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伯爵令嬢として生まれたイレーネの一番古い記憶は恋した時のことである。
母の友人の息子、伯爵子息のイネスに会った時である。
王子様がお姫様をエスコートするようにイレーネをエスコートするイネスに一目で恋に落ちた。
うっとりとイネスに見惚れるイレーネが恋に落ちたのは誰の目にも明らかだった。
イネスもイレーネを慈しみ、仲睦まじい二人の様子を眺めてお茶を飲んでいた母親達の強い希望で婚約を結んだ。
初めて会った時からイネスを見るイレーネの瞳には恋心というフィルターがかかっている。
「イネス様はいつも素敵。相応しくなるために頑張らないと」
イレーネに兄弟はいないので、将来はイレーネの婿が伯爵位を継承することになっている。
後継教育を受けるイネスを支えるためにイレーネは努力した。
イネスを過大評価しているイレーネはイネスの何倍も努力した。
淑女のお手本として名前があげられる令嬢の一人になり、優秀な者のみ招待される王宮のお茶会にも頻繁に招待されるイレーネ。貴族令嬢が目標にする立ち位置だがイレーネにとっては通過点であり、立場に奢ることなく研鑽を重ねた。
「伯爵に相応しいのはイレーネ様では?」
多くの者が伯爵にはイレーネがふさわしいと思っていても、微笑みながら否定するイレーネだけは認めていなかった。
貴族では珍しく恋を知るイレーネは実年齢よりも早熟で、可憐な一面も持っていた。
伯爵家に婿入りできる立場ではなく、可憐な伯爵令嬢に恋されているイネスを羨む男のほうが多かった。
様々な視線を集めるイレーネの人生は16歳まで順風満帆だった。
「女親は必要だろう?」
馬車の事故でイレーネの母が亡くなった翌月にイレーネに新しい家族が二人できた。
輝かしい笑顔の父親が連れてきたのは、女性らしい体つきの夫人と父親によく似た顔立ちのイレーネと一歳差の異母妹。
貴族が愛人を持つのは珍しいことではない。でも母親の喪が明けてすぐに連れてきた新しい家族にイレーネはドン引きした。
母親の突然の死、新しい家族の登場、イレーネを襲う複雑な家庭環境に心配したイネスが寄り添ってくれたのでイレーネは冷静に対処できた。
「当たり前なんてありません。何があっても一人で対処できるようになりなさい。父や母がいなくなっても揺るがないように準備をしておきなさい」
イレーネは亡き母親にを厳しく躾けられた。
イレーネの父親は放浪癖があり、頼りないため母が裏で伯爵家を牛耳っていた。
イレーネは母が亡くなった時には、一人で執務を行える能力も経験も持っていた。
イレーネ個人はイネスの妻として支える立ち位置を希望しているが、伯爵令嬢として生まれたゆえにあらがえないことがあるのも理解していた。
イレーネにとって伯爵家の執務をこなすのは簡単なこと。イレーネの頭を悩ますのは新しい家族だった。
本妻が亡くなった途端に伯爵邸に現れた非常識な新しい家族は欲深い人間だった。
「旦那様が愛しているのは私。偽物の女が消えたのは罰よ」
新しいドレスに身に包み、ソファに寛ぎ高笑いする義母にイレーネは生まれて初めての挫折を味わう。
伯爵邸で平民では体験できないような贅沢な生活に満足して生活するだけならイレーネは干渉するつもりはなかった。
ただ、新しい家族の欲はどんどん増していく。
イレーネをはじめ、貴婦人御用達の店は一見お断りである。特に王族御用達のオーダーメイド専門の店では一部の貴婦人だけが持つ紹介状を手に入れられなければ入店さえ許されない。
イレーネの品位を疑われるので新しい家族を連れて貴族御用達の店に連れていくことはできなかった。
「王家より下賜された爵位にふさわしい振舞いを身に着けていただければ社交界で紹介しますわ。その杜撰な所作で人前に出るなんてうちの品位を疑われます。貴婦人の一員になりたいならもっと学んでくださいませ」
イレーネは貴族のパーティーに参加したいと言い出した義母と異母妹に何度も笑顔で同じ言葉を返す。
「お父様、外でどう過ごされても構いませんが、家族に迎えいれたなら義母様達ときちんと話してくださいませ」
優しく甘え上手だった新妻と淑やかな娘の間で板挟みになった伯爵は視察に行ったきり、帰ってこない。
家臣達は逃避癖のある伯爵と違いどんな荒波に襲われても毅然としているお嬢様の味方である。
もちろん新しい家族よりもお嬢様の命令優先である。
「イレーネの家族として認められたくて頑張っている姿は認めてあげなよ」
伯爵家の使用人とは違い、イネスだけはイレーネではなく新しい家族の肩を持つこともあった。
「新しい夫人は市井出身だろう?貴族と平民は背負うものが違うから、私達のようにはいかないよ。イレーネは教えることが苦手だから私が手伝うよ」
イレーネは我儘放題の努力しているように見えない新しい家族に苛立つことなく優しく付き合える婚約者にうっとりしながら頷く。身分の違いに寛大で余裕のある対応で新しい家族を宥めるイネスにイレーネはますます惚れこんでいく。
夫人と異母妹の教育をイネスと教師に任せ、イレーネは伯爵家の執務に取り込む。
どんな過酷な現実に襲われても、イレーネにはイネスとの明るい未来が待っている。だからどんな時も前を向いて歩いていけると思っていた。
****
伯爵が不在のためイレーネはイネス以上にパーティーに参加する。
後継教育を受けていてもイネスは正式に婿入りしていないため伯爵家の執務を手伝うことはない。イレーネ一人でもうまくいっているため特に求めていなかった。
パートナーのないイレーネに群がる貴公子に誘われるままにダンスを踊り、情報を得る。
「新しい家族の教育をイネスに任せて平気なの?」
伯爵家に滞在している新しい家族のことやイネスがイレーネの異母妹と親しくしていることは下世話な噂好きの社交界でも有名だった。
優秀なイレーネの初めての醜聞にも、イレーネは当たり障りなく笑顔でかわす。
ただイレーネを嘲笑うためでなく、本気で心配している友人の言葉には素直に頷く。
「お優しいイネス様に甘えております。お忙しいのに、うちのことを気にかけてくださりありがたいこと」
「婚約者なら当然だよ。僕ならイレーネをもっと大事にするよ。イレーネが望むなら婿に行ってもいいし、侯爵位を継承してもいい」
「私達は成人していませんが、もう子供ではありません。リュカ様の冗談を本気にしてしまうご令嬢もいますのでお気をつけくださいませ」
イレーネの返しに貴公子らしくない茶目っ気ある笑みを浮かべた侯爵子息のリュカ。
イネスとイレーネの共通の友人である。
友人として遠慮のないリュカを筆頭に、イネスにイレーネは勿体ないという者は時が経てば経つほど増えていく。
「絶対にイネス様よりリュカ様達のほうがいいのに。リュカ様はイレーネより年下だけど、容姿端麗、文武両道、王族の覚えも目出度い。何に不満があるのよ」
「あれはリュカ様のいつもの冗談よ。まぁ、女避けに婚約者のいる絶対に誤解しない私を利用しているだけ。侯爵家次男で王族の覚え目出度い、将来国の重鎮になるだろう優秀な方。リュカ様は優良物件に違いないから狙うなら止めないわ。応援はしないけど」
ダンスを終えたイレーネは友人と談笑しながら休憩する。
イレーネは伯爵家より高位な子息からアプローチを受けることも珍しくない。
イレーネは姫に私的なお茶会に招かれることもあり、公爵家や侯爵家とも友好的なお付き合いをしている。婚約者がいるのに他の男を虜にしているイレーネに嫉妬する者もいるが、イレーネはイネスにしか興味がないのは明らかであり、婚約者に一途な姿に好感を持つ者のほうが多い。
「イネス様より優秀な方はいます。でも私の心を慈しみ、支えてくださるのはイネス様。昔からうちのためによくしてくださいますし、それは今も変わらず。ね?」
恋という曇ったフィルターがかかっていてもイレーネは伯爵令嬢として正しい評価はできた。
イネスが好きでもイネスよりも優秀な者がいることは認めていた。完璧な者はいない。イネスの苦手をイレーネが補い、二人で手を取り合って生きていく。
イレーネは自分が思い描く未来がイネスと同じだと思っていた。
それが勘違いだったと知るのはイレーネが成人した後のことだった。
****
イネスの教育のおかげで貴族として相応しい所作を身に着けたイレーネの異母妹のラウラは成人した年に社交デビューをした。
その時、ラウラはイレーネと話すリュカを見て、一目で恋に落ちてしまった。
「運命なの!!リュカ様が好き!!」
「運命かどうかはわかりませんが、伯爵家から侯爵家に縁談の申し入れをすることはできません。ラウラがリュカ様と婚約するにはリュカ様に望まれるしか道はありません」
差別意識が強い国で平民が貴族の正妻に迎え入れられることはほとんどない。
社交界ではイレーネの異母妹と義母として紹介しているが、イレーネも周囲も伯爵夫人とも伯爵令嬢とも認めていない。伯爵邸で開く私的なパーティーやお茶会なら二人の参加を許しているが公的なものには連れて行かない。
「お姉様はリュカ様のお友達でしょ?協力して」
「できません。親しき中にも礼儀あり。お友達だから、リュカ様は貴方達の紹介を受けてくださいましたが、それ以上は許されません」
「お姉様はまた私を見下して、」
「差別ではなく、区別です。貴族は血統第一。それを受け入れられないなら国外に行きなさい」
王家は女が爵位を継ぐことを許しても、継承を許すのは直系のみ。
直系の血が途絶えれば、王家に爵位を返上しなければいけないので貴族は血を残すことに力を入れる。
一夫一妻制なので、子宝に恵まれない夫婦が離縁して再婚するのは珍しいことではないが養子を迎え、爵位を継承することは認められていない。
そして血統重視の貴族は平民の血が一族に流れることを嫌う傾向が強く、リュカの生家も同じである。
マナーを勉強し外面は取り繕えても、貴族の常識を理解し受け入れるのはラウラには難しいことだった。
イレーネはラウラの恋を応援することなく嗜める。
ラウラはイレーネに嗜められるたびに、ポロポロと涙を溢すがイレーネは慰めることなく立ち去る。
***
「イレーネ、ちょっといいか?」
イネスの訪問をイレーネは笑顔で受け入れる。
書類を書く手を止めて、イネス好みのお茶をイレーネ自ら淹れる。
イレーネは丁寧に淹れたお茶を静かに飲む婚約者の姿にうっとりする。
イネスはお茶を一気に飲みほし、イレーネの手に手を重ねる。
「私はラウラを愛している。どうか協力してほしい」
イレーネは婚約者のイネスを愛している。
手を握って懇願する真剣な顔のイネスは格好よくイレーネはうっとりと見惚れている。
「イレーネ、頼む」
イネスが恋したラウラはリュカに夢中である。
「イレーネのことは妹のようにしか思えないんだ。伯爵家は私が責任を持って守る」
決意に満ちたイネスの言葉がイレーネの頭に駆け巡る。
言葉が駆け巡れば巡るほどイレーネの心がズキズキと痛んでいく。懇願するイネスの姿に見惚れていても、聞こえないフリをすることはイレーネにはできなかった。
「い、いもうと」
「ラウラはまだ現実を知らない。イレーネと違い、私を必要としている。絶対に幸せにするから許してほしい」
「ひつよう?」
「私よりもイレーネに相応しい者はたくさんいる。私が責任持ってこれからもラウラを教育して支えていく。だから、」
言葉を濁すイネス。
イネスの言葉はイレーネの心を鋭いナイフで切り付けていくものばかり。
「協力してほしい。頼むよ。イレーネ」
甘い声音で囁き懇願をはじめたイネスにイレーネは抗えずゆっくりと頷いた。
イレーネにはイネスを引き留める理由が考えつかなかった。
イレーネとイネスの婚約を望んだイレーネの母はもういない。
この婚約にはイレーネの恋心さえなければ伯爵家にとっては利益はないものである。
「ありがとう。頼んだよ」
破顔し、感謝を告げて部屋を出ていくイネスの背中をイレーネは無言で見送った。
イネスは足を止めることも振り返ることもなく、静かに扉が閉まる音だけがイレーネの耳に響く。
イレーネは左足を上げて、右足を思いっきり踏んだ。足の痛みに夢でないことを認識する。
「妹なんて、迷惑なものと思われていたなんて」
イレーネにとって異母妹は身内という免罪符をかざし、我儘放題の迷惑なものだった。
父の過ちの責任をとり家族として受け入れたが、わずらわしさばかりで一度も好感を持てたことはない。
窓の外には青空が広がっているのにイレーネの心は冷たい嵐に襲われている。
思考すればするほど気持ちは沈んでいく。
「嵐に襲われても行き先を見失わないように備えなさいと教わったけど、抗わず、沈んでしまうほうが幸せかもしれない。嵐は去ってもその先に幸せが待ってるとは限らないもの」
人払いをしてしばらく時間が経つのにお嬢様から声がかからないことを心配した侍女がノックした。
「お嬢様、そろそろ準備をしませんと夜会に間に合いませんよ」
侍女の声にイレーネは現実に戻る。
身支度を整えられ馬車に乗ったイレーネは物思いに耽る。
「妹…。不条理で迷惑。いらない、お願い…」
イレーネの不穏な呟きは誰にも聞こえない。
馬車の窓から美しい夕焼けが目に入ったイレーネは微笑んだ。
***
リュカの両親が主催する侯爵邸での夜会は料理はもちろん、酒豪の侯爵自ら選んだワインが振舞われる。
侯爵夫妻に挨拶を終えたイレーネは静かにワインを飲んでいた。
いつもは嗜み程度にしかワインを飲まず、ダンスや談笑にあけくれるイレーネの珍しい姿は視線を集めていた。
ほのかに頬を染めて、ワインに酔いしれるイレーネは艶かしい。視線を集めていることに気付いてもイレーネは艶やかに微笑みながらワインを飲み続ける。
イレーネの姿に頬を染める貴公子達は互いに牽制しながら話しかけるタイミングを図っていた。
「酔いしれる姿が魅力的すぎて、逆に目に毒だよ。移動しない?」
貴公子達のにらみ合いに気付かないフリをして、リュカはイレーネに近づきグラスを取り上げた。
グラスに満たされていたワインを飲むとイレーネの好みではない酸味の強さに驚く。
「美味しいでしょ?さすが侯爵閣下の用意されたもの。あとでお礼に、」
「ありがとう。父上も喜ぶよ。父上には僕から伝えておくよ。大分酔っているみたいだから部屋を用意するよ」
「一人で飲みたい気分じゃないの」
「僕が付き合うよ」
「あら?お忙しいリュカ様が?リュカ様のお部屋でも構いませんよ」
イレーネはリュカの耳元で囁く。
イレーネの吐息にリュカの頬が赤くなる。イレーネはリュカの初な反応に艶やかに微笑む。
リュカは自室にイレーネをエスコートするとワインを用意させた。酒豪の父の影響でリュカはワインには詳しい。
「イレーネ、どれがいい?」
イレーネはイネスが生まれた年のワインを指差した。
リュカは頷き、イレーネのためにワインを開けてグラスに注ぐ。
「ありがとう」
リュカにお礼をいい、ワインを艶かしく飲むイレーネ。
リュカは無言でワインを飲むイレーネをただ見つめていた。リュカが人払いしてもイレーネは無言でワインを飲んでいる。
ボトルを空にしたイレーネはグラスを置いた。リュカを見つめ、微笑みながら髪飾りをとり、整えていた髪を解く。
「私をもらってくれますか?」
女性が異性の前で髪を解くのは情事へ誘うアプローチ。
リュカはイレーネの行為に驚くも、微笑みながら頷く。
イレーネはゆっくりと近づく友人の顔に目を閉じ、重なる唇を無心に受け入れる。
イネスがイレーネに頼んだのは、リュカを落としてラウラの恋を敵わないものにすること。
リュカは優しい手つきでイレーネに触れる。
「大事にするよ」
イレーネは自分の行いが間違っていることをわかっている。
ずっと胸が痛くてたまらない。
酒で紛らわそうとしても全然酔えず、胸の痛みは消えない。
温かくなるはずの体はずっと冷たい。
リュカの手により肌が顕になるとさらに体が冷えていく。
イレーネは微笑みながら抗わず、ただただ全てを受け入れる。
次第にリュカの温もりがイレーネの冷たい体に熱を思い出させる。
冷たい体が温もりを思い出すとイレーネの胸はさらに痛くなる。
イレーネは色々な物を裏切った。
その中にリュカとの友情も含まれる。
そんなイレーネを優しく抱くリュカの熱に身を任せて目を閉じた。
****
リュカは情事を終えて、眠ったイレーネの肌にそっと口づける。
イレーネの白い肌に浮かんだリュカの所有印に笑う。
「イネス様のお友達?」
「そうだよ。イネスから君のことは聞いてる。僕も本が好きだから君と話したいと思ってたんだ」
リュカがイレーネに初めて会ったのはイネスの家の書庫。
婚約者としてイネスとイレーネが過ごしていても、イネスの友人が訪ねれば、イネスの優先順位はいつでも会えるイレーネ以外のほうが高かった。
イレーネも笑顔でイネスを送り出し、書庫で勉強しながら待つのが習慣となっており不満を持たない少女だった。
幼い頃のリュカにとって、イネスから聞く伯爵令嬢はリュカの知る貴族令嬢と違っていた。
興味をひかれて、書庫を覗くと古びた書物を一心不乱に読んでいるイレーネがいた。口元を緩ませ微笑んだ途端に目を大きく開き、真剣な顔を取り繕ろうも笑みを溢す姿に目を奪われた。
多くの者がうっとりする微笑みを浮かべてリュカが声を掛けても形式的な挨拶だけ返し、本の世界に浸るイレーネの関心をひくのに初めてリュカは頭を悩ませたのは懐かしい記憶である。
イレーネは本気にしていなかったが、リュカはずっとイレーネが欲しかった。
侯爵家の力を使い強引に手に入れればイレーネの心は手に入らない。
だから機会を待っていた。
平凡なイネスは常にイレーネに劣等感を抱き、イレーネに恋する男達から受ける羨望の眼差しに嫌気がさしていた。
「羨む男が多いが、イレーネの隣は息が詰まる。素直で純粋なラウラの隣は居心地がいい」
完璧で常に微笑んでいるイレーネは、イネスに何も望まない。イネスが手を差し伸べれば微笑みながら手を重ねるが常に変わらない反応に新鮮さはない。
貴族の常識に疎く、素直で庇護欲をそそるラウラの存在はイネスには新鮮だった。イネスの胸に縋る姿はイネスの心を満たした。
「ラウラを幸せにしたい。イレーネとラウラは相性が悪く仲を取り持つのは難しい。引く手数多のイレーネに私は必要ない」
リュカはイネスの重大な勘違いに気付いていたが、ただ話を聞くだけにしてあえて教えなかった。
「お姉様は私が嫌いなの。助けて」
リュカはラウラからアプローチを受けていたが、相手にしない。イネスが絶賛している無邪気で愛らしいラウラに泣かれても、イネスのように絆されることはない。
流行のドレスにきらびやかな大きな宝石を飾るのが気に入っているラウラ。ラウラはリュカに挨拶することなく、目の前に立ち止まり、くるりと回る。
「リュカ様、どうですか?」
「似合っているよ」
「ですよね。センスのないお姉様はお勉強の時はいつもお古を着せるんです。お金持ちなのにひどい」
頬を膨らませるラウラが着ているドレスは社交デビュー前の令嬢が着るコルセットのない、軽く身動きのとりやすいプライベートな場面で着られるドレスである。
社交デビューしてからは美しく見せるためにデザインされた機能性は一切考慮されていない重たいドレスとコルセットは必需品である。
格式を守ったイレーネが着るドレスはラウラにとっては豪華なだけでセンスのかけらもないもの。
リュカにとっては、子供の着る動きやすいドレスでも美しい仕草ができないので貴族の知り合いとしては落第点である。バカな子ほど可愛いと思えるのはリュカの掌で踊らせている者に対してだけである。
流行のドレスに、流行の去った宝石を飾るちぐはぐ具合がラウラの立場とよく似ていた。
リュカが嘲笑いながら言った言葉を褒め言葉としてそのまま受け止める浅はかさは聡明なイレーネの妹とは思えないほど愚かである。
リュカが物思いに耽っていると腕の中で眠っていたイレーネの瞼が揺れた。
リュカはイレーネとの時間を手放したくなく、目を閉じ寝たフリをした。
「ごめんなさい。ごめんなさい」
聞いたことのないほどか細いイレーネの声にリュカは目を開けた。恋人のような甘い一時に憧れはあっても、リュカには憧れよりも現実のほうが大事である。
イレーネの顔を覗くと涙で濡れている。家族が死んでも泣かなかったイレーネが泣いていた。リュカは驚きを隠してイレーネの涙を指で拭うが涙は止まらない。
ラウラの涙は煩わしいだけだったリュカは、イレーネの涙だけは美しく思え笑う。
「僕は幸せだよ。しばらく騒がしくなるけど、少しだけ我慢して」
どんなイレーネもリュカにとっては美しいもの。
煩わしさの欠片もないイレーネとの出会いも手に入れるチャンスを手に入れたことも、ありがたい運の巡り合わせに心の中で感謝を捧げる。
リュカはイネスと違いイレーネに支えてもらわなくても立っていれる。
イレーネに望むのはリュカの隣にいること。できれば、幸せでいてほしい。
リュカは泣いているイレーネを抱きしめ、優しく髪を撫でる。泣き疲れて眠るイレーネを抱きしめたまま小声で家臣に命じた。
***
「おはよう。イレーネとイネスの婚約は破棄したよ。だから僕と結婚しよう」
嬉しそうに微笑むリュカにイレーネは言葉を失う。
侯爵家出身で王子と親しいリュカならイレーネの同意がなくても、婚約破棄の手続きはできる。
結婚前に体の関係を持つのは外聞が悪い。
社交界に知れわたる前に結婚してしまえば、まるく収められることもある。
「リュカ様を利用したのに、」
「僕は愛する人だけには寛大だよ。体がだるいだろう?しばらく休んでて。ここにいることは伝えてあるから安心して」
イレーネ以上に優秀なリュカに任せればなにも問題はおきないとイレーネはわかっている。
愛した人と結ばれる未来はなくなった。
厳しく義務を果たすことを求める母はずいぶん前にいなくなった。
放浪癖のある父は相変わらず帰ってこない。
馬車の中で眺めた夕焼けのように燃え尽きて、真っ暗になればいいと思った。
今あるのはリュカへの罪悪感と胸の痛みだけである。
ベッドから降りて、着替え終わったリュカはぼんやりしているイレーネのほうを振り返った。
「夜には戻るけど、会いたくなったら呼んで。僕の部屋は自由に使っていいし、出歩いてもいいよ。父上も母上も兄上も留守だから気にしないで。行ってくるよ」
リュカが部屋を出ていくと、侍女が服を持って入ってきた。
「お休みになられますか?湯浴みとお食事の用意もできておりますが」
「湯浴みを」
イレーネは侍女の丁寧に世話をする手に身を任せる。
「これ、全てリュカ様が用意されたのですよ。イレーネ様の好みでないものはすぐに変えるように命じられておりますので、教えてくださいませ」
イレーネの体に塗られるオイルや着せられる服、今までイネスの好み重視で選んでいたため、失恋したイレーネにはこだわりがなかった。ただ素材がいいものばかりで、着心地もいいので何も言わずに袖を通す。
「イレーネ様、申し訳ありません、い、今」
「イレーネ!!」
イレーネは真っ青な顔の侍女と飛び込んできた美女を見て目を丸くした。
「姫様!?どうされましたの、いえ、ご公務」
「友人として来たのよ!!公務なんてどうでもいいわ。バカ、バカ、リュカじゃなくて私のところにくれば良かったのよ!!」
イレーネに抱き着いて癇癪をおこしている姫にイレーネは動揺する。
冷静沈着な王子と正反対の感情豊かな妹姫。
「振られた男のために身を捧げるなんて自棄になりすぎよ。リュカは優秀よ。でも、失恋とお酒の勢いで全てを捨てるなんて、あんな女、イレーネの立場なら追い出せたのに、イレーネができないなら私が追い出してあげたのに」
姫の瞳が潤み、ポロポロと涙が流れる。
「姫様、」
「自棄酒でも自棄食いでも付き合うわ。私のお小遣いだから任せなさい。どこのお店を貸し切りにする!?」
「お気持ちだけで十分です。公務に戻ってください」
「お父様の許可はもらったわ。お兄様に言いつけられたもの。私、いろいろ持ってきたの!!」
姫が指をパチンと鳴らすと侍女がぞろぞろと入ってきた。
イレーネの前に古びた本や骨、木の棒、など負のオーラを纏っていそうな品々が並べられていく。
「復讐よ!!イレーネを傷つけた奴らに」
「姫様、怪しいものには手を出してはいけません。いくらお小遣いでも御身を危険に晒すものはいけません。なにより王族のイメージが壊れます。このような物、どこで買ったんですか」
先程まで気分が沈み、胸が痛んでいたイレーネだったが、感傷に浸っている場合ではなくなった。お転婆姫の暴走を止めるために突っ込み、尋問をする。
国王は姫を溺愛している分、王子が厳しく教育している。
お転婆姫の暴走に王子の血管が切れる音が何度かイレーネにも聴こえた気がしたこともある。
お転婆だが心根が優しい姫ゆえに人に恨まれることはないが体面というものがある。
「次の恋のために恋愛小説を読む!?」
姫の突拍子のない提案をずっと断っていたイレーネは、ようやくまともなものが出たので頷く。
「ハンカチを拾ってくれたお礼に食事なんておかしいでしょ!?バカなの!?」
恋愛小説を読みながら感情移入して、突っ込み、怒ったり、泣いたり忙しい姫の相手をイレーネは続ける。
「バカよ。浮気した男を好きなままアプローチを続けるなんて。男なんて掃いて捨てるほどいるんだから、」
恋人に捨てられ断罪された悪役の結末に泣きつかれ眠った姫を眺めイレーネは優しく微笑む。
「捨ててしまいなさいよ。全部、忘れてしまえばいい。それで新しいもので、楽しい思い出をつくって、塗り替えて、」
寝言を呟いている姫の暴走を止めるのは大変だが、イレーネを慰めようとしてくれるのは理解していた。
イレーネはイネスが好きだった。
手がかかるけど、本気でイレーネの心配をして駆け付ける姫の優しさに心が温かくなっていく。
昨日まで冷たかった体はリュカに、心は姫に温められた。
思考を放棄していた頭が働き出す。
イレーネの膝を枕に眠る姫の頭を撫でると緩む口元に小さく笑う。
イレーネはイネスが欲しがっていたものをあげることにした。
伯爵邸に帰ろうにもぐっすり眠る姫を起こすのは気が引け、明日から動くことにした。
起きたら姫にしてもらわないといけないことがある。
姫が集めた怪しい物を処分させることが今のイレーネにとって最優先事項である。
***
リュカはイネスを訪ねていた。
リュカから渡された書類を受け取ったイネスは満足げに笑う。
「これで婚約破棄の手続きは終わり」
「ありがとう。イレーネを幸せにしてくれ。リュカになら託せる」
イネスの破顔した口から溢された言葉を姫が聞けば殴っただろう。
イレーネは胸を痛めただろう。
「努力するよ。でも、イネスから託されるのはごめんだよ。イレーネがイネスのものであったことは一度もない。そこは間違えないで」
目が笑っていないリュカの返答になぜかイネスは寒気に襲われた。
「リュカ?」
「僕達の立場はもう友人でいることは許されない。もちろんイレーネに近付くことも許さないよ。最後に餞別をあげるよ。イネスとラウラ嬢の結婚の承認書類。提出さえすれば受理される。これがあればイネスのご両親も許してくれるよ」
「え?」
「僕達は交わることがないけど、イネス達のこれからを楽しみにしてるよ。イネス達との交流はイレーネも僕も父上達に禁じられているから、話すのも最後になるかもしれないね。僕にチャンスをくれたことは感謝しているよ。この餞別をどう使うかはイネス次第だ。お幸せに」
王族は当事者の合意なく、婚約破棄と結婚の承認を受理する権利を持つ。
国益のためという前提のもと、私的に行使しないように王族と侯爵以上の二名の承諾で正式に受理されることになっている。
優秀なイレーネと結婚したいというリュカの願いを侯爵家は認めていた。
戸惑うイネスを気にすることなく、リュカは立ち去る。
上機嫌な足取りで進むリュカを待つのは最愛のイレーネだけでないことは気付いていなかった。
***
イレーネは王家に爵位の返上を申し出た。
空席になった伯爵位にふさわしい者が任命される。
王家の目に留まればイネスにも可能性があった。
これがイレーネの選んだイネスの欲しい物をあげる唯一の方法だったがイネスは選ばれなかった。
そんなイネスの選択にイレーネは絶句した。
伯爵になるために長年後継教育を受けていたイネスはイレーネの想定以上に浅はかだった。
「イネス様はポンコツ?」
「だから私はあんな男やめたほうがいいって言ったのよ。恋は盲目っていう言葉の通りイレーネの目も節穴だったものね」
「イレーネのところは特殊だから勘違いしている者も多いけど、後継教育を受けていたイネスが知らなかったとは思わなかったよ。伯爵夫妻は従兄妹同士。伯爵は傍系のため伯爵家の継承権を持つのは伯爵夫人と夫人の血を受け継ぐイレーネだけ」
「放浪癖のあるお父様はお飾りの伯爵だとイネス様にお教えなければいけなかったんですね」
イレーネが嫁けばラウラの婿が伯爵になれるなんて考えはイレーネには思いつかなかった。
ラウラさえもわかっていたことをイネスはわかっていなかった。
継承権のない者は王宮官吏の試験を受けて仕官する。
そこで優秀さを認められ、王族の側近や爵位を賜ることを目指している。
王家が直系のみに爵位の継承を許すのは常に優秀な者が椅子に座ることを望んでいるから。
仕官しなくても直系貴族を支える傍系貴族として励み、王家に認められれば直系を失い返上された爵位に、傍系の者が選ばれることもある。
イネスが伯爵家で後継教育を受けていたのは有名だったので可能性は持っていた。
イネスに捨てられたイレーネが用意できるのは伯爵位を空席にするまでである。
ただイネスは間違えてしまった。
「過ぎたことだよ。後ろ盾のないラウラを妻に迎えてもイネスが得るものはない。名門伯爵家への婿入りを自らの意志で手放し、当主の意向を無視して平民を妻に選んだ浅はかさゆえに勘当されたイネス。勘当されたイネスに選ばれたラウラ。王族に承認された夫婦は承認者の許しなしに離縁はできない。二人の立場では承認者に会うのは不可能だから、一生離縁はできないだろう」
「悲観する必要はなくてよ。この国は能力次第で幸せを掴める可能性は無限大。夢から覚めたあとに待つのは厳しい現実か楽園かは当事者次第。平民が王家に祝福され縁を結ぶなんて名誉なことよ」
イネスの決断を酒の肴に嘲笑うリュカと姫。
イレーネの決断を聞き、二人が後押ししてくれたおかげで滞りなくことがすんだ。
夢から覚めたイレーネに待っていたのは冷たい現実ではなかった。イネスとイレーネの婚約破棄もリュカとの新しい関係も社交界では受け入れられた。
身の程知らずの愛人の娘と婚約者の不貞に潔く見切りをつけて、次に進んだイレーネの決断は貴族らしいもの。
「うちには愛情というものがなかったから初めて情を教えてくれたイネス様に心を奪われたんでしょう。全てイネス様の好みに合わせたつまらない私は捨てられ、選ばれたのは自己主張の激しい、イネス様のことを思いやらないラウラ。イネス様は主導権を握られたいタイプだったので、イネス様を尊重した私のしてきたことは煩わしく、迷惑でしたのね」
空になったイレーネのグラスに姫がワインを注ぐ。
「イレーネが望むなら爵位あげるよ。リュカと離縁したいなら私が一筆書いてあげる」
「お気持ちだけありがたくいただきます。私が先にリュカ様を利用しましたので、今度は私が利用されてさしあげることにしましたの」
「イレーネ!?」
リュカのプロポーズを受け、妻になったイレーネの言葉にリュカが驚く。
嫁ぎ先として優良物件のリュカにアプローチする令嬢は多かった。リュカがイレーネのような優秀な令嬢が好みと公言し、女避けにイレーネ利用してきた過去がある。イレーネよりも能力の高い令嬢が求めるのは王子の婚約者の椅子なのでリュカは見向きもされず、丁度良かった。
「女性とのお付き合いを煩わしいと思われるリュカ様にとって、適度な距離感を保つ私が丁度いいのでしょう」
「僕はイレーネだけは距離を縮めてもらって大歓迎だよ。愛してるよ」
甘さを含んだ微笑みでイレーネの頬に口づけを落とすリュカ。
イレーネは優しくリュカの髪を撫でる。
「私の所為でリュカ様はイネス様というかけがえのない友人を亡くしました。だから何があっても、今度こそ、私だけはリュカ様の友人であろうと思うのです。一度裏切った私を信じていただけないのは当然なので、頑張ります」
「さすがイレーネ!!そうゆうところ大好き!!応援してる」
「ありがとうございます」
笑顔で拍手する姫とリュカに口づけされても照れないのに姫の称賛に照れた微笑みを見せるイレーネ。
イレーネは今回の件で最大の被害者は友人を二人失ったリュカだと思っている。
恋に狂ったイレーネは初恋の人を失った。
恋に狂ったイネスは立場を失った。
恋に狂い嘘を重ねたラウラは伴侶を選ぶ権利を失った。
「イネス様はラウラを手に入れるため友人のリュカ様を利用することを選んだ。それにリュカ様の友人の私を使うという選択をした。私はイネス様のために友人のリュカ様を利用する選択をした。信じていた友人達に同時に裏切られるなんてつらいでしょう?」
つれないイレーネの膝を枕にふて寝をはじめたリュカ。
リュカの頭を優しく撫でるイレーネに姫は真実を伝えようか迷う。
リュカはイネスもイレーネも友人と思っていない。
出会った時からイレーネは好きな人、イネスは恋敵。
年上のイネスとイレーネに負けないように人一倍努力した結果、イネスのプライドを折り、イレーネに認められた。
イネスとイレーネの仲を取り持つことはしなかったが、誰かに取り持たれなければ交わらない糸なら縁がなかったということだ。
イレーネの選んだ道は非常識でも、当事者達の意思は尊重されていた。
「リュカはそんなやわな男じゃないけど、」
「姫様とリュカ様は仲がいいのか、悪いのかよくわかりませんね。でもお二人は分かり合っている気がします」
「私は何があってもイレーネの友達よ」
「ありがとうございます。ずっとお友達でいられるようにがんばります」
家族の情は知らなくても、イレーネには友情を教えてくれる縁に恵まれた。
恋は正常な判断を狂わせる麻薬のようなもの。
友情は節度さえ忘れなければ人をおかしくすることはない。
騙し、蹴落とし、利用し、恋も社交界も薄きたないものばかり。
そんな世界で唯一きれいなものは友情だけかもしれないとイレーネは思う。
綺麗なものを持ち続けるには努力が必要である。
巡り合わせだけでは、決して掴めないもの。
恋に落ちるのは一瞬。醒めるのも一瞬。
暖炉に薪を投げ入れれば燃えあがる炎のように胸を焦がしたイレーネの恋。
イレーネの用意したチャンスを無駄にした無様な姿に一気に醒めた。
イネスのために用意したものを暖炉に投げ入れれば一瞬で灰になった。燃え上がる暖炉の炎にイレーネは水をかけた。炎は消え、笑うイレーネを見つけたリュカが抱き寄せる。
「そんなことイレーネがやらなくていいよ」
「やりたかったのよ」
「やりたいことをやらせてあげたいけど、今は駄目」
イレーネの膨らんだお腹をリュカが愛おしげに撫でる。
「リュカ様」
名前を呼べばイレーネを優しく見つめ、イレーネがいなければ用がなくても探してくれるリュカ。
伯爵家と違い、イレーネが嫁いだ侯爵家は愛情に満ちている。
イレーネを気遣う優しい義理の両親。できて当たり前のことを褒める義兄夫婦、温もりをくれる夫。
恋のように胸が高鳴ることはない。
燃え上がる炎は美しいが近づきすぎれば肌を焼き、場合によっては命を奪う。
美しいものは自分とは関係のない場所、物語の中だけで満足するほうがいい。
抱き合いながら感じるじんわりとした温かさは心地よい。身近にあるものの幸せを見つけて噛み締める。
「リュカ様、なかったことにしませんか?」
「ごめん。嫌だ。あんな幸せな時間をなかったことにしたくない」
「お父様は新しい家族と過ごされております。もともと伯爵としての役目はほとんどされていませんでした。私は陛下に爵位を返上しようと思っています。私と結婚しても伯爵にはなれません」
「僕はイレーネを妻にしたいけど、伯爵位は興味がない。イレーネのこれからに僕もいれてほしい。イレーネは僕が嫌い?」
「お友達として大切に想っておりましたが、私はリュカ様を利用しました」
「イレーネよりも僕のほうが狡猾だよ。僕は喜んで君に利用されたんだ。イレーネを自室に招きいれたのは僕だし、避妊しなかったのも僕だ。身籠って、僕の傍にいてくれれば都合がいいのにって最低なことも思っている。怒ってるなら謝るから、そんな他人みたいな態度やめて」
「怒ってません。リュカ様を利用したのは私ですもの」
「無かったことにしないで、僕と結婚しよう。両親も兄上もイレーネを気に入っている。イレーネを逃したら、あのお転婆な姫殿下との縁談話が持ち上がりそうだから、僕を助けてよ」
イレーネが罪を犯した翌日の夜、リュカとの友情は無くなったと思ったイレーネは態度を改めた。
イレーネに懇願するイネスは醜く思えたのに、思い出の中のリュカは可愛らしく思えた。
イレーネはリュカのプロポーズを受けた時、もうこの大事な友人を裏切らないと決めた。
イレーネの決意がリュカにとって嬉しくないものだとは気づかない。
窓の外には星が輝いている。
真っ暗な世界は存在しない。目を凝らして探せば幸せは案外近くにあるものである。
母の友人の息子、伯爵子息のイネスに会った時である。
王子様がお姫様をエスコートするようにイレーネをエスコートするイネスに一目で恋に落ちた。
うっとりとイネスに見惚れるイレーネが恋に落ちたのは誰の目にも明らかだった。
イネスもイレーネを慈しみ、仲睦まじい二人の様子を眺めてお茶を飲んでいた母親達の強い希望で婚約を結んだ。
初めて会った時からイネスを見るイレーネの瞳には恋心というフィルターがかかっている。
「イネス様はいつも素敵。相応しくなるために頑張らないと」
イレーネに兄弟はいないので、将来はイレーネの婿が伯爵位を継承することになっている。
後継教育を受けるイネスを支えるためにイレーネは努力した。
イネスを過大評価しているイレーネはイネスの何倍も努力した。
淑女のお手本として名前があげられる令嬢の一人になり、優秀な者のみ招待される王宮のお茶会にも頻繁に招待されるイレーネ。貴族令嬢が目標にする立ち位置だがイレーネにとっては通過点であり、立場に奢ることなく研鑽を重ねた。
「伯爵に相応しいのはイレーネ様では?」
多くの者が伯爵にはイレーネがふさわしいと思っていても、微笑みながら否定するイレーネだけは認めていなかった。
貴族では珍しく恋を知るイレーネは実年齢よりも早熟で、可憐な一面も持っていた。
伯爵家に婿入りできる立場ではなく、可憐な伯爵令嬢に恋されているイネスを羨む男のほうが多かった。
様々な視線を集めるイレーネの人生は16歳まで順風満帆だった。
「女親は必要だろう?」
馬車の事故でイレーネの母が亡くなった翌月にイレーネに新しい家族が二人できた。
輝かしい笑顔の父親が連れてきたのは、女性らしい体つきの夫人と父親によく似た顔立ちのイレーネと一歳差の異母妹。
貴族が愛人を持つのは珍しいことではない。でも母親の喪が明けてすぐに連れてきた新しい家族にイレーネはドン引きした。
母親の突然の死、新しい家族の登場、イレーネを襲う複雑な家庭環境に心配したイネスが寄り添ってくれたのでイレーネは冷静に対処できた。
「当たり前なんてありません。何があっても一人で対処できるようになりなさい。父や母がいなくなっても揺るがないように準備をしておきなさい」
イレーネは亡き母親にを厳しく躾けられた。
イレーネの父親は放浪癖があり、頼りないため母が裏で伯爵家を牛耳っていた。
イレーネは母が亡くなった時には、一人で執務を行える能力も経験も持っていた。
イレーネ個人はイネスの妻として支える立ち位置を希望しているが、伯爵令嬢として生まれたゆえにあらがえないことがあるのも理解していた。
イレーネにとって伯爵家の執務をこなすのは簡単なこと。イレーネの頭を悩ますのは新しい家族だった。
本妻が亡くなった途端に伯爵邸に現れた非常識な新しい家族は欲深い人間だった。
「旦那様が愛しているのは私。偽物の女が消えたのは罰よ」
新しいドレスに身に包み、ソファに寛ぎ高笑いする義母にイレーネは生まれて初めての挫折を味わう。
伯爵邸で平民では体験できないような贅沢な生活に満足して生活するだけならイレーネは干渉するつもりはなかった。
ただ、新しい家族の欲はどんどん増していく。
イレーネをはじめ、貴婦人御用達の店は一見お断りである。特に王族御用達のオーダーメイド専門の店では一部の貴婦人だけが持つ紹介状を手に入れられなければ入店さえ許されない。
イレーネの品位を疑われるので新しい家族を連れて貴族御用達の店に連れていくことはできなかった。
「王家より下賜された爵位にふさわしい振舞いを身に着けていただければ社交界で紹介しますわ。その杜撰な所作で人前に出るなんてうちの品位を疑われます。貴婦人の一員になりたいならもっと学んでくださいませ」
イレーネは貴族のパーティーに参加したいと言い出した義母と異母妹に何度も笑顔で同じ言葉を返す。
「お父様、外でどう過ごされても構いませんが、家族に迎えいれたなら義母様達ときちんと話してくださいませ」
優しく甘え上手だった新妻と淑やかな娘の間で板挟みになった伯爵は視察に行ったきり、帰ってこない。
家臣達は逃避癖のある伯爵と違いどんな荒波に襲われても毅然としているお嬢様の味方である。
もちろん新しい家族よりもお嬢様の命令優先である。
「イレーネの家族として認められたくて頑張っている姿は認めてあげなよ」
伯爵家の使用人とは違い、イネスだけはイレーネではなく新しい家族の肩を持つこともあった。
「新しい夫人は市井出身だろう?貴族と平民は背負うものが違うから、私達のようにはいかないよ。イレーネは教えることが苦手だから私が手伝うよ」
イレーネは我儘放題の努力しているように見えない新しい家族に苛立つことなく優しく付き合える婚約者にうっとりしながら頷く。身分の違いに寛大で余裕のある対応で新しい家族を宥めるイネスにイレーネはますます惚れこんでいく。
夫人と異母妹の教育をイネスと教師に任せ、イレーネは伯爵家の執務に取り込む。
どんな過酷な現実に襲われても、イレーネにはイネスとの明るい未来が待っている。だからどんな時も前を向いて歩いていけると思っていた。
****
伯爵が不在のためイレーネはイネス以上にパーティーに参加する。
後継教育を受けていてもイネスは正式に婿入りしていないため伯爵家の執務を手伝うことはない。イレーネ一人でもうまくいっているため特に求めていなかった。
パートナーのないイレーネに群がる貴公子に誘われるままにダンスを踊り、情報を得る。
「新しい家族の教育をイネスに任せて平気なの?」
伯爵家に滞在している新しい家族のことやイネスがイレーネの異母妹と親しくしていることは下世話な噂好きの社交界でも有名だった。
優秀なイレーネの初めての醜聞にも、イレーネは当たり障りなく笑顔でかわす。
ただイレーネを嘲笑うためでなく、本気で心配している友人の言葉には素直に頷く。
「お優しいイネス様に甘えております。お忙しいのに、うちのことを気にかけてくださりありがたいこと」
「婚約者なら当然だよ。僕ならイレーネをもっと大事にするよ。イレーネが望むなら婿に行ってもいいし、侯爵位を継承してもいい」
「私達は成人していませんが、もう子供ではありません。リュカ様の冗談を本気にしてしまうご令嬢もいますのでお気をつけくださいませ」
イレーネの返しに貴公子らしくない茶目っ気ある笑みを浮かべた侯爵子息のリュカ。
イネスとイレーネの共通の友人である。
友人として遠慮のないリュカを筆頭に、イネスにイレーネは勿体ないという者は時が経てば経つほど増えていく。
「絶対にイネス様よりリュカ様達のほうがいいのに。リュカ様はイレーネより年下だけど、容姿端麗、文武両道、王族の覚えも目出度い。何に不満があるのよ」
「あれはリュカ様のいつもの冗談よ。まぁ、女避けに婚約者のいる絶対に誤解しない私を利用しているだけ。侯爵家次男で王族の覚え目出度い、将来国の重鎮になるだろう優秀な方。リュカ様は優良物件に違いないから狙うなら止めないわ。応援はしないけど」
ダンスを終えたイレーネは友人と談笑しながら休憩する。
イレーネは伯爵家より高位な子息からアプローチを受けることも珍しくない。
イレーネは姫に私的なお茶会に招かれることもあり、公爵家や侯爵家とも友好的なお付き合いをしている。婚約者がいるのに他の男を虜にしているイレーネに嫉妬する者もいるが、イレーネはイネスにしか興味がないのは明らかであり、婚約者に一途な姿に好感を持つ者のほうが多い。
「イネス様より優秀な方はいます。でも私の心を慈しみ、支えてくださるのはイネス様。昔からうちのためによくしてくださいますし、それは今も変わらず。ね?」
恋という曇ったフィルターがかかっていてもイレーネは伯爵令嬢として正しい評価はできた。
イネスが好きでもイネスよりも優秀な者がいることは認めていた。完璧な者はいない。イネスの苦手をイレーネが補い、二人で手を取り合って生きていく。
イレーネは自分が思い描く未来がイネスと同じだと思っていた。
それが勘違いだったと知るのはイレーネが成人した後のことだった。
****
イネスの教育のおかげで貴族として相応しい所作を身に着けたイレーネの異母妹のラウラは成人した年に社交デビューをした。
その時、ラウラはイレーネと話すリュカを見て、一目で恋に落ちてしまった。
「運命なの!!リュカ様が好き!!」
「運命かどうかはわかりませんが、伯爵家から侯爵家に縁談の申し入れをすることはできません。ラウラがリュカ様と婚約するにはリュカ様に望まれるしか道はありません」
差別意識が強い国で平民が貴族の正妻に迎え入れられることはほとんどない。
社交界ではイレーネの異母妹と義母として紹介しているが、イレーネも周囲も伯爵夫人とも伯爵令嬢とも認めていない。伯爵邸で開く私的なパーティーやお茶会なら二人の参加を許しているが公的なものには連れて行かない。
「お姉様はリュカ様のお友達でしょ?協力して」
「できません。親しき中にも礼儀あり。お友達だから、リュカ様は貴方達の紹介を受けてくださいましたが、それ以上は許されません」
「お姉様はまた私を見下して、」
「差別ではなく、区別です。貴族は血統第一。それを受け入れられないなら国外に行きなさい」
王家は女が爵位を継ぐことを許しても、継承を許すのは直系のみ。
直系の血が途絶えれば、王家に爵位を返上しなければいけないので貴族は血を残すことに力を入れる。
一夫一妻制なので、子宝に恵まれない夫婦が離縁して再婚するのは珍しいことではないが養子を迎え、爵位を継承することは認められていない。
そして血統重視の貴族は平民の血が一族に流れることを嫌う傾向が強く、リュカの生家も同じである。
マナーを勉強し外面は取り繕えても、貴族の常識を理解し受け入れるのはラウラには難しいことだった。
イレーネはラウラの恋を応援することなく嗜める。
ラウラはイレーネに嗜められるたびに、ポロポロと涙を溢すがイレーネは慰めることなく立ち去る。
***
「イレーネ、ちょっといいか?」
イネスの訪問をイレーネは笑顔で受け入れる。
書類を書く手を止めて、イネス好みのお茶をイレーネ自ら淹れる。
イレーネは丁寧に淹れたお茶を静かに飲む婚約者の姿にうっとりする。
イネスはお茶を一気に飲みほし、イレーネの手に手を重ねる。
「私はラウラを愛している。どうか協力してほしい」
イレーネは婚約者のイネスを愛している。
手を握って懇願する真剣な顔のイネスは格好よくイレーネはうっとりと見惚れている。
「イレーネ、頼む」
イネスが恋したラウラはリュカに夢中である。
「イレーネのことは妹のようにしか思えないんだ。伯爵家は私が責任を持って守る」
決意に満ちたイネスの言葉がイレーネの頭に駆け巡る。
言葉が駆け巡れば巡るほどイレーネの心がズキズキと痛んでいく。懇願するイネスの姿に見惚れていても、聞こえないフリをすることはイレーネにはできなかった。
「い、いもうと」
「ラウラはまだ現実を知らない。イレーネと違い、私を必要としている。絶対に幸せにするから許してほしい」
「ひつよう?」
「私よりもイレーネに相応しい者はたくさんいる。私が責任持ってこれからもラウラを教育して支えていく。だから、」
言葉を濁すイネス。
イネスの言葉はイレーネの心を鋭いナイフで切り付けていくものばかり。
「協力してほしい。頼むよ。イレーネ」
甘い声音で囁き懇願をはじめたイネスにイレーネは抗えずゆっくりと頷いた。
イレーネにはイネスを引き留める理由が考えつかなかった。
イレーネとイネスの婚約を望んだイレーネの母はもういない。
この婚約にはイレーネの恋心さえなければ伯爵家にとっては利益はないものである。
「ありがとう。頼んだよ」
破顔し、感謝を告げて部屋を出ていくイネスの背中をイレーネは無言で見送った。
イネスは足を止めることも振り返ることもなく、静かに扉が閉まる音だけがイレーネの耳に響く。
イレーネは左足を上げて、右足を思いっきり踏んだ。足の痛みに夢でないことを認識する。
「妹なんて、迷惑なものと思われていたなんて」
イレーネにとって異母妹は身内という免罪符をかざし、我儘放題の迷惑なものだった。
父の過ちの責任をとり家族として受け入れたが、わずらわしさばかりで一度も好感を持てたことはない。
窓の外には青空が広がっているのにイレーネの心は冷たい嵐に襲われている。
思考すればするほど気持ちは沈んでいく。
「嵐に襲われても行き先を見失わないように備えなさいと教わったけど、抗わず、沈んでしまうほうが幸せかもしれない。嵐は去ってもその先に幸せが待ってるとは限らないもの」
人払いをしてしばらく時間が経つのにお嬢様から声がかからないことを心配した侍女がノックした。
「お嬢様、そろそろ準備をしませんと夜会に間に合いませんよ」
侍女の声にイレーネは現実に戻る。
身支度を整えられ馬車に乗ったイレーネは物思いに耽る。
「妹…。不条理で迷惑。いらない、お願い…」
イレーネの不穏な呟きは誰にも聞こえない。
馬車の窓から美しい夕焼けが目に入ったイレーネは微笑んだ。
***
リュカの両親が主催する侯爵邸での夜会は料理はもちろん、酒豪の侯爵自ら選んだワインが振舞われる。
侯爵夫妻に挨拶を終えたイレーネは静かにワインを飲んでいた。
いつもは嗜み程度にしかワインを飲まず、ダンスや談笑にあけくれるイレーネの珍しい姿は視線を集めていた。
ほのかに頬を染めて、ワインに酔いしれるイレーネは艶かしい。視線を集めていることに気付いてもイレーネは艶やかに微笑みながらワインを飲み続ける。
イレーネの姿に頬を染める貴公子達は互いに牽制しながら話しかけるタイミングを図っていた。
「酔いしれる姿が魅力的すぎて、逆に目に毒だよ。移動しない?」
貴公子達のにらみ合いに気付かないフリをして、リュカはイレーネに近づきグラスを取り上げた。
グラスに満たされていたワインを飲むとイレーネの好みではない酸味の強さに驚く。
「美味しいでしょ?さすが侯爵閣下の用意されたもの。あとでお礼に、」
「ありがとう。父上も喜ぶよ。父上には僕から伝えておくよ。大分酔っているみたいだから部屋を用意するよ」
「一人で飲みたい気分じゃないの」
「僕が付き合うよ」
「あら?お忙しいリュカ様が?リュカ様のお部屋でも構いませんよ」
イレーネはリュカの耳元で囁く。
イレーネの吐息にリュカの頬が赤くなる。イレーネはリュカの初な反応に艶やかに微笑む。
リュカは自室にイレーネをエスコートするとワインを用意させた。酒豪の父の影響でリュカはワインには詳しい。
「イレーネ、どれがいい?」
イレーネはイネスが生まれた年のワインを指差した。
リュカは頷き、イレーネのためにワインを開けてグラスに注ぐ。
「ありがとう」
リュカにお礼をいい、ワインを艶かしく飲むイレーネ。
リュカは無言でワインを飲むイレーネをただ見つめていた。リュカが人払いしてもイレーネは無言でワインを飲んでいる。
ボトルを空にしたイレーネはグラスを置いた。リュカを見つめ、微笑みながら髪飾りをとり、整えていた髪を解く。
「私をもらってくれますか?」
女性が異性の前で髪を解くのは情事へ誘うアプローチ。
リュカはイレーネの行為に驚くも、微笑みながら頷く。
イレーネはゆっくりと近づく友人の顔に目を閉じ、重なる唇を無心に受け入れる。
イネスがイレーネに頼んだのは、リュカを落としてラウラの恋を敵わないものにすること。
リュカは優しい手つきでイレーネに触れる。
「大事にするよ」
イレーネは自分の行いが間違っていることをわかっている。
ずっと胸が痛くてたまらない。
酒で紛らわそうとしても全然酔えず、胸の痛みは消えない。
温かくなるはずの体はずっと冷たい。
リュカの手により肌が顕になるとさらに体が冷えていく。
イレーネは微笑みながら抗わず、ただただ全てを受け入れる。
次第にリュカの温もりがイレーネの冷たい体に熱を思い出させる。
冷たい体が温もりを思い出すとイレーネの胸はさらに痛くなる。
イレーネは色々な物を裏切った。
その中にリュカとの友情も含まれる。
そんなイレーネを優しく抱くリュカの熱に身を任せて目を閉じた。
****
リュカは情事を終えて、眠ったイレーネの肌にそっと口づける。
イレーネの白い肌に浮かんだリュカの所有印に笑う。
「イネス様のお友達?」
「そうだよ。イネスから君のことは聞いてる。僕も本が好きだから君と話したいと思ってたんだ」
リュカがイレーネに初めて会ったのはイネスの家の書庫。
婚約者としてイネスとイレーネが過ごしていても、イネスの友人が訪ねれば、イネスの優先順位はいつでも会えるイレーネ以外のほうが高かった。
イレーネも笑顔でイネスを送り出し、書庫で勉強しながら待つのが習慣となっており不満を持たない少女だった。
幼い頃のリュカにとって、イネスから聞く伯爵令嬢はリュカの知る貴族令嬢と違っていた。
興味をひかれて、書庫を覗くと古びた書物を一心不乱に読んでいるイレーネがいた。口元を緩ませ微笑んだ途端に目を大きく開き、真剣な顔を取り繕ろうも笑みを溢す姿に目を奪われた。
多くの者がうっとりする微笑みを浮かべてリュカが声を掛けても形式的な挨拶だけ返し、本の世界に浸るイレーネの関心をひくのに初めてリュカは頭を悩ませたのは懐かしい記憶である。
イレーネは本気にしていなかったが、リュカはずっとイレーネが欲しかった。
侯爵家の力を使い強引に手に入れればイレーネの心は手に入らない。
だから機会を待っていた。
平凡なイネスは常にイレーネに劣等感を抱き、イレーネに恋する男達から受ける羨望の眼差しに嫌気がさしていた。
「羨む男が多いが、イレーネの隣は息が詰まる。素直で純粋なラウラの隣は居心地がいい」
完璧で常に微笑んでいるイレーネは、イネスに何も望まない。イネスが手を差し伸べれば微笑みながら手を重ねるが常に変わらない反応に新鮮さはない。
貴族の常識に疎く、素直で庇護欲をそそるラウラの存在はイネスには新鮮だった。イネスの胸に縋る姿はイネスの心を満たした。
「ラウラを幸せにしたい。イレーネとラウラは相性が悪く仲を取り持つのは難しい。引く手数多のイレーネに私は必要ない」
リュカはイネスの重大な勘違いに気付いていたが、ただ話を聞くだけにしてあえて教えなかった。
「お姉様は私が嫌いなの。助けて」
リュカはラウラからアプローチを受けていたが、相手にしない。イネスが絶賛している無邪気で愛らしいラウラに泣かれても、イネスのように絆されることはない。
流行のドレスにきらびやかな大きな宝石を飾るのが気に入っているラウラ。ラウラはリュカに挨拶することなく、目の前に立ち止まり、くるりと回る。
「リュカ様、どうですか?」
「似合っているよ」
「ですよね。センスのないお姉様はお勉強の時はいつもお古を着せるんです。お金持ちなのにひどい」
頬を膨らませるラウラが着ているドレスは社交デビュー前の令嬢が着るコルセットのない、軽く身動きのとりやすいプライベートな場面で着られるドレスである。
社交デビューしてからは美しく見せるためにデザインされた機能性は一切考慮されていない重たいドレスとコルセットは必需品である。
格式を守ったイレーネが着るドレスはラウラにとっては豪華なだけでセンスのかけらもないもの。
リュカにとっては、子供の着る動きやすいドレスでも美しい仕草ができないので貴族の知り合いとしては落第点である。バカな子ほど可愛いと思えるのはリュカの掌で踊らせている者に対してだけである。
流行のドレスに、流行の去った宝石を飾るちぐはぐ具合がラウラの立場とよく似ていた。
リュカが嘲笑いながら言った言葉を褒め言葉としてそのまま受け止める浅はかさは聡明なイレーネの妹とは思えないほど愚かである。
リュカが物思いに耽っていると腕の中で眠っていたイレーネの瞼が揺れた。
リュカはイレーネとの時間を手放したくなく、目を閉じ寝たフリをした。
「ごめんなさい。ごめんなさい」
聞いたことのないほどか細いイレーネの声にリュカは目を開けた。恋人のような甘い一時に憧れはあっても、リュカには憧れよりも現実のほうが大事である。
イレーネの顔を覗くと涙で濡れている。家族が死んでも泣かなかったイレーネが泣いていた。リュカは驚きを隠してイレーネの涙を指で拭うが涙は止まらない。
ラウラの涙は煩わしいだけだったリュカは、イレーネの涙だけは美しく思え笑う。
「僕は幸せだよ。しばらく騒がしくなるけど、少しだけ我慢して」
どんなイレーネもリュカにとっては美しいもの。
煩わしさの欠片もないイレーネとの出会いも手に入れるチャンスを手に入れたことも、ありがたい運の巡り合わせに心の中で感謝を捧げる。
リュカはイネスと違いイレーネに支えてもらわなくても立っていれる。
イレーネに望むのはリュカの隣にいること。できれば、幸せでいてほしい。
リュカは泣いているイレーネを抱きしめ、優しく髪を撫でる。泣き疲れて眠るイレーネを抱きしめたまま小声で家臣に命じた。
***
「おはよう。イレーネとイネスの婚約は破棄したよ。だから僕と結婚しよう」
嬉しそうに微笑むリュカにイレーネは言葉を失う。
侯爵家出身で王子と親しいリュカならイレーネの同意がなくても、婚約破棄の手続きはできる。
結婚前に体の関係を持つのは外聞が悪い。
社交界に知れわたる前に結婚してしまえば、まるく収められることもある。
「リュカ様を利用したのに、」
「僕は愛する人だけには寛大だよ。体がだるいだろう?しばらく休んでて。ここにいることは伝えてあるから安心して」
イレーネ以上に優秀なリュカに任せればなにも問題はおきないとイレーネはわかっている。
愛した人と結ばれる未来はなくなった。
厳しく義務を果たすことを求める母はずいぶん前にいなくなった。
放浪癖のある父は相変わらず帰ってこない。
馬車の中で眺めた夕焼けのように燃え尽きて、真っ暗になればいいと思った。
今あるのはリュカへの罪悪感と胸の痛みだけである。
ベッドから降りて、着替え終わったリュカはぼんやりしているイレーネのほうを振り返った。
「夜には戻るけど、会いたくなったら呼んで。僕の部屋は自由に使っていいし、出歩いてもいいよ。父上も母上も兄上も留守だから気にしないで。行ってくるよ」
リュカが部屋を出ていくと、侍女が服を持って入ってきた。
「お休みになられますか?湯浴みとお食事の用意もできておりますが」
「湯浴みを」
イレーネは侍女の丁寧に世話をする手に身を任せる。
「これ、全てリュカ様が用意されたのですよ。イレーネ様の好みでないものはすぐに変えるように命じられておりますので、教えてくださいませ」
イレーネの体に塗られるオイルや着せられる服、今までイネスの好み重視で選んでいたため、失恋したイレーネにはこだわりがなかった。ただ素材がいいものばかりで、着心地もいいので何も言わずに袖を通す。
「イレーネ様、申し訳ありません、い、今」
「イレーネ!!」
イレーネは真っ青な顔の侍女と飛び込んできた美女を見て目を丸くした。
「姫様!?どうされましたの、いえ、ご公務」
「友人として来たのよ!!公務なんてどうでもいいわ。バカ、バカ、リュカじゃなくて私のところにくれば良かったのよ!!」
イレーネに抱き着いて癇癪をおこしている姫にイレーネは動揺する。
冷静沈着な王子と正反対の感情豊かな妹姫。
「振られた男のために身を捧げるなんて自棄になりすぎよ。リュカは優秀よ。でも、失恋とお酒の勢いで全てを捨てるなんて、あんな女、イレーネの立場なら追い出せたのに、イレーネができないなら私が追い出してあげたのに」
姫の瞳が潤み、ポロポロと涙が流れる。
「姫様、」
「自棄酒でも自棄食いでも付き合うわ。私のお小遣いだから任せなさい。どこのお店を貸し切りにする!?」
「お気持ちだけで十分です。公務に戻ってください」
「お父様の許可はもらったわ。お兄様に言いつけられたもの。私、いろいろ持ってきたの!!」
姫が指をパチンと鳴らすと侍女がぞろぞろと入ってきた。
イレーネの前に古びた本や骨、木の棒、など負のオーラを纏っていそうな品々が並べられていく。
「復讐よ!!イレーネを傷つけた奴らに」
「姫様、怪しいものには手を出してはいけません。いくらお小遣いでも御身を危険に晒すものはいけません。なにより王族のイメージが壊れます。このような物、どこで買ったんですか」
先程まで気分が沈み、胸が痛んでいたイレーネだったが、感傷に浸っている場合ではなくなった。お転婆姫の暴走を止めるために突っ込み、尋問をする。
国王は姫を溺愛している分、王子が厳しく教育している。
お転婆姫の暴走に王子の血管が切れる音が何度かイレーネにも聴こえた気がしたこともある。
お転婆だが心根が優しい姫ゆえに人に恨まれることはないが体面というものがある。
「次の恋のために恋愛小説を読む!?」
姫の突拍子のない提案をずっと断っていたイレーネは、ようやくまともなものが出たので頷く。
「ハンカチを拾ってくれたお礼に食事なんておかしいでしょ!?バカなの!?」
恋愛小説を読みながら感情移入して、突っ込み、怒ったり、泣いたり忙しい姫の相手をイレーネは続ける。
「バカよ。浮気した男を好きなままアプローチを続けるなんて。男なんて掃いて捨てるほどいるんだから、」
恋人に捨てられ断罪された悪役の結末に泣きつかれ眠った姫を眺めイレーネは優しく微笑む。
「捨ててしまいなさいよ。全部、忘れてしまえばいい。それで新しいもので、楽しい思い出をつくって、塗り替えて、」
寝言を呟いている姫の暴走を止めるのは大変だが、イレーネを慰めようとしてくれるのは理解していた。
イレーネはイネスが好きだった。
手がかかるけど、本気でイレーネの心配をして駆け付ける姫の優しさに心が温かくなっていく。
昨日まで冷たかった体はリュカに、心は姫に温められた。
思考を放棄していた頭が働き出す。
イレーネの膝を枕に眠る姫の頭を撫でると緩む口元に小さく笑う。
イレーネはイネスが欲しがっていたものをあげることにした。
伯爵邸に帰ろうにもぐっすり眠る姫を起こすのは気が引け、明日から動くことにした。
起きたら姫にしてもらわないといけないことがある。
姫が集めた怪しい物を処分させることが今のイレーネにとって最優先事項である。
***
リュカはイネスを訪ねていた。
リュカから渡された書類を受け取ったイネスは満足げに笑う。
「これで婚約破棄の手続きは終わり」
「ありがとう。イレーネを幸せにしてくれ。リュカになら託せる」
イネスの破顔した口から溢された言葉を姫が聞けば殴っただろう。
イレーネは胸を痛めただろう。
「努力するよ。でも、イネスから託されるのはごめんだよ。イレーネがイネスのものであったことは一度もない。そこは間違えないで」
目が笑っていないリュカの返答になぜかイネスは寒気に襲われた。
「リュカ?」
「僕達の立場はもう友人でいることは許されない。もちろんイレーネに近付くことも許さないよ。最後に餞別をあげるよ。イネスとラウラ嬢の結婚の承認書類。提出さえすれば受理される。これがあればイネスのご両親も許してくれるよ」
「え?」
「僕達は交わることがないけど、イネス達のこれからを楽しみにしてるよ。イネス達との交流はイレーネも僕も父上達に禁じられているから、話すのも最後になるかもしれないね。僕にチャンスをくれたことは感謝しているよ。この餞別をどう使うかはイネス次第だ。お幸せに」
王族は当事者の合意なく、婚約破棄と結婚の承認を受理する権利を持つ。
国益のためという前提のもと、私的に行使しないように王族と侯爵以上の二名の承諾で正式に受理されることになっている。
優秀なイレーネと結婚したいというリュカの願いを侯爵家は認めていた。
戸惑うイネスを気にすることなく、リュカは立ち去る。
上機嫌な足取りで進むリュカを待つのは最愛のイレーネだけでないことは気付いていなかった。
***
イレーネは王家に爵位の返上を申し出た。
空席になった伯爵位にふさわしい者が任命される。
王家の目に留まればイネスにも可能性があった。
これがイレーネの選んだイネスの欲しい物をあげる唯一の方法だったがイネスは選ばれなかった。
そんなイネスの選択にイレーネは絶句した。
伯爵になるために長年後継教育を受けていたイネスはイレーネの想定以上に浅はかだった。
「イネス様はポンコツ?」
「だから私はあんな男やめたほうがいいって言ったのよ。恋は盲目っていう言葉の通りイレーネの目も節穴だったものね」
「イレーネのところは特殊だから勘違いしている者も多いけど、後継教育を受けていたイネスが知らなかったとは思わなかったよ。伯爵夫妻は従兄妹同士。伯爵は傍系のため伯爵家の継承権を持つのは伯爵夫人と夫人の血を受け継ぐイレーネだけ」
「放浪癖のあるお父様はお飾りの伯爵だとイネス様にお教えなければいけなかったんですね」
イレーネが嫁けばラウラの婿が伯爵になれるなんて考えはイレーネには思いつかなかった。
ラウラさえもわかっていたことをイネスはわかっていなかった。
継承権のない者は王宮官吏の試験を受けて仕官する。
そこで優秀さを認められ、王族の側近や爵位を賜ることを目指している。
王家が直系のみに爵位の継承を許すのは常に優秀な者が椅子に座ることを望んでいるから。
仕官しなくても直系貴族を支える傍系貴族として励み、王家に認められれば直系を失い返上された爵位に、傍系の者が選ばれることもある。
イネスが伯爵家で後継教育を受けていたのは有名だったので可能性は持っていた。
イネスに捨てられたイレーネが用意できるのは伯爵位を空席にするまでである。
ただイネスは間違えてしまった。
「過ぎたことだよ。後ろ盾のないラウラを妻に迎えてもイネスが得るものはない。名門伯爵家への婿入りを自らの意志で手放し、当主の意向を無視して平民を妻に選んだ浅はかさゆえに勘当されたイネス。勘当されたイネスに選ばれたラウラ。王族に承認された夫婦は承認者の許しなしに離縁はできない。二人の立場では承認者に会うのは不可能だから、一生離縁はできないだろう」
「悲観する必要はなくてよ。この国は能力次第で幸せを掴める可能性は無限大。夢から覚めたあとに待つのは厳しい現実か楽園かは当事者次第。平民が王家に祝福され縁を結ぶなんて名誉なことよ」
イネスの決断を酒の肴に嘲笑うリュカと姫。
イレーネの決断を聞き、二人が後押ししてくれたおかげで滞りなくことがすんだ。
夢から覚めたイレーネに待っていたのは冷たい現実ではなかった。イネスとイレーネの婚約破棄もリュカとの新しい関係も社交界では受け入れられた。
身の程知らずの愛人の娘と婚約者の不貞に潔く見切りをつけて、次に進んだイレーネの決断は貴族らしいもの。
「うちには愛情というものがなかったから初めて情を教えてくれたイネス様に心を奪われたんでしょう。全てイネス様の好みに合わせたつまらない私は捨てられ、選ばれたのは自己主張の激しい、イネス様のことを思いやらないラウラ。イネス様は主導権を握られたいタイプだったので、イネス様を尊重した私のしてきたことは煩わしく、迷惑でしたのね」
空になったイレーネのグラスに姫がワインを注ぐ。
「イレーネが望むなら爵位あげるよ。リュカと離縁したいなら私が一筆書いてあげる」
「お気持ちだけありがたくいただきます。私が先にリュカ様を利用しましたので、今度は私が利用されてさしあげることにしましたの」
「イレーネ!?」
リュカのプロポーズを受け、妻になったイレーネの言葉にリュカが驚く。
嫁ぎ先として優良物件のリュカにアプローチする令嬢は多かった。リュカがイレーネのような優秀な令嬢が好みと公言し、女避けにイレーネ利用してきた過去がある。イレーネよりも能力の高い令嬢が求めるのは王子の婚約者の椅子なのでリュカは見向きもされず、丁度良かった。
「女性とのお付き合いを煩わしいと思われるリュカ様にとって、適度な距離感を保つ私が丁度いいのでしょう」
「僕はイレーネだけは距離を縮めてもらって大歓迎だよ。愛してるよ」
甘さを含んだ微笑みでイレーネの頬に口づけを落とすリュカ。
イレーネは優しくリュカの髪を撫でる。
「私の所為でリュカ様はイネス様というかけがえのない友人を亡くしました。だから何があっても、今度こそ、私だけはリュカ様の友人であろうと思うのです。一度裏切った私を信じていただけないのは当然なので、頑張ります」
「さすがイレーネ!!そうゆうところ大好き!!応援してる」
「ありがとうございます」
笑顔で拍手する姫とリュカに口づけされても照れないのに姫の称賛に照れた微笑みを見せるイレーネ。
イレーネは今回の件で最大の被害者は友人を二人失ったリュカだと思っている。
恋に狂ったイレーネは初恋の人を失った。
恋に狂ったイネスは立場を失った。
恋に狂い嘘を重ねたラウラは伴侶を選ぶ権利を失った。
「イネス様はラウラを手に入れるため友人のリュカ様を利用することを選んだ。それにリュカ様の友人の私を使うという選択をした。私はイネス様のために友人のリュカ様を利用する選択をした。信じていた友人達に同時に裏切られるなんてつらいでしょう?」
つれないイレーネの膝を枕にふて寝をはじめたリュカ。
リュカの頭を優しく撫でるイレーネに姫は真実を伝えようか迷う。
リュカはイネスもイレーネも友人と思っていない。
出会った時からイレーネは好きな人、イネスは恋敵。
年上のイネスとイレーネに負けないように人一倍努力した結果、イネスのプライドを折り、イレーネに認められた。
イネスとイレーネの仲を取り持つことはしなかったが、誰かに取り持たれなければ交わらない糸なら縁がなかったということだ。
イレーネの選んだ道は非常識でも、当事者達の意思は尊重されていた。
「リュカはそんなやわな男じゃないけど、」
「姫様とリュカ様は仲がいいのか、悪いのかよくわかりませんね。でもお二人は分かり合っている気がします」
「私は何があってもイレーネの友達よ」
「ありがとうございます。ずっとお友達でいられるようにがんばります」
家族の情は知らなくても、イレーネには友情を教えてくれる縁に恵まれた。
恋は正常な判断を狂わせる麻薬のようなもの。
友情は節度さえ忘れなければ人をおかしくすることはない。
騙し、蹴落とし、利用し、恋も社交界も薄きたないものばかり。
そんな世界で唯一きれいなものは友情だけかもしれないとイレーネは思う。
綺麗なものを持ち続けるには努力が必要である。
巡り合わせだけでは、決して掴めないもの。
恋に落ちるのは一瞬。醒めるのも一瞬。
暖炉に薪を投げ入れれば燃えあがる炎のように胸を焦がしたイレーネの恋。
イレーネの用意したチャンスを無駄にした無様な姿に一気に醒めた。
イネスのために用意したものを暖炉に投げ入れれば一瞬で灰になった。燃え上がる暖炉の炎にイレーネは水をかけた。炎は消え、笑うイレーネを見つけたリュカが抱き寄せる。
「そんなことイレーネがやらなくていいよ」
「やりたかったのよ」
「やりたいことをやらせてあげたいけど、今は駄目」
イレーネの膨らんだお腹をリュカが愛おしげに撫でる。
「リュカ様」
名前を呼べばイレーネを優しく見つめ、イレーネがいなければ用がなくても探してくれるリュカ。
伯爵家と違い、イレーネが嫁いだ侯爵家は愛情に満ちている。
イレーネを気遣う優しい義理の両親。できて当たり前のことを褒める義兄夫婦、温もりをくれる夫。
恋のように胸が高鳴ることはない。
燃え上がる炎は美しいが近づきすぎれば肌を焼き、場合によっては命を奪う。
美しいものは自分とは関係のない場所、物語の中だけで満足するほうがいい。
抱き合いながら感じるじんわりとした温かさは心地よい。身近にあるものの幸せを見つけて噛み締める。
「リュカ様、なかったことにしませんか?」
「ごめん。嫌だ。あんな幸せな時間をなかったことにしたくない」
「お父様は新しい家族と過ごされております。もともと伯爵としての役目はほとんどされていませんでした。私は陛下に爵位を返上しようと思っています。私と結婚しても伯爵にはなれません」
「僕はイレーネを妻にしたいけど、伯爵位は興味がない。イレーネのこれからに僕もいれてほしい。イレーネは僕が嫌い?」
「お友達として大切に想っておりましたが、私はリュカ様を利用しました」
「イレーネよりも僕のほうが狡猾だよ。僕は喜んで君に利用されたんだ。イレーネを自室に招きいれたのは僕だし、避妊しなかったのも僕だ。身籠って、僕の傍にいてくれれば都合がいいのにって最低なことも思っている。怒ってるなら謝るから、そんな他人みたいな態度やめて」
「怒ってません。リュカ様を利用したのは私ですもの」
「無かったことにしないで、僕と結婚しよう。両親も兄上もイレーネを気に入っている。イレーネを逃したら、あのお転婆な姫殿下との縁談話が持ち上がりそうだから、僕を助けてよ」
イレーネが罪を犯した翌日の夜、リュカとの友情は無くなったと思ったイレーネは態度を改めた。
イレーネに懇願するイネスは醜く思えたのに、思い出の中のリュカは可愛らしく思えた。
イレーネはリュカのプロポーズを受けた時、もうこの大事な友人を裏切らないと決めた。
イレーネの決意がリュカにとって嬉しくないものだとは気づかない。
窓の外には星が輝いている。
真っ暗な世界は存在しない。目を凝らして探せば幸せは案外近くにあるものである。
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