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6 炎の谷
理趣経
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空へ舞い上がったのは良いが、これからどこを目指せばよいのか。周囲に久目の姿を探していると、空中から彼女の声が聞こえてきた。
──耳をお澄ましなされ、滅霊師どの。
すぐ近くの空中に白い霧が渦を巻き、細長い塊を形成していく。霧はやがて、光を帯びた吉祥天女の姿を形づくった。なぜか狐の面を被っているのは、趣味の良し悪しはともかく、この久目という女人が生来持っていた茶目っ気であろう。
狐面の吉祥天女に促され、悪龍の俺は天地の響きに念を傾ける。すると、やはり日輪高校を囲む森の一角から、叫びとも念誦ともつかぬ声が絶え絶えに聞こえてくる。
妙適清浄句是菩薩位
欲箭清浄句是菩薩位
触清浄句是菩薩位
愛縛清浄句是菩薩位……
それは理趣経の一節だった。そして、単調な経文を狂ったように叫び唱えているのは婢鬼。明らかに正気を失っている。
西塔に何をされたのか分からないが、おのれの罪業に対する自責が昂ずるあまり、婬欲を全面的に肯定するものと長く誤解されてきた経典にはまり込み、狂気に囚われるに至ったのだろう。そう考えると除霊屋への怒りが一段と募ってきた。
──そなたの使い魔か。不憫なことを。
──お恥ずかしい。
──まずそなたは、あの使い魔たちを救わねばならぬであろう。妾は背の君を追う。後ほどまた会おうぞ。
──承った。
そこで一計を案じた俺は、龍の口から宝剣を吐き出し、久目に渡した。
──これを持って参られよ。もはやそなたは、あの陰陽師めに立てる義理もないのであろう?
──知っておったか。
橘幸嗣と引き合わせることを提示され、自分が利用されたことを恥じたのだろう。狐の面の奥に悔恨と憤りが波立つのが感じられる。
──これより後、あの者はそなたの前に立ち塞がるかもしれぬ。その剣は持っておっても邪魔にはなるまい。
──承知した。
宝剣を携えた久目に「では後ほど」と告げて俺は龍体を翻し、婢鬼の念誦が漏れ聞こえてくるクスノキの巨樹へと真っ逆さまに下降した。巨樹の梢が間近に迫ると、婢鬼の声も一層確かに伝わってきた。
巨樹の根元に、校庭側からは幹の陰になって見えない小さな稲荷の祠がある。大きく開けられた両開きの扉の奥に、俺は一直線に飛び込んだ。
漆黒の闇を突き進む間、婢鬼の声は一瞬も途絶えることはなかった。千年とも万年とも感じられる時間を経て、闇は次第に薄明を帯び、同時に硫黄の臭気が鼻先に漂う。程なく、視界は一気に開けた。
どういう場所なのだ。ここは地獄か。
あたり一面に立ち込める、息詰まるほど濃厚な硫黄臭。下の方で何かが燃えているらしく、身を捩じりながら飛ぶ俺の行く手を白煙が遮る。
見上げれば、雲なのか霧なのか、空一面が白く覆われている。
そして時折、火山弾か隕石のような、白煙の尾を引く何かが周囲を横切っていく。遂にその一つが尾の付け根近くに当たると激痛が走り、如鬼神の態でも痛覚から逃れられぬことを思い知らされた。
見清浄句是菩薩位
適悦清浄句是菩薩位
愛清浄句是菩薩位……
俺が近づいていることを、恐らく婢鬼も感付いているはずだ。経文を唱える声に微妙な喜悦の響きが交じり、それが一層やりきれない思いにさせる。
声のする方向へ、俺は高度を下げていった。
そこは地獄の底のようにも見えなかった。丈の高い樹木の森が広がっているのだが、一面に煙が覆っていて、時折火の粉が飛んでくる。どこかで火が燃えているようにも思われるが、火の在処は見えない。
俺の体は煙の中を漂いつつ、森の出口を求めた。
婢鬼の念誦は一層激しくなり、ほとんど絶叫に等しくなった。俺は龍の身体をうねらせ、声のする方へ急いだ。火の粉が激しく降り注いで龍体の鱗や鰭を焼くが、構ってなどいられない。遂に森が途切れ、一面に巨石の積み上がった場所に出た。
──耳をお澄ましなされ、滅霊師どの。
すぐ近くの空中に白い霧が渦を巻き、細長い塊を形成していく。霧はやがて、光を帯びた吉祥天女の姿を形づくった。なぜか狐の面を被っているのは、趣味の良し悪しはともかく、この久目という女人が生来持っていた茶目っ気であろう。
狐面の吉祥天女に促され、悪龍の俺は天地の響きに念を傾ける。すると、やはり日輪高校を囲む森の一角から、叫びとも念誦ともつかぬ声が絶え絶えに聞こえてくる。
妙適清浄句是菩薩位
欲箭清浄句是菩薩位
触清浄句是菩薩位
愛縛清浄句是菩薩位……
それは理趣経の一節だった。そして、単調な経文を狂ったように叫び唱えているのは婢鬼。明らかに正気を失っている。
西塔に何をされたのか分からないが、おのれの罪業に対する自責が昂ずるあまり、婬欲を全面的に肯定するものと長く誤解されてきた経典にはまり込み、狂気に囚われるに至ったのだろう。そう考えると除霊屋への怒りが一段と募ってきた。
──そなたの使い魔か。不憫なことを。
──お恥ずかしい。
──まずそなたは、あの使い魔たちを救わねばならぬであろう。妾は背の君を追う。後ほどまた会おうぞ。
──承った。
そこで一計を案じた俺は、龍の口から宝剣を吐き出し、久目に渡した。
──これを持って参られよ。もはやそなたは、あの陰陽師めに立てる義理もないのであろう?
──知っておったか。
橘幸嗣と引き合わせることを提示され、自分が利用されたことを恥じたのだろう。狐の面の奥に悔恨と憤りが波立つのが感じられる。
──これより後、あの者はそなたの前に立ち塞がるかもしれぬ。その剣は持っておっても邪魔にはなるまい。
──承知した。
宝剣を携えた久目に「では後ほど」と告げて俺は龍体を翻し、婢鬼の念誦が漏れ聞こえてくるクスノキの巨樹へと真っ逆さまに下降した。巨樹の梢が間近に迫ると、婢鬼の声も一層確かに伝わってきた。
巨樹の根元に、校庭側からは幹の陰になって見えない小さな稲荷の祠がある。大きく開けられた両開きの扉の奥に、俺は一直線に飛び込んだ。
漆黒の闇を突き進む間、婢鬼の声は一瞬も途絶えることはなかった。千年とも万年とも感じられる時間を経て、闇は次第に薄明を帯び、同時に硫黄の臭気が鼻先に漂う。程なく、視界は一気に開けた。
どういう場所なのだ。ここは地獄か。
あたり一面に立ち込める、息詰まるほど濃厚な硫黄臭。下の方で何かが燃えているらしく、身を捩じりながら飛ぶ俺の行く手を白煙が遮る。
見上げれば、雲なのか霧なのか、空一面が白く覆われている。
そして時折、火山弾か隕石のような、白煙の尾を引く何かが周囲を横切っていく。遂にその一つが尾の付け根近くに当たると激痛が走り、如鬼神の態でも痛覚から逃れられぬことを思い知らされた。
見清浄句是菩薩位
適悦清浄句是菩薩位
愛清浄句是菩薩位……
俺が近づいていることを、恐らく婢鬼も感付いているはずだ。経文を唱える声に微妙な喜悦の響きが交じり、それが一層やりきれない思いにさせる。
声のする方向へ、俺は高度を下げていった。
そこは地獄の底のようにも見えなかった。丈の高い樹木の森が広がっているのだが、一面に煙が覆っていて、時折火の粉が飛んでくる。どこかで火が燃えているようにも思われるが、火の在処は見えない。
俺の体は煙の中を漂いつつ、森の出口を求めた。
婢鬼の念誦は一層激しくなり、ほとんど絶叫に等しくなった。俺は龍の身体をうねらせ、声のする方へ急いだ。火の粉が激しく降り注いで龍体の鱗や鰭を焼くが、構ってなどいられない。遂に森が途切れ、一面に巨石の積み上がった場所に出た。
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