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第二幕 旅の始まり
森の主の夜話
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高校までは小一時間、電車に揺られて行く。座って行くために、俺はいつも少し早めに家を出て普通電車に乗るようにしていた。シートの端をゲットできた日はラッキーだ。イヤホンを耳の奥まで突っ込み、好きな曲を流し、目を閉じて外界をシャットアウトしてしまえばそこはもう俺だけの音楽世界だ。
しかしその日はもうシートの真ん中しか空いてなかった。まあ、それでも立ったままよりマシだ。俺はその席に座った。左隣は紺色の制服を着た女子高生。パッと見、結構可愛かったのでこっちは良し。右隣はスーツを着たオッサン。こっちは可もなし不可もなし。俺に害さえなければ空気みたいなもんだ。俺は早速目を閉じ、自分の世界に沈み込んだ。
しかし発車してしばらく経ってから、そのスーツのオッサンの動きが怪しくなってきた。首がぐらぐらしている。電車が揺れてGがかかるたびこっちに身体を預けてくる。そのたびに俺は現実世界に引き戻される。ウザいなこいつ。
嫌な予感は的中した。しばらくするとオッサンは完全に寝入ってしまい、俺の肩にぐったりもたれかかってきた。時々肘で小突いたり肩を邪険に動かしてやったりするが、こういう奴に限ってなかなか起きやがらない。もう一方の女の子はスマホを触りながらしっかり起きている。ちっ! 何でオッサンの方なんだよ。女の子の方だったら余裕で我慢できるのに。
こうなってくるともうなかなか自分の世界には戻れない。しかも、何だ! 気付いたら携帯の充電が3%しか残ってないじゃないか! 何でだ? 家を出る時には50%ぐらいあったじゃないか。あ、音楽が勝手に切れてしまった。何なんだよ! 返せよ俺の音楽! 返せよ俺の世界!
そこで目が覚めた。ヤバい。寝入ってしまっていた。
ハッと横を見ると俺の右肩ですやすや眠っているのは可憐な美少女だ。スーツのオッサンなんかではない。
夢かあ。良かった。
元の世界の夢を見るなんて久々だな。どれくらい寝てしまってたんだろう。いかん、いかん。たるんでる。何事も起こってないだろうな。焚き火はまだ燃えてるよな。
しかしその時、俺の背筋を冷たいものが通り過ぎた。何事か……今まさに何事かが目の前で起ころうとしていた。
周囲の闇に小さい光がいくつも浮かんでいる。さっきまでそんなもの絶対になかった。見間違いじゃない。
ちょうどその時、ニコもパッと起きた。身体を起こしてキョロキョロし、闇に浮かぶ光に気付いた。
「何あれ?」
「分からない」
とは答えるが、もうだいたい正体は分かっている。ゲームでも映画でもよくある場面だ。光は2つセットになってだんだんこちらに近づいて来る。かすかに小枝を踏む音や葉ずれの音が聞こえてくる。
そして焚き火の光に現したその姿は……やはり、狼だった。
ちょうど俺たちを取り囲むように5頭、いや6頭いる。俺の背後にもいるかもしれないが後を振り返って確認する余裕もない。
狼の群れか。ひょっとしたら、この森に入ってからずっと感じていた違和感の原因は、黙呪兵なんかじゃなくこいつらだったのかもしれない。ニコもずっと「見張られてる」って言ってたよな。こいつらずっと俺たちを狙ってたんだろうか。
狼たちは広場の縁までにじり寄ってきて、そこで俺たちを睨んだまま少し姿勢を低くした。唸り声を発している。どう見ても友好的な雰囲気ではない。今にも飛びかかってきそうだ。しがみついてくるニコを足もとに留め、俺はゆっくり立ち上がった。
怖い。強力に怖い。膝がガクガクしている。黒い鳥女とも、怒り狂う村人たちとも違う怖さだ。だって、言葉の通じない獣には謝ることすらできない。牙には牙をもって立ち向かわざるを得ない。
俺に牙はあるのか? 歌術はある。これまで机を壊したり、リンゴを切ったり、雑草を刈り取ったりはしてきたが、攻撃手段として使うのは初めてだ。
生き物を傷つけるのは趣味に合わない。しかしここでこいつらに食われてしまうわけにもいかない。絶対にニコを守らないといけない。俺はジゴさんにもナギさんにも「この子を頼む」と言われてるんだ。よし、やろう。俺も牙を剥こう。
狼一頭を仕留めるなら威力のある震歌を歌うのが一番確実だ。しかしここで普通の歌術を使うと別の強力な魔物を呼んでしまう可能性もある。しかも相手は複数だ。やはり両手で左右対称の震刃を放った方がいい。
右前方の狼がぐっと姿勢を下げた。来るぞ!
その瞬間、俺は即座に頭の中でハイスピードの16ビートを刻み、早口言葉のようなラップを唱え始めた。
両手の人差し指を身体の前方に差し出し、さっと左右になぎ払った。そしてそれをもう一度身体の前方でクロスさせ、さらにもう一度水平になぎ払った。
それだけで周囲は大騒ぎになった。
『ギャン!』『グギャン!』『キャイン!』
ばさばさ、がしゃがしゃという草木が刈り取られる音とともに狼たちの悲鳴が真っ暗な森に響き渡った。
あっ! 茂みの奥からもう一頭飛び出してきたが、左手の返しの震刃が見事にヒットした。
『ギャインッ!』
叫んで地面に落ち足をバタバタさせている。他の狼たちもみな同様だ。地面でひっくり返って傷の痛みに悶えているか、うずくまって必死で傷口を舐めている。
ふーっと一息つく。攻撃手段として震刃は使ったのは初めてだが、思ったよりもうまく行った。1、2、3、4、5、6……7頭。全員生きてるよな。死んでないよな。
一応手加減したつもりだ。胸から前足の辺りを1回、2回、浅く切った。最後の1頭は後ろ足も切ってしまったが、傷は骨までは行ってないはずだ。足を切り落としてしまったら再起不能になって可哀想だ。
しかしドヤ顔をするにはまだ早かったようだ。ニコがしきりに俺の服の裾を引っ張って、後! 後! と指している。そうなんだよな。最初から背後が気になってたんだ。俺はゆっくり背後を振り返った。
ああ、やっぱりだよ。こっちがボスキャラだ。
他の狼の2倍はあろうかという大きな身体をした白い狼が俺の真後10メートルほどの位置にのっそり立っていた。何ら威嚇姿勢をとっていないにもかかわらず、ものすごい存在感というかオーラのようなものに気圧される。また背筋をぞーっと冷たいものが駆け抜ける。
黒い鳥女。あいつが来た時も、全く気配を伴わず、気がついたらもう既に背後にいた。ちょうどあれに匹敵するヤバさだ。他の狼たちと全然レベルが違う。とても俺の習いたての歌術なんかじゃ刃が立ちそうにない。殺される。食われる。ニコも俺の服の裾をつかんだまま震えている。
謝るか。お友達をケガさせてすいません。いや、だから獣相手に言葉は通じないだろ。どうするんだ。戦うのか? こんなモンスターみたいな狼と。いや、無理だ。殺される。土下座するか。いやそれは意味がないと何度言えば……
俺の頭の中はまた極度に混乱していたが、その巨大な白狼がこちらに向かってゆっくり歩き出したのを見て覚悟を決めた。震刃では無理だ。別の魔物が飛んでくるかもしれないが、今こいつから逃げないとどっちにしても命はない。
俺は右手の手の平をそいつにかざし震刃ではなく震歌を歌い始めた。あの机をぶっ壊した時ぐらいの威力があればこいつにケガぐらいはさせられるだろう。その隙にニコを連れて逃げよう。とりあえず森から出て草原まで走ろう。刻め、必死でグルーヴを刻め!
しかしその時だった。白狼が口をゆがめニヤリと笑ったんだ。
「黒髪の旅人よ。この老体にそいつをぶっ放すのは勘弁してくれんか」
しゃべった。しゃべったよ。言葉しゃべってるよ! 言葉通じるんじゃん!
「あ! ごめんなさい!」
俺は慌てて歌を止め右手を下ろした。そしてとにかく謝った。
「あ、あの、ごめんなさい。みなさん、あの、襲ってくるかと思ってケガさせてしまいました。ごめんなさい」
「ほほほ……この状況で自分から先に謝るとは面白い奴じゃ。ワシらがお主らを襲ったことは間違いない。まあ、無様に返り討ちに遭い、しかも手加減してもらったんじゃ、全員お主に食われ毛皮にされてもおかしくないがの」
「いや、その、食うなんてとんでもない」
「そうか、お主は狼は食わんか。しかし森では強い奴が弱い奴を食うのが当たり前じゃ」
「俺……いや、僕は別に強くなんかないです」
「ほほほ……謙虚な奴じゃ。ワシはこの森で20年ほど生きておる。いろんな連中と渡り合ってきたが、そんなにキレッキレで刃先の速い双震刃は正直、初めて見たの。しかもその手加減具合も絶妙じゃ」
「ソウシンジン?」
「双震刃じゃ。さっきお主がやっておったろう。両手から同時に放つ震刃のことじゃ。何じゃ、呼び名も知らずに使っておったのか?」
「すいません。まだ歌術を始めて日が浅いもので、知らないことばっかりです」
「ほう、その腕前でまだ初心者と言うか。それが本当なら末恐ろしい奴じゃ」
狼が人語を話すというあり得ない状況にそれほど驚かないのは、俺もファンタジー慣れしてきたせいか。まあとにかく、この見るからにボスキャラの白狼は、俺たちを襲って食おうとしているわけではないようだ。ホッとしたな。
しかしその時、ニコの空気読めない爆弾が炸裂した。
「ちょっとあなた、何で私たちを襲ったのよ!」
明らかに詰問口調だ。いや、ボスキャラがせっかくフレンドリーな雰囲気で話しかけて来てくれてるのに、そんな言い方したらヤバい。
「ほほほ……元気な旅人の娘よ。お主らはこの森に入ってきて何をした? 草を刈り、木を切り、火を着けたじゃろ。しかも水をくみ、菜っ葉やキノコも摘み取った。違うか?」
白狼は一瞬鋭い顔になった。ニコはそれにひるんだようだ。
「……違わないけど」
「草や木はお主が育てたものか? 菜っ葉やキノコはお主の所有物か?」
「……ううん、そうじゃない」
「ならばお主らは『森を荒らした』と言われても仕方なかろう? 人間嫌いの血気盛んな狼からすれば明らかに敵じゃ。違うか? 娘よ」
ほらやっぱり怒られてんだよ、俺たち。キャンプのマナーが良くないぞって。
「……あの、すいません。どうやったら許してもらえるのか分からないですけど、とんでもないことをしてしまいました。ごめんなさい」
黙り込んでしまったニコに代わって保護者の俺が謝る。土下座は意味がないから、腰を折って丁寧に謝る。
「ふはははは! また謝ってくれるのか、黒髪の旅人よ。面白い奴じゃ。しかも一切言い訳をせん所が良いぞ。ほっほっほ」
すごい笑われてしまった。
「いやいや、娘よ、悪かった。所詮は負け犬の遠吠えじゃ。負けたワシらがとやかく言うことではないの。しかもワシはじっと見ておったが、お主らが切って燃やしたのは枯れ木じゃったし、菜っ葉やキノコも食べる分の最低限しか採っておらんかった。それぐらいで『森を荒らした』というのは言いがかりじゃったな。悪かった」
やっぱり、全部見てたんだ。俺たちが森に入ってきてからの行動を。ニコの「見られてる」という感覚は当たってたんだ。それにこんなボスキャラが近くにいるから小動物がみな息を潜めてたんだ。
俺が薪にするため立ち枯れた木を切ったのは別に自然保護を意識してのことではなかったが、何となく葉が青々と生い茂った木を切るのに気が引けたのは確かだ。結果的にそれが正しい行動だったんだろう。
「じゃからワシは、この若い連中を止めたんじゃがな、どうしても聞かんのじゃ。『気に入らん。一発、ビビらせてやる』とな。まあ本当にお主らの命が危なくなったら止めようと思うて後から見ておったが、全く要らぬ心配じゃったな。ほほほ」
白狼は俺たちの前まで来てぺたんと地面にお尻をついて座った。気がつくと俺に切られて傷ついた若い狼たちもみな白狼の後に集まっておとなしく傷をなめている。
「お主らが言い訳をせんのであれば、負けたワシらの方から言い訳させてもらおう。この若い連中が人間を嫌うのは理由があるんじゃ。黒髪の旅人も娘も、聞いてくれるか?」
俺たちは二人揃ってこくんとうなずいた。
「今から10年ほど前になるかのう。そこの街道が整備され、人通りが増えたおかげで、この森がひどく荒れた時期があったんじゃ」
白狼は話を始めた。
しかしその日はもうシートの真ん中しか空いてなかった。まあ、それでも立ったままよりマシだ。俺はその席に座った。左隣は紺色の制服を着た女子高生。パッと見、結構可愛かったのでこっちは良し。右隣はスーツを着たオッサン。こっちは可もなし不可もなし。俺に害さえなければ空気みたいなもんだ。俺は早速目を閉じ、自分の世界に沈み込んだ。
しかし発車してしばらく経ってから、そのスーツのオッサンの動きが怪しくなってきた。首がぐらぐらしている。電車が揺れてGがかかるたびこっちに身体を預けてくる。そのたびに俺は現実世界に引き戻される。ウザいなこいつ。
嫌な予感は的中した。しばらくするとオッサンは完全に寝入ってしまい、俺の肩にぐったりもたれかかってきた。時々肘で小突いたり肩を邪険に動かしてやったりするが、こういう奴に限ってなかなか起きやがらない。もう一方の女の子はスマホを触りながらしっかり起きている。ちっ! 何でオッサンの方なんだよ。女の子の方だったら余裕で我慢できるのに。
こうなってくるともうなかなか自分の世界には戻れない。しかも、何だ! 気付いたら携帯の充電が3%しか残ってないじゃないか! 何でだ? 家を出る時には50%ぐらいあったじゃないか。あ、音楽が勝手に切れてしまった。何なんだよ! 返せよ俺の音楽! 返せよ俺の世界!
そこで目が覚めた。ヤバい。寝入ってしまっていた。
ハッと横を見ると俺の右肩ですやすや眠っているのは可憐な美少女だ。スーツのオッサンなんかではない。
夢かあ。良かった。
元の世界の夢を見るなんて久々だな。どれくらい寝てしまってたんだろう。いかん、いかん。たるんでる。何事も起こってないだろうな。焚き火はまだ燃えてるよな。
しかしその時、俺の背筋を冷たいものが通り過ぎた。何事か……今まさに何事かが目の前で起ころうとしていた。
周囲の闇に小さい光がいくつも浮かんでいる。さっきまでそんなもの絶対になかった。見間違いじゃない。
ちょうどその時、ニコもパッと起きた。身体を起こしてキョロキョロし、闇に浮かぶ光に気付いた。
「何あれ?」
「分からない」
とは答えるが、もうだいたい正体は分かっている。ゲームでも映画でもよくある場面だ。光は2つセットになってだんだんこちらに近づいて来る。かすかに小枝を踏む音や葉ずれの音が聞こえてくる。
そして焚き火の光に現したその姿は……やはり、狼だった。
ちょうど俺たちを取り囲むように5頭、いや6頭いる。俺の背後にもいるかもしれないが後を振り返って確認する余裕もない。
狼の群れか。ひょっとしたら、この森に入ってからずっと感じていた違和感の原因は、黙呪兵なんかじゃなくこいつらだったのかもしれない。ニコもずっと「見張られてる」って言ってたよな。こいつらずっと俺たちを狙ってたんだろうか。
狼たちは広場の縁までにじり寄ってきて、そこで俺たちを睨んだまま少し姿勢を低くした。唸り声を発している。どう見ても友好的な雰囲気ではない。今にも飛びかかってきそうだ。しがみついてくるニコを足もとに留め、俺はゆっくり立ち上がった。
怖い。強力に怖い。膝がガクガクしている。黒い鳥女とも、怒り狂う村人たちとも違う怖さだ。だって、言葉の通じない獣には謝ることすらできない。牙には牙をもって立ち向かわざるを得ない。
俺に牙はあるのか? 歌術はある。これまで机を壊したり、リンゴを切ったり、雑草を刈り取ったりはしてきたが、攻撃手段として使うのは初めてだ。
生き物を傷つけるのは趣味に合わない。しかしここでこいつらに食われてしまうわけにもいかない。絶対にニコを守らないといけない。俺はジゴさんにもナギさんにも「この子を頼む」と言われてるんだ。よし、やろう。俺も牙を剥こう。
狼一頭を仕留めるなら威力のある震歌を歌うのが一番確実だ。しかしここで普通の歌術を使うと別の強力な魔物を呼んでしまう可能性もある。しかも相手は複数だ。やはり両手で左右対称の震刃を放った方がいい。
右前方の狼がぐっと姿勢を下げた。来るぞ!
その瞬間、俺は即座に頭の中でハイスピードの16ビートを刻み、早口言葉のようなラップを唱え始めた。
両手の人差し指を身体の前方に差し出し、さっと左右になぎ払った。そしてそれをもう一度身体の前方でクロスさせ、さらにもう一度水平になぎ払った。
それだけで周囲は大騒ぎになった。
『ギャン!』『グギャン!』『キャイン!』
ばさばさ、がしゃがしゃという草木が刈り取られる音とともに狼たちの悲鳴が真っ暗な森に響き渡った。
あっ! 茂みの奥からもう一頭飛び出してきたが、左手の返しの震刃が見事にヒットした。
『ギャインッ!』
叫んで地面に落ち足をバタバタさせている。他の狼たちもみな同様だ。地面でひっくり返って傷の痛みに悶えているか、うずくまって必死で傷口を舐めている。
ふーっと一息つく。攻撃手段として震刃は使ったのは初めてだが、思ったよりもうまく行った。1、2、3、4、5、6……7頭。全員生きてるよな。死んでないよな。
一応手加減したつもりだ。胸から前足の辺りを1回、2回、浅く切った。最後の1頭は後ろ足も切ってしまったが、傷は骨までは行ってないはずだ。足を切り落としてしまったら再起不能になって可哀想だ。
しかしドヤ顔をするにはまだ早かったようだ。ニコがしきりに俺の服の裾を引っ張って、後! 後! と指している。そうなんだよな。最初から背後が気になってたんだ。俺はゆっくり背後を振り返った。
ああ、やっぱりだよ。こっちがボスキャラだ。
他の狼の2倍はあろうかという大きな身体をした白い狼が俺の真後10メートルほどの位置にのっそり立っていた。何ら威嚇姿勢をとっていないにもかかわらず、ものすごい存在感というかオーラのようなものに気圧される。また背筋をぞーっと冷たいものが駆け抜ける。
黒い鳥女。あいつが来た時も、全く気配を伴わず、気がついたらもう既に背後にいた。ちょうどあれに匹敵するヤバさだ。他の狼たちと全然レベルが違う。とても俺の習いたての歌術なんかじゃ刃が立ちそうにない。殺される。食われる。ニコも俺の服の裾をつかんだまま震えている。
謝るか。お友達をケガさせてすいません。いや、だから獣相手に言葉は通じないだろ。どうするんだ。戦うのか? こんなモンスターみたいな狼と。いや、無理だ。殺される。土下座するか。いやそれは意味がないと何度言えば……
俺の頭の中はまた極度に混乱していたが、その巨大な白狼がこちらに向かってゆっくり歩き出したのを見て覚悟を決めた。震刃では無理だ。別の魔物が飛んでくるかもしれないが、今こいつから逃げないとどっちにしても命はない。
俺は右手の手の平をそいつにかざし震刃ではなく震歌を歌い始めた。あの机をぶっ壊した時ぐらいの威力があればこいつにケガぐらいはさせられるだろう。その隙にニコを連れて逃げよう。とりあえず森から出て草原まで走ろう。刻め、必死でグルーヴを刻め!
しかしその時だった。白狼が口をゆがめニヤリと笑ったんだ。
「黒髪の旅人よ。この老体にそいつをぶっ放すのは勘弁してくれんか」
しゃべった。しゃべったよ。言葉しゃべってるよ! 言葉通じるんじゃん!
「あ! ごめんなさい!」
俺は慌てて歌を止め右手を下ろした。そしてとにかく謝った。
「あ、あの、ごめんなさい。みなさん、あの、襲ってくるかと思ってケガさせてしまいました。ごめんなさい」
「ほほほ……この状況で自分から先に謝るとは面白い奴じゃ。ワシらがお主らを襲ったことは間違いない。まあ、無様に返り討ちに遭い、しかも手加減してもらったんじゃ、全員お主に食われ毛皮にされてもおかしくないがの」
「いや、その、食うなんてとんでもない」
「そうか、お主は狼は食わんか。しかし森では強い奴が弱い奴を食うのが当たり前じゃ」
「俺……いや、僕は別に強くなんかないです」
「ほほほ……謙虚な奴じゃ。ワシはこの森で20年ほど生きておる。いろんな連中と渡り合ってきたが、そんなにキレッキレで刃先の速い双震刃は正直、初めて見たの。しかもその手加減具合も絶妙じゃ」
「ソウシンジン?」
「双震刃じゃ。さっきお主がやっておったろう。両手から同時に放つ震刃のことじゃ。何じゃ、呼び名も知らずに使っておったのか?」
「すいません。まだ歌術を始めて日が浅いもので、知らないことばっかりです」
「ほう、その腕前でまだ初心者と言うか。それが本当なら末恐ろしい奴じゃ」
狼が人語を話すというあり得ない状況にそれほど驚かないのは、俺もファンタジー慣れしてきたせいか。まあとにかく、この見るからにボスキャラの白狼は、俺たちを襲って食おうとしているわけではないようだ。ホッとしたな。
しかしその時、ニコの空気読めない爆弾が炸裂した。
「ちょっとあなた、何で私たちを襲ったのよ!」
明らかに詰問口調だ。いや、ボスキャラがせっかくフレンドリーな雰囲気で話しかけて来てくれてるのに、そんな言い方したらヤバい。
「ほほほ……元気な旅人の娘よ。お主らはこの森に入ってきて何をした? 草を刈り、木を切り、火を着けたじゃろ。しかも水をくみ、菜っ葉やキノコも摘み取った。違うか?」
白狼は一瞬鋭い顔になった。ニコはそれにひるんだようだ。
「……違わないけど」
「草や木はお主が育てたものか? 菜っ葉やキノコはお主の所有物か?」
「……ううん、そうじゃない」
「ならばお主らは『森を荒らした』と言われても仕方なかろう? 人間嫌いの血気盛んな狼からすれば明らかに敵じゃ。違うか? 娘よ」
ほらやっぱり怒られてんだよ、俺たち。キャンプのマナーが良くないぞって。
「……あの、すいません。どうやったら許してもらえるのか分からないですけど、とんでもないことをしてしまいました。ごめんなさい」
黙り込んでしまったニコに代わって保護者の俺が謝る。土下座は意味がないから、腰を折って丁寧に謝る。
「ふはははは! また謝ってくれるのか、黒髪の旅人よ。面白い奴じゃ。しかも一切言い訳をせん所が良いぞ。ほっほっほ」
すごい笑われてしまった。
「いやいや、娘よ、悪かった。所詮は負け犬の遠吠えじゃ。負けたワシらがとやかく言うことではないの。しかもワシはじっと見ておったが、お主らが切って燃やしたのは枯れ木じゃったし、菜っ葉やキノコも食べる分の最低限しか採っておらんかった。それぐらいで『森を荒らした』というのは言いがかりじゃったな。悪かった」
やっぱり、全部見てたんだ。俺たちが森に入ってきてからの行動を。ニコの「見られてる」という感覚は当たってたんだ。それにこんなボスキャラが近くにいるから小動物がみな息を潜めてたんだ。
俺が薪にするため立ち枯れた木を切ったのは別に自然保護を意識してのことではなかったが、何となく葉が青々と生い茂った木を切るのに気が引けたのは確かだ。結果的にそれが正しい行動だったんだろう。
「じゃからワシは、この若い連中を止めたんじゃがな、どうしても聞かんのじゃ。『気に入らん。一発、ビビらせてやる』とな。まあ本当にお主らの命が危なくなったら止めようと思うて後から見ておったが、全く要らぬ心配じゃったな。ほほほ」
白狼は俺たちの前まで来てぺたんと地面にお尻をついて座った。気がつくと俺に切られて傷ついた若い狼たちもみな白狼の後に集まっておとなしく傷をなめている。
「お主らが言い訳をせんのであれば、負けたワシらの方から言い訳させてもらおう。この若い連中が人間を嫌うのは理由があるんじゃ。黒髪の旅人も娘も、聞いてくれるか?」
俺たちは二人揃ってこくんとうなずいた。
「今から10年ほど前になるかのう。そこの街道が整備され、人通りが増えたおかげで、この森がひどく荒れた時期があったんじゃ」
白狼は話を始めた。
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