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東の国

81.センデルの洗礼

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 人口のほとんどが獣人である東の王国〝センデル〟に到着した。
 リアースは多民族国家の〝アテナ〟を中心に、東西南北に王国が存在する。
 人間が王座に君臨することもあるが、王の名前が国名になるため、名前が他国に知れ渡る頃には、その王は寿命を迎えていた。そのような事情もあり、必然的に大戦後からは長命種族が王座について、国を治めている。
 特に圧倒的な力を誇るのが東の国王、センデル。武力こそ権力の象徴でもある獣人たちの中で、絶対的な頂点に君臨する男だ。

 猫の獣人であるアテナと、ライオンの獣人であるセンデル。純粋な力比べではセンデルに軍配が上がる。
 しかし、アテナは獣人でありながら魔力の操作も上手い。それは戦闘において弱点がないに等しい。そんなアテナが中央の国家を治めているからこそ、他国に囲まれていても平和な時代を築けている。
 何より力の頂点にいるものが侵略するでもなく、和平の道を探り、対話を求めてくる。これは他国にとって願ってもないことであった。


 クルーズトレインの折り返し地点でもあるセンデルはアテナの王都よりも少し雪が多いくらいで、特に代り映えはしない。
 ひんやりとした風が頬を撫でる。
 魔力の粒のような粉雪が宙を舞い、重盛の耳の先端はキラキラと光っていた。
「ふふ、君は相変わらず眩しい人だね」
「俺が? 銀世界の中にいる真紘ちゃん以上に輝いてるやついる……?」
 重盛は首から下げていたカメラを取り出し、雪景色と同化しかけている真紘を大袈裟なほど褒めたたえながら何度もシャッターを切った。
 自然とポーズを取ることにも慣れてきた真紘は、風に靡く自身の髪の毛を一房、手の甲で掬う。
 なるほど、これは確かに目を細めてしまうほどに眩しく、すべてが白い。
 唯一、太陽の光だけが白い世界に柔らかな温かみを与えてくれている。
 それがなんだか自分と重盛のようで、真紘は冬がますます好きになった。

 クルーズトレインの従業員達は少し長めの休暇に入る。準備期間も含めて出発は二週間後だ。それまで希望者には決められた貴族御用達のリゾート宿泊施設で過ごすことになっている。
 偏見が色濃く残っている王都に留まりたい者はおらず、自由行動を選んだのは、救世主組と神官であるリーベだけだった。
 道中で問題を起こしたアカネとランは、ジョエルの恩情により、アテナ王国に帰るまで監視付きではあるが予定通り列車で働くことになった。
 本来ならば失敗に終わるはずだった計画だが、アンノーンというイレギュラーがあったからこそ大事になってしまった。元を辿れば、ベレッタ家当主である父の強引なまでのクルーズトレイン計画が引き起こしたことだと、ジョエルは責任を感じているようであった。
 その様子を目の当たりにしたアカネとランは心を入れ替えて、ジョエルに仕えると誓った。
 ベレッタ家が抱えていた問題が一斉に降りかかったジョエルは、センデルに到着するまでにも数キロ痩せたように見える。魔力の揺らぎが不規則になって、今にも倒れてしまいそうだった。
 列車を降りる直前に、真紘はジョエルの元を訪れ、魔力を分け与えていつでも力になると約束をした。
 この機会にゆっくり休むと痛ましい笑みを浮かべたジョエルを、シェフのレミーとその助手である本物のリビに任せて、真紘たちは列車をあとにした。

 王都から南方に位置するターミナルはアテナ国と同じくらい大きなものだったが、少しばかり中心部から遠い。歩いて向かうと日が暮れてしまいそうな距離だ。
 真紘は、ターミナルで客を待つ年老いた御者に声をかける。
「お嬢さんは獣人か?」
「いいえ、違いますが……」
 かぶっていたローブのフードを取ると、御者は目を丸くして「エルフなんて生まれて初めて見た」と聞き飽きた言葉を口にした。
「ユハラムの森まで乗せていただけませんか?」
「なんでそんな何もないところに……。ああ、駄目だ。生憎、予約でいっぱいだな。嬢ちゃんならすぐに当てが見つかるだろう。悪いが他をあたれ」
「あ、はい……」
 駅から出て来る客待ちをしている御者は他にもいたが、皆一斉に顔を背けてこちらを見ようとしない。
 お嬢ちゃんと言われたことよりも、そちらの方が何倍も問題であった。その後も何人かの御者に声をかけたが、やはり誰も相手にしてくれなかった。
 中には真紘の全身を舐めるように見定め、あんただけなら良いぞ、と鼻息を荒く答える者もいたが、重盛の逆鱗に触れ、威圧に耐えられず失神させられていた。

「困ったなぁ。この耳、この国では嫌われているのかな……」
 ピンと先端の尖った耳を触る。
「俺は好き」
「ありがとう、それは知っているよ。でもどうしよう。まさか馬車に乗せてもらえないなんて。もしかして行き先が無人の森なのが嫌なのかな?」
「もう教会までぴゅーんっと飛んでいこーよ」
「鳥類の獣人もいるみたいだけど、獣人の国だからこそ縄張り意識が強いと聞いたよ。他所から来た人間が自分の土地を飛んでいたら良い気分ではないだろう。せめて私有地ではないとわかっている森の入口までは陸路を使わないと……」
「たはっ、飛行機もない世界で航空法について考えなきゃいけなくなるとは思わなかった。真紘ちゃんの言う通り、人の土地くにだからこそちゃんとしねーとな。リーベ神官達はどうすんだろ?」
 あたりを見渡すと、街の中心部へ行く馬車を探していたフミがタイミングよく声を掛けて来た。
「真紘くん、重盛さん!」
「ああ、フミちゃん、そっちはどうだった? 俺らは全滅」
「やっぱりそうなんだ……。神官であるリーベ様が交渉してもダメだったよ」
 フミの後ろに続いてやってきたリーベは、長い前髪を掻き上げてため息をつく。
「獣人の国を訪れる人間は、ほとんどが商談目的ですからね。魔法が苦手な獣人の国に、繊細な魔力操作を必要とする商品を高値で売りつける犯罪がかなり昔から横行していると聞きます。そんな状態ですから、両国の間には見えない深い溝があるんですよ。歓迎はされないと思っていましたが、野良の神官もどきが高い治療費を搾取しているおかげで、こうも……。時の神を冒涜しているとしか思えません!」
 リーベが語るように、王都の書庫で読んだ史書の内容以上に、中央は東に嫌われているようだ。
 重盛もベレッタ家の第一事件の犯人を思い出したのか、げっと苦い顔をして舌を出す。
「ヤブ神官ってこっちにまで出没してんのかよ……。つか、なんで獣人の俺もダメなん?」
「神官にしか見えない真紘様にべったりくっついていたら自分も他所者だと名乗っているようなものでしょう。真紘様と一時的に離れるか、馬車を諦めるか、二択では――」
「んなの決まってんじゃん!」
 重盛は、真紘と一秒でも離れるつもりはないらしい。
 御者に相手にされなかった理由は、エルフであることではなく、獣人ではないことにあったようだ。
 真紘は、ほっと息をつく。
 安堵感を覚えたと同時に、すっかりエルフとしての自覚が芽生えているのだと自覚した。この世界に来てもうすぐ一年になるが、人間の順応力というのは凄まじいものだ。

 重盛は、絶対に真紘と離れないと頬がぺったりとくっつくほど距離を詰めた。されるがままの真紘は、くたりと力を抜いて重盛の好きにさせている。
 そんな光景にも慣れた様子でリーベは続ける。
「最低限の人手はあるようですから、無理に下車する必要はなさそうですよ。我々は前々から現地の神官に連絡を取り、王都の教会を回る約束をしておりますので、支払いが倍額になっても馬車をつかまえるつもりです。お二人はどうされますか?」
「んー。ユハラムの森ってとこの教会に神木の枝が置いてあるみたいだから、魔力を補填しに行こうと思ってる。この辺は神木の本体から離れてる分、魔力溜まりも発生しないって聞くけど、一応ね。ばあちゃんやじーちゃんとも約束したから。ねっ、真紘ちゃん」
「うん。神木の枝だけではなく、教会自体の状態を確認して、修繕が必要な場合は直してくるようにアテナ様から仰せつかっています。ここから北東に位置する王都とは真逆の方向なので、王都に向かう前に済ませてしまおうかと……」
「そっか。じゃあ私達は先に中心部に行ってるね。よさそうな宿を見つけたら連絡するよ」
 新しく作った白桃色の巾着は、フミとの通話用魔石の欠片が入っている。全てを受け入れたというよりは、今の彼女と向き合おうという決意のようなもので、意外にも真紘の心は凪いでいた。


 フミとリーベと別れたあと、真紘と重盛は、森の中にある無人の教会を目指していた。
 雪は足首が埋まるほど積もっていて、ブーツを履いていても歩きにくい。足跡一つないまっさらな道はひと気のなさを物語っていた。
「そろそろ飛んでもよくね? 真紘ちゃん抱っこしてー」
「抱っこしなくても自由に飛ばせられるんだけどなぁ」
「浮かせれば重くないし、俺はハグされた方が嬉しい! 温かい! 幸せ! お得じゃん!」
「そんな牛丼屋みたいな売り込みしなくても……」
 真紘は指をくいっと曲げると重盛を引き寄せた。冬毛になってさらにモコモコとした尻尾を重盛の脚の間に仕舞い込んで彼を横抱きにすると、ゆっくりと宙に浮かぶ。
 雪のベールをかぶった木々よりも高く空に舞い上がると、遠目にポツンと小屋のようなものが見えた。
 鼻歌を奏でる重盛は、長い足をぶらぶらと揺らし始める。
「重盛、ご機嫌だね。もしかしてアテナ王国よりも、こっちの空気の方が好き……?」
「重盛くんがご機嫌なのは、真紘ちゃんにお姫様抱っこしてもらってるからね。俺には、あっちとこっちの空気の違いとか、よくわかんねーけど、真紘ちゃんはなんか違うん?」
「ううん。獣人が多いってことは、それだけ暮らしやすい環境なのかなって思って……。重盛は元々獣人ってわけじゃないから関係ないのかな? 心配することなかったね」
「心配って……。もしかして俺がセンデルを気に入って、帰りたくないとか言うと思って心配してた?」
「……ちょっとだけ」
「ぐう……っ、可愛い、結婚しよう……し、してる! 真紘ちゃんのハイパースーパ―イケメンなダーリンは誰⁉ 俺だあ~っ‼」
「あはっ、飛んでる時に笑わせないでよ! 重盛だって以前、エルフの集落があると知って心配していたでしょう。同じことじゃないか」
「不安になっちゃったんだな、安心させてあげよ。どこにキスしようかな~」
「ど、どこにもしなくてい――ひゃうっ!」
 飛行しているにも関わらず至る所に口づけが降って来る。地面に着いた頃には、真紘の首元に無数の紅い華が散っていた。
「こんなの、当分マフラーを外せないじゃないか!」
「ん~、最高の眺め……。二の腕とかもっと他の場所までマーキングしたかったな」
「ひっ、このっ、ケダモノ……っ!」
「ふふん、そうだよん、だって狐だもん。こーんこんっっつって!」
 鼻歌交じりに尻尾をブンブンと揺らす重盛は、サクサクと音を鳴らして雪を踏んで歩く。真紘は今が露出の少ない冬で助かったと胸を撫で下ろした。

 教会の入口の扉は魔力を流し込んで難なく開錠できた。
 どこかの怪盗と同じような真似をしているため、後ろめたさは感じるが、鍵の所有者が不明になるほど放置されていた教会らしいので仕方がない。
 建物の中はアテナ王国の教会とほとんど造りは同じで、白い壁に高い天井、奥には時の神を模したであろう石膏像が鎮座していた。
 コツコツと二人の足音が響く。
 無人の教会は塵一つ落ちていない。休憩室のベッドやトイレの個室も新品同様で、不気味なほどに綺麗だった。
 真紘じゃなければ気づかない程度だが、つい先ほどまで人がいたような気配も僅かに残っている。
「ありゃ? なんか思ってたより綺麗だ。掃除しに来てる人でもいんのかな? 神木の枝もフル充電されてるって感じ」
「うーん、お掃除の人ではないと思う。教会の周りにも足跡一つなかったのに、神木の枝は魔力で満タンなのもおかしいよ。それに魔力補充できるような人がこの国にいるならアテナ様もご存じなはずだし、ここに立ち寄るようわざわざ僕達に指示しないはずだろう?」
「じゃあこの土地だけめちゃくちゃ魔力が湧いてて、勝手に枝が魔力吸ってるとか?」
「それも残念ながら違うね。この地域一帯からは、ほとんど魔力を感じられないよ」
 違和感だらけの教会で二人は首をかしげる。
 今すぐ魔暴走が起きそうとか教会に悪戯をされていたとかではないため、一先ず自分達も王城のある街に向かうことにした。


 ターミナルまで戻ってくると、丁度普通列車が到着したようで、沢山の獣人が建物からぞろぞろと流れてきた。
 真紘の声かけに対してあれだけ渋っていた御者は、にこやかに客人を迎え入れている。
「くっそー、露骨だな~。まあ、あっちにも事情はあるって知っちゃったし、仕方ねーのかな。俺は、倍額払って嫌な思いするより、真紘ちゃんと手繋いで散歩がてら街に向かった方が楽しいと思う。もう仕事も終わったし、のんびり行こ?」
「うん、僕も同じ気持ちだよ。それじゃあ、駅前で小腹を満たして、情報収集してから街に向かおう。さすがに飲食店で入店拒否されることはないと思うけど……」
「よっしゃ、こっちの国は米が日本っぽいって聞いてたから食べてみたかったんだよね!」
 重盛に手を引かれて、良い香りのする方へと誘われる。
 駅前にある建物を何軒か通り過ぎたところで、匂いの出どころである店の前に辿り着いた。
 そして店先にオープンの看板を設置していた若い男性に声をかけられた。
「これから夜営業始まるよ、良かったらどう? 夕飯にはちょっと早いけど、センデル名物の包み握りもあるから――……」
 麻耶に似た水色の髪の毛は雪の精霊のようだった。目尻はすっと切れ長で、涼やかという言葉が似合う。
「クルーズトレインが来るとは聞いていたけども、こんな、き、綺麗な人達が来るなんて、驚いた……。やっぱり中央の大国家は違うな……」
「ありがとうございます。重盛、お言葉に甘えようか」
 この国に来て初めて好意的な言葉を投げ掛けられた二人は顔を見合わせて頷いた。

 店に入ると、醤油を煮詰めたような懐かしい香りが鼻孔に広がった。
 横並びのカウンター席に案内され、重盛はさっそく包み握りを二つ注文した。すると一分も待たずして藍色の染付の皿に盛られたちまきのようなものが出てきた。
 笹の葉に包まれた炊き込みご飯は、鶏肉と人参、ゴボウが入っていて、モチモチとしている。
「わあーっ! もち米だ! 会いたかったよもち米ちゃん!」
「もち米も知ってるの? 米がオレ達の主食なんだ。中央の人間は小麦が好きだと聞いたけど?」
「超知ってる! 俺の故郷では米が主食だったから」
「へぇ、中央でも米が主食なこともあるんだ」
「ああ、俺アテナ王国出身じゃないの。地球ってとこ」
 店主はポカンと口を開けて、固まった。そして眉を顰める。
「おいおい、嘘は良くないだろ。それは救世主の出身地。東の国でも一番有名な昔話だ。絵本として出回っているから、子どもでも知ってるぞ」
「え、救世主の話って絵本にまでなってんの?」
「東西南北の国では架空の物語として語り継がれているよ」
「そうなんだ。普通の人として生活したいなら、救世主信仰の厚いアテナ王国を出るのもありなのかもしれねーな。あいつはどっちのが生き易いんだろ」
「あいつって野木君のこと?」
「そっ、あの勇者様。自分の罪を誰よりも許してないのがあいつだからなぁ。もう誰も怒ってないのに、ずっと気にしてんだもん。どうにかしれやりてぇなって前から思っててさ……」
「うん……」
 真紘は、野木がふとした瞬間に見せる曇り顔を思い出した。
 魔暴走自体、本人の責任ではないのだが、どうしても自身の行いが許せないらしい。あの事件で誰よりも傷ついたのは野木自身だったのだ。
 重盛と真紘は、王都に残して来た友人の行く末を案じる。
 黙り込む二人を前に、店主は声を裏返して叫ぶようにして頭を抱えた。
「は……? まっ、まさかあんたら本当に救世主なのか? もう前回から百年経ったの⁉」
「前回の召喚から百年は経過しているようですよ。マスターも長命種なんですね」
 狼の平均寿命は、犬より少し短いくらいだった気がするが、獣人ともなるとまた違うのだろうか。
 パニックになっている店主と、しみじみと包み握りを味わっている真紘、この国の料理について矢継ぎ早に質問を投げ掛ける重盛。三者三葉、全く別のことを考えていた。

「てか、マスターは普通に俺らと話してくれるけど、御者のおっさんたちは冷たくてさ。街の中心部はどう?」
 のらりくらりと重盛の質問を受け流していた店主は、ぴたりと動きを止めて目を伏せる。
「……この辺はまだマシな方。王城に近づくほど獣人主義の思想は濃い。俺は狼の獣人と人間のハーフでさ、歯にしか特徴が顕れなくて、いつもよそ者扱いされんの」
 イッと尖った歯を見せて店主は笑う。
 この国では、より獣の姿に近い姿がよしとされる風潮があるようだ。
 駅から降りて来た人々を見たところ、耳だけ、尻尾だけ、肌だけ、とすべてがそろっている者はいなかった。完全体に獣化できるアテナや重盛がどれだけ高位種か理解できる。
「だけど、そこまで悲観することはないさ。賢い御者は外の人間を率先して受け入れてるよ。外から来るやつは金の羽振りが良いし、冷遇されたあとの好待遇だ、チップも弾んでもらえる。かくいうオレもその口」
「んははっ! 確かに商売上手。俺達も美味い飯のお礼に色付けとくよ」
「冗談さ。とにかく言えることは、人によるってことだな。よそ者歓迎の宿を教えてやるから、待ってろ。ええっと、メモ紙はどこだったかな……」
「ああ、それならこれを」
「ひい……っ⁉ あっ、なっ」
 棚をごそごそと漁る店主に、真紘は懐のまっぽけから出したメモ帳とペンを差し出す。
「いいの?」
「ええ、もちろん」
 受け渡す際に指と指が触れて、ばさりとメモ帳がカウンターに落ちる。
「ゴヒっ、ごっ、ごごごめん!」
 真紘はメモ帳を拾ってもう一度手渡す。
「こちらこそ失礼しました。どうぞ」
「ああ、助かる。とても、助かるよ……。あはっ、あははっ、メモもペンも定位置に置かないから肝心な時に見つからないんだよな、あはっ、あはは……」
 店主は頬を赤くしてペンを走らせる。
「か、書けたよ……」
「ありがとうございます」
 メモ帳に手を伸ばした瞬間、思いもよらぬ言葉が飛んで来た。
「あの、あなたは恋人とか、いる?」
「恋人……?」
 包み握りを頬張っていた重盛は勢いよく立ち上がる。
 そしてニ十センチほど高くなっているはずのカウンターにいる店主よりも高い位置から冷ややかな視線を浴びせると、口元を無理やり引き上げて笑みを作った。
「この子はねぇ、俺の大事な大事な超大事な旦那さんなんだよねえ。男の子だし、既婚者だし、絶対にダメ。そうじゃなくても問答無用でダッメ……ッ‼」
「えっええッ⁉ 人妻⁉」
「だから男だって言って――」
 青筋をこめかみに浮かべた重盛の言葉を遮るように泣き叫ぶ店主は、真紘に真偽を問う。
「ねえ! 狐のお兄さんの言ってることほんとなの⁉」
「本当です。僕は彼のことが、す、好きですし、家族として愛してます。別れるつもりもないので……」
「いいや! この国じゃ重婚も可能さ。いいだろ、オレだって見た目もそんな悪くなくない⁉ 一目惚れなんだって、相性も絶対いいよ、お願い!」
「あ、相性? ええ……」
「はああ⁉ 真紘ちゃんの相性ナンバーワンオンリーワンは俺しかいねぇし! 飯は美味しかったけど、真紘ちゃんだけは譲れないから、じゃあね! お代多めに置いとくから、永遠にさよなら!」
 包み握りの十倍ほどする代金をカウンターに置いた重盛は、真紘の腰を抱いて出口へと足早に向かう。
「待って! メモ帳……。せっかく書いたし、返したいから」
 店主の言葉に立ち止まった真紘は、泣き出しそうな重盛の顔を見て吹き出した。
「ちょっと、いやだな。ちゃんと断ったのに、そんな顔しないでよ」
「顔ぽっと赤くさせてまんざらでもない感じだったじゃぁん……」
「吃驚しただけだよ。僕には君だけだってわかってるでしょう? ほおら、メモ帳受け取らないと」
 真紘を背中に隠した重盛は、カウンターからメモ帳を回収すると「情報どうも。でも、これと人の旦那にアプローチかけたのは別」と店主を睨みつけた。
「ああ、もうヤキモチ焼きなんだから」
「うう、うわーん!」
「十八番の泣き真似までして、仕方ないなぁ。耳貸して」
 可愛い夫の機嫌を取るために真紘はとある提案を持ちかける。
 ピンと立ったクリームパン色の耳はタフトが膨らみ、喜びで満ち溢れた。

「ご馳走様です、お騒がせしました」
 店主は、申し訳なさそうに首を垂れる真紘と、最後まで毛を逆立てて威嚇していった重盛を見送る。
 そしてドアが閉まった瞬間に二人のシルエットが重なった。
 曇りガラス越しでも何をしているかくらいわかる。
「くっそー! 今度こそ運命だと思ったのに……っ!」
 店主は赤いエプロンを脱ぎ捨てて、先ほどまで真紘が座っていたカウンター席の椅子に縋りついた。
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