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5 巫女
究極の呪法
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「嫋虎様を、……奪われた?」
「嫋虎様」とは、親父が当主になる前にお仕えしていた当時の、嫋姉様の呼び名だ。湯飲み茶碗をテーブルに置いて立ち上がった親父は、俺を見つめたまま文字通り「たたらを踏んで」よろめき、崩れ落ちるように背後のソファに座り込んだ。
帰宅した俺は、朝食を終えてリヴィングで待ち受けていた親父に儀式の顚末を話した。覚悟してはいたが、親父の驚愕は俺の想像をはるかに超えていた。とりわけ嫋鬼を失った知らせは衝撃だったらしく、皮肉屋ながら温厚な普段の父親が完全に取り乱したことに、俺は恐怖さえ覚えた。
そして、自分のしでかした失敗の恐ろしさに胸が塞がり、その場でぶっ倒れるのではないかと思った。
「お前……大変なことをしてくれたな」
「ごめんなさい」
「婢鬼の反応はあるのか」
「ほんの少しだけ」
「それは確かなんだな?」
「本当のことを言うとはっきりしない。気のせいかもしれない」
「それは婢鬼が弱ってるからだ。嫋虎様も大事はあるまい。今のところは」
そう言われて少しだけ気分が楽になった。この件に陰陽師が絡んでいることも伝えたのだが、親父は大して驚きもしなかった。
「連中の『呼び込み』のせいでとんでもないのが来て、我々が尻拭いをやらされる……まあよくある話だ」
驚いたのは、西塔貢の名を親父も知っていたことだった。陰陽師たちの間でも長く異端扱いされてきた西塔家は、この半世紀ほどの間に占いや神事などの事業活動を通じて急速に勢力を拡大し、それが妬みや悪評を買ってもいるらしい。
親父の帰りが早かったのは、今回の依頼が突如キャンセルとなったためだった。現地に着くなりホテルで3日間待たされた後、発注者から「特に頼むことはない」と一方的に告げられたのだという。「除霊屋が私の方にもちょっかいを出してきたのかどうかは知らんが」と吐き捨て、親父は視線を俺の方に戻した。
「私も迂闊だった。お前の熟度は見込み違いだったようだ。さてどうしよう」
悄然としている俺を、親父は再びソファから見上げる。悲しげな視線が胸に突き刺さるが、俺はその場に立ったまま待つしかなかった。
「どうだ。彼女らを取り戻したいか」
考えた末に「取り戻したい。無理だと思うけど」と答えたのだが、親父は眉間に皺を寄せ「そりゃそうだろうな」と表情を曇らせた。
「だけど、決着は俺がつける」
「お前の気持ちは分かる。だがどうしたって嫋虎様がお戻りになることはあるまい。あのお方だけは、座光寺の意のままにならん。だから代々、私たちの若い頃には護り役を務めてくれたとも言える。私もどれほど多くをあのお方から教わったことか。お前には口うるさいだけだったかもしれんが」
「そんなことはない」
「そうか?」
「嫋姉様を軽んじたことはない。あのお方をいつも敬ってきたし、言うことは守ってきた」
探るような親父の視線が胸に刺さる。嫋姉様を煙たく思う気持ちが皆無だったと言い切る自信はない。
「だが少なくとも、お前は畏れかしこまってはいなかった」
「どういうこと?」
「だから分かってないんだ。心構えの問題だよ。嫋虎様も頭を痛めてたことだろう」
続けて、壁の時計に目をやり「あと20分後に出掛ける。仕度をしなさい」と俺に告げた。行き先は言われなくても見当が付いた。
8歳の時から出入りしていた座光寺家の錬成場。それは郊外の神社の一角にあり、多い時は親父の運転する車で週3回通った。いつも深夜だった。冷たい板敷の広間には暖房もなく、冬場の寒さは耐え難かったが、親父は俺に文句を言わさなかった。覚えが悪いといつまで経っても帰れないから、子供なりに必死になるしかなかった。受験勉強の都合で中3からは錬成場通いも免除されていたが、技術の伝承がすべて終わったわけではない。
「滅霊師として最後の呪法をお前に授ける。教えるのが延び延びになってたが、ちょうどいい機会だろう」
神社の駐車場に車を入れた時には午前11時を回っていた。
本殿奥の、木立が鬱蒼として薄暗い場所に、木造の錬成場は立っていた。扉を開けると、やっと人一人が立てる広さの土間の先に、八畳程度の黒光りする檜の板の間がある。ただ、神社の中だというのに神棚もなく、燈明を立てる燭台が2本あるだけだった。
親父と俺は白装束に着替え、板の間に相対して正座する。親父が口を開いた。
「今まで教えてきたことは、言うなれば邪道だ。よく考えてみろ。穢れた生身のまま傷一つ負うこともなく、小手先の呪法を駆使して霊を滅ぼし、此岸彼岸を問わず存在を無とする。そのようなことを平然と成し得るのは天も恐れぬ増上慢、のみならず魔道の極みだ。ならば」
無言の問いを投げ掛けるように、親父は言葉を切って俺の目を見つめる。
「我らも正しいやり方で、霊と対さなければならぬ。……つまりは、生身を棄てる覚悟だ。霊として彼の者たちに対し、霊として彼の者たちを滅する。これこそ真の滅霊なり。永らくこの呪法は厭われ、使われることはなかったが、滅霊師として本来の道はこの呪法より他はあり得ぬ。そして」
親父は目を閉じ、眉間に皺が寄る。親父の苦痛が俺にも伝わったように感じた。
「婢鬼と嫋鬼に帰ってきてもらうには、両者の下へお前が赴くしかない。もちろん彼女らが戻ってくる保証などないし、お前自身が命を失う危険もある。そうなれば滅霊師は断絶だ。それを承知の上でもお前は、2体を取り戻したいか」
「はい」
「そうか。ならば始めよう」
……錬成場を出た時には午後8時に近かった。帰りの車の中で、親父は俺と同じように疲労困憊していただろうに、来た時とは打って変わって多弁だった。自分の見習い当時、嫋姉様(親父は「嫋虎様」と呼んでいたが)からどれほど多くを学んだか、後部座席にいる俺に滔々と語って聞かせた。
昔語りが一段落したところで、親父は「お前は知らんだろうが」とひときわ声を落とした。
「以前に比べると、あのお方も随分と丸くなった。私が先代から嫋虎様を引き継いで丸1年というもの、どれほど心を込めて呪を唱えてもご光臨を賜ることはできなかった。自分の何が至らないのか気が違いそうになるくらい考え、血の小便が出るほど思い悩んだ。だからお前に引き継いだ時、1回でご光臨くださったのには正直驚いた」
2年前のことを思い出した。召喚の儀が滞りなく終わった時、隣に控えていた親父が驚いたような目で俺を見ていた。あの時俺は、それを自分の能力の証であるかのように受け止め、内心天狗になっていなかったか。
「だが嫋虎様がすんなり御姿を現したからといって、それをお前の才覚だとは思わん。考えてみると、嫋虎様はあの時から今日のあるのを予期しておられたのかもしれない」
「ほんとバカだよ、俺は」
泣きたい気持ちをこらえていると、親父はため息交じりに「お前を責めてるんじゃない」と言う。
「座光寺を取り巻く世界の状況も変わった。今の世界に関して、私らには到底窺い知れないことも全部、嫋虎様はご存じだったはずだ。あの方は座光寺の行く末を憂慮なさっておられた。あるいは如鬼神なりに、あの方も老いたのかもしれん」
親父の言葉の意味が、分かるようでよく分からない。それきり親父は口をつぐみ、俺は早く家に着くことだけを願いながら、窓の外を流れる景色を眺めた。
「嫋虎様」とは、親父が当主になる前にお仕えしていた当時の、嫋姉様の呼び名だ。湯飲み茶碗をテーブルに置いて立ち上がった親父は、俺を見つめたまま文字通り「たたらを踏んで」よろめき、崩れ落ちるように背後のソファに座り込んだ。
帰宅した俺は、朝食を終えてリヴィングで待ち受けていた親父に儀式の顚末を話した。覚悟してはいたが、親父の驚愕は俺の想像をはるかに超えていた。とりわけ嫋鬼を失った知らせは衝撃だったらしく、皮肉屋ながら温厚な普段の父親が完全に取り乱したことに、俺は恐怖さえ覚えた。
そして、自分のしでかした失敗の恐ろしさに胸が塞がり、その場でぶっ倒れるのではないかと思った。
「お前……大変なことをしてくれたな」
「ごめんなさい」
「婢鬼の反応はあるのか」
「ほんの少しだけ」
「それは確かなんだな?」
「本当のことを言うとはっきりしない。気のせいかもしれない」
「それは婢鬼が弱ってるからだ。嫋虎様も大事はあるまい。今のところは」
そう言われて少しだけ気分が楽になった。この件に陰陽師が絡んでいることも伝えたのだが、親父は大して驚きもしなかった。
「連中の『呼び込み』のせいでとんでもないのが来て、我々が尻拭いをやらされる……まあよくある話だ」
驚いたのは、西塔貢の名を親父も知っていたことだった。陰陽師たちの間でも長く異端扱いされてきた西塔家は、この半世紀ほどの間に占いや神事などの事業活動を通じて急速に勢力を拡大し、それが妬みや悪評を買ってもいるらしい。
親父の帰りが早かったのは、今回の依頼が突如キャンセルとなったためだった。現地に着くなりホテルで3日間待たされた後、発注者から「特に頼むことはない」と一方的に告げられたのだという。「除霊屋が私の方にもちょっかいを出してきたのかどうかは知らんが」と吐き捨て、親父は視線を俺の方に戻した。
「私も迂闊だった。お前の熟度は見込み違いだったようだ。さてどうしよう」
悄然としている俺を、親父は再びソファから見上げる。悲しげな視線が胸に突き刺さるが、俺はその場に立ったまま待つしかなかった。
「どうだ。彼女らを取り戻したいか」
考えた末に「取り戻したい。無理だと思うけど」と答えたのだが、親父は眉間に皺を寄せ「そりゃそうだろうな」と表情を曇らせた。
「だけど、決着は俺がつける」
「お前の気持ちは分かる。だがどうしたって嫋虎様がお戻りになることはあるまい。あのお方だけは、座光寺の意のままにならん。だから代々、私たちの若い頃には護り役を務めてくれたとも言える。私もどれほど多くをあのお方から教わったことか。お前には口うるさいだけだったかもしれんが」
「そんなことはない」
「そうか?」
「嫋姉様を軽んじたことはない。あのお方をいつも敬ってきたし、言うことは守ってきた」
探るような親父の視線が胸に刺さる。嫋姉様を煙たく思う気持ちが皆無だったと言い切る自信はない。
「だが少なくとも、お前は畏れかしこまってはいなかった」
「どういうこと?」
「だから分かってないんだ。心構えの問題だよ。嫋虎様も頭を痛めてたことだろう」
続けて、壁の時計に目をやり「あと20分後に出掛ける。仕度をしなさい」と俺に告げた。行き先は言われなくても見当が付いた。
8歳の時から出入りしていた座光寺家の錬成場。それは郊外の神社の一角にあり、多い時は親父の運転する車で週3回通った。いつも深夜だった。冷たい板敷の広間には暖房もなく、冬場の寒さは耐え難かったが、親父は俺に文句を言わさなかった。覚えが悪いといつまで経っても帰れないから、子供なりに必死になるしかなかった。受験勉強の都合で中3からは錬成場通いも免除されていたが、技術の伝承がすべて終わったわけではない。
「滅霊師として最後の呪法をお前に授ける。教えるのが延び延びになってたが、ちょうどいい機会だろう」
神社の駐車場に車を入れた時には午前11時を回っていた。
本殿奥の、木立が鬱蒼として薄暗い場所に、木造の錬成場は立っていた。扉を開けると、やっと人一人が立てる広さの土間の先に、八畳程度の黒光りする檜の板の間がある。ただ、神社の中だというのに神棚もなく、燈明を立てる燭台が2本あるだけだった。
親父と俺は白装束に着替え、板の間に相対して正座する。親父が口を開いた。
「今まで教えてきたことは、言うなれば邪道だ。よく考えてみろ。穢れた生身のまま傷一つ負うこともなく、小手先の呪法を駆使して霊を滅ぼし、此岸彼岸を問わず存在を無とする。そのようなことを平然と成し得るのは天も恐れぬ増上慢、のみならず魔道の極みだ。ならば」
無言の問いを投げ掛けるように、親父は言葉を切って俺の目を見つめる。
「我らも正しいやり方で、霊と対さなければならぬ。……つまりは、生身を棄てる覚悟だ。霊として彼の者たちに対し、霊として彼の者たちを滅する。これこそ真の滅霊なり。永らくこの呪法は厭われ、使われることはなかったが、滅霊師として本来の道はこの呪法より他はあり得ぬ。そして」
親父は目を閉じ、眉間に皺が寄る。親父の苦痛が俺にも伝わったように感じた。
「婢鬼と嫋鬼に帰ってきてもらうには、両者の下へお前が赴くしかない。もちろん彼女らが戻ってくる保証などないし、お前自身が命を失う危険もある。そうなれば滅霊師は断絶だ。それを承知の上でもお前は、2体を取り戻したいか」
「はい」
「そうか。ならば始めよう」
……錬成場を出た時には午後8時に近かった。帰りの車の中で、親父は俺と同じように疲労困憊していただろうに、来た時とは打って変わって多弁だった。自分の見習い当時、嫋姉様(親父は「嫋虎様」と呼んでいたが)からどれほど多くを学んだか、後部座席にいる俺に滔々と語って聞かせた。
昔語りが一段落したところで、親父は「お前は知らんだろうが」とひときわ声を落とした。
「以前に比べると、あのお方も随分と丸くなった。私が先代から嫋虎様を引き継いで丸1年というもの、どれほど心を込めて呪を唱えてもご光臨を賜ることはできなかった。自分の何が至らないのか気が違いそうになるくらい考え、血の小便が出るほど思い悩んだ。だからお前に引き継いだ時、1回でご光臨くださったのには正直驚いた」
2年前のことを思い出した。召喚の儀が滞りなく終わった時、隣に控えていた親父が驚いたような目で俺を見ていた。あの時俺は、それを自分の能力の証であるかのように受け止め、内心天狗になっていなかったか。
「だが嫋虎様がすんなり御姿を現したからといって、それをお前の才覚だとは思わん。考えてみると、嫋虎様はあの時から今日のあるのを予期しておられたのかもしれない」
「ほんとバカだよ、俺は」
泣きたい気持ちをこらえていると、親父はため息交じりに「お前を責めてるんじゃない」と言う。
「座光寺を取り巻く世界の状況も変わった。今の世界に関して、私らには到底窺い知れないことも全部、嫋虎様はご存じだったはずだ。あの方は座光寺の行く末を憂慮なさっておられた。あるいは如鬼神なりに、あの方も老いたのかもしれん」
親父の言葉の意味が、分かるようでよく分からない。それきり親父は口をつぐみ、俺は早く家に着くことだけを願いながら、窓の外を流れる景色を眺めた。
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