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 部屋を追われ、ドレスも宝石も異母妹に奪われた───と見せかけ、実は事前に大半の所有物を別の場所に運び込んでいたユーリエは、腫れた頬を床に押し付けて冷やしていた。

 ユーリエがいるのは、公爵家の北側にある懲罰房だ。何故屋敷にこんなものがあるのか、長い歴史の中で色々あったのだろうと疑問を飲み込む。

「大丈夫だったか、ユーリエ」

 夜中に忍んできた父に、ユーリエはうつ伏せのまま、手をパタパタと振って応える。

「後妻様は事前に聞き及んでいたよりも短気で暴力的ですのね」

「すまない、私の誤ちだ」

「それより用意して下さいました?」

「あ、あぁ、だが、本当にいいのか?」

 ユーリエは今夜、この家を出ていく。父の用意してくれた紹介状を手に、平民の娘として住み込みで働く予定だ。王子妃教育も、“彼”との定例お茶会も、公爵家の執務補佐も、全て「体調不良」で断る。「療養のため領地に行った」ということにして行方を眩ませる。

「4年後には貴族学院への入学が控えている。ユーリエを自由にしてやれるのは、それまでの間だけだ」

 貴族学院への入学は、この国に住む貴族の義務だ。満15歳から17~18歳くらいまで在学する。現在11歳のユーリエに残された時間は4年もある。

 学院にて嫡子は自領の運営に有益となる友人関係を結んだり、有能な部下の発掘に勤しむ。継ぐ家のない次男や三男にとっては、高位貴族に売り込むことで就職先を確保する絶好のチャンスだ。既に婚約者のいる令嬢たちは、卒業後を見据えて横の繋がりを作り、下位貴族令嬢たちは婚約者を探したり、高位貴族の愛人を目指したりする。通う必要性など見い出せないが、義務なのだから仕方ない。

「学院には入寮するつもりですし、少なくとも卒業するまでこの家には戻りません。キャシーが嫁いだら家を継ぐために帰ってきますね」

 義務である以上、学院は通うつもりだ。

「頼もしすぎる…」

 父の不甲斐なさの結果なので、異論は認めない。





 というわけで。

 ユーリエは侯爵家で働き始めた。住み込みで。メイドとして雑用から。掃除は高いところから、とか、初めて知ることばかり。普段は勉強などで座っていることが多かった分、身体を動かすのは楽しい。

「今日はご来客がありますので、粗相のないように」

「はい」

 メイド頭の言葉に、どんな人が来るのだろうと思いつつ、今日こそは完璧に掃除をしてやる!と意気込む。

 そうして、張り切って庭の落ち葉を掃いていると、不意に気付いてしまった。

 ───“彼”だ。

 相手はこの家の主人であるアルバーヌ侯爵と共に廊下を歩いている。ユーリエの目は久しぶりに見る“彼”の姿に釘付けになった。

 半年ぶりだろうか。定例のお茶会には異母妹を出席させていると父の手紙には書いてあった。

 妄想かもしれないが、もし“彼”と婚約していたら、異母妹を虐げていた罪を“彼”に追求されて大勢の前で婚約破棄を告げれられるはずだった。家の中でのことなど、外からはわからない。異母妹が涙を流し、ユーリエの非道を訴えれば、誰もがそれを信じてしまう。そんな映像が瞼の裏に焼き付いている。

 だから、ユーリエは早々に家を出た。家にさえいなければ、虐げたなどと濡れ衣を着せられる恐れもないだろうと考えたからだ。

 ユーリエの視線の先にいる“彼”は、現在12歳になっているはず。出会ってから欠かさず贈り続けた誕生日プレゼントも、今年は用意しなかった。その代わり異母妹が張り切って用意しただろう。

 廊下にあった姿が見えなくなってから、ようやく掃き掃除を再開する。掃除を始めた頃の勢いも意気込みもない。目にした姿に、思いがけず心が揺さぶられた。

「あの、そこの君」

 背後から話しかけてきたのは他でもない“彼”だった。すかさず箒を置いて、深々と頭を下げる。

 父と同じ焦げ茶色の髪は黒く染め、メイクでソバカスを描き、眼鏡をかけて変装しているとはいえ、声は誤魔化せない。ゆえにユーリエはただ静かに頭を下げ続けるのみだ。

「───私は、レイモンドだ。どうか、君の名前を聞かせて貰えないだろうか」

「恐れ多いことです。どうかご容赦くださいませ」

 顔を上げていいという許可が出ないと、身分の低い者はお辞儀したままになる。この腰から角度をつけてしっかりお辞儀をする姿勢の辛さを、滅多に他人に頭を下げる機会のない王子様は御存知ないらしい。話しかける前に頭を上げる許可を出すのが普通だろう。たかがいちメイドを相手に名乗ることもおかしいし、名前を聞くのもおかしい。え、コイツ、頭イカれてる?───などと不敬すぎることを考えていたら、「あ!」と小さく声を上げて“彼”は挙動不審になった。

「すまない、楽にしてくれ」

「ありがとうございます」

 ようやく頭を上げることができたと、ユーリエは密かに嘆息した。

 光に照らされた小麦畑を思わせるような黄金色の髪に、何を考えているかわからない薄氷色の瞳。幾分精悍さを得たとはいえ、基本的には初対面の時から変わらない王子様。

「君の名前が聞きたいんだ」

 繰り返された問いを断ることは流石にできず、ユーリエは呆れを眼差しに滲ませて口を開く。

「リーナでございます」

 もちろん偽名だ。

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