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番外編
皇太子夫婦の日常5
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リーンの兄王子は大国の次に力を持つ皇国で妹からの手紙を受け取った。
医務官を紹介して欲しいと願う妹に、丁度良い知り合いがいたので、甥の誕生祝いに知人のデジロを送ることを決めた。
デジロは率直で腹芸ができない大国に合わない青年であり、兄王子との出会いは8歳の時だった。
当時リーンのために優秀な医務官が雇われ、デジロはその一人だった。医務官認定試験で成績トップだったので国王がリーン付きの医務官の一人に命じた。病状が全く良くならずに年老いた医務官ばかりだったので苦肉の策だった。リーンは死を待つだけと言われても国王は父として受け入れたくなかった。
昼間は多忙な母にかわり兄王子はよく妹の診察に付き添っていた。派遣された医務官の中で一番若い青年が優秀なのは一目瞭然だった。苦しむ妹にデジロが処置をすると他の医務官とは違いすぐに眠る。他の医務官のように苦しむ妹にどんな状態か聞かず、様子を見ただけで処置する姿に天才と思っていた。他の医務官は若く自分達の指示を聞かないデジロを嫌っていた。デジロは王族の医務官に相応しくないという声も囁かれていたが兄王子は腕は確かで妹も懐いているので、外さないでほしいと母を通して父に願っていた。国王には逆らえなくても父になら願うことを許されていた。
兄王子がリーンの診察に付き添っていると珍しく国王が顔を出した。国王はシャツとズボンだけのお忍び姿で現れた。国王は簡素な服で民に紛れることが時々あり、お忍び前に愛娘の様子を見に来た男が国王とはデジロは気付かなかった。気付いても礼をするだけで、このあとの事件は防げなかっただろう・・。
「リーン、どうだ?」
久しぶりに顔を見る父にゆっくりと起き上がったリーンはニコッと笑う。
「元気です。お兄様だけでなくお父様にお会いできて幸せです」
厳格な王もリーンにとっては優しい父だった。王は愛らしい笑みを浮かべる愛娘の頭を優しく撫でる。
「そうか。早く治るといいな。今日の調子はどうだ?」
控えているデジロに王は穏やかな顔を向けた。
「残念ですが、悪化してます。長くはないでしょう」
他の医務官なら決して口にしなかった。王がデジロの診察に付き添ったのは初めてだった。穏やかな顔が一変して冷たい顔でデジロを見下していた。沈黙を破ったのはリーンだった。
「お父様、リーンは大丈夫です。本当に」
にっこり笑った愛娘が意識を失い崩れる体に慌てて手を添えてゆっくりとベッドに寝かせる。兄王子に催促されたデジロはゆっくりと動き出し診察して、体力の限界と判断した。リーンが無理をして突然倒れるのはよくあるが、兄王子は見慣れていたが王は初めてだった。
デジロはできることはないので控えた。愛娘が倒れて、息子に促されて動き出し診察しただけで何もしない愚鈍な医務官に王は怒声をあげた。
「何をしている!!」
職務に忠実だが空気が読めないデジロは、リーンの治療以外に興味がなく、王命も姫の治療としか受けていなかった。デジロは王が怒っていても気にせず淡々と答える。
「眠っているだけです。薬の投与時間ではありません。直に目覚めます」
兄王子は国王ではなく父親の顔なので逆らうことが許されるので、父を落ち着かせることにした。
「父上、落ち着いてください。いつものことです。今日は父上に会えて興奮したんでしょう。いつもならもう眠る時間ですから。」
息子が娘によく付き添っていると聞いていた。母よりも息子のほうがリーンの容態に詳しく、母より兄の傍が安心するみたいと笑っていた妃の顔が浮かんだ。母親はリーンのことは優秀な兄王子に任せていた。
青白い顔で眠るリーンを王は見つめた。兄王子は父の前でリーンに長くないという言葉を聞かせたデジロを許されないとわかっていた。リーンの部屋でなければ首がなくなっていただろう。王はリーンは治らないので諦めろと言った医務官を斬っていた。それから医務官達は余計なことは口に出さないことが暗黙の了解になった。
王族に治療を命じられ匙を投げた医務官を兄王子は庇う気はない。ただデジロは優秀なので殺すには惜しく、兄王子は良い機会なので父にずっと考えていたことを打ち明けた。
「父上、リーンの手を握ってあげてください。」
王はリーンの手を握るとリーンが握り返す。リーンの癖だった。リーンの様子に王の冷たい空気が和らいでいく。王から冷気が抜けたので兄王子はゆっくりと口を開く。
「父上、誕生日に欲しい物があるんです。叶えていただけるなら今後は贈り物はいりません。」
普段は恐ろしく要領が良いのに、この状況で強請る息子を見つめた。
「今、言うのか・・」
リーンの部屋には決まった者しか入れない。兄王子は妹と過ごす時は医務官以外は人払いをしている。今はデジロと王と兄王子しかいないため密談するには丁度良かった。
「はい。父上と二人っきりになれるのはここだけです。俺をリーンの病を治す方法を探す旅に行かせてください。その父上が斬ろうとしている医務官は俺にください。父上がリーンのために動けば反発が出ます。ただ変わり者の王子が飛び出しても気にしないでしょう?父上は大国の王子が犬死にしないように慌てて護衛を送るだけです。それに俺がいないほうが母上達も安全でしょう。止めても行きますよ」
王は優秀過ぎる息子に小さく笑った。後宮を取り仕切る第二妃はこの王子を警戒していた。愚鈍なフリをしているが、幼い頃は天才と言われ、本を渡せば勝手に学び教師はいらなかった。学者をつけないと王子と会話にならなかった。ただいつの間にか天才王子は変わり者王子と呼ばれるようになった。
「どんなに調べてもリーンの病の症例は大国にありません。俺は妹がこのままこの部屋で息絶えるなんて耐えられません。兄として傍にいてあげるしかできない自分が無力でしかありません。リーンはいつの間にか泣かなくなりました。いつも笑顔で母上達を慰めてます。たくさんいる王族の中で俺達はいなくても支障はありません。家族のために笑顔で病に耐える妹が報われないなんて許せません。旅から戻れば王族として生きます。リーンも元気になれば務めは果たします。どんな時も笑顔を浮かべられる妹は義姉上達よりよっぽど立派な姫になります。父上、母上達をお願いします。その医務官は俺がもらうので処刑しないでください。他国の情報も送りますよ」
王は強い瞳で見る息子の成長が誇らしかった。後ろ盾さえあれば後継に選んでもよかったが、それは悲劇を呼ぶので口に出さない。
「願いではなく決めてるではないか。リーンは行かなくていいと言うだろうが」
兄王子は妹のことがわかっていない父を笑った。
「父上、リーンは俺の言うことは聞きますよ。治す方法を探して帰ってくるから待ってろって言えば絶対に待っててくれます。意地っ張りですから」
「お互い様だろうが。この件を知ってるのは?」
「宰相にはいくつか条件を出されましたが了承をもらってあります。」
自分が許可しなくても旅立つ準備を進めていた息子の頭を乱暴に撫でる。
「精鋭の護衛をつけるから離すなよ。」
「義兄上に睨まれたくないので護衛騎士は今のままで。必要なら適当に見繕います」
父よりも息子のほうがしっかりしていた。第二妃と第二王子に睨まれれば後宮では生き残れない。まず狙われるのはリーンだった。王族の中でも兄妹の仲が良いことは有名だった。
「個人資産なら文句は言われないだろう。資金援助はいくらでもする。父を頼れ。8歳の息子を心配する親の気持ちもわかれ」
「俺は子供なのでわかりません。母上は心配ありませんが、リーンをお願いします。時々、顔だけ見せてあげてください。寂しいとは絶対に言わないので。父上、そろそろ行かないと捕まりますよ」
「予定変更だ。今日はお前達と過ごす」
「お気持ちだけで。あんまりここにいられても義姉上達に睨まれるので勘弁してください」
リーンなら素直に喜んだ。旅立つ息子と過ごしたい父の願いは断られた。
「可愛げがない」
「妹に全部引き継がれました。俺は父上に似たので、仕方ありません」
王は頑固な息子が安全に旅を送れるように影をつける手配を決めた。影は宰相も関与できない。自分だけが持つ権利を使うのに躊躇いはなかった。
「旅立つ前に必ず挨拶に来い。帰らなければ許さん。妹との約束を違えるなよ。」
「誓約しても構いません。普段は厳格な父上が子煩悩で心配性と知っているのは俺達だけですね。」
「王としては言えない。だが父としてお前の決断を誇りに思う。リーンだけでなくお前にも幸せになってほしい」
「弱気な父上ですね。俺は優しい両親に可愛い妹。王子達の中で一番恵まれていますよ。ただ俺の幸せのために足りないピースを探しにいくだけです。父上もお体に気をつけてください。父上が国王だからこそリーンは生きていられますから」
「まだまだ王位は渡さん。好きにはさせん。」
自分を意のままに動かそうとする愚かな貴族もいる。それをわかって利用するのが王だった。
「では、父上、気をつけてお戻りください」
素っ気ない息子を王は抱きしめ立ち去った。二面性が激しい父に兄王子は苦笑し、控えているデジロに視線を向けた。
「デジロ、お前の命は俺のものだ。旅に出る。王子に気に入られて旅に出る以外は言うなよ」
「俺に拒否権は・・」
「俺はお前の腕を買っている。殺すには惜しい。大国に産まれたからには王族に命を捧げるのが務めだろう?リーンの部屋でなければ首がなくなっていた。感謝しろよ。給金はしっかり出すが目的を終えるまでは帰らない。死にたいならいいけど」
デジロはリーンを見た。今日も体が辛いのに無理して起き上がり元気と笑っていた姫を。
小さい体で涙を堪えて苦しむ姫に自分は寝かせるしかできず、医務官として役立たずだった。
「死にたくないのでお供します」
「そうか。父上だから良かったけど、次は助けてやれるかわからない」
大国の王を怒らせて笑っていられるのは数いる王子の中でこの王子だけだった。
デジロはこの王子に従うことにした。王子と一緒に旅をしてもデジロに腹芸は身に付かなかった。兄王子は大国に帰ってもデジロを側近として傍に置いた。デジロは医務官なのに研究者の補佐をさせられたが不満は言わなかった。兄王子に何度も命を救われたことを忠臣達に説明されたからではなくただデジロが研究するのが楽しかったからである。
皇国の兄王子の所有する研究所で働いていたデジロは聞き間違えかと思った。
兄王子が突然現れ、自分を連れまわすのはよくあった。
「デジロ、念願の医務官に戻してやる。小国にいるリーンに仕えろ。あの国は緩いからお前の失言も大丈夫だ。」
「殿下?」
「小国の医務官は使えない。人手不足で困っているから頼むよ」
大国の国王の怒気に狼狽えないデジロはルオの殺気も冷気も気にしないだろう。
産気付いた妹の部屋に入ったら医務官が気絶している姿は驚いた。苦しむリーンに何もできないルオの八つ当たりが原因だが、職務は果たしてほしかった。真っ青な顔のリーンを見て、自分でやるしかないと思った。知識だけあればどうにでもなることを知っていた。妹の傍には有能な医務官が必要なのは確かで、いつまでも傍にはいてやれない妹への贈り物にデジロは丁度良いと兄王子は思っていた。
デジロは差し出される旅券と紹介状と荷物を受け取る。
「お前の研究は引き継がせるから心配いらない。小国も研究に力をいれてるから好きにしていいよ」
大国の王族は強引であり、デジロの意思は通らない。デジロは兄王子に送り出され一礼して旅立った。
記憶にあるのは幼い姫だった。治療方法は見つかったが王宮に戻らなかったデジロは完治したリーンに会っていない。医務官に嫌われているデジロが国に戻っても理由をつけて処刑されると思った兄王子がずっと庇護下に置いていた。わかりにくいが、過酷な旅に付き合い妹の治療方法を見つけたデジロに感謝していた。兄王子の側近は問題ばかりおこすデジロに頭を抱えていたがそれを兄王子がいつも宥めていたことはデジロは知らなかった。
***
リーンは兄王子の紹介状を持ち訪ねたデジロを離宮に呼んだ。ルオの許可が必要だが留守のため、離宮の全権はリーンにあった。
「デジロ様、お久しぶりです」
にっこり笑ったリーンにデジロは笑う。初めて会った時は大人になれるとは思えなかった。
「お元気そうで」
「ありがとうございます。私の命があるのはお兄様と貴方のおかげです」
「ご存知だったんですか?」
「デジロ様はお兄様のお気に入りでしたもの。旅立つ時にきっと一緒と思いました。挨拶もなくいなくなったのは寂しかったですが・・」
頬を膨らませて拗ねるリーンは最後の記憶の中のリーンよりも子供らしい仕草だった。
兄王子の命令とはいえ本人に確認することにした。小国の皇太子妃に役立たずの医務官は必要なのか。
「姫様、私でよろしいんですか?」
リーンには懐かしい淡々とした素っ気ない言葉が懐かしかった。
「私はデジロ様を知ってますわ。私の命を繋いでくれた貴方になら全てを委ねられます。私の体はお兄様とデジロ様で作られてます。私はデジロ様を信じてます。それにお兄様の紹介なら罪人でも迷わず受け入れます。デジロ様ならお兄様の紹介がなくても大歓迎です。」
リーンの好きな薬湯を調合したのはきっと兄とデジロである。デジロがいれば薬湯は飲み放題である。初めて飲んだ兄からもらった苦くない薬湯はデジロの薬の優しい味と似ていた。
薬湯の調合を兄は教えてくれなかったため兄が旅立ち貴重な薬湯は大事な時にしか飲めなかった。リーンの生活がデジロがいるだけで過ごしやすくなる。何よりラディルやルオになにかあっても絶対に助かる。デジロはリーンの世界で一番優秀な医務官である。
迷いもなく嬉しそうな顔で自分を見るリーンの顔は記憶に残っていた。
デジロにとってリーンは変わり者の兄王子を誰よりも信じる妹姫だった。
「変わりませんね。」
「デジロ様の了承がいただけるなら私の子の専属医務官に任命します。大国とは勝手が違いますので私の直属にします。お暇な時間は研究しますか?でもラディルの教師もお願いしたい」
興奮しているリーンにイナが声を掛ける。いつもは主の声を遮ることはしないが今はイナにとって非常事態だった。
「姫様、落ち着いてください。この男はラディル様の教育には」
イナの言葉をリーンは遮って、にっこり笑う。
「デジロ様は天才よ。お兄様の腹心を送ってくださるなんて。お兄様もラディルが可愛いのね。デジロ様、手が空いたら私も診察してください。私にとってデジロ様の手は魔法の手でした」
リーンはたくさんの医務官を見てきた。苦しい時に、背中をゆっくりさすりながら、ゆっくりとデジロに差し出される薬を飲むとすぐに眠くなった。デジロの薬はいつも味が違った。他の医務官の薬よりも苦くなかった。
「イナ、デジロ様への無礼は許しません。せっかくお兄様が譲ってくださったんですもの。私は手放したりしませんので覚悟してくださいませ。お兄様にも返しません」
デジロを見て無邪気に笑う顔は昔と変わらない。どこに行っても嫌な顔をされる医務官のデジロを見て笑顔で迎えるのはリーンだけだった。
デジロがリーン付きだった頃はリーンには常に医務官が付き添っていた。
夜勤をしていたデジロが本を読んでいると眠っているリーンが目覚めた。リーンはゆっくり起き上がり、周りを見渡す。
「俺しかいません。誰か呼びますか?」
リーンは首を横に振る。デジロはリーンの顔色がいつもよりいいので、好きにさせ、読みかけの本に視線を戻す。
「デジロ様、内緒にする。リーンはどうなるの?」
リーンの言葉にデジロは本から顔をあげた。
「姫様の病気は治る方法が見つかってません。だからいつまで生きられるかわかりません」
リーンはわかっていた。母がいつも泣いていた。でも知りたかった。教えてくれるのは目の前の嘘をつかない医務官しかいなかった。
「ごめんね・・。内緒にして。お願い」
わかっていても溢れる涙が止まらなかった。
「泣いて苦しくなったら俺が眠らせますよ」
デジロは本に視線を戻す。自分を見ないデジロにリーンは我慢をやめた。泣くことを許してくれたのはデジロだけだった。
「おとうさま、うっ、おかあさま、ごめんなさい。リーンはだめな子です。おにいさま、いな、らせる」
リーンは大好きな人の名を嗚咽まじりに呼んで謝り続けた。デジロは嗚咽が止まったので本から顔をあげるとリーンは泣き疲れて眠っていた。リーンの涙の跡を拭いて目元を冷やした。
「姫様、治療は今はありません。でも明日は見つかるかもしれません。起きてるときに無責任なことは言えません。」
デジロは眠るリーンがふらふらと伸ばした手を握った。リーンはデジロが見た病人の中で一番我慢強かった。病に苦しんでも、恨み言も言わない。何もできない医務官に八つ当たりもしない。他の医務官はリーンを鈍い子供だと思っている。苦い薬を嫌がらずに飲むのは味覚がおかしいと勘違いしていた。苦味の少ない薬を渡すと驚いた顔をするのを他の医務官は知らない。デジロの薬は他の医務官よりも手間がかかる。リーンのためにそこまでやる気がないのも知っていた。国王の気まぐれで生かされている姫の形ばかりの治療をする医務官達も自分と同じ無能だと思っていた。翌朝目覚めたリーンはデジロの手を握っていたことに謝った。気まずそうに自分を見る姫に何も見てませんと言うと笑顔を見せた。朝の薬を飲んだリーンの頭を撫でるとふんわりと笑う。デジロは空気が読めなくても、苦い薬を飲むことが辛いことは知っている。無能な医務官も頭を撫でて褒めることはできた。
それからリーンは泣かずにいつも笑顔で過ごすようになった。デジロが眠るリーンにかけた言葉に救われたことはリーンだけしか知らなかった。
成長したリーンにデジロは胸が熱くなった。興奮すると倒れた姫とは思えなかった。
デジロは昔のようにリーンの頭に手を伸ばして撫でると気持ち良さそうに目を閉じてふんわりと笑った。デジロは昔はリーンの医務官として役立たずだったが今は違う。知識だけならどこの医務官にも負けない。
「姫様、ほどほどにお願いします。殿下に姫様の傍を離れるなと命じられてますので、いいようにお使いください。これより俺は姫様に仕えます」
リーンは空いているデジロの手を取って自身の頬にあて、ぱぁっと花がほころぶような笑みを浮かべる。
「魔法の手が私のものになるなんて幸せです。私はかわりになにを差し出せば」
はしゃぐリーンと空気の読めないデジロは気付かなかった。無自覚だが二人の距離は近かった。随分前から冷気を出している男がいた。
「斬られたいのか」
視察から帰ったルオの目の前には寄り添うリーンと青年がいた。リーンの頭に手を置き、リーン自ら頬に手をあてるのはルオでさえされたことがなかった。
リーンが触れる男は兄王子とラディル以外許せなかった。我慢しているが、リーンの友人達も不愉快だった。
冷たい目をするルオをリーンが睨む。
「ルー様、デジロ様への無礼は許しません。」
ルオはリーンに強く睨まれるのはトラウマだった。リーンがデジロの手を頬にあてたまま、睨む姿は心を抉った。
「殿下、誤解です。落ち着いてください。」
執務室でずっと二人を見ていたルオの側近が肩を叩く。ルオの冷気に怯えていたら仕事にならなかった。
「リーン様の命の恩人の新しい医務官です。幼い頃よりお世話されていたようです」
ルオは差し出された書状を読むと義兄からだった。
「デジロ様、この国の皇太子のルー殿下です」
デジロはリーンの手を解いてルオに兄王子からリーンの夫に直接渡せと授かっていた書状を渡す。
「殿下より姫様の夫君にと」
ルオは乱暴に受け取り中身を確認する。
空気は読めないが腕は優秀だから好きに使え。国王を怒らせても動じないから扱いは要注意と書いてあった。状況はわからないがルオはリーンを抱き寄せた。リーンはルオの乱暴な態度に怒り不満そうにルオを見つめるリーンを見つめ返す。
「リーン、状況を説明してくれないか?」
ルオの家臣は不機嫌なルオをリーンに任せることにした。執務室で夫婦喧嘩が始まると邪魔であり、落ち込んだルオの相手が大変だった。
「殿下、良ければお二人でどうぞ。デジロは旅疲れもありましょう。詳しい話は明日にしましょう。」
もともとルオの帰参は明日だったため執務の予定はなかった。
「姫様、デジロはイナがおもてなしします。殿下と散歩にどうぞ。」
「え?」
「ラディルを連れて行こうか」
リーンはルオに腰を抱かれて、強引に連れ出された。スサナからラディルを引き取り庭園に着くとルオはラディルを抱き上げた。リーンと手を繋いで上機嫌に歩いていたラディルはルオを睨む。ラディルは自分の行動を邪魔されるのは嫌いだった。
リーンはルオに怒っていたが愛息子に睨まれてショックを受けている姿に笑ってしまった。ご機嫌斜めのラディルの頭を優しく撫でる。
「ラディル、お父様にお帰りなさいを言いましょう。」
悲しそうな父と笑顔の母を交互に見つめてラディルはニコッと笑う。
「とーま、おかえり」
「ルオ、お帰りなさい。」
ルオは不機嫌だった妻と息子の笑顔に力が抜けた。
「ただいま」
悲しい顔が幸せそうな顔に一瞬で変わった様子にリーンは肩を震わせて笑う。
ルオはラディルを叱れない。ラディルの教育にルオは頼りにならないので叱り役はリーンが頑張ることにした。ラディルにルオが振り回される未来を思い描いて、リーンは笑いが止まらなかった。リーンに生きる希望をくれたのは兄とデジロ。嘘を言わずに同情しないデジロの側にいるのは楽だった。他の医務官と違ってデジロの言葉は信じられた。だから辛くても苦しくても二人を信じて待とうと決めた。
生きてほしいと願ってくれた両親。悲しむ母を無邪気に笑わせてくれたのは弟。リーンは家族に恵まれていた。ラディルにとって自分も拠り所になれる家族になりたい。
自分の足で歩きたいラディルがルオの腕の中から飛び降り、慌てるルオの心配はよそに綺麗に着地した。運動神経は父譲りのラディルを見てさらに笑った。
ルオは幸せな家族の時間にデジロのことを忘れていた。リーン達が庭園で和やかに過ごしてる頃デジロはイナに注意事項の説明を受けていたが聞き流していた。
イナは無礼で問題ばかり起こすデジロをよく知っていた。王子とリーンのお気に入りでなければ処罰されていたことも。リーンのいない間にしっかり言い聞かせるつもりだった。リーンの侍従は無駄なことと思ったが口に出さなかった。
「ルオ、ラディルをお願いね。私はまだ執務が残っているから戻るね」
笑いの止まったリーンはラディルと鬼ごっこをしているルオに声をかけて先に戻った。ルオと違いリーンは今日の執務が残っていた。
執務室に戻り、デジロの書類を作った。ラディルの専属医務官に任命し暇な時間にラディルの教師を頼んだ。
リーンはデジロに懐いていた。ルオはリーンが自分より頼りにするデジロは気に入らない。ただデジロは鈍く空気が読めないためルオの冷気も気にしない。世界を回っていたデジロは世界中の歴史に詳しく、兄王子と共に回った国のあらゆる文献を読み漁っていた。デジロは一度読んだものは忘れない。古代医学も怪しい本もあらゆる文献を読み漁った。リーンの治療のためだけでなく、兄王子の知識欲を満たすためだった。デジロは知識だけなら学者にも負けない。デジロの親しい王子は兄王子だけだったため、ラディルは大国に引けを取らない厳しい教育を受けることになる。ただラディルはデジロに懐き、デジロの授業を母の膝の上でいつも楽しそうに受けていた。ラディルは構いすぎる父親よりも、自由にさせてくれ、たくさん褒めてくれる母が好きだった。そしてなんでも教えてくれるデジロも。
医務官を紹介して欲しいと願う妹に、丁度良い知り合いがいたので、甥の誕生祝いに知人のデジロを送ることを決めた。
デジロは率直で腹芸ができない大国に合わない青年であり、兄王子との出会いは8歳の時だった。
当時リーンのために優秀な医務官が雇われ、デジロはその一人だった。医務官認定試験で成績トップだったので国王がリーン付きの医務官の一人に命じた。病状が全く良くならずに年老いた医務官ばかりだったので苦肉の策だった。リーンは死を待つだけと言われても国王は父として受け入れたくなかった。
昼間は多忙な母にかわり兄王子はよく妹の診察に付き添っていた。派遣された医務官の中で一番若い青年が優秀なのは一目瞭然だった。苦しむ妹にデジロが処置をすると他の医務官とは違いすぐに眠る。他の医務官のように苦しむ妹にどんな状態か聞かず、様子を見ただけで処置する姿に天才と思っていた。他の医務官は若く自分達の指示を聞かないデジロを嫌っていた。デジロは王族の医務官に相応しくないという声も囁かれていたが兄王子は腕は確かで妹も懐いているので、外さないでほしいと母を通して父に願っていた。国王には逆らえなくても父になら願うことを許されていた。
兄王子がリーンの診察に付き添っていると珍しく国王が顔を出した。国王はシャツとズボンだけのお忍び姿で現れた。国王は簡素な服で民に紛れることが時々あり、お忍び前に愛娘の様子を見に来た男が国王とはデジロは気付かなかった。気付いても礼をするだけで、このあとの事件は防げなかっただろう・・。
「リーン、どうだ?」
久しぶりに顔を見る父にゆっくりと起き上がったリーンはニコッと笑う。
「元気です。お兄様だけでなくお父様にお会いできて幸せです」
厳格な王もリーンにとっては優しい父だった。王は愛らしい笑みを浮かべる愛娘の頭を優しく撫でる。
「そうか。早く治るといいな。今日の調子はどうだ?」
控えているデジロに王は穏やかな顔を向けた。
「残念ですが、悪化してます。長くはないでしょう」
他の医務官なら決して口にしなかった。王がデジロの診察に付き添ったのは初めてだった。穏やかな顔が一変して冷たい顔でデジロを見下していた。沈黙を破ったのはリーンだった。
「お父様、リーンは大丈夫です。本当に」
にっこり笑った愛娘が意識を失い崩れる体に慌てて手を添えてゆっくりとベッドに寝かせる。兄王子に催促されたデジロはゆっくりと動き出し診察して、体力の限界と判断した。リーンが無理をして突然倒れるのはよくあるが、兄王子は見慣れていたが王は初めてだった。
デジロはできることはないので控えた。愛娘が倒れて、息子に促されて動き出し診察しただけで何もしない愚鈍な医務官に王は怒声をあげた。
「何をしている!!」
職務に忠実だが空気が読めないデジロは、リーンの治療以外に興味がなく、王命も姫の治療としか受けていなかった。デジロは王が怒っていても気にせず淡々と答える。
「眠っているだけです。薬の投与時間ではありません。直に目覚めます」
兄王子は国王ではなく父親の顔なので逆らうことが許されるので、父を落ち着かせることにした。
「父上、落ち着いてください。いつものことです。今日は父上に会えて興奮したんでしょう。いつもならもう眠る時間ですから。」
息子が娘によく付き添っていると聞いていた。母よりも息子のほうがリーンの容態に詳しく、母より兄の傍が安心するみたいと笑っていた妃の顔が浮かんだ。母親はリーンのことは優秀な兄王子に任せていた。
青白い顔で眠るリーンを王は見つめた。兄王子は父の前でリーンに長くないという言葉を聞かせたデジロを許されないとわかっていた。リーンの部屋でなければ首がなくなっていただろう。王はリーンは治らないので諦めろと言った医務官を斬っていた。それから医務官達は余計なことは口に出さないことが暗黙の了解になった。
王族に治療を命じられ匙を投げた医務官を兄王子は庇う気はない。ただデジロは優秀なので殺すには惜しく、兄王子は良い機会なので父にずっと考えていたことを打ち明けた。
「父上、リーンの手を握ってあげてください。」
王はリーンの手を握るとリーンが握り返す。リーンの癖だった。リーンの様子に王の冷たい空気が和らいでいく。王から冷気が抜けたので兄王子はゆっくりと口を開く。
「父上、誕生日に欲しい物があるんです。叶えていただけるなら今後は贈り物はいりません。」
普段は恐ろしく要領が良いのに、この状況で強請る息子を見つめた。
「今、言うのか・・」
リーンの部屋には決まった者しか入れない。兄王子は妹と過ごす時は医務官以外は人払いをしている。今はデジロと王と兄王子しかいないため密談するには丁度良かった。
「はい。父上と二人っきりになれるのはここだけです。俺をリーンの病を治す方法を探す旅に行かせてください。その父上が斬ろうとしている医務官は俺にください。父上がリーンのために動けば反発が出ます。ただ変わり者の王子が飛び出しても気にしないでしょう?父上は大国の王子が犬死にしないように慌てて護衛を送るだけです。それに俺がいないほうが母上達も安全でしょう。止めても行きますよ」
王は優秀過ぎる息子に小さく笑った。後宮を取り仕切る第二妃はこの王子を警戒していた。愚鈍なフリをしているが、幼い頃は天才と言われ、本を渡せば勝手に学び教師はいらなかった。学者をつけないと王子と会話にならなかった。ただいつの間にか天才王子は変わり者王子と呼ばれるようになった。
「どんなに調べてもリーンの病の症例は大国にありません。俺は妹がこのままこの部屋で息絶えるなんて耐えられません。兄として傍にいてあげるしかできない自分が無力でしかありません。リーンはいつの間にか泣かなくなりました。いつも笑顔で母上達を慰めてます。たくさんいる王族の中で俺達はいなくても支障はありません。家族のために笑顔で病に耐える妹が報われないなんて許せません。旅から戻れば王族として生きます。リーンも元気になれば務めは果たします。どんな時も笑顔を浮かべられる妹は義姉上達よりよっぽど立派な姫になります。父上、母上達をお願いします。その医務官は俺がもらうので処刑しないでください。他国の情報も送りますよ」
王は強い瞳で見る息子の成長が誇らしかった。後ろ盾さえあれば後継に選んでもよかったが、それは悲劇を呼ぶので口に出さない。
「願いではなく決めてるではないか。リーンは行かなくていいと言うだろうが」
兄王子は妹のことがわかっていない父を笑った。
「父上、リーンは俺の言うことは聞きますよ。治す方法を探して帰ってくるから待ってろって言えば絶対に待っててくれます。意地っ張りですから」
「お互い様だろうが。この件を知ってるのは?」
「宰相にはいくつか条件を出されましたが了承をもらってあります。」
自分が許可しなくても旅立つ準備を進めていた息子の頭を乱暴に撫でる。
「精鋭の護衛をつけるから離すなよ。」
「義兄上に睨まれたくないので護衛騎士は今のままで。必要なら適当に見繕います」
父よりも息子のほうがしっかりしていた。第二妃と第二王子に睨まれれば後宮では生き残れない。まず狙われるのはリーンだった。王族の中でも兄妹の仲が良いことは有名だった。
「個人資産なら文句は言われないだろう。資金援助はいくらでもする。父を頼れ。8歳の息子を心配する親の気持ちもわかれ」
「俺は子供なのでわかりません。母上は心配ありませんが、リーンをお願いします。時々、顔だけ見せてあげてください。寂しいとは絶対に言わないので。父上、そろそろ行かないと捕まりますよ」
「予定変更だ。今日はお前達と過ごす」
「お気持ちだけで。あんまりここにいられても義姉上達に睨まれるので勘弁してください」
リーンなら素直に喜んだ。旅立つ息子と過ごしたい父の願いは断られた。
「可愛げがない」
「妹に全部引き継がれました。俺は父上に似たので、仕方ありません」
王は頑固な息子が安全に旅を送れるように影をつける手配を決めた。影は宰相も関与できない。自分だけが持つ権利を使うのに躊躇いはなかった。
「旅立つ前に必ず挨拶に来い。帰らなければ許さん。妹との約束を違えるなよ。」
「誓約しても構いません。普段は厳格な父上が子煩悩で心配性と知っているのは俺達だけですね。」
「王としては言えない。だが父としてお前の決断を誇りに思う。リーンだけでなくお前にも幸せになってほしい」
「弱気な父上ですね。俺は優しい両親に可愛い妹。王子達の中で一番恵まれていますよ。ただ俺の幸せのために足りないピースを探しにいくだけです。父上もお体に気をつけてください。父上が国王だからこそリーンは生きていられますから」
「まだまだ王位は渡さん。好きにはさせん。」
自分を意のままに動かそうとする愚かな貴族もいる。それをわかって利用するのが王だった。
「では、父上、気をつけてお戻りください」
素っ気ない息子を王は抱きしめ立ち去った。二面性が激しい父に兄王子は苦笑し、控えているデジロに視線を向けた。
「デジロ、お前の命は俺のものだ。旅に出る。王子に気に入られて旅に出る以外は言うなよ」
「俺に拒否権は・・」
「俺はお前の腕を買っている。殺すには惜しい。大国に産まれたからには王族に命を捧げるのが務めだろう?リーンの部屋でなければ首がなくなっていた。感謝しろよ。給金はしっかり出すが目的を終えるまでは帰らない。死にたいならいいけど」
デジロはリーンを見た。今日も体が辛いのに無理して起き上がり元気と笑っていた姫を。
小さい体で涙を堪えて苦しむ姫に自分は寝かせるしかできず、医務官として役立たずだった。
「死にたくないのでお供します」
「そうか。父上だから良かったけど、次は助けてやれるかわからない」
大国の王を怒らせて笑っていられるのは数いる王子の中でこの王子だけだった。
デジロはこの王子に従うことにした。王子と一緒に旅をしてもデジロに腹芸は身に付かなかった。兄王子は大国に帰ってもデジロを側近として傍に置いた。デジロは医務官なのに研究者の補佐をさせられたが不満は言わなかった。兄王子に何度も命を救われたことを忠臣達に説明されたからではなくただデジロが研究するのが楽しかったからである。
皇国の兄王子の所有する研究所で働いていたデジロは聞き間違えかと思った。
兄王子が突然現れ、自分を連れまわすのはよくあった。
「デジロ、念願の医務官に戻してやる。小国にいるリーンに仕えろ。あの国は緩いからお前の失言も大丈夫だ。」
「殿下?」
「小国の医務官は使えない。人手不足で困っているから頼むよ」
大国の国王の怒気に狼狽えないデジロはルオの殺気も冷気も気にしないだろう。
産気付いた妹の部屋に入ったら医務官が気絶している姿は驚いた。苦しむリーンに何もできないルオの八つ当たりが原因だが、職務は果たしてほしかった。真っ青な顔のリーンを見て、自分でやるしかないと思った。知識だけあればどうにでもなることを知っていた。妹の傍には有能な医務官が必要なのは確かで、いつまでも傍にはいてやれない妹への贈り物にデジロは丁度良いと兄王子は思っていた。
デジロは差し出される旅券と紹介状と荷物を受け取る。
「お前の研究は引き継がせるから心配いらない。小国も研究に力をいれてるから好きにしていいよ」
大国の王族は強引であり、デジロの意思は通らない。デジロは兄王子に送り出され一礼して旅立った。
記憶にあるのは幼い姫だった。治療方法は見つかったが王宮に戻らなかったデジロは完治したリーンに会っていない。医務官に嫌われているデジロが国に戻っても理由をつけて処刑されると思った兄王子がずっと庇護下に置いていた。わかりにくいが、過酷な旅に付き合い妹の治療方法を見つけたデジロに感謝していた。兄王子の側近は問題ばかりおこすデジロに頭を抱えていたがそれを兄王子がいつも宥めていたことはデジロは知らなかった。
***
リーンは兄王子の紹介状を持ち訪ねたデジロを離宮に呼んだ。ルオの許可が必要だが留守のため、離宮の全権はリーンにあった。
「デジロ様、お久しぶりです」
にっこり笑ったリーンにデジロは笑う。初めて会った時は大人になれるとは思えなかった。
「お元気そうで」
「ありがとうございます。私の命があるのはお兄様と貴方のおかげです」
「ご存知だったんですか?」
「デジロ様はお兄様のお気に入りでしたもの。旅立つ時にきっと一緒と思いました。挨拶もなくいなくなったのは寂しかったですが・・」
頬を膨らませて拗ねるリーンは最後の記憶の中のリーンよりも子供らしい仕草だった。
兄王子の命令とはいえ本人に確認することにした。小国の皇太子妃に役立たずの医務官は必要なのか。
「姫様、私でよろしいんですか?」
リーンには懐かしい淡々とした素っ気ない言葉が懐かしかった。
「私はデジロ様を知ってますわ。私の命を繋いでくれた貴方になら全てを委ねられます。私の体はお兄様とデジロ様で作られてます。私はデジロ様を信じてます。それにお兄様の紹介なら罪人でも迷わず受け入れます。デジロ様ならお兄様の紹介がなくても大歓迎です。」
リーンの好きな薬湯を調合したのはきっと兄とデジロである。デジロがいれば薬湯は飲み放題である。初めて飲んだ兄からもらった苦くない薬湯はデジロの薬の優しい味と似ていた。
薬湯の調合を兄は教えてくれなかったため兄が旅立ち貴重な薬湯は大事な時にしか飲めなかった。リーンの生活がデジロがいるだけで過ごしやすくなる。何よりラディルやルオになにかあっても絶対に助かる。デジロはリーンの世界で一番優秀な医務官である。
迷いもなく嬉しそうな顔で自分を見るリーンの顔は記憶に残っていた。
デジロにとってリーンは変わり者の兄王子を誰よりも信じる妹姫だった。
「変わりませんね。」
「デジロ様の了承がいただけるなら私の子の専属医務官に任命します。大国とは勝手が違いますので私の直属にします。お暇な時間は研究しますか?でもラディルの教師もお願いしたい」
興奮しているリーンにイナが声を掛ける。いつもは主の声を遮ることはしないが今はイナにとって非常事態だった。
「姫様、落ち着いてください。この男はラディル様の教育には」
イナの言葉をリーンは遮って、にっこり笑う。
「デジロ様は天才よ。お兄様の腹心を送ってくださるなんて。お兄様もラディルが可愛いのね。デジロ様、手が空いたら私も診察してください。私にとってデジロ様の手は魔法の手でした」
リーンはたくさんの医務官を見てきた。苦しい時に、背中をゆっくりさすりながら、ゆっくりとデジロに差し出される薬を飲むとすぐに眠くなった。デジロの薬はいつも味が違った。他の医務官の薬よりも苦くなかった。
「イナ、デジロ様への無礼は許しません。せっかくお兄様が譲ってくださったんですもの。私は手放したりしませんので覚悟してくださいませ。お兄様にも返しません」
デジロを見て無邪気に笑う顔は昔と変わらない。どこに行っても嫌な顔をされる医務官のデジロを見て笑顔で迎えるのはリーンだけだった。
デジロがリーン付きだった頃はリーンには常に医務官が付き添っていた。
夜勤をしていたデジロが本を読んでいると眠っているリーンが目覚めた。リーンはゆっくり起き上がり、周りを見渡す。
「俺しかいません。誰か呼びますか?」
リーンは首を横に振る。デジロはリーンの顔色がいつもよりいいので、好きにさせ、読みかけの本に視線を戻す。
「デジロ様、内緒にする。リーンはどうなるの?」
リーンの言葉にデジロは本から顔をあげた。
「姫様の病気は治る方法が見つかってません。だからいつまで生きられるかわかりません」
リーンはわかっていた。母がいつも泣いていた。でも知りたかった。教えてくれるのは目の前の嘘をつかない医務官しかいなかった。
「ごめんね・・。内緒にして。お願い」
わかっていても溢れる涙が止まらなかった。
「泣いて苦しくなったら俺が眠らせますよ」
デジロは本に視線を戻す。自分を見ないデジロにリーンは我慢をやめた。泣くことを許してくれたのはデジロだけだった。
「おとうさま、うっ、おかあさま、ごめんなさい。リーンはだめな子です。おにいさま、いな、らせる」
リーンは大好きな人の名を嗚咽まじりに呼んで謝り続けた。デジロは嗚咽が止まったので本から顔をあげるとリーンは泣き疲れて眠っていた。リーンの涙の跡を拭いて目元を冷やした。
「姫様、治療は今はありません。でも明日は見つかるかもしれません。起きてるときに無責任なことは言えません。」
デジロは眠るリーンがふらふらと伸ばした手を握った。リーンはデジロが見た病人の中で一番我慢強かった。病に苦しんでも、恨み言も言わない。何もできない医務官に八つ当たりもしない。他の医務官はリーンを鈍い子供だと思っている。苦い薬を嫌がらずに飲むのは味覚がおかしいと勘違いしていた。苦味の少ない薬を渡すと驚いた顔をするのを他の医務官は知らない。デジロの薬は他の医務官よりも手間がかかる。リーンのためにそこまでやる気がないのも知っていた。国王の気まぐれで生かされている姫の形ばかりの治療をする医務官達も自分と同じ無能だと思っていた。翌朝目覚めたリーンはデジロの手を握っていたことに謝った。気まずそうに自分を見る姫に何も見てませんと言うと笑顔を見せた。朝の薬を飲んだリーンの頭を撫でるとふんわりと笑う。デジロは空気が読めなくても、苦い薬を飲むことが辛いことは知っている。無能な医務官も頭を撫でて褒めることはできた。
それからリーンは泣かずにいつも笑顔で過ごすようになった。デジロが眠るリーンにかけた言葉に救われたことはリーンだけしか知らなかった。
成長したリーンにデジロは胸が熱くなった。興奮すると倒れた姫とは思えなかった。
デジロは昔のようにリーンの頭に手を伸ばして撫でると気持ち良さそうに目を閉じてふんわりと笑った。デジロは昔はリーンの医務官として役立たずだったが今は違う。知識だけならどこの医務官にも負けない。
「姫様、ほどほどにお願いします。殿下に姫様の傍を離れるなと命じられてますので、いいようにお使いください。これより俺は姫様に仕えます」
リーンは空いているデジロの手を取って自身の頬にあて、ぱぁっと花がほころぶような笑みを浮かべる。
「魔法の手が私のものになるなんて幸せです。私はかわりになにを差し出せば」
はしゃぐリーンと空気の読めないデジロは気付かなかった。無自覚だが二人の距離は近かった。随分前から冷気を出している男がいた。
「斬られたいのか」
視察から帰ったルオの目の前には寄り添うリーンと青年がいた。リーンの頭に手を置き、リーン自ら頬に手をあてるのはルオでさえされたことがなかった。
リーンが触れる男は兄王子とラディル以外許せなかった。我慢しているが、リーンの友人達も不愉快だった。
冷たい目をするルオをリーンが睨む。
「ルー様、デジロ様への無礼は許しません。」
ルオはリーンに強く睨まれるのはトラウマだった。リーンがデジロの手を頬にあてたまま、睨む姿は心を抉った。
「殿下、誤解です。落ち着いてください。」
執務室でずっと二人を見ていたルオの側近が肩を叩く。ルオの冷気に怯えていたら仕事にならなかった。
「リーン様の命の恩人の新しい医務官です。幼い頃よりお世話されていたようです」
ルオは差し出された書状を読むと義兄からだった。
「デジロ様、この国の皇太子のルー殿下です」
デジロはリーンの手を解いてルオに兄王子からリーンの夫に直接渡せと授かっていた書状を渡す。
「殿下より姫様の夫君にと」
ルオは乱暴に受け取り中身を確認する。
空気は読めないが腕は優秀だから好きに使え。国王を怒らせても動じないから扱いは要注意と書いてあった。状況はわからないがルオはリーンを抱き寄せた。リーンはルオの乱暴な態度に怒り不満そうにルオを見つめるリーンを見つめ返す。
「リーン、状況を説明してくれないか?」
ルオの家臣は不機嫌なルオをリーンに任せることにした。執務室で夫婦喧嘩が始まると邪魔であり、落ち込んだルオの相手が大変だった。
「殿下、良ければお二人でどうぞ。デジロは旅疲れもありましょう。詳しい話は明日にしましょう。」
もともとルオの帰参は明日だったため執務の予定はなかった。
「姫様、デジロはイナがおもてなしします。殿下と散歩にどうぞ。」
「え?」
「ラディルを連れて行こうか」
リーンはルオに腰を抱かれて、強引に連れ出された。スサナからラディルを引き取り庭園に着くとルオはラディルを抱き上げた。リーンと手を繋いで上機嫌に歩いていたラディルはルオを睨む。ラディルは自分の行動を邪魔されるのは嫌いだった。
リーンはルオに怒っていたが愛息子に睨まれてショックを受けている姿に笑ってしまった。ご機嫌斜めのラディルの頭を優しく撫でる。
「ラディル、お父様にお帰りなさいを言いましょう。」
悲しそうな父と笑顔の母を交互に見つめてラディルはニコッと笑う。
「とーま、おかえり」
「ルオ、お帰りなさい。」
ルオは不機嫌だった妻と息子の笑顔に力が抜けた。
「ただいま」
悲しい顔が幸せそうな顔に一瞬で変わった様子にリーンは肩を震わせて笑う。
ルオはラディルを叱れない。ラディルの教育にルオは頼りにならないので叱り役はリーンが頑張ることにした。ラディルにルオが振り回される未来を思い描いて、リーンは笑いが止まらなかった。リーンに生きる希望をくれたのは兄とデジロ。嘘を言わずに同情しないデジロの側にいるのは楽だった。他の医務官と違ってデジロの言葉は信じられた。だから辛くても苦しくても二人を信じて待とうと決めた。
生きてほしいと願ってくれた両親。悲しむ母を無邪気に笑わせてくれたのは弟。リーンは家族に恵まれていた。ラディルにとって自分も拠り所になれる家族になりたい。
自分の足で歩きたいラディルがルオの腕の中から飛び降り、慌てるルオの心配はよそに綺麗に着地した。運動神経は父譲りのラディルを見てさらに笑った。
ルオは幸せな家族の時間にデジロのことを忘れていた。リーン達が庭園で和やかに過ごしてる頃デジロはイナに注意事項の説明を受けていたが聞き流していた。
イナは無礼で問題ばかり起こすデジロをよく知っていた。王子とリーンのお気に入りでなければ処罰されていたことも。リーンのいない間にしっかり言い聞かせるつもりだった。リーンの侍従は無駄なことと思ったが口に出さなかった。
「ルオ、ラディルをお願いね。私はまだ執務が残っているから戻るね」
笑いの止まったリーンはラディルと鬼ごっこをしているルオに声をかけて先に戻った。ルオと違いリーンは今日の執務が残っていた。
執務室に戻り、デジロの書類を作った。ラディルの専属医務官に任命し暇な時間にラディルの教師を頼んだ。
リーンはデジロに懐いていた。ルオはリーンが自分より頼りにするデジロは気に入らない。ただデジロは鈍く空気が読めないためルオの冷気も気にしない。世界を回っていたデジロは世界中の歴史に詳しく、兄王子と共に回った国のあらゆる文献を読み漁っていた。デジロは一度読んだものは忘れない。古代医学も怪しい本もあらゆる文献を読み漁った。リーンの治療のためだけでなく、兄王子の知識欲を満たすためだった。デジロは知識だけなら学者にも負けない。デジロの親しい王子は兄王子だけだったため、ラディルは大国に引けを取らない厳しい教育を受けることになる。ただラディルはデジロに懐き、デジロの授業を母の膝の上でいつも楽しそうに受けていた。ラディルは構いすぎる父親よりも、自由にさせてくれ、たくさん褒めてくれる母が好きだった。そしてなんでも教えてくれるデジロも。
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