにしなさい」
「ありがとうございます」
穏やかに微笑み礼をしたリーンに皇后とオルだけが笑っていた。
リーンがオルを諫めない皇帝に一瞬冷たい視線をむけたのは誰も気付かなかった。
リーンは離宮に戻り、ルオ達の目を盗んで朝食を全て吐き出し懐かしい血の味には気付かないフリをする。イナにラディルをオルに決して近づけないように命じ、朝食を食べ終わったラディルをリーンは抱きしめる。
「ラディル、今日は離宮で過ごして。皇太子宮には絶対に近づかないで。お母様はやらないといけないことがあるの」
初めて聞く母の冷たい声にラディルは母の胸から顔を出した。
「お母様?」
「デジロ様は離宮に呼ぶから。」
リーンの顔をじっと見つめて、しばらくするとラディルは首を横に振る。
「お勉強はお休み。スサナと離宮で遊ぶ。先生とイナはいらない」
ラディルは変な母が心配だったので母の強い味方のデジロとイナに傍にいてほしかった。
「リーン様、お任せください。何かあれば報せます。護衛も離しません。目を離しません」
スサナはラディルが目を盗んで抜け出したことを反省していた。リーンに咎められなくても次はないとラディルの護衛達と綿密な計画を立てていた。
リーンはやる気満々の頼もしいスサナにラディルを任せ、息子の額に口づけを落として立ち去る。
ルオはリーン達の様子を見ながら、リーンの冷たい空気に冷たい汗が止まらず怯えていたが余計なことは言わずに視察に出かけた。ルオは自身に冷たい視線を向ける存在には気付かなかった。
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