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第3話 悪魔の結婚
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悪魔(以降はただ彼女と書くだけにする)は、頭に来ていた。このところ仕事がさっぱりはかどらないからだ。ロマンチックな、伝統的スタイルなどいっそ捨てて しまって、仲間のように今時の流儀で----弁護士、プログラマー、秘書などといった姿で人間社会に身をひそめ、裏からゆっくりと魂を盗み取った方が良い のかも知れない。大切なのは生活。使命は二の次である。このままでは身はやつれ、真の喜びの一つも知らないまま、憧れに身をついやして、終には遠くを見つ めたままの姿で昇華してしまうかも知れない。考えただけでもぞっとする。
悲 しいことに人間などに比べると(その力のある行為の華々しさとは反対に)、彼女たちは、おそらく宇宙の中では、もっともはかない存在であった。しかし魂さ え手にし、それをためこめば、死神やヴァンパイアといった真のモンスターに変化できるのである。そうやって形をとらないことには、いつ消えてもおかしくな いという不安が、彼女には常につきまとって離れなかった。
それ故に、個でありながら全てをかねている人の魂は、彼女たちにとって垂涎の的であり、全ての存在理由を維持し続けるのだ。
同期の仲間たちが次々に巣立ってゆき、人間どもに直接牙をふるっているのを見るのは、彼女にとって確かにうらやましいことだった。モンスターになるには、ま ず生身の人間と、心の対決をしなくてはならない。そうでなくては、人間を征服する偉大な〈もの〉などには決して、なれないのである。
だ が彼女は、古風なスタイルに憧れていた。それは彼女の父親がそうだったからかも知れないけれど。対決の相手も昔気質で、どちらかと言うと純情な者ばかりを選 んだ。本当は、そういう人間こそ最もてごわいのである。なぜなら彼らは基本的に保守派で、物事の変化を慎重に受け入れるため魂に見合った豪勢な褒美を提供 することは、最初から相手に猜疑心を植え付けることに他ならないからだ。
悪魔は人間のストレスや緊張を狙って罠を仕掛ける。相手がそれに固執すればするほど成功のチャンスは大きくなる。
ところが、彼女が挑戦するのはリラックスしていて心の広い者ばかりだった。
彼女の優秀な友人は忠告した。知己は充実していて、残り数個の魂で変化ができそうなほどだった。体がぐつぐつ煮えたぎり、ときどき額や背中に角が出たり、引っ込んだりしていた。肌の色も、浅黒くなったり、緑のうろこが生えてシャラシャラと音を立てたりしていた。
「あんたは自信を持ちすぎなのよ。結果を出さないでどうするの。まずは、せこせこしていて、つまらない人間から始めるの。自分にやれることを一つずつこなしていくのよ、それができないでどうするの」
心のどこかでは、彼女は人間を尊敬していたのだ…現実よりもずっと。メフィストフェレスという大先輩が演じた、学者ファウストとの対決のように、高潔な一瞬を望んでいた(口にするとかなり馬鹿らしいし、自分でも高望みだと分かるけれど)。
「それに憧れることは悪いことじゃないでしょう」彼女が訴えると、「メフィストは敗けたのよ。詰めが甘くてね…。ああ、あんたもいつだってそうね」親友はやりかえした。
----渇望は日々いや増し、とうとう、彼女は友人の言う〈一つずつこなしていく〉というそのやり方を学ばせてもらうことにした。彼女は先日、大チャンスをまたも逃してしまい、既にその身は失望と消耗で半分消えかかっていた。なりふり構っている場合ではなかったのだ。
友人は有名レストランのトイレに棲んでいた。それを知ると彼女は、もう駄目だと思った…。ここで何をやっているのか、完全に見当がついてしまったからである。
見かけはお互いぞっとするような美女だったから、給仕はこの上なく頼もしいものだった。
二人は食事をしつつ、店内を物色した。自分たちのお客と決めた相手の料理に、友人は、離れたところから念力でちょっと細工をするのだった。
腹のくだった人間が大慌てでトイレに飛び込んでくると、知己は素早く、その部屋の出入り口の鍵をかけてしまった。用を足す場所へ入るための扉も一斉に閉じ、哀れな犠牲者が、出ることも入ることも不可能な事実を悟ると、人でなしの登場となる。派手に煙を吹いて友人は現れる。
対決の上で絶対に通さねばならないルールがあった。相手に自分の存在を認めさせなければならないのである。もし人間が超常現象を信じなかったり、頑固に現実にしがみついていれば、契約は不履行、取引は失敗である。
友人のやり方は相手にとって切羽つまったもので、その気になれば何でも信じさせることができたかも知れない。
チビでハゲでデブの男が地団駄を踏みながら、水洗装置と一本のトイレットペーパーの望みを叶えるために、泣く泣く魂を差し出すのを見て、その場に居るのが耐えがたくなり、彼女はいたたまれない気持ちになって、とうとう逃げ出してしまった。
彼女は町外れの静かな所までやって来ると、自分を落ちつかせた。
やれやれ…あれでモンスターになれたところで、それは偉大でも何でもなかった。あんな魂を集めたところで、変化できるのは、下水道を這い回る突然変異のワニぐらいのものだろう----。
友人の信頼を失った彼女に残っているのは、今や己の乏しい才能のみだった。
彼女はあてもなく歩きながら、薄れていく自分を悲しく思った。とうとう見ることのできなかった、尊い人間の魂のことを考えた。
結局、この時代はあたしには合わなかったんだ。それにしても、自分がただ一つの個であることが悲しかった。種の存在である人間は、どこかで、自分が生まれ変 わることを期待してもいい権利がある。生きながらにして、自分の生まれ変わりを知ることができる喜びについて語ったのはゲーテだった。何とうらやましいこ とか。
この世に生まれた真の個性とは実にさみしいものだ。だから絵描きは筆を走らせ、彫刻家は槌と、のみを振るうのだろうか。そして悪魔は尊大な魂を求めるのか。
その悩みも全て空気の中に消えてしまうと思うと、彼女の心は突然乱れた。
死にたくない!
死にたく…橋の欄干に立ち、川に飛び込もうとしている男がいる。
彼 は思い切って足を蹴り、川面を体全体で受け止めようとするように両腕を軽く伸ばし、脚の間を小さく開いた形で落下していく。下まで十メートルもなかった。 しかし川の水は冬のこの時期は、ほとんどない。水面につき出ている丸い岩で首の骨を折るか、体中ひどい有り様でもだえ苦しむ羽目になるか(高さを考えると恐ら く後者)だろう。
もったいない!
彼女は音速より速く飛び、中空で彼の体をかっさらった。
男は何が起きたのか分からないまま女に抱かれて宙を飛んでいた。
「ねえ、僕は死んだのかな?…」
「もったいないじゃない!」彼女は相手の耳元で怒鳴った。「あたしが散々苦労して、魂を手に入れようと必死になってるっていうのに、あんたは、あんたって人間は…!」怒り心頭に発すると、耳のそばに小さな角、耳からは煙が立ち、その瞳と口の中には、オレンジ色の炎が踊って見えた。
男は目を丸くし、体を引いたが、落っこちそうになった。彼女は当てつけのように彼の背中に爪を食い込ませ、逆にかなりきつくしがみついてやった。
「あんたは…悪魔?」胸を圧迫され、息を切らしながら彼は言った。
「頂戴よ、この薄ら馬鹿! そんなにいらないんならあたしに頂戴!」
い きなり、男は笑い出した。彼女が文句を言っても収まらなかった。彼は自分に魂があるとは、考えてみたこともなかった。あんな所で死のうとするまで考えたの は、命のことだった。〈命を粗末にして、恥ずかしくはないのか〉という言葉のことであった。魂だって? こんな自分に魂----〈スピリット〉なんていう霊的なものを期待してるのか? この女性は? そう思うと、ただ笑えた。「魂だって!」男は目に涙をためてもだえた。腹がよじれて死にそうだった。
「何 が可笑しいのよ、馬鹿! 誰にだってだって魂ぐらいあるわ! それがこの世の大原則なのよ! 自分には魂なんてないと思ってた? ガッツなんて、他人のも のだと思ってた? ふざけないで! あんたのような人間は、そもそも魂のことを考えてないから、あっさり死のうなんて考えられるのよ!」
彼は笑うのをやめてムッとした。
「誰だってできれば死にたくなんかないさ。僕は----」
「あんたの理由なんて知ったことか!」彼女は、適当な川原の平らな地面の上に降り立つと、乱暴に男を放り出した。
「どこへとなりと行くがいいわ!」
彼は片膝を立て、慌てて起き上がった。
「待て…。僕の魂がいるんならやるよ」
「あんたみたいな魂なんて御免よ!」
背中をむけて歩き出した彼女は、だが痛みをこらえた声の響きに振り返った。男はどこに持っていたのか、カッターナイフで手首を切っていた。今度こそ、彼女の怒りは頂点になり、髪が逆立ち、先端が赤く燃え立った。
罵言を吐き散らして取り乱し、ナイフをたたき落とす彼女に、彼は落ちついて首を振った。
男は血のこぼれ出ている手首を固く握って、彼女に差し出した。
「血がいるだろ? 契約にはさ」
彼女は男の手首を握り、離した。傷は消えて、血の跡もなくなった。
「あ たしはケダモノじゃないわ。なんだと思ってるの? メフィストフェレスはファウストの血を採って羊皮紙にサインさせたとでも? 仮にも悪魔と人間が対決す るのよ、この知恵のある生き物同士が! 神性を賭けて勝負をするこのゲームに必要なのは、勇気と情熱だけ。血の盟約なんて、頭だけの学者連が想像してこじ つけた、いかさまの道具よ!」 呼吸を整えるとつけ足した。「今のあんたには血まみれがお似合いかもね。神性なんて、冗談じゃないわ!」
彼は傷の消えた手首をさすり、考え深げにしていた。「じゃあ、僕の魂を持っていかないのか?」
その目をじっと見すえて彼女は言った。「あんたの魂は腐ってるわ」
男は少し考えると決心した。
「僕の魂をあんたにやるよ。もちろん、今はしなびてるかも知れないけれど、努力して、あんたに気にいられるような立派な魂にしてみせる。ファウストのことはよく知ってる。僕は大学で西洋文学を、ゲーテを専攻してるんだ」
彼女も少し考えた。気を落ちつけた。確かに、チャンスはもう巡ってこないだろう。それに、さっきから連続して余計な力を使ったせいで、夜明けまでに契約の一つも果たさなければ、消滅してしまうのは確定した。
そうだ、と彼女は思った。契約だ。契約でそのことを約束させればいい。契約は絶対だ。
「本当に立派になってみせる?」
「約束する。男として、人間として、そこまでけなされちゃ立つ瀬がない。僕はやるよ。それに、君が良いと思ったら、いつでも奪い取ればいい」
「良いわ」
彼女は手を出し、二人は強く握手をして離れた。
「さて、それじゃ、あなたの望みを聞きましょうか」
彼はポカンとした。「望みを…叶える?」
「そ うよ」当然じゃない、と彼女は鼻を鳴らした。「どんな望みも。でも例外はあるわ。魂を尊大にすることだけはあたしにも無理。そんなのは天使様にでも頼みな さい。でもなるべくなら、自分の魂を堕落させるような願いは持たないことね。もうあなたは契約を飲み込んだのだから、契約を果たさないと、いつまでも生き ていることになるわ…永遠に」
男はまた思案した。
「望みはなし、というのは? あんたの言うとおり、どんな願いも害になりそうな気がするんだが」
彼女は冷たく、悲しげに首を振った。「契約はお互いの条件を飲み込んだ上で初めて成立するの。あたしにとっては好都合でも、こっちが与えなければ、そっちからは受け取れないの。作用と反作用ってこと。だめよ、願いをかけなさい。もう、これは命令よ」
彼は長いこと考えた。彼女は気を楽にして待っていた。これは、これまでのような失敗に陥ることがないのは分かっていた。どんでん返しはない。向こうはその気なのだし、無償で与えるとまで言ったほどのお人好しだ。彼自身としても、この契約はきっと大切なのだ。
命----魂をかけた約束がなければ、きっといつか、自分でそれを絶つだろう。それが怖いのだ。
「…よし」顔を上げた男は真面目な目をしていた。魂を差し出した時よりも、緊張していた。
「さあ、言って」…だが彼女は、いつもの不安を感じていた。
男は深く息を吸った。
「ずっとそばに居てくれ」
その言葉を頭の中で反芻したあと、生まれてから初めて、彼女は失神した。
あまりに怒りが激しく、彼女は何を言う気力も無くなった。ただ、契約者のためになるようなことだけは、絶対にしてやるものかと決めていた。
男の方もその気はなかった。そんなことは考えたこともなかった。そこまで考えたら本当に人のクズである。
彼は作家の卵だった。うまいものも食べず、旅行もせず、彼女以外はそばに置かず、ひたすら筆の道を歩んだ。
縁 があって良い師に恵まれた。彼は契約を果たさねば〈永遠に生きる〉という恐怖にかられ、とにかく膨大な量を書いた。----そこを山田集一という初老の作家に認められ、好意的な批評を受けた。おかげでどうにか出版にこぎつけたのだ。長井一郎という、こちらが心配するほど人の良い編集者も就いた。
彼は怠けなかった。彼女をそばに置いたのは----怖いからだった。現に契約が成立したあの日からずっと、彼女は自分をにらみ続けている。彼にはその気持ちが分かったから、なおさら原稿用紙に向かい、ひたすらサスペンス小説を書き続けた。
彼はその道のプロになった。芸術かどうかと他人はよく論じたが、男は無視した。書かねばならない…頭を支配しているのはその言葉だけだった。書かねばならない…でなければ死ぬ…永遠に生きることは、死ぬことだ。
老人になるにつれ、彼は健康に気をつかってスポーツも始めた。衰えた体で生き続けるなんて御免だった。朝はジョギングをし、夜はジムで汗を流した。世間は面 白がったが、やはり彼には無意味だった。その頃から彼女のまなざしが変化し始めたが、彼はひどい近眼になっていて、見分けられなかった。
とうとう肉体の死が男に訪れた。
ややもすると彼は甦り、落胆もせずに机の上の原稿に向かおうとした。魂がまだ、と言っているのだろう、と思っていた。
彼女が立ちはだかった。
「どいてくれ。僕は書くよ」
彼女は指をパチンと鳴らし、男を死なせた。仕事部屋の床には、手足を伸ばしたままの格好(契約の夜の、投身に似てなくもない姿)で、力を失った彼の肉体から、ぼんやりと魂が浮かび上がった。
それは月光を凝縮したようだった。地味で落ちついた色をして、もろそうだが、光を閉じ込めているものは彼の意志と努力のちからであり----頑固のあらわれ。少しずつ削りだしたものの集合。何十年も、何億回も紡ぎだしたもの。
「本当はもう早いうちに…」彼女は言いよどみ、うなだれると独り、首を振った。泣きたかったが、神が涙を流さないように、彼女もなおさらそうすることはできなかった。
彼女は眩しそうに、彼の魂を包みこんだ。「愛してるわ…」
変化が始まった。
彼女の中に月光は染みわたり、飲み干せない分は背中から盛り上がると、光り輝く翼となって天を突いた。
彼女は自分が何になったのかを悟った。悲しく笑った。見おろすと残っていた----彼の魂の原型が。
彼自身が。
翼を与えられた者は不思議な微笑を浮かべていた。魂を胸に抱くと、月のさやけさを道しるべにして、天に向かって、ゆっくりはばたきはじめた。
その姿はやがて、誰にも見ることができなくなった。
悲 しいことに人間などに比べると(その力のある行為の華々しさとは反対に)、彼女たちは、おそらく宇宙の中では、もっともはかない存在であった。しかし魂さ え手にし、それをためこめば、死神やヴァンパイアといった真のモンスターに変化できるのである。そうやって形をとらないことには、いつ消えてもおかしくな いという不安が、彼女には常につきまとって離れなかった。
それ故に、個でありながら全てをかねている人の魂は、彼女たちにとって垂涎の的であり、全ての存在理由を維持し続けるのだ。
同期の仲間たちが次々に巣立ってゆき、人間どもに直接牙をふるっているのを見るのは、彼女にとって確かにうらやましいことだった。モンスターになるには、ま ず生身の人間と、心の対決をしなくてはならない。そうでなくては、人間を征服する偉大な〈もの〉などには決して、なれないのである。
だ が彼女は、古風なスタイルに憧れていた。それは彼女の父親がそうだったからかも知れないけれど。対決の相手も昔気質で、どちらかと言うと純情な者ばかりを選 んだ。本当は、そういう人間こそ最もてごわいのである。なぜなら彼らは基本的に保守派で、物事の変化を慎重に受け入れるため魂に見合った豪勢な褒美を提供 することは、最初から相手に猜疑心を植え付けることに他ならないからだ。
悪魔は人間のストレスや緊張を狙って罠を仕掛ける。相手がそれに固執すればするほど成功のチャンスは大きくなる。
ところが、彼女が挑戦するのはリラックスしていて心の広い者ばかりだった。
彼女の優秀な友人は忠告した。知己は充実していて、残り数個の魂で変化ができそうなほどだった。体がぐつぐつ煮えたぎり、ときどき額や背中に角が出たり、引っ込んだりしていた。肌の色も、浅黒くなったり、緑のうろこが生えてシャラシャラと音を立てたりしていた。
「あんたは自信を持ちすぎなのよ。結果を出さないでどうするの。まずは、せこせこしていて、つまらない人間から始めるの。自分にやれることを一つずつこなしていくのよ、それができないでどうするの」
心のどこかでは、彼女は人間を尊敬していたのだ…現実よりもずっと。メフィストフェレスという大先輩が演じた、学者ファウストとの対決のように、高潔な一瞬を望んでいた(口にするとかなり馬鹿らしいし、自分でも高望みだと分かるけれど)。
「それに憧れることは悪いことじゃないでしょう」彼女が訴えると、「メフィストは敗けたのよ。詰めが甘くてね…。ああ、あんたもいつだってそうね」親友はやりかえした。
----渇望は日々いや増し、とうとう、彼女は友人の言う〈一つずつこなしていく〉というそのやり方を学ばせてもらうことにした。彼女は先日、大チャンスをまたも逃してしまい、既にその身は失望と消耗で半分消えかかっていた。なりふり構っている場合ではなかったのだ。
友人は有名レストランのトイレに棲んでいた。それを知ると彼女は、もう駄目だと思った…。ここで何をやっているのか、完全に見当がついてしまったからである。
見かけはお互いぞっとするような美女だったから、給仕はこの上なく頼もしいものだった。
二人は食事をしつつ、店内を物色した。自分たちのお客と決めた相手の料理に、友人は、離れたところから念力でちょっと細工をするのだった。
腹のくだった人間が大慌てでトイレに飛び込んでくると、知己は素早く、その部屋の出入り口の鍵をかけてしまった。用を足す場所へ入るための扉も一斉に閉じ、哀れな犠牲者が、出ることも入ることも不可能な事実を悟ると、人でなしの登場となる。派手に煙を吹いて友人は現れる。
対決の上で絶対に通さねばならないルールがあった。相手に自分の存在を認めさせなければならないのである。もし人間が超常現象を信じなかったり、頑固に現実にしがみついていれば、契約は不履行、取引は失敗である。
友人のやり方は相手にとって切羽つまったもので、その気になれば何でも信じさせることができたかも知れない。
チビでハゲでデブの男が地団駄を踏みながら、水洗装置と一本のトイレットペーパーの望みを叶えるために、泣く泣く魂を差し出すのを見て、その場に居るのが耐えがたくなり、彼女はいたたまれない気持ちになって、とうとう逃げ出してしまった。
彼女は町外れの静かな所までやって来ると、自分を落ちつかせた。
やれやれ…あれでモンスターになれたところで、それは偉大でも何でもなかった。あんな魂を集めたところで、変化できるのは、下水道を這い回る突然変異のワニぐらいのものだろう----。
友人の信頼を失った彼女に残っているのは、今や己の乏しい才能のみだった。
彼女はあてもなく歩きながら、薄れていく自分を悲しく思った。とうとう見ることのできなかった、尊い人間の魂のことを考えた。
結局、この時代はあたしには合わなかったんだ。それにしても、自分がただ一つの個であることが悲しかった。種の存在である人間は、どこかで、自分が生まれ変 わることを期待してもいい権利がある。生きながらにして、自分の生まれ変わりを知ることができる喜びについて語ったのはゲーテだった。何とうらやましいこ とか。
この世に生まれた真の個性とは実にさみしいものだ。だから絵描きは筆を走らせ、彫刻家は槌と、のみを振るうのだろうか。そして悪魔は尊大な魂を求めるのか。
その悩みも全て空気の中に消えてしまうと思うと、彼女の心は突然乱れた。
死にたくない!
死にたく…橋の欄干に立ち、川に飛び込もうとしている男がいる。
彼 は思い切って足を蹴り、川面を体全体で受け止めようとするように両腕を軽く伸ばし、脚の間を小さく開いた形で落下していく。下まで十メートルもなかった。 しかし川の水は冬のこの時期は、ほとんどない。水面につき出ている丸い岩で首の骨を折るか、体中ひどい有り様でもだえ苦しむ羽目になるか(高さを考えると恐ら く後者)だろう。
もったいない!
彼女は音速より速く飛び、中空で彼の体をかっさらった。
男は何が起きたのか分からないまま女に抱かれて宙を飛んでいた。
「ねえ、僕は死んだのかな?…」
「もったいないじゃない!」彼女は相手の耳元で怒鳴った。「あたしが散々苦労して、魂を手に入れようと必死になってるっていうのに、あんたは、あんたって人間は…!」怒り心頭に発すると、耳のそばに小さな角、耳からは煙が立ち、その瞳と口の中には、オレンジ色の炎が踊って見えた。
男は目を丸くし、体を引いたが、落っこちそうになった。彼女は当てつけのように彼の背中に爪を食い込ませ、逆にかなりきつくしがみついてやった。
「あんたは…悪魔?」胸を圧迫され、息を切らしながら彼は言った。
「頂戴よ、この薄ら馬鹿! そんなにいらないんならあたしに頂戴!」
い きなり、男は笑い出した。彼女が文句を言っても収まらなかった。彼は自分に魂があるとは、考えてみたこともなかった。あんな所で死のうとするまで考えたの は、命のことだった。〈命を粗末にして、恥ずかしくはないのか〉という言葉のことであった。魂だって? こんな自分に魂----〈スピリット〉なんていう霊的なものを期待してるのか? この女性は? そう思うと、ただ笑えた。「魂だって!」男は目に涙をためてもだえた。腹がよじれて死にそうだった。
「何 が可笑しいのよ、馬鹿! 誰にだってだって魂ぐらいあるわ! それがこの世の大原則なのよ! 自分には魂なんてないと思ってた? ガッツなんて、他人のも のだと思ってた? ふざけないで! あんたのような人間は、そもそも魂のことを考えてないから、あっさり死のうなんて考えられるのよ!」
彼は笑うのをやめてムッとした。
「誰だってできれば死にたくなんかないさ。僕は----」
「あんたの理由なんて知ったことか!」彼女は、適当な川原の平らな地面の上に降り立つと、乱暴に男を放り出した。
「どこへとなりと行くがいいわ!」
彼は片膝を立て、慌てて起き上がった。
「待て…。僕の魂がいるんならやるよ」
「あんたみたいな魂なんて御免よ!」
背中をむけて歩き出した彼女は、だが痛みをこらえた声の響きに振り返った。男はどこに持っていたのか、カッターナイフで手首を切っていた。今度こそ、彼女の怒りは頂点になり、髪が逆立ち、先端が赤く燃え立った。
罵言を吐き散らして取り乱し、ナイフをたたき落とす彼女に、彼は落ちついて首を振った。
男は血のこぼれ出ている手首を固く握って、彼女に差し出した。
「血がいるだろ? 契約にはさ」
彼女は男の手首を握り、離した。傷は消えて、血の跡もなくなった。
「あ たしはケダモノじゃないわ。なんだと思ってるの? メフィストフェレスはファウストの血を採って羊皮紙にサインさせたとでも? 仮にも悪魔と人間が対決す るのよ、この知恵のある生き物同士が! 神性を賭けて勝負をするこのゲームに必要なのは、勇気と情熱だけ。血の盟約なんて、頭だけの学者連が想像してこじ つけた、いかさまの道具よ!」 呼吸を整えるとつけ足した。「今のあんたには血まみれがお似合いかもね。神性なんて、冗談じゃないわ!」
彼は傷の消えた手首をさすり、考え深げにしていた。「じゃあ、僕の魂を持っていかないのか?」
その目をじっと見すえて彼女は言った。「あんたの魂は腐ってるわ」
男は少し考えると決心した。
「僕の魂をあんたにやるよ。もちろん、今はしなびてるかも知れないけれど、努力して、あんたに気にいられるような立派な魂にしてみせる。ファウストのことはよく知ってる。僕は大学で西洋文学を、ゲーテを専攻してるんだ」
彼女も少し考えた。気を落ちつけた。確かに、チャンスはもう巡ってこないだろう。それに、さっきから連続して余計な力を使ったせいで、夜明けまでに契約の一つも果たさなければ、消滅してしまうのは確定した。
そうだ、と彼女は思った。契約だ。契約でそのことを約束させればいい。契約は絶対だ。
「本当に立派になってみせる?」
「約束する。男として、人間として、そこまでけなされちゃ立つ瀬がない。僕はやるよ。それに、君が良いと思ったら、いつでも奪い取ればいい」
「良いわ」
彼女は手を出し、二人は強く握手をして離れた。
「さて、それじゃ、あなたの望みを聞きましょうか」
彼はポカンとした。「望みを…叶える?」
「そ うよ」当然じゃない、と彼女は鼻を鳴らした。「どんな望みも。でも例外はあるわ。魂を尊大にすることだけはあたしにも無理。そんなのは天使様にでも頼みな さい。でもなるべくなら、自分の魂を堕落させるような願いは持たないことね。もうあなたは契約を飲み込んだのだから、契約を果たさないと、いつまでも生き ていることになるわ…永遠に」
男はまた思案した。
「望みはなし、というのは? あんたの言うとおり、どんな願いも害になりそうな気がするんだが」
彼女は冷たく、悲しげに首を振った。「契約はお互いの条件を飲み込んだ上で初めて成立するの。あたしにとっては好都合でも、こっちが与えなければ、そっちからは受け取れないの。作用と反作用ってこと。だめよ、願いをかけなさい。もう、これは命令よ」
彼は長いこと考えた。彼女は気を楽にして待っていた。これは、これまでのような失敗に陥ることがないのは分かっていた。どんでん返しはない。向こうはその気なのだし、無償で与えるとまで言ったほどのお人好しだ。彼自身としても、この契約はきっと大切なのだ。
命----魂をかけた約束がなければ、きっといつか、自分でそれを絶つだろう。それが怖いのだ。
「…よし」顔を上げた男は真面目な目をしていた。魂を差し出した時よりも、緊張していた。
「さあ、言って」…だが彼女は、いつもの不安を感じていた。
男は深く息を吸った。
「ずっとそばに居てくれ」
その言葉を頭の中で反芻したあと、生まれてから初めて、彼女は失神した。
あまりに怒りが激しく、彼女は何を言う気力も無くなった。ただ、契約者のためになるようなことだけは、絶対にしてやるものかと決めていた。
男の方もその気はなかった。そんなことは考えたこともなかった。そこまで考えたら本当に人のクズである。
彼は作家の卵だった。うまいものも食べず、旅行もせず、彼女以外はそばに置かず、ひたすら筆の道を歩んだ。
縁 があって良い師に恵まれた。彼は契約を果たさねば〈永遠に生きる〉という恐怖にかられ、とにかく膨大な量を書いた。----そこを山田集一という初老の作家に認められ、好意的な批評を受けた。おかげでどうにか出版にこぎつけたのだ。長井一郎という、こちらが心配するほど人の良い編集者も就いた。
彼は怠けなかった。彼女をそばに置いたのは----怖いからだった。現に契約が成立したあの日からずっと、彼女は自分をにらみ続けている。彼にはその気持ちが分かったから、なおさら原稿用紙に向かい、ひたすらサスペンス小説を書き続けた。
彼はその道のプロになった。芸術かどうかと他人はよく論じたが、男は無視した。書かねばならない…頭を支配しているのはその言葉だけだった。書かねばならない…でなければ死ぬ…永遠に生きることは、死ぬことだ。
老人になるにつれ、彼は健康に気をつかってスポーツも始めた。衰えた体で生き続けるなんて御免だった。朝はジョギングをし、夜はジムで汗を流した。世間は面 白がったが、やはり彼には無意味だった。その頃から彼女のまなざしが変化し始めたが、彼はひどい近眼になっていて、見分けられなかった。
とうとう肉体の死が男に訪れた。
ややもすると彼は甦り、落胆もせずに机の上の原稿に向かおうとした。魂がまだ、と言っているのだろう、と思っていた。
彼女が立ちはだかった。
「どいてくれ。僕は書くよ」
彼女は指をパチンと鳴らし、男を死なせた。仕事部屋の床には、手足を伸ばしたままの格好(契約の夜の、投身に似てなくもない姿)で、力を失った彼の肉体から、ぼんやりと魂が浮かび上がった。
それは月光を凝縮したようだった。地味で落ちついた色をして、もろそうだが、光を閉じ込めているものは彼の意志と努力のちからであり----頑固のあらわれ。少しずつ削りだしたものの集合。何十年も、何億回も紡ぎだしたもの。
「本当はもう早いうちに…」彼女は言いよどみ、うなだれると独り、首を振った。泣きたかったが、神が涙を流さないように、彼女もなおさらそうすることはできなかった。
彼女は眩しそうに、彼の魂を包みこんだ。「愛してるわ…」
変化が始まった。
彼女の中に月光は染みわたり、飲み干せない分は背中から盛り上がると、光り輝く翼となって天を突いた。
彼女は自分が何になったのかを悟った。悲しく笑った。見おろすと残っていた----彼の魂の原型が。
彼自身が。
翼を与えられた者は不思議な微笑を浮かべていた。魂を胸に抱くと、月のさやけさを道しるべにして、天に向かって、ゆっくりはばたきはじめた。
その姿はやがて、誰にも見ることができなくなった。
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