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1 県立日輪高校
滅びゆく者
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松田さんは逡巡しているらしく、押し黙っている。やがて扉の先で、震えを帯びて乱れた声が発せられた。
「あのね。仁史がね」
「はい」
前原仁史は、45年前に松田さんの自殺の原因を作った元カレだ。名前だけは事前に調べてあったが、続いて松田さんの告げた話までは知らなかった。
「末期癌なの。あと1カ月も生きられないのよ」
「それは……お気の毒に」
「これがどういうことか分かる?」
思わぬ問いに面食らいつつも、俺は模範解答を必死に考えた。かつての恋人が62歳になり、末期癌で余命1カ月もないことが、元カノである松田さんにとってどんな意味を持つのか。しかしやはり人生経験の乏しい少年の想像力では、自分を呪いたくなるほど月並みな推測しか浮かんでこない。
「つまりその、前原さんの病気が治るようにと、願ってらっしゃるのですか?」
扉の先から、明らかな失望を表す深いため息が聞こえた。どうやら的外れだったようだ。俺もため息をつきたくなった。
「いい? 彼が死んだら、もうじき私の近くに来る。振られたのは私の方だけど、この学校のトイレで首を吊ったのは、仁史の近くにいるのが嫌だったからなの。もう彼の顔も見たくなかったの! 理由を話し始めたらものすごく長くなるけどね。……もうじきその彼が死んで、私の近くに来る。想像しただけで宇宙が燃えるわ!」
宇宙が燃えるわ! 俺は自分の髄液まで沸騰したかと思ったが、この絶叫の恐ろしさを、滅霊師以外の誰が経験できるというのか。実際俺はぎりぎりのところで耐え、辛うじて女子便器上の蓮華座を保った。
「彼の肉がピコグラム(1兆分の1グラム)の単位まで細切れにされた粒子になって拡散してしまっても、仁史が近くに来るって想像をする私は、『存在している』わけ? 嫌! 絶対、ぜっっっったいに、嫌よ! ねえ私どうすればいい? 仁史に会わずに済むならどこへ行けばいいの? ……彼はもう、命を諦めてる。生きようとする意志も力も尽き果ててしまってるの。まだ命の火は消えていないのに、心は『こちら』まで架かってる橋を渡ってしまってるのよ。こうなったら絶対に奇跡は起こらないの。私は消えるしかない。消えてしまえば、仁史の魂と出遭わずに済む。ねえ座光寺君」
「はい」
「あなた滅霊師でしょ? しっかり私を滅してくれる?」
これぞまさに、予想外の展開。荒ぶる悪霊との壮絶なバトルとは程遠い、自殺を幇助するみたいな成り行きではないか。これで滅霊師としての格好がつくのか。「しっかり滅してくれる?」と問われた俺は、頭が混乱したまま正直に答えてしまった。
「あの、実は僕まだ見習いで、今回が初めてなんです」
「何?」
「今回が初めてです!」
「あきれた……なんであんたみたいな子を寄越したの」
「父に『経験を積むいい機会だ』って言われまして」
今から思えば、未熟な少年のナイーブさを松田さんに理解してもらおうという、姑息な甘え以外の何だっただろうか。それでも彼女は、失望を隠しきれないながらも察してくれたようだった。これでは滅霊師のメンツも何もあったものではないが、彼女の物分かりの良さに内心ほっとしたことは告白せざるを得ない。
何せ初心者だ。松田さんの苦衷を我が事のように思い遣るのは荷が重い。
いきなりハイレベルの相手と激突して玉砕するより、少しずつ経験値を上げさせてもらうのが王道展開だ。俺は、そうやって成長させてもらえる立ち位置のキャラだという自覚がある。慢心だとは思わない。平安時代から続く滅霊師の跡取りなんだからそれくらいは許してほしい。
「分かりました。じゃ座光寺君。私はここにいるから、しっかり滅して」
「はい! 謹んで」
「あんまり気張らないで。肩の力を抜いて、お父さんに教わったことを思い出しながら」
俺の頬を、感動の涙が伝っていく。
ああ、なんて優しいおねえさんなんだろう! 未熟な少年の初体験を手取り足取りリードしてくれるとは! では、拙い技ではございますが誠心誠意勤めさせていただきます。いざ!
退霊装束の袖に忍ばせてあった布袋を取り出す。中には、小さな紙包みを収めた乳鉢が入っている。蓮華座を解いて立ち上がり、紙包みの中身──護摩木を挽いた粉末と乾燥した松脂の混合物──を鉢に空け、マッチを擦って火を灯した。それを捧げ持って、個室の扉を開けた。
乳鉢の灯りに、燐光剤入りのインクで描いた魔法陣が床にうっすらと浮かび上がる。俺はその中心に結跏趺坐し、煙の立つ乳鉢を正面に置いて両手を合わせ瞑目した。火を灯した鉢を護摩の祭壇に見立て、悪霊の調伏を行うのだ。俺は右手に掛けた白檀の数珠をまさぐりながら、低い声で呪を唱えていった。
謹んで申す
全方位に遍く坐す不動明王よ
なにとぞなにとぞ
善姉松田美根子を天魔外道より遠ざけたまえ
いっさいの障礙を滅尽されたまえ
専心以て願い上げ奉る
「奉る」は一際腹に力を込めて長く、重々しく伸ばした。3秒ほど間を置いて 五鈷鈴を2回鳴らし、左手で数珠を握ったまま、傍らに置いてあった宝剣を右手に取り、不動明王の形を作った。続いて、ひたすら余念を排しつつ明王の真言を反復する。
悪霊の気が次第に弱まり、薄れていくのが感じられた。
「松田美根子」は、俺の呪法によって今まさにすべての存在をこの世界から消し去ろうとしている。かつて彼女は、自分の命を絶つことで前原仁史への思いを断ち切った。そして今もまた、彼に別れを告げることもなく消え去ろうとしている。
45年間、地表をさまよい続けた怨みの念も、現世への心残りも、六道輪廻を経た後の来世への望みも、すべて跡形もなく消えてなくなる。かたや現世の残り少ない日々を過ごしている前原氏は、今現在もその先も、未来永劫何も知らない。
本当に、それでいいんですか松田さん?
あなたが今まで、この世界に存在し続けた意味とは何だったのでしょう?
……まあ、俺が思い悩むことじゃない。この場は彼女の意向に従うのが滅霊師見習いである俺の責務だ。その時はそう自分に言い聞かせた。
最後の場面が来た。今まさに松田美根子が消え去ろうとする瞬間、俺は「 云」の掛け声とともに右手の宝剣を護摩壇に擬した乳鉢に力を込めて振り下ろした。闇の中で淡い光を発するそれが、乾いた音を立てて真っ二つに割れた。
……松田美根子の悪霊が滅した後も儀式は残っていたが、それは省略する。女子トイレを後にする時には東の空がオレンジ色に明るみ始めていた。
「あのね。仁史がね」
「はい」
前原仁史は、45年前に松田さんの自殺の原因を作った元カレだ。名前だけは事前に調べてあったが、続いて松田さんの告げた話までは知らなかった。
「末期癌なの。あと1カ月も生きられないのよ」
「それは……お気の毒に」
「これがどういうことか分かる?」
思わぬ問いに面食らいつつも、俺は模範解答を必死に考えた。かつての恋人が62歳になり、末期癌で余命1カ月もないことが、元カノである松田さんにとってどんな意味を持つのか。しかしやはり人生経験の乏しい少年の想像力では、自分を呪いたくなるほど月並みな推測しか浮かんでこない。
「つまりその、前原さんの病気が治るようにと、願ってらっしゃるのですか?」
扉の先から、明らかな失望を表す深いため息が聞こえた。どうやら的外れだったようだ。俺もため息をつきたくなった。
「いい? 彼が死んだら、もうじき私の近くに来る。振られたのは私の方だけど、この学校のトイレで首を吊ったのは、仁史の近くにいるのが嫌だったからなの。もう彼の顔も見たくなかったの! 理由を話し始めたらものすごく長くなるけどね。……もうじきその彼が死んで、私の近くに来る。想像しただけで宇宙が燃えるわ!」
宇宙が燃えるわ! 俺は自分の髄液まで沸騰したかと思ったが、この絶叫の恐ろしさを、滅霊師以外の誰が経験できるというのか。実際俺はぎりぎりのところで耐え、辛うじて女子便器上の蓮華座を保った。
「彼の肉がピコグラム(1兆分の1グラム)の単位まで細切れにされた粒子になって拡散してしまっても、仁史が近くに来るって想像をする私は、『存在している』わけ? 嫌! 絶対、ぜっっっったいに、嫌よ! ねえ私どうすればいい? 仁史に会わずに済むならどこへ行けばいいの? ……彼はもう、命を諦めてる。生きようとする意志も力も尽き果ててしまってるの。まだ命の火は消えていないのに、心は『こちら』まで架かってる橋を渡ってしまってるのよ。こうなったら絶対に奇跡は起こらないの。私は消えるしかない。消えてしまえば、仁史の魂と出遭わずに済む。ねえ座光寺君」
「はい」
「あなた滅霊師でしょ? しっかり私を滅してくれる?」
これぞまさに、予想外の展開。荒ぶる悪霊との壮絶なバトルとは程遠い、自殺を幇助するみたいな成り行きではないか。これで滅霊師としての格好がつくのか。「しっかり滅してくれる?」と問われた俺は、頭が混乱したまま正直に答えてしまった。
「あの、実は僕まだ見習いで、今回が初めてなんです」
「何?」
「今回が初めてです!」
「あきれた……なんであんたみたいな子を寄越したの」
「父に『経験を積むいい機会だ』って言われまして」
今から思えば、未熟な少年のナイーブさを松田さんに理解してもらおうという、姑息な甘え以外の何だっただろうか。それでも彼女は、失望を隠しきれないながらも察してくれたようだった。これでは滅霊師のメンツも何もあったものではないが、彼女の物分かりの良さに内心ほっとしたことは告白せざるを得ない。
何せ初心者だ。松田さんの苦衷を我が事のように思い遣るのは荷が重い。
いきなりハイレベルの相手と激突して玉砕するより、少しずつ経験値を上げさせてもらうのが王道展開だ。俺は、そうやって成長させてもらえる立ち位置のキャラだという自覚がある。慢心だとは思わない。平安時代から続く滅霊師の跡取りなんだからそれくらいは許してほしい。
「分かりました。じゃ座光寺君。私はここにいるから、しっかり滅して」
「はい! 謹んで」
「あんまり気張らないで。肩の力を抜いて、お父さんに教わったことを思い出しながら」
俺の頬を、感動の涙が伝っていく。
ああ、なんて優しいおねえさんなんだろう! 未熟な少年の初体験を手取り足取りリードしてくれるとは! では、拙い技ではございますが誠心誠意勤めさせていただきます。いざ!
退霊装束の袖に忍ばせてあった布袋を取り出す。中には、小さな紙包みを収めた乳鉢が入っている。蓮華座を解いて立ち上がり、紙包みの中身──護摩木を挽いた粉末と乾燥した松脂の混合物──を鉢に空け、マッチを擦って火を灯した。それを捧げ持って、個室の扉を開けた。
乳鉢の灯りに、燐光剤入りのインクで描いた魔法陣が床にうっすらと浮かび上がる。俺はその中心に結跏趺坐し、煙の立つ乳鉢を正面に置いて両手を合わせ瞑目した。火を灯した鉢を護摩の祭壇に見立て、悪霊の調伏を行うのだ。俺は右手に掛けた白檀の数珠をまさぐりながら、低い声で呪を唱えていった。
謹んで申す
全方位に遍く坐す不動明王よ
なにとぞなにとぞ
善姉松田美根子を天魔外道より遠ざけたまえ
いっさいの障礙を滅尽されたまえ
専心以て願い上げ奉る
「奉る」は一際腹に力を込めて長く、重々しく伸ばした。3秒ほど間を置いて 五鈷鈴を2回鳴らし、左手で数珠を握ったまま、傍らに置いてあった宝剣を右手に取り、不動明王の形を作った。続いて、ひたすら余念を排しつつ明王の真言を反復する。
悪霊の気が次第に弱まり、薄れていくのが感じられた。
「松田美根子」は、俺の呪法によって今まさにすべての存在をこの世界から消し去ろうとしている。かつて彼女は、自分の命を絶つことで前原仁史への思いを断ち切った。そして今もまた、彼に別れを告げることもなく消え去ろうとしている。
45年間、地表をさまよい続けた怨みの念も、現世への心残りも、六道輪廻を経た後の来世への望みも、すべて跡形もなく消えてなくなる。かたや現世の残り少ない日々を過ごしている前原氏は、今現在もその先も、未来永劫何も知らない。
本当に、それでいいんですか松田さん?
あなたが今まで、この世界に存在し続けた意味とは何だったのでしょう?
……まあ、俺が思い悩むことじゃない。この場は彼女の意向に従うのが滅霊師見習いである俺の責務だ。その時はそう自分に言い聞かせた。
最後の場面が来た。今まさに松田美根子が消え去ろうとする瞬間、俺は「 云」の掛け声とともに右手の宝剣を護摩壇に擬した乳鉢に力を込めて振り下ろした。闇の中で淡い光を発するそれが、乾いた音を立てて真っ二つに割れた。
……松田美根子の悪霊が滅した後も儀式は残っていたが、それは省略する。女子トイレを後にする時には東の空がオレンジ色に明るみ始めていた。
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