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王子の婚約者

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「本当にいいのかい?」
「王家と侯爵家のためになる良縁です。私は両家のお役にたて光栄ですわ。お父様」

侯爵令嬢アリアーヌの婚約者は第二王子。
第二王子とはいえ王族の婚約者の立ち位置は令嬢の憧れのはずだが、アリアーヌの場合は違った。
第二王子のベルトルドは女好きで有名であり、良識ある貴族はアリアーヌに同情し、父親さえもアリアーヌに婚約破棄を勧めるほどである。
名門侯爵家のご令嬢なら継承順位の低い王族よりも優良な嫁ぎ先がいくらでもあるとどれだけ勧めてもアリアーヌは侯爵家と王家のお役に立てるなら光栄と微笑み、不満を一言も言わずにベルトルドの隣に寄り添う健気な侯爵令嬢である。
そんな健気な令嬢の夢が仮面夫婦になることと知るものはほとんどいなかった。



王家主催のお茶会で王妃が席を外した後には恒例行事がある。
王妃の前では礼儀正しい令嬢達だが厳格な王妃が退席すると仮面を外し、羽目を外してしまうこともある。
お茶会に参加している二人の王子は母の厳格さを受け継がず、国益を損なわない場なら多少の無礼講には寛大である。
王妃不在のお茶会で恒例の第二王子ベルトルドの争奪戦が行われている。

「ベルトルド様の隣は私よ」
「私よ」

王妃が関与していない二人の王子が主催した無礼講がテーマのお茶会では席は決まっていない。
アリアーヌは王子から離れて、友人のスベリアの隣に座り渋みの強い紅茶に口をつける。
一口飲むとふぅと吐息をこぼし、とろけるような笑みを浮かべた。

「スベリア、この茶葉はどこで取り扱っているのかしら」
「殿下が取り寄せたそうよ」
「それなら王妃様に聞きましょう。きっと教えてくださいますわ」

ほのかに頬を染めたアリアーヌはうっとりも呟く。
アリアーヌが咎めず、気にしない所為でベルトルドに恋する令嬢達は自重しない。
名門侯爵令嬢のアリアーヌと違い第二王子妃の地位に良縁と目をギラギラさせている令嬢もいるが少数派である。
大半は見目麗しいベルトルドに恋心を奪われた令嬢達である。
第一王子の婚約者の公爵令嬢は恋敵は容赦なく潰す姿勢のため、令嬢達は近づけない。
無害な婚約者を持つ第二王子のベルトルドに令嬢の人気は集中していた。

「私は恋愛小説は大好きですが、そろそろこの展開は厭きましたわ」

令嬢達はベルトルドに耳元で囁かれ顔を真っ赤にして言い争いをやめる。
アリアーヌには囁かれる言葉はわからないがきっと陳腐なものだと思っている。
ベルトルドとの付き合いが長いアリアーヌは婚約者の言葉は小説のように美しい言葉ではないのを知っている。
恋する相手に囁かれた言葉なら陳腐な言葉でもうっとりするほど甘美に響く気持ちはわかるので、興醒めさせるようなことは言わずにアリアーヌはあたたかく見守る。
恋は叶えるだけが全てではないことをアリアーヌはよく知っている。


一部の令嬢に人気の第二王子の婚約者のアリアーヌはベルトルドに無関心である。
それでも婚約者なのでベルトルドの常に味方の立ち位置は守っている。
パートナーを頼まれれば快諾する。
ベルトルドに話しかけられれば興味のない話題にも反応し、ベルトルドの恋の相談も親身に聞く。
幼馴染の良き理解者としての立ち位置は決して崩さない。
だからこそベルトルドの秘密をアリアーヌは知っていた。

ベルトルドの秘密とは初恋の少女を探していること。
心当たりはあるが、とある事情でアリアーヌはごまかすと決めた。
ベルトルドは一見軽い男だが実は執念深い男であり、本気で気に入ったものは逃さない。
幼い頃にベルトルドが気に入った犬を購入し、自らの手で標本にする姿を見たのはアリアーヌのトラウマである。
あの狂気の目を見てからは婚約者を見る目が変わった。
それでもアリアーヌは決して自身の変化をベルトルドには悟らせない。
ベルトルドは女好きの見境なしではない。
令嬢や女性達との遊びは初恋の人を探しているだけとアリアーヌは知っている。
令嬢達は牽制もこめてベルトルドとの逢瀬を誤解を招くような言い方で自慢気に広める。
ベルトルドは誰一人お手付きにはしていない。
アリアーヌとしてはお手付きは大歓迎である。
どうか本物の初恋の少女にも真実にも気付かず他の令嬢に本気になってほしいと心から願っている。
ベルトルドの怖さを知らない令嬢達を心の中で応援しながらアリアーヌは無関心を装う。立場上は第二王子の婚約者なので、不本意ながら令嬢達を全面的に応援はできないが。
そんなアリアーヌの複雑な心を知るのは本人だけである。



アリアーヌはベルトルドと婚約前に契約を結んでいた。
エスコート以外で自分に触れない。
行動制限しない。
本を取り寄せる。
それを認めるならアリアーヌは婚約者や妃としての役目を果たしベルトルドの行動に干渉しない。婚姻しても側室を娶り、後継は他の女性と作ってもらう予定である。
アリアーヌは仕事は嫌いではないのでお飾りの妃は大歓迎。
むしろ率先して仕事を回して欲しい。
お茶会が終わるとアリアーヌはベルトルドに挨拶するかとなく王妃を訪ねた。
茶葉をわけてもらうついでに執務を手伝い、上機嫌なアリアーヌは王宮を後にした。


令嬢に囲まれるベルトルドに不満を言わずに王妃の執務を手伝い帰っていくアリアーヌの背中を見送った第一王子は弟を訪ねた。

「ベル、いい加減にしないと愛想をつかされるよ」

ベルトルドは兄の何度目かわからない窘める言葉にため息を溢す。

「アリアーヌはわかっているよ」
「彼女も可哀想に。それでも王家のためって婚約破棄も願わず、ベルにも何も言わないんだろう?」
「アリアーヌは兄上の思うような純真な奴ではないよ。王子の正妃になりたいだけだ」

第一王子は女心のわからない弟にため息をつき、第二王子はアリアーヌの本性を知らない兄にため息をつく。
親しい兄弟でも違う人間のため、全てが理解できるわけではない。

***


アリアーヌは率先して王妃の執務を手伝っている。
お茶会よりも王宮で執務をするのが好きである。執務をしていると時々良いことがあり、その良いことがアリアーヌがベルトルドの正妃を目指す理由である。

アリアーヌは王妃と話す宰相を書類で顔を隠しながら口元を緩ませうっとりと見つめていた。
秘密であるがアリアーヌが一番好きな物は宰相、次点が恋愛小説である。

(宰相閣下、今日も格好いい。
閣下と同じ世に生まれたことで私は運を全て使い果たしてしまったわ。
本望だわ。全てにおいて完璧。)


アリアーヌは16歳である。
目の前では宰相が王妃に苦言を言われている。
アリアーヌは大分大人の魅力に溢れる宰相に一目惚れしてからどんな宰相も魅力的に見える恋の病に罹っている。
孫もいる宰相がアリアーヌを相手にしてくれないのはわかっていた。
それなら宰相の傍にいる方法は探すだけ。
貴族の男の妻になるよりも王族に嫁いで公務をすればほぼ毎日会えるという幸せな日々が約束されている。
第二王子は王位を継がないが、兄の第一王子を支えるため王宮で過ごすことが決まっている。
だからベルトルドを選んだ。
アリアーヌは一時の幸せに浸りながら、耳心地のいい美声に聞き惚れていた。
王妃がいつもよりも枯れた宰相の声が聞き取りづらいと言っているのは耳に入っていない。

***

ベルトルドはアリアーヌと夜会に参加していた。
赤毛の令嬢を見つけて口元が緩む。
ベルトルドが声を掛けるのは赤毛の令嬢だけ。
ベルトルドはアリアーヌの手を解き赤毛の令嬢に近づくのを、アリアーヌは笑みを浮かべて見送る。婚約者がいなくなればアリアーヌの楽しい時間の始まりである。
アリアーヌは扇で顔を隠して国王の後に控える宰相をとろけるような笑みを浮かべて眺めはじめた。

(宰相閣下の今日のお髭も素敵。そして久しぶりの正装姿は神々しい。
国王陛下のおかげでさらに際だつわ。あの美しい声がずっと聴ける陛下が羨ましい。なんて囁かれてるのかしら…。素敵…。宰相閣下のお言葉はこの世で一番甘美で美しいものだもの。お顔の色がいつもより薄いけど、それもまた)

「ご令嬢、よろしければ」

声を掛けられたアリアーヌは表情を切り替え、美しい笑みを浮かべてから扇を閉じて礼をする。
隣国の令息に誘われゆったりとしたワルツを踊る。
令息から囁かれるアリアーヌにとって陳腐な言葉は笑みを浮かべて聞き流し、ダンスが終わると礼をして離れる。
そして誰にも見つからないように宰相をうっとりしながら見つめる。
アリアーヌにとって最後の至福の時間とは気づいていなかった。

****

アリアーヌとベルトルドの定例のお茶会が行われていた。
アリアーヌは渡された物語に上機嫌な笑みを浮かべる。

「ありがとうございます」

ベルトルドは真剣な顔でアリアーヌを見つけた。

「婚約を破棄したい」
「殿下?」
「探し人を見つけた。彼女を迎え入れるには正妃の座が必要だ。アリアーヌには隣国の王子との縁談を」

冗談のカケラもない無情な声で聞こえる言葉にアリアーヌは目を見張る。

「お待ちください。契約違反ですわ」
「は?それとも俺の側室でいいのか?」
「殿下の正妃がいいんですの。他はお断りです」
「お前、まさか」

アリアーヌは勘違いしているベルトルドの額を扇でペチンと叩く。

「私達にロマンスはおきませんわ。おめでとうございますと心から祝福したいんですが、恋愛小説と現実は違います。婚約破棄して新たな婚約を持ちかけるなら、正当な取引を」

アリアーヌの強気な笑みにベルトルドは苦笑する。

「そういう奴だよな。俺の正妃は諦めろ。すでに婚約破棄は進めている。望みは」

「殿下、王宮にお戻りを。国王陛下がお呼びです」

ベルトルドは駆けこむ使者に頷いてまた来ると言葉を残して立ち去った。
アリアーヌは父に事実を確認するため執務室に行くと留守だった。
アリアーヌの父はその晩帰ってこなかった。アリアーヌが理由を知るのは2日後だった。




アリアーヌは宰相の訃報を聞いて真っ青になった。
侍女に支度をされ喪服に袖を通し、真っ青な顔で震える体で馬車に乗り込んだ。
偉大な宰相の葬儀が行われた。
アリアーヌは涙を溢しながら棺の中でずっと眠る顔を眺めていた。
棺の側に立ちすくみ離れないアリアーヌをベルトルドが腰を抱いて引き寄せる。
アリアーヌはベルトルドの声も行動も気付かずにただ瞳から止まらない涙を溢し、一心不乱に見つめていた。
宰相にはアリアーヌもベルトルドも幼い頃から面識があった。
そのためアリアーヌの動揺に疑念を抱く者はいない。
偉大な宰相の突然の死に各々が悲しみに暮れていたため気遣う余裕もなかった。
たった一人ベルトルドだけは違っていた。
いつも余裕の笑みを浮かべる強気な幼馴染が静かに涙を流し、肩を震わせ消えそうな儚い姿から目が離せなかった。
いつもは腕を振り払う姿もなく、ベルトルドの腕の中に静かにおさまっていた。

「アリア」

アリアーヌには宰相のことしか頭にない。
いまだにベルトルドの存在は気づいていない。

(閣下、どうして。私はこれからどう生きればいいのでしょうか。
穏やかなお顔をずっと眺めたいのに、歪んで見えません。泣いて縋りたくても許されません。私の恋で貴方の栄光を崩すわけにはいきません。
閣下。私は…)

運ばれる棺を涙で歪む視界の中、瞬きもせずにアリアーヌは見ていた。
祈りを捧げないととわかっていてもできなかった。祈りを捧げるフリをしてずっと目を開けていた。宰相を目にするのが最期という知りたくもない現実を認めたくなくてもわかっていた。
瞳からは止めどなく涙が流れ、棺が運ばれた後も、ただずっと棺の置かれていた祭壇を見つめていた。
一人、一人と会場から人が消え、残っているのはアリアーヌとベルトルドだけだった。


(閣下、どうか安らかに。
私、わかりましたわ。どうか、お許してくださいませ。
閣下、私は、)

「愛してましたわ」

アリアーヌは祈りを捧げて涙を拭い、腰を抱いているベルトルドにようやく気付いて顔を見た。

「殿下、婚約破棄を受け入れますわ。ですが私の縁談だけは遠慮させてください。私にはもう必要ありませんわ」
「アリア…」
「今までありがとうございました。殿下のおかげで甘美な夢を見れました。どうかお幸せにベル様」

アリアーヌは微笑み、ベルトルドの腕を解いて足早に扉から出て行く。
呆然と立ち去る背中を見つめる元婚約者には気づかない。
婚約者との別れのシーン。
今のアリアーヌの頭には宰相のことだけで、大好きな恋愛小説のシーンを思い出し真似る余裕はなかった。

葬儀が終わり3日後にようやく帰宅した父にベルトルドとの婚約破棄の了承を伝えた。
喜ぶ父に心の整理をつけたいと2週間ほど王都を離れる許可をもらい侯爵領の領地に向かう。
侯爵は快く送り出した。
もともとベルトルドから婚約破棄の報せは受けていた。
表面的には喪に服すが、そこまで暇ではなかった。
王家では内密にアリアーヌとベルトルドの婚約破棄が発表された。
ベルトルドは初恋の人を見つけたのになぜか心が晴れない。
宰相の死よりも初恋の令嬢よりもアリアーヌの儚い笑みが頭から離れなかった。

アリアーヌは二週間ほど王都から離れて準備を整えていた。
二週間後に王都に帰ったアリアーヌは両親を抱きしめた。不思議な顔をする両親に綺麗な笑みを浮かべて領地での思い出話に花を咲かせる。侯爵夫妻は元気な娘に安堵の息をつき晩餐を楽しんでいた。
王都ではベルトルドの婚約の話が囁かれていた。隣国の公爵令嬢との縁談は国益が大きかった。婚約破棄されたアリアーヌにも縁談の話があったが本人には伝えられていなかった。

翌朝一通の手紙を残してアリアーヌは侯爵邸から姿を消した。
恋しい人がなくなった時に行く場所はただ一つ。
そのための準備を進めていた。
アリアーヌは宰相の墓地の一番近くの修道院を目指した。
そして毎日祈りに行く許可も取った。
これからは宰相の傍で祈りを捧げて生きると決めていた。
恋愛小説のように、家族への手紙を枕の上に置き、喪服を着て最小限の荷物だけ持ちアリアーヌは窓から抜け出す。
アリアーヌの第二の人生の始まりだった。

****

いつまで経っても起きないアリアーヌの様子を見に来た侍女は冷たいベッドに残された手紙を見て慌てて侯爵のもとに駆け込む。
侍女の持つ手紙を開き、侯爵夫妻は顔を真っ青にした。

今まで育ててくれてありがとうございます。役立たずの娘は国の繁栄に祈りを捧げます。
いつまでもお元気で。
どうか幸せに。もしも私を想ってくださるなら探さないでください。
お兄様、お願いします。
アリアーヌ

侯爵夫妻は娘が婚約破棄に責任を感じているのに気付かなかった。アリアーヌとベルトルドの婚約はベルトルドの意向が強い。侯爵家は婚約破棄されても問題はなく、アリアーヌの良縁の心当たりもたくさんあった。

「アリアーヌ、あの子は」

侯爵夫妻の動揺は息子が顔を見せるまで続いていた。


ベルトルドとの婚約の決まった隣国の公爵令嬢ジョセフィーヌは上機嫌に微笑んでいた。
ジョセフィーヌはずっとベルトルドが好きだった。
今まで一度もベルトルドに声を掛けられなかった。
そのためベルトルドの好みを調べ上げた。そして偶然ベルトルドとアリアーヌの言葉を聞き、自慢の金髪を赤毛に染め直し近づいた。
そして初恋の少女のフリをすれば簡単だった。全く映らなかった瞳にようやく映った時は心の中で高笑いが止まらなかった。


両親が動揺している頃、アリアーヌは宰相の眠る墓地で祈りを捧げていた。
そしてなぜか修道院ではなく小さい邸宅に部屋を与えられている。

「リーヌ、食事ができたよ。食べないか?」
「ありがとうございます。私、修道院に行きたいんですが」
「美しい君には似合わないよ。いつでも祈りに行っていいからここにいてよ。お金の心配はしないで。僕はこれでもお金持ちだから」

時間は遡る。
アリアーヌは修道院に向かう前に宰相の墓地で祈りを捧げていた。

(閣下がもういないなんて信じたくありません。閣下のいない王宮は嫌です。まるで花のない花屋ですわ。王族のいない王家ですわ。
出会えたことに感謝してました。でもこんな結末は酷すぎます。閣下を恨んでませんわ。閣下は私の…)

喪服を着て、ポロポロと涙を流し祈るアリアーヌを一人の男が見ていた。アリアーヌはポツリポツリと降り注ぐ雨に気付かず、ずっと宰相を思い浮かべ祈っていた。
雨に打たれたても一心に祈りを捧げる姿は美しかった。男はアリアーヌを広げた傘に入れた。

「お嬢さん、風邪を引きますよ」

アリアーヌは聞こえる声に驚いて目を開けると、宰相の目元にそっくりな青年がいた。

「貴方が濡れます。私は失礼します」
「雨宿りにうちにきませんか?」

青年は逃したらいけない気がして思わず誘った。

「お気遣いありがとうございます」

青年は立ち去ろうとするアリアーヌの腕を引いて強引に歩き出した。
雨に濡れた少女を保護した少年と結ばれる物話があったとアリアーヌはぼんやりと思いながらされるがままだった。

(強引に腕を引かれた少女はこんな気分だったのかしら。
私にロマンスは始まりませんわ。宰相閣下との出会いに神様に感謝の祈りを捧げましたが、その先も祈らないといけませんでした・・・。大好きな恋愛小説も読みたくありませんわ。でも殿下は小説通りですわね。羨ましいですわ。誰かが世界で一番素敵なちょっと年上の宰相閣下と侯爵令嬢のロマンスを書いてくれないかしら・・。いくらでも投資しますわ。)

アリアーヌは気付くと暖かい部屋の中で髪を拭かれていた。

「これなら大丈夫か。お嬢さん、名前は?」

アリアーヌは青年の声が宰相と似ている気がした。美声ではないが耳心地の良さが似ていた。

「リーヌと申します」
「リーヌか。美しい響きだ。部屋は余ってるんだ。雨が止むまで泊まっていきなよ」
「え?」
「僕は紳士だから安心して。食事にしようか。君の荷物は部屋に運んであるから。」

アリアーヌは気付くと足元の荷物がなかった。お金と着替えと針道具しか持ち出していなかった。アリアーヌは青年に流されるままに椅子に座らされ、用意された温かいスープを口に入れると冷えた体が温かくなり微笑む。青年は自分の見立てに笑みを浮かべて向かいに座って食事を始めた。
食事が終わると、アリアーヌは青年に部屋に案内された。

「僕は隣の部屋にいるから、用があれば遠慮なく起こして」
「え?」
「おやすみ、リーヌ、いい夢を」

青年は温和な笑みを浮かべて立ち去った。

(目元が宰相閣下に似てるような・・・。疲れかしら?
もちろん宰相の方が言葉にならないほど素敵だけど、同じ系統というものかしら・・。
私、何をしているのかしら・・。もう暗いので明日修道院に行きましょう。)


アリアーヌは着替えて、ベッドに入り眠りについた。
翌日、目覚めて着替えをすまし、部屋を出ると食事が用意されていた。

「リーヌ、よく眠れた?食事はここにあるから食べて。食器はそのままでいいよ。ちょっと出かけてくるから待ってて。行ってくるね」

アリアーヌは笑顔で家を出て行く青年に目を丸くする。

(私、待っていないといけないんですか?
不用心すぎませんか?急ぐ旅でもありませんし、帰ってきたら挨拶をすればいいでしょう。修道院は逃げませんわ。)

アリアーヌは用意された食事を口に運ぶと温かい味がした。
修道女になるために家事は学んでいたので、食器を洗っていると青年が帰ってきた。

「リーヌ、置いておいて。君の美しい肌に傷がつく」
「おかえりなさいませ。いえ、お気になさらず。お世話になりました。私は失礼します」
「出かけるのか?お昼には帰ってくるんだよ」
「はい?」
「気をつけていってらっしゃい。鞄はこれを使って。それは置いていきなよ」
「私、ここでお世話になるつもりはありません。」
「寂しい事を言わないでほしいな」
「お世話になりました。失礼します」

アリアーヌは荷物を持って強引に外に出た。そして墓地に行き、宰相を思い浮かべポロポロと涙を流して祈りを捧げていた。

「リーヌ、雨が降るからそろそろ帰ろうか」

アリアーヌは青年の声に顔をあげると手を引かれて青年の家にいた。

「あの、私は修道院に行くので」
「修道院なんて女性の墓場だよ。こんな美しいのに勿体ない。修道院に行くならここにいなよ。食事にしようか」

アリアーヌはなぜか青年の家で生活していた。
外出するのは宰相の墓地だけである。修道院に行くはずが気づいたら青年の家にいた。
今日こそはと決意を決めて、青年の家を出たアリアーヌは宰相の墓地で涙を流しながら祈りを捧げていた。

「アリアーヌ!!」

アリアーヌは呼ばれる声に反応しなかった。

「アリアーヌ、無事で良かった」

アリアーヌは聞き覚えのある雑音に顔をあげた。

「アリアーヌ、すまなかった。俺の妃はお前だけだ」

突然抱き寄せられ涙を拭われ囁かれる雑音にアリアーヌはため息をつき手を振り払う。

「殿下、触れないでください。陳腐な言葉は望みません。その行為は婚約者に失礼です」
「あれはもういい。すでに始末した。俺を騙そうなど」

アリアーヌは隣国の公爵令嬢との婚姻の利をわかっていた。

「バカなんですか!?国益!!第二王子がなさることではありません」

諌める声など気にせずベルトルドはアリアーヌの頬に指を滑らせる。

「王子を騙したんだ。相応の報いを受けるのは当然だ。アリア、愛しているよ」

アリアーヌは頬に触れる手を振り払う。

「いりません。婚約破棄した私達には必要ありません。触れないでください。契約違反」
「婚約破棄と共に俺達の契約は破棄されている。でもこの婚約破棄は必要だった。あの契約を破棄するために」
「放して。私は王宮に帰りません。修道女になって祈りを捧げて生きるんです。もう自由に」
「アリア、今まで気付かなくて悪かったな」

ベルトルドは甘い声でアリアーヌに囁きながらも、腰を抱く手は離さなかった。空いた手でアリアーヌの涙に濡れた頬を指でそっとなぞる。アリアーヌはゾクリと寒気がした。

「鳥肌が立つのでその続きは言わないでください。触らないでください。婚約破棄された王子にまた婚姻を迫られる物語はありませんわ」
「嫌がる女性に無理強いはいけませんよ。それにリーヌは僕の妻になります」
「は?お前、なんでここにいるんだよ!?」
「財産いらないし、後継者争いはバカらしい。でも育ててもらったし、父上の墓の掃除でもしながら生涯を終えようかと思ったら拾った」
「嘘だろう!?修道院を探してもいないし、まさかと思って来てみたら」
「リーヌ、これあげるから僕のお嫁さんになってよ。今まで通りでいいから」

アリアーヌは青年から渡された本を開くと宰相の絵姿だった。久しぶりの宰相に目を細めうっとりと、しばらくして幸せそうな笑みを浮かべた。ベルトルドは見覚えのある笑みに顔を顰めた。

「待て、そういうことなのか!?お前、愛してるって、まさか」

(宰相閣下のお姿。
この気品あるお髭がたまりませんわ。この凛々しい瞳、)

「リーヌ、僕も成長すれば父上みたいになると思うんだ。僕と子供を作ればいずれ父上に似た子供が生まれるかもしれない」
「アリアーヌは私の妃だ」
「二人共、うるさいですわ」

アリアーヌはうっとりしたいのに雑音がうるさかった。視線を絵姿から離さず、冷たく言い捨てる。
ベルトルドはアリアーヌを見て笑う。全てのピースが繋がった瞬間だった。

「アリア、父上から王命を預かっている。直ちに王都に帰還しろと。王命を」

甘く睦言のように囁かれる言葉にアリアーヌは顔を上げた。

「え?」
「修道院には手を回した。お前を受け入れはない。アリア、観念しろよ。王命だ。もうすべての準備は整っている」

アリアーヌは獲物を見るような目に寒気がした。他の令嬢達が頬を染めるような甘い笑みの男の瞳はお気に入りの犬を見つけた時にそっくりだった。

「嫌よ。貴方の妃なんてならないわ。私はここでずっと」
「アリア、王国貴族の務めだ。俺が生涯大事にしてやるよ」
「嫌」
「すでに全て調べはついている」

アリアーヌは嫌な予感が止まらない。ずっと気付かないで欲しかった。
もし過去の世界に戻ったら見て見ぬフリをして通り過ぎたい。
でもそのあとにアリアーヌにとって大事な思い出があるから、悩ましい。肩を掴まれる手に震えながら、アリアーヌは笑顔の元婚約者を睨みつけた。

「殿下の執着怖いんです。私は」
「すでに成婚の準備が進めてある。あとはお前を探すだけだった。侯爵達も祝福しているよ」
「嘘です。お父様は殿下との婚約破棄を喜んでました」
「俺の味方だ。どうぞ娘をお願いしますって」
「帰りたくない。私はここで」
「殿下、最低ですよ。無理強いは」

アリアーヌはどう逃げ出そうか迷っていた。状況がわからない。わかっても、わかりたくなかった。

「私は、もう全てを捨てますの。貴族でないなら貴族の義務もありません。アリアーヌは死にました」
「なら簡単だ。俺の命令には逆らえない。侯爵令嬢なら手続きがあるが、何も持たないお前ならすぐに愛妾に」
「嫌です。そんな物語はありませんし売れません。陳腐な愛の言葉は望みませんが、この展開は最低です。想い合った二人が幸せになるんです」
「物語ではなく現実だ。時間はいくらでもある。帰る」

ベルトルドはアリアーヌを抱き上げる。

「嫌、人攫い。私は修道女になってここで生涯を」
「お前の好きな展開だろ?初恋の少女が王子様と幸せに」
「それは少女の合意があって初めて言えますわ。こんな物語納得できませんわ。こんな酷いお話の登場人物なんて嫌。私は愛する人に祈りを捧げ、思い出に浸り幸せに暮らすんです」
「王宮でもできるだろうが。お前の好きな仕事もあるよ。母上も待ってるよ」

アリアーヌは暴れても腕から解放されなかった。

「これからは態度を改めるよ」
「必要ないから、放って置いてください」
「アリア、」
「陳腐な言葉はいりません」

アリアーヌは泣く泣く王宮に連行され、両親と兄に出迎えられた。
侯爵夫妻は目を腫らしたアリアーヌの顔を見て勘違いした。

「アリアーヌ、無事で良かった」
「貴方がそこまで殿下を・・・」
「殿下も今後はお前以外を傍に置いたりしないから安心しなさい。幸せになるんだよ」

唯一の味方の父親は兄により丸めこまれていた。
アリアーヌは両親の幸せそうな顔に嫌な予感しかない。女好きの王子との婚約を嘆いていたはずである。

「アリア、お帰り。最後の旅は楽しかったかい?」
「お兄様、まさか・・・」
「王家から頭を下げられてね。王妃様がどうかアリアを王家に嫁がせてほしいと。妃教育も終わって執務を手伝っていただろう?アリアがいないと支障がでるらしい。貴族として立派に務めを果たす妹に鼻が高いよ。手塩にかけて育てた可愛い妹を酷い修道院におくれないよ。大好きな物語の世界で生きれるほど世の中甘くないんだよ」
「お兄様・・・・」

アリアーヌは兄に売られたことに気付いた。一見温和な兄は王太子の側近である。曲者揃いの王族に仕えるものは狡猾でないと生き残れない。
アリアーヌの秘めた恋は口に出せない。アリアーヌは必死に考えても逃げる方法が思いつかなかった。宰相のいない王宮には救いはなかった。アリアーヌは悲劇のヒロインのように泣き出してもヒーローは現れなかった。自分を抱きしめ口づけようとするベルトルドの頰を叩くがベルトルドの今までの態度が酷かったので単なる痴話喧嘩に見られていた。
アリアーヌはベルトルドと新たな契約を結んだ。
アリアーヌの同意がなければ公務以外はベルトルドは触れない。アリアーヌの願いを叶えたときは、ベルトルドの願いを叶える。
婚姻の準備が進められ、逃げられないと悟ったアリアーヌは契約に頷き受け入れるしかなかった。
自分を守る契約なしで婚姻するよりマシだと思うしかなかった。


「殿下、もう一つだけ約束が」
「アリアが殿下呼びをやめるなら」
「ベル様、私を標本にしないとお約束を」
「命あるものを標本にする趣味はないよ。でも生涯、」
「やはり結構ですわ。これ以上聞きたくありません。触れないでくださいませ」
「アリア、これは必要なエスコートだよ」

アリアーヌはため息を堪えてベルトルドに従う。アリアーヌにとって不幸な日々の始まりだった。アリアーヌはベルトルドを愛していない。アリアーヌは愛情をこめて接したことも献身的に尽くした記憶も一切ない。
自身の婚姻を友人さえもが祝福するのが悲しくてたまらなかった。
不幸のどん底の中、アリアーヌは花嫁になった。そして宰相の喪に服すため一年は先に延ばすべきという言葉は誰にも届かなかった。王族ではないから必要ない、宰相閣下も望まれないと返された。
アリアーヌは最後の抵抗として普段は喪服のような服装ばかり選んでいた。
王宮では宰相を尊敬していた夫の代りに喪に服している囁かれ、アリアーヌの全ての行動はベルトルドのためと変換されてしまう恐ろしい事実に気付いていなかった。
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