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しおりを挟む大きく目を見開いた先輩が振り向いてくる。その視線から目をそらすと、先程己の口から飛び出した言葉が脳裏で反芻された。
〝そりゃ、見る目のない野郎だな〟
しまった、とばかりに徹時は己の口を手で塞ぐ。失言したと思ったし、この時間に変化が訪れることを嫌だと思った。
別に毎日会っているわけではない。徹時にも友人付き合いやバイトがあるので、退屈な時だけ美術室に足を運んでいる。美術部が活動するため先輩がいないとわかっている木曜日は必ず他の用事を入れ、最低でも週に一度は退屈な日を作り先輩の絵を見に来る。
退屈とは何だろう。意図的に作るものだっただろうか。
もやもやとした形のない気持ちに、名前をつける踏ん切りがつかない。この、ぬるま湯の中を揺蕩う時間を失いたくない。
煮え切らない徹時の知らぬところで一瞬だけ呆けた顔をさらした先輩は、ニッと不遜に笑ってみせる。
「ほっほぉう!君もようやく私の持つ大人の魅力に気づいたかね!!」
「…いや、先輩、幼女じゃん!」
わざとらしくテンションを上げてきた先輩に、徹時はワンテンポ遅れて乗っかる。助かったと思った反面、何かを残念だと思った。この時間が続けばいい、と思う気持ちだけは揺らがない。
「徹時、最近付き合い悪くね?カノジョでもできた?」
クラスメイトに絡まれ、頭を巡るのは今日が何曜日なのかという確認だ。
「何事も程々が一番なんだよ」
カノジョなんか出来てない。それでも否定しなかったのは、先輩も女子であることに変わりはないからだろうか。先輩のことは誰にも知られたくない。揶揄されるのが嫌だからなのか、独占欲なのか、よく分からない。
先輩が絡むと徹時の中によく分からない感情が増える。輪郭のハッキリしないそれは、モヤモヤとしていて、でも気持ち悪さはない。いつか見た雲のうねりの大軍のような曖昧さにむしろ安堵する。
「何だそれ。何か悟ったの?」
茶化してくる友人と一緒になって笑う。
不意に通りがかった女子生徒の制服に目がいった。タイの色は制服の襟と同じ紺色だ。男子のタイと同じ色である。
「───そういやこの前、小豆色のタイしてる女子を見掛けたんだけど…、みんな紺色だよな?」
「あー、何年か前までは小豆色だったらしいから、おさがりなんじゃね?」
「ふーん…」
「で。先輩って、キョウダイいるの?」
制服のおさがりをくれるような兄か姉がいるのかもしれない。もしかしたらイトコかもしれないが。思いついたら聞きたくて仕方なく、カラオケの誘いを断って美術室に向かった。
「いるよぉ、妹が」
キャンパスの下絵は一向に進まず、描いては消しが繰り返されている。
挨拶もなく唐突に投げつけた質問に、意外な返答がきた。
「え、妹!?先輩が姉とか信じらんねぇ!」
「しつれーしちゃうわねぇ!お姉ちゃん気質だからこそ、君の無駄話に付き合ってあげてるのよぉ?感謝しなさいよねっ」
言外に弟扱いされ、徹時は隠しようもないほどムッとした。
「この俺がボランティア精神で先輩に話しかけているのがわかりませんかぁ?」
「わかりませんねぇ。…でもまぁ、君のお陰で新しい絵に取り組む気になれたので。寛大な先輩は不遜な後輩くんを許してあげます。年上ですからね、年上ですから!」
先輩はご機嫌だ。
一方の徹時は別なところに意識が向いていた。
「その絵、オレのお陰なんですか?」
「ん?そうね。私は自分の内面しか絵に描けないもの」
初恋の絵でも、新しい恋の絵でもなく、徹時との出会いから生まれる絵。ブワッと熱が顔面を支配するのに抗えない。先輩の内面に自分がいる。照れくさくて、恥ずかしくて、敵わない。先輩が振り向かないことを願いつつ、話題を逸らさなくてはと頭をフル回転させる。
「未完の絵は、もういいの?じゅうぶん、完成品として通用しそうだったけど、コンクールとか出さないの?」
「私にとっては未完。前も言った通り永遠にね。君の名で出展するなら止めないけど」
急激に顔から熱が引いていく。思わず真顔だ。
「いや、盗作じゃん、それ」
「───昔さぁ、妹に頼まれて習字のお手本を書いたのよ」
天井を見上げ、持ったままの鉛筆で宙に輪を描きながら先輩は記憶を巻き戻し始めた。
「お手本?」
「上手く書けないから見ながら書けるように同じサイズの半紙に書いてって。しょーがないなぁって、渋々書き初めしたわけ。で、妹は私の書いた見本に自分の名前を書いて金賞とってたわ」
「盗作じゃん」
短時間でこんなセリフを繰り返す機会などそうそうない。呆れる他なかった。
「両親は気づいてたみたいだけど、お宅のお嬢さん凄いですねぇって周りから褒められたらどうでも良くなったみたいでさ。私が騒いだら心の狭い奴扱いされたの。だからもう、別にいっかなぁって。私が書いたという事実に、そんな大した意味なんてないのよ、うん」
肩越しに振り向いた先輩は、ニカッと歯を見せて悪戯小僧のように笑ってみせた。
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