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6 炎の谷
放生
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予想した通りだった。
暗黒の中、俺は煮えたぎって激しく逆巻く婢鬼の血潮に翻弄された。血の海から飛び立とうとすると、熱く悪臭を放つ真っ赤な波が頭上から崩れて、俺をどこかへ押し流していく。
その沸騰する血の激流が、婢鬼を翻弄してきた数々の悲惨な過去を俺に教えた。争いを好まぬ遊牧民の娘として育ち、許嫁と家族全員を征服者に惨殺されて異民族の王の側女となったその次には、王との間にもうけた2児もろとも、さらに強大な征服者の手にかかった。
死後も消えることのなかった掛け値なしに凄まじい怨念が、彼女を破壊神に転生させた。やがて西域一帯を、長引く騒乱の地獄が襲う。文字通りの屍山血河が、神を呪詛する無辜の叫びと哀号が天地を覆った。
彼女にとって、自らの罪を無限大に増幅することは至上のよろこびだった。あらゆる悲惨を自らの婬欲の罪深さの反映と信じ、それを実体化することで、罪悪のスパイラルをどこまでも転がり落ちていったのだ。
そして遂には自らの憎悪によって自らを滅ぼす寸前に至った。
まさに滅尽する間際という時、釈尊の教えに接して仏道に帰依した婢鬼は、嫋姉様ともども日本に渡って座光寺家に仕える如鬼神となった。そして今、逆巻く婢鬼の血潮が、俺に向かって叫んでいる。びょうてきせいせいくしほさい、よくせんせいせいくしほさい……。
先ほど見た彼女の目には、恐怖に憑りつかれた者の狂気が色濃く表れていた。しかし、西塔貢が羽衣とともに婢鬼の正気まで奪ったのかというと、必ずしもそうではない。元々婢鬼の心は、極めて危ういバランスの上で正気を保っていた。自分自身の所業と、心の奥底に煮えたぎる憎悪に向き合ってしまえば、たやすく恐怖の虜となり、愛欲に取り縋ろうとする。彼女の抱えてきたそうした悲哀が、粘り付く血潮の熱さや匂いから直に伝わってくる気がした。そうやって激流の中でもがいているうちに、意識が遠のいていった。
……気が付いた時、俺は森の中で倒れていた。いつの間にか俺は龍体が解け、装束を着て頭に烏帽子を被っている。しかし周囲は先ほどと同じように黒煙が立ち込め、火の粉が舞っている。そして遠く近くに煙の尾を引いた火山弾が頻繁に落下し、あるいは頭上を飛び過ぎていく。
煙に霞む少し離れたところでは、木々が火柱を上げて燃えさかっているのが見える。ぐずぐずしていれば自分の周囲は火の海になると思われた。
俺は立ち上がって、森の外を目指した。
木立の間から草原へと抜けて、視界が一気に開けた。膝までの高さの草むらをしばらく歩くうち、緩い斜面の先を流れる小川にぶつかった。向こう岸は土手のように盛り上がって視界を遮っている。黒煙と火の粉がいくらか薄らいできたように感じられたのは、水の流れを目にしてそう感じただけなのかもしれない。
空は相変わらず白一色に曇り、日がどの位置にあるのかも見分けられなかった。
土手を越えた先に、突然、色彩のある水墨画のような風景が広がった。
二十歩ほど歩いた先に池があった。池の周囲には前栽と庭石をごく簡単に配してあり、その先にこぢんまりとした和風の小庵が立っている。そして池の前に、墨染めの法衣を纏い純白の尼僧頭巾を戴いた女人が、俺に背を向けて立っている。それが誰であるかを認めた途端、嗚咽が喉元に噴き上がってきた。
尊姉様、と涙声で呼び掛けそうになったのを辛うじて自制し、顔を上に向けて一つ深呼吸する。涙を手のひらで拭ってから、蹌踉とお側へ歩み寄った。あと5、6歩というところまで近寄った時、嫋姉様は背を向けたまま、静かに池の端に身を低くなされた。水面の何かを見つめておられるらしかった。
死霊の態であったためであろう、嫋姉様のお姿を直に見ているというのに、俺の目は焼かれも潰れもしない。法衣姿のすぐ後ろまで近づいたが、声を掛けるのはためらわれ、片膝を着いた。
「爾。宝剣をいかがした」
いつもながら、嫋姉様の試問は俺の予想の斜め上を行く。俺は正直に「仔細あって、ある女人に預けております」と申し上げた。
「その女人とやらは、これか?」
水面に顔を向けたまま、嫋姉様は法衣から右手を出し、手のひらを上に開く。その上に縦横3尺ほどの映像が投影され、激しく動く雌雄の姿が映った。
つい先ほど、目を見張るような神々しい吉祥天女の姿となった久目が、狐の面をかなぐり捨て、橘幸嗣に跨って腰を振っている。嫋姉様がお示しになっている以上、これはまぎれもなく彼女の現在の姿だ。巫女のことなど綺麗さっぱり忘れた体で、愛欲に身を任せているのだった。
「相変わらずぢやのう。よもや剣を失いはすまいが、軽はずみも大概にいたせよ」
「その女人は、今いずこに」
「いずれ分かる。爾も承知しておる通り」
大きくのけぞり、法悦の絶頂境を見せつける久目の顔を大写しにしてから、嫋姉様は手のひらを閉じてディスプレイを消した。俺は意を決して、中腰のまま嫋姉様の傍らへにじり寄った。左手側から火山弾が一つ、頭上を通過してどこかに落ちようだった。
池の面に目をやると、そこには十数匹の鯉が集まり、水から突き出した口を開閉させている。嫋姉様が麩の切れ端のような餌を撒くと、水をはね散らしわれ先に飲み込もうとする。
この地獄まがいの場所だけあって、やはりただの鯉ではない。額に人間の目が一つ、大きく開いている。それは右目とも左目とも言えるような左右対称形で、どこを見ているわけでもなさそうだった。瞬きもしないところをみると、人間の目の形をしているだけで、何か別の器官かもしれなかった。
そんな鯉の群れを、嫋姉様は愛おしげに眺めて、すぐ横にいる俺には顔を向けようともしない。やはりお怒りなのだろうかと不安が募った。
「畜生とはかわゆきものよ。泥鎮まりて水清し。人として背負うてきた罪業の重さだけ、斯様にも清浄な魂が際立つという、それだけの話ぢやが。六道輪廻の道は長い」
「尊姉様。先日は手前の不手際により……」
「もう言うな」
嫋姉様が立ち上がった。池の縁に沿って歩み出されるのに合わせて、鯉たちも頭をそちらへ向ける。俺は後に従った。
暗黒の中、俺は煮えたぎって激しく逆巻く婢鬼の血潮に翻弄された。血の海から飛び立とうとすると、熱く悪臭を放つ真っ赤な波が頭上から崩れて、俺をどこかへ押し流していく。
その沸騰する血の激流が、婢鬼を翻弄してきた数々の悲惨な過去を俺に教えた。争いを好まぬ遊牧民の娘として育ち、許嫁と家族全員を征服者に惨殺されて異民族の王の側女となったその次には、王との間にもうけた2児もろとも、さらに強大な征服者の手にかかった。
死後も消えることのなかった掛け値なしに凄まじい怨念が、彼女を破壊神に転生させた。やがて西域一帯を、長引く騒乱の地獄が襲う。文字通りの屍山血河が、神を呪詛する無辜の叫びと哀号が天地を覆った。
彼女にとって、自らの罪を無限大に増幅することは至上のよろこびだった。あらゆる悲惨を自らの婬欲の罪深さの反映と信じ、それを実体化することで、罪悪のスパイラルをどこまでも転がり落ちていったのだ。
そして遂には自らの憎悪によって自らを滅ぼす寸前に至った。
まさに滅尽する間際という時、釈尊の教えに接して仏道に帰依した婢鬼は、嫋姉様ともども日本に渡って座光寺家に仕える如鬼神となった。そして今、逆巻く婢鬼の血潮が、俺に向かって叫んでいる。びょうてきせいせいくしほさい、よくせんせいせいくしほさい……。
先ほど見た彼女の目には、恐怖に憑りつかれた者の狂気が色濃く表れていた。しかし、西塔貢が羽衣とともに婢鬼の正気まで奪ったのかというと、必ずしもそうではない。元々婢鬼の心は、極めて危ういバランスの上で正気を保っていた。自分自身の所業と、心の奥底に煮えたぎる憎悪に向き合ってしまえば、たやすく恐怖の虜となり、愛欲に取り縋ろうとする。彼女の抱えてきたそうした悲哀が、粘り付く血潮の熱さや匂いから直に伝わってくる気がした。そうやって激流の中でもがいているうちに、意識が遠のいていった。
……気が付いた時、俺は森の中で倒れていた。いつの間にか俺は龍体が解け、装束を着て頭に烏帽子を被っている。しかし周囲は先ほどと同じように黒煙が立ち込め、火の粉が舞っている。そして遠く近くに煙の尾を引いた火山弾が頻繁に落下し、あるいは頭上を飛び過ぎていく。
煙に霞む少し離れたところでは、木々が火柱を上げて燃えさかっているのが見える。ぐずぐずしていれば自分の周囲は火の海になると思われた。
俺は立ち上がって、森の外を目指した。
木立の間から草原へと抜けて、視界が一気に開けた。膝までの高さの草むらをしばらく歩くうち、緩い斜面の先を流れる小川にぶつかった。向こう岸は土手のように盛り上がって視界を遮っている。黒煙と火の粉がいくらか薄らいできたように感じられたのは、水の流れを目にしてそう感じただけなのかもしれない。
空は相変わらず白一色に曇り、日がどの位置にあるのかも見分けられなかった。
土手を越えた先に、突然、色彩のある水墨画のような風景が広がった。
二十歩ほど歩いた先に池があった。池の周囲には前栽と庭石をごく簡単に配してあり、その先にこぢんまりとした和風の小庵が立っている。そして池の前に、墨染めの法衣を纏い純白の尼僧頭巾を戴いた女人が、俺に背を向けて立っている。それが誰であるかを認めた途端、嗚咽が喉元に噴き上がってきた。
尊姉様、と涙声で呼び掛けそうになったのを辛うじて自制し、顔を上に向けて一つ深呼吸する。涙を手のひらで拭ってから、蹌踉とお側へ歩み寄った。あと5、6歩というところまで近寄った時、嫋姉様は背を向けたまま、静かに池の端に身を低くなされた。水面の何かを見つめておられるらしかった。
死霊の態であったためであろう、嫋姉様のお姿を直に見ているというのに、俺の目は焼かれも潰れもしない。法衣姿のすぐ後ろまで近づいたが、声を掛けるのはためらわれ、片膝を着いた。
「爾。宝剣をいかがした」
いつもながら、嫋姉様の試問は俺の予想の斜め上を行く。俺は正直に「仔細あって、ある女人に預けております」と申し上げた。
「その女人とやらは、これか?」
水面に顔を向けたまま、嫋姉様は法衣から右手を出し、手のひらを上に開く。その上に縦横3尺ほどの映像が投影され、激しく動く雌雄の姿が映った。
つい先ほど、目を見張るような神々しい吉祥天女の姿となった久目が、狐の面をかなぐり捨て、橘幸嗣に跨って腰を振っている。嫋姉様がお示しになっている以上、これはまぎれもなく彼女の現在の姿だ。巫女のことなど綺麗さっぱり忘れた体で、愛欲に身を任せているのだった。
「相変わらずぢやのう。よもや剣を失いはすまいが、軽はずみも大概にいたせよ」
「その女人は、今いずこに」
「いずれ分かる。爾も承知しておる通り」
大きくのけぞり、法悦の絶頂境を見せつける久目の顔を大写しにしてから、嫋姉様は手のひらを閉じてディスプレイを消した。俺は意を決して、中腰のまま嫋姉様の傍らへにじり寄った。左手側から火山弾が一つ、頭上を通過してどこかに落ちようだった。
池の面に目をやると、そこには十数匹の鯉が集まり、水から突き出した口を開閉させている。嫋姉様が麩の切れ端のような餌を撒くと、水をはね散らしわれ先に飲み込もうとする。
この地獄まがいの場所だけあって、やはりただの鯉ではない。額に人間の目が一つ、大きく開いている。それは右目とも左目とも言えるような左右対称形で、どこを見ているわけでもなさそうだった。瞬きもしないところをみると、人間の目の形をしているだけで、何か別の器官かもしれなかった。
そんな鯉の群れを、嫋姉様は愛おしげに眺めて、すぐ横にいる俺には顔を向けようともしない。やはりお怒りなのだろうかと不安が募った。
「畜生とはかわゆきものよ。泥鎮まりて水清し。人として背負うてきた罪業の重さだけ、斯様にも清浄な魂が際立つという、それだけの話ぢやが。六道輪廻の道は長い」
「尊姉様。先日は手前の不手際により……」
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