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第一部 イケメン課長の華麗なる冒険

新薬の話

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 暗い視界の先に、蜘蛛の巣のように白くぼんやりしたものが見える。圧倒的とも言える二日酔いと、理由のはっきりしない不思議な違和感の中で風間は目を覚ました。

(どこだここは。俺の家じゃない)

 白いカバーを掛けた枕に載っている頭を、風間はゆっくりとめぐらした。

 渦巻き模様の装飾が施された支柱を四隅に配した、豪華な天蓋付きベッドに風間は横たわっていた。目覚めた時に蜘蛛の巣のように見えたものは支柱に沿って垂らされている薄手のカーテンで、その繊細なレース模様が見るからに女王かお姫様の寝所という風情を演出している。世間の常識に照らせば、泥酔した薄汚い中年男が目覚めるなどもってのほかの場所にも見える。

 頭が割れるように痛かった。突如せり上がってきた吐き気を喉の奥に封じ込め、深呼吸する。嘔吐の発作は退いていき、女王の臥所ふしどを穢す不届きは何とか避けられた。しかし口の中にはゲロの味が濃厚に残っていて、既にどこかで吐いたのは間違いなさそうだった。

 前夜のことを振り返る。記憶は、今後の社内での振る舞い方について、野平から難題を突き付けられたところで途切れていた。

(俺としたことが大失態だ。クソ……女房に『粗相のないように』って言われててこのざまか。野平に悪態でもついていたらお終いだ……ん? 野平の他にもう一人、役員が来てなかったか? 誰か来てたような気がするが、思い出せん)

 窓の分厚いカーテンの隙間から光が差し込んでいる。日は高く昇っているらしい。起き上がるのも億劫だったが、このままぐずぐずしてもいられない。

 天蓋から垂れ下がる白い帳を払いのけ、ベッドの周囲を見回した。暗いなりにも、ホテルの一室でないらしいのは分かった。古めかしい箪笥に開けっ放しのクローゼット、バカでかい三面鏡付きの鏡台が置いてあるところを見ると、裕福そうな女の部屋のようにも見える。いずれにしても風間にはさっぱり見覚えがなかった。

 音もなくドアが開いた。部屋に灯りが点り、シルクのスリップ一枚の若い女が風間の目に飛び込んできた。

「お目覚めですか」

 それが誰なのか、すぐには分からなかった。3秒ほど女の顔を凝視し、ようやく判別した。前夜、野平の横に侍っていた和服の女。

「あなたは、観月さん……でしたね」
「おはようございます。風間課長」
「おはよう……ございます。ここは、いったい」
「私の家です」

 女──観月桜──は鏡台の前に置かれたスツールに腰掛け、ベッドの風間に背を向けて鏡に向かい合う。そうして背中の中ほどまで伸びた髪を胸元に流し、櫛で梳き始めた。風間は頭痛に耐えながら、女の顔を鏡越しに見つめた。


「あなたの家?」
「ええ。と言っても会社からあてがってもらってる賃貸マンションです。来年4月までって約束なんですけど、私ここ気に入っちゃったからどうかしら。風間さんご気分はどうです?」
「正直、あまり良くはない」
「今日が土曜日でよかったですね。それと風間さんの貞操ですけれど、前も後ろも保全されていることは確約しますからご安心ください」

 聞く者の気分をことさら滅入らせる、ニヤリともする気になれないジョーク。聞き慣れているとはいえ、この状況での胸糞の悪さは格別だった。お陰で風間は、再びせり上がってきた吐き気をこらえるのに多大な努力を払わねばならなかった。

 桜は櫛を置き、鏡に顔を寄せてリップブラシを使い始めた。昨晩会ったばかりの男に下着姿を晒して平気でメイクに没頭できるのは、やはりその手の女なのかと風間は思う。顔の造作といいボディといい、風間の基準では絶品クラスに位置しているが、その全体が妙に作り物めいている印象も拭えない。

 何よりも桜の顔には、女性としての内面がうかがい知れるような表情が無かった。あるいはそれは、男に対する無言の挑発として装われているのかもしれなかった。

「いや失礼……私は、あなたや野平さんに無礼を働かなかっただろうか」

 リップブラシに蓋をし、メイクも一段落したらしい桜が鏡の中から風間の顔を見ていた。口元には笑みを湛えているが目は笑っていない。

「無礼ってほどのことはありませんよ。盛大にお吐きになって私の着物を台無しになさいましたけど」
「何ですって? そりゃ申し訳ない、弁償します」

 鏡に映る桜が、表情の無い目を風間に据えたまま首を横に振る。

「お気になさらないで。あれも会社の経費で買ったものですから。それより水を飲まれます?」

 水と聞いて急に渇きを覚えた風間が「すいません」と言いきらぬうちに、桜は立ち上がってドアの外に消えた。開け放たれたドアの外の暗がりを風間が見つめていると、ほんの10秒ほどで桜がクリスタルガイザーの500ミリリットルボトルを持って戻ってきた。
 「ありがとう」とぎごちなく礼を言って、未開栓のボトルの蓋をひねり、口をつけて飲んだ。それで頭痛が引くわけでもなかったが、渇きはいくらか癒されたような気がした。桜は相変わらず下着姿のままスツールに腰掛け、水を飲む風間を眺めていた。

「野平さんがおっしゃったことは覚えてますよね?」
「え?」
「『腹を決めておけ』。彼はそう言ったでしょう?」

 その、露骨に居丈高な口調が風間の気に障った。

「それがあなたに何か?」

 ことさら冷たく言い返したのだが、桜は顔色一つ変えない。

「実は、野平さんから風間さんへのメッセージを私は言付かっているのです」
「なら、勿体ぶらずにさっさと話したらいかがです?」

 管理課長が急かすのに気を遣うでもなく、桜は足元に視線を落とした。

「そうですね……順序を追って説明しますと、まず、風間さんが社内の女性に持たせていらっしゃる『レレレボ』。あれは間もなく生産終了になります」

 初耳だった。気後れを悟られぬよう、風間は小馬鹿にした口調を装った。

「へぇー? 社員でもないあなたがどうして知ってるのそんなこと」
「野平さんから聞いたことを話しているだけです」

 髪を無造作に巻いてピンで止め、桜は立ち上がった。風間の前を横切ってクローゼットの前へ行き、赤をベースにした縦縞のワンピースをハンガーから下ろす。風間に背を向けたまま、服を身に着けていく。

「実はレレレボの後継品として新薬の開発が最終段階に入っているんです」
「えっ……?」


 この女は妄想を口にしているのではないか──。風間はまずそう疑った。総務畑とはいえ自分は課長職だ。その自分が耳にしたこともない、真実ならば機密事項に違いない話を、「ファシリテーター」とかいうこの女子大生が世間話みたいに喋ってるのはどういうわけだ。

 女は背中に回した手で、ワンピースのファスナーを器用に引っ張り上げた。そして風間の疑念をフォローするように後を続ける。

「今回の新薬は、他社の技術提携を受けずに社独自に開発したものです。従って、『レレレボ』のような海外で出回っている既製品でもありません。これは、風間さんにお話しする必要があったから、とご理解ください」

 「それはご親切に」と風間は皮肉を込めたが、女は蚊が鳴いたほどにも反応を示さない。

「コードネーム『R─230』は、避妊薬の理想を実現する、そう、まさに最強と呼ぶにふさわしい薬効を期待されているのです。妊娠の回避率100%、そして副作用も限りなくゼロに近い。これは女性だけでなく男性にとっても福音になる、そうは思いません? まぁ、性感染症は防げませんから、ゴム製品を市場から駆逐することまではできませんけれど」
「ふむ。あなたの妄想でないなら、社はその新薬とやらの製品化を決定したってことなのか?」
「ええ」
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