ホワイトローズの大敗

yukimi

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29:出勤時刻

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 カーテンの隙間から柔らかい光が差込んでいる。鳥のさえずりが早秋の朝を知らせていた。
 よく晴れ渡った土曜日だった。
 いつもと違う、うつ伏せの体勢で寝ていたウェインは、肌寒さと寝心地の悪さに気付いて目を覚ました。
 眼前に革張りのソファの縫い目が見え、ここが自分の部屋ではないことに気付いて、はっと頭を上げる。

「痛っ……」

 途端にとてつもない頭痛が襲ってきて側頭部を押さえた。

 ――ああ……昨日、酔って帰って――。

 そうだ。酔って帰ったのだ。
 部屋を見渡すと、当然そこはリビングのソファの上で、しかしヘレンはいなくなっていた。
 ぼんやりと、何度もキスをしたような記憶が蘇ってくる……自分は何を言ったのだったか……?
 記憶をたどる内に沸き起こる焦燥感のなんと凄まじいことか。

「お゛……お゛ぉおおおぉおお…………」

 低い声だけが震えた。
 はっきりとは思い出せないが、無理矢理ことに及んだのではなかったか。本性を晒した愚かさに、恐ろしいまでの悔恨が降り積もる。
 ソファから足を下ろし、ズキズキする頭を抱えて考える。
 夢だったのではないか。いや、あれは紛れもない現実だ。ヘレンの潤んだ瞳から柔らかい唇の感触までリアルに覚えている。
 ソファになだれ込んだ辺りで記憶が途切れているから、恐らくそのまま寝てしまったのだろう。そうに違いない。そうであってくれ。
 どちらにせよ今大問題なのは、ヘレンがここから姿を消しているるという事実である。

「……軽蔑されたか……」

 まずいと思った。ヘレンはどう見ても潔癖な娘である。自分のような無関心を装っている男が突然あんなことをすれば、究極に引かれ、嫌悪されるのは目に見えている。しかも、嫌がる彼女に拒まれたような記憶さえあるのだ。
 このままいなくなってしまう――そんな気がした。

 ――あんたは最低な男よ!――

 グレンダの怒りに満ちた声が頭をよぎる。
 彼女だけではない。恐らく他の女たちも、結局は薄感情な自分に愛想をつかしたからこそ金を持ち去って行ったのだ。はっきりいって自分が女から愛されることなど不可能なのかもしれない。
 ふと見れば長テーブルの上に自分のジャケットが置いてある。
 それを手繰り寄せると、ポケットから長財布を取り出し、少し躊躇したが中を見た。
 青いカードはそのまま同じ場所に入っていた。
 彼は一つ大きなため息をつき、しばらくソファでうなだれてしまった。この時の彼の心情を言葉にするなら『嫌悪』だろうか。中を確認した自分に対する。

 ふいにベーコンの焼ける香ばしいにおいに気付いて、ハッと頭を上げた。ヘレンはキッチンにいるのだ。
 立ち上がり、足早に歩き出した。
   
   
 キッチンへ行ってみると、ヘレンはいつものように私服に白いエプロンを身に付け、こちらに背を向けてフライパンを握っていた。

「おはよう……」
「……おはようございます」

 声をかけると、いつもなら笑顔で振り返る彼女が、半分振り返ってすぐ手元に向き直した。表情は見えない。
 ウェインは躊躇いながら言葉を選んだ。

「昨日はすまなかった。その……悪酔いしていたんだ」
「な、なんのことでしょう」
「だから、昨日の夜……」
「さあ。昨晩は確かに随分酔っておられましたけれど、ソファですぐに寝てしまわれましたし、私は何も知りませんよ。夢でもご覧になったんじゃありませんか……?」

 ヘレンが――ヘレンが完全にシラを切ろうとしている……。それが彼女の望む方向なのだと察して嫌な汗をかいた。

「実は俺もほとんど覚えていないんだが――お前に何かしたような気がするんだ。俺の気のせいか?」
「な……何もありませんでしたよ」
「本当か」
「……」

 返事はなかった。

「もしも俺がお前に何かしたのなら……まあ、とりあえず、それなりの責任は、とるよ」

 ウェインの胸中では語尾に自ずと力が入ったのだが、ヘレンの方はその言葉の意味を咀嚼しかねた。
 責任をとるとはどういう意味だろうか。やはり慰謝料を支払ってさようなら……だろうか?
 彼女はできたてのベーコンを皿に手際よく載せ、笑顔で振り返った。

「本当に何もありませんでしたよ。旦那様が気にされるようなことは何もありませんでした。さあ、朝食ができましたよ。席についてくださいな。今日はカリカリベーコンとシーザーサラダと、それからフワフワのポーチドエッグですよ」
「…………」

 ウェインが返す言葉もないまま椅子に座ると、テーブルの上に彩りの鮮やかなそれらが並べられた。そして向かいに彼女も座り、普段通りの朝食が始まった。

「旦那様はポーチドエッグはお好きですか?」
「あ……ああ……」
「昨日、良い卵が手に入ったんですよ」

 完全になかったことにされ、彼は甚だショックを受けた。
 責任を取るといえば、自分に気がある女は喜ぶと思っていたのだ。

 一方のヘレンは、溢れんばかりの笑顔で差しさわりのない世間話を続けた。ウェインに嘘をついた後ろめたさはあったが、上手くシラを切り通すことを成し遂げた喜びの方が勝っていた。何もなかったことになった。解雇されずにこの家に残る道を切り開けたことが嬉しかった。そして何より、あの夢のような言葉の数々のせいで昨晩から彼に対する“片想い”の高まりは以前より格段に増していたのだ。
 彼女があまりにも嬉しそうな眼差しを向けるので、ウェインは内心で何度も首をかしげた。
   
   
   
 その日の夕食には、ピッコラの手作りバゲットやビーフシチューなど、ウェインの気に入っている料理が食卓に並んだ。
 なぜか自分の好みが彼女には分かるらしい。それらを見ても、様々な心配が杞憂だったことが分かる。

 偶然、夕食時を狙ってまたジニーがやって来た。
 ウェインは、なぜか以前ほどには彼の侵入を拒む気にはならなかった。
 ヘレンはいつもと変わらず、ジニーと楽しそうに世間話をしていた。流行りの小説の話、俳優の話、音楽の話。
 弾む声からは明るさしか感じられない。
 その眼差しは、以前ジニーが言っていた通り、自分を見る時だけ違う色をしているような気がした。
 あれだけ自分に笑顔を向けてくるのを見れば、彼女があの夜のことを喜んでいるのは明らかで、ジニーに嫉妬するのがバカらしくなった。
 軽蔑されるどころか、喜ばせた。そう思うと無性に胸が熱くなる。
 ヘレンがあまりにも幸せそうに笑顔を振りまくせいで、何もない殺風景なこの家が急に鮮やかに見え始めた。


 月曜の朝は快晴だった。
 ウェインは出勤の為、7時に起床した。
 寝室の真ん中に鎮座しているキングサイズのベッドで上体を起こして伸びをする。
 普段なら週初めの朝などは気だるくてやる気も起きないものだが、なぜかその日はすっきりと目が覚めた。立ち上がっても体は軽い。
 着替えのワイシャツの袖に腕を通しながら、ふと、小さく笑ってしまった。
 実は最近、洗濯もヘレンがしている。自分にさせろと何度も言うので根負けしたのだ。
 元々掃除だけを頼んでいた掃除婦がいつしか住み込みで食事も作るようになり、気付いた時には全て任せる羽目になっていた。真っ白な襟袖に綺麗なアイロンがけが施されている。

「何でなかったことにされたんだろうな……」

 ベッドに腰掛け、前髪をかき上げて少しの間うなだれた。
 そろそろ朝食が用意されている頃だろうか。再び立ち上がり、身支度を整えると気を入れなおして歩き出し、寝室を出ようとドアノブを回した。
 しかし、ここでもまた項垂れることになった。

 ドアの鍵が開いている――。

「かけ忘れた……」

 もはやヘレンに対する警戒心などどこにもなかった。最後の砦もとっくに陥落していたのだ。
 彼はドアの前でひっそりと敗北した。

 キッチンへ行くと今朝もヘレンは随分機嫌が良く、優しい笑顔で「おはようございます」と振り返ってくれた。その姿を見るだけで溢れるような力が湧いて来る。
 とどめを刺されたのは出発の時だ。
 玄関を出ようとドアを開けた時、廊下を通りがかったヘレンが気付いて走ってきたのだ。あの夜、あんな下衆なことをした自分に対して、ニコニコと嬉しそうに、近くへ寄って来て言った。

「旦那様、今から出勤ですか。行ってらっしゃいませ」

 それは――この国の慣習では、メイドや、新妻のする行為だ。

「行ってきます」

 そしてそれに返事をするのは、メイドに対する行為ではない。
 ドアはパタンとしまり、ウェインは出かけて行った。

 ヘレンは返事をされてやっと、以前より二人の距離が近くなっていることに気付いた。そして何より、彼の顔があの夜見たのと同じくらい穏やかだったことに呆然と立ち尽くしてしまった。

 会社へ向かうウェインの足取りは軽い。
 朝の光に照らされた眩しい道を歩きながら、色んなことを考えた。

 なぜなかったことにされたのだろう。何度考えても分からないが、恐らく何か勘違いしているに違いない。情けないきっかけだが、彼女との仲を進展させよう……。
 できるだけ時間をかけずにもっと距離を近付けて……酒場の連中に知られないように……ジニーになんと言い訳しようか……。
 そんなことを考えるのも、楽しくて仕方なかった。
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