こころの駅の駅長さん

根古 円

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里帰りのサラリーマン

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 気付けば男は駅のホームのベンチに座っていた。

 こぢんまりとした木造の駅舎。
 見覚えが有るような、無いような…不思議な場所。

「おや?この駅にお客さんとは珍しい。」

 一体何ごとかと混乱する男に横から声がかけられた。
「え?あの…ここは…気がついたらここに居て…」
「ああ、この駅迷い込みやすいんですよ。大丈夫です。間もなく電車も来ますから。私、駅長の御影と申します。よかったらお茶でも飲みながら待たれてください。」
 御影はにこにこと笑みを崩さず、駅舎の中へと男を誘った。
 こんな状況、普段であれば必ず断っていたはずであるのに、何故か男は御影の提案に頷いてしまった。

「お客さん、どちらに向かわれる途中だったんですか?」
「いや…普通に自宅に帰る途中で…」
 そう。今日は残業もなく、少し早めの帰路についたところだったはずだ。
 最寄駅までいつも通りの道を通ったはずなのだ。
 
 目の前にありふれた紙コップが置かれる。
 中身はココアのようだ。甘い香りが広がった。

「ふむ。この駅は考え事をしていて迷い込むケースが多いんですよ。ま、主要線ともつながっているので対して困らないのですが。お客さんも何か考え事を?」
 相変わらずの笑顔で問われれば、男も待ち時間の雑談にと口を開いた。

「考え事といいますか…俺、地方から出てきたんですよ。」
「そうなんですか。因みにお郷はどちらですか?」
「長崎です。」
「長崎ですか…行ったことがないなぁ…」
「ははは、そうなんですね。割と修学旅行で訪れる方も多いんですよ。」
 修学旅行の時に風邪をひいて参加できないタイプなんですよ。と頭を掻く御影に、男は笑みをこぼした。

「就職先がなくて、7年前に高卒でこっちに出てきたんです。」
「親御さんは心配されたでしょう?」
 今まで学生だった我が子を単身送り出す親の気持ちを考えれば…と御影が訊ねると、男は困ったように頷いた。
「ええ。きっと親にとってはまだまだ子どもだったんですよね。でも、その時の俺は自分のことを大人だと思っていて…結構揉めたんですよ。」

 静かな駅舎に時計の秒針の音と二人の話し声だけが静かに溶けていく。

 都会に出てきて、久方ぶりに感じる静寂に、男は何となく心が落ち着いていくのを感じた。

「それで、それ以来全く里帰りもしていないんですけど…どうやら父親が仕事中に怪我したらしくて…母親からメールが入ってたんですよね。年末くらい帰ってこれないのかって。」
「年末もお仕事ですか?」
「いや、休みです。でも…」

 言葉を濁す男に、御影は静かに椅子を引いて背もたれに身体をあずけた。
 勤務中の姿勢としては褒められたものではないラフな姿だが、嗜める人間はそこにはいない。

「親子って難しいですもんね。特に若いうちは。」
 その御影の言葉に男は頬を緩めた。
「駅長さんもまだ若いでしょう?俺より年下に見えます。」
「まぁ、まだお兄さんだと自分では思ってますよ。」
「ははは、最近は高校生でもおじさん扱いですからね。」
 そうお互いを揶揄っているうちに肩の力が抜けていく。
「ま、私の場合は祖父が駅長でして。やはり上の人間から見るとこちらの未熟さが目に付いたんでしょうね。割と些細なことで口論になったり…正直、私が自分のプライドを曲げれなかったというか。」
 男はココアを一口飲んで、頷いた。
 御影は子どものプライドは面倒なものですよね。と言葉を続けた。

「俺も似たようなものですよ。父親に俺は都会に出て出世するんだなんて大口叩いて出てきて、でも…やっぱり学歴の壁ってやつにぶつかって生活に余裕もない。それをほら見ろって馬鹿にされる気がして。」

 ふむ。と御影は何かを考える仕草を見せた。
 すこし待っててくださいと一言告げて、駅舎の奥に歩を進める。

 男は少しぬるくなったココアで会話で乾いた舌を湿らす。
 同年代だからだろうか。それとも全く関わりのない他人だからだろうか。
 今まで話したこともないような事を話してしまったと、多少の後悔が脳裏をよぎった。
 此処が何処かはわからないが、この隙に駅を出てしまおうかと思ったその時だった。

「ああ、ありましたよ。やはり貴方だった。」
 小さな箱を持って御影が戻ってきた。
 一体何なのかと男が首をかしげれば、御影はその箱から数枚の写真を取り出した。

「これ、昔の展示写真でして。別れと祈りってテーマの駅写真だったんですけどね…」

 テーブルに並べられた写真を見て男は驚きに目を見開いた。

「いやー、これ多分お客さんですよね?ちょっと幼いけど。」
 改札を潜る幼い自分に何とも言えない気持ちが沸いてくる。
 そうだ。直前まで地元に残れという父親と喧嘩をしていて仏頂面で…両親の方を振り返りもせずに特急に乗り込んだんだ。

 次の写真を見て、男は涙を溢れさせた。

 あの時、自分が振り返らなかった両親の姿。
 どうぜ不機嫌そうな顔をしていたんだろうと決めつけていた父親が、祈るように目を閉じ、その頬を濡らしていた。

「厳しそうなお父様ですね…お仕事は何をされてるんですか?」
「…建設…です…」
 涙のせいで上手く出てこない声を搾り出すかのような返答に、御影は静かに語りかけた。

「お父様はきっとこれからのあなたの苦労を理解していたんでしょうね。だからこそ、自分の手の届くところに居て欲しかったのでしょう。」
 男の肩が震える。
 こうして見ると、ひどく幼く、写真の頃の面影が重なった。
「それでもこの時、親元を離れていくあなたの幸せを…ただただ祈るしかなかった。応援…していたのだと思いますよ。」

 男は静かに目元を拭うと、大きく息を吐いた。

 やりきれない思いを全部その息に乗せるかのような深い深い息。

「…俺、里帰り…してみようと思います。」
「そうですか。きっといい里帰りになりますよ。」
 相変わらずの笑みを浮かべる御影に、男も晴れやかな笑顔で返した。

「あ、そうそう。九州といえば酒処ですよね。お客さん、お酒って飲みます?」
「え?まぁ。焼酎とかは有名ですけど…俺はビールくらいしか飲めないですね。」

 突然の質問にきょとんと目を丸くする男に、御影は秘密のアドバイスだと言わんばかりに口元に指を添えて告げた。

「男同士、苦労を肴にして飲む酒は…中々美味しいものですよ。」

 遠くから踏切の音がする。

 反響するその音を聞きながら、席を立った。
 御影に礼を言おうと男が口を開いた瞬間、強風が男の前髪を揺らし、反射的に目を閉じた。


 一瞬の瞼の裏の暗闇。

 本の刹那のその間に、男が立つ世界は一変していた。


 慌ただしい都会の喧騒。
 いつもの帰路の途中の風景が広がっている。

 幻だったのだろうか。
 そう思いつつ、上着のポケットに入れた携帯端末を探れば、かさりと何かが指に触れた。

 取り出してみれば、不思議な駅で見たあの写真で、それが確かに現実だったのだと告げる。
 なのに、携帯端末が示す時間は男があの駅で過ごした時間が無かったかのように、迷い込む前の時間を表示していた。


 訳がわからなくて、男は思わず声を出して笑った。

 口の中に残るかすかなココアの甘みを感じながら、男はいつも通りの道をたどる。

「あー…うん。手土産の酒でも選びに行くかな。」



 踏切の音は聞こえない。

 足早に去っていく男を、静かに見送る影があった。

「迷ったらまたお会いしましょう。」


 御影は笑顔で一礼して踵を返す。
 街中では浮きすぎるその駅員姿を誰も気にする事はなかった。

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