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21:飴色の手紙
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その日の夕食は、予告どおり焼き立てのバゲットが食卓に上った。
程よく固すぎないそれは、コヴェン原産の果実である紫色の小さな干しピッコラがふんだんに練り混ぜられた絶品で、当然ウェインはこれを残さず全てたいらげた。
食事を終えると、彼は缶ビールを持ってリビングのソファへ移り、組んだ足の上にノートパソコンを開いてニュースサイトを巡った。
こんな日常の風景をさらすのも、ヘレンが住み込んでしばらくの間は自室にこもって控えていたものだが、今では慣れてしまった。
最初は他人との生活に警戒もしていたが、彼女は食事の後片付けをして夜二十一時を回った頃には二階へ行ってしまう。その後はプライベートの時間は保たれ、特に問題に感じるようなことは何もなかった。
食事の後片付けを終え、ヘレンがニコニコしながらリビングへやって来た。勤務時間はとうに過ぎてエプロンも外されている。
ソファのウェインに向かい、小さな紙の切れ端を差し出してくる。
「見てください、旦那様、さっき言っていた物です。二階のお部屋にあるレリーフからこんな物が出てきたんですよ」
見るとそれは古びた飴色のメモ用紙のような物だった。男の字で走り書きがされている。
愛しい君へ。やあ、元気かい。
二人きりで話したいことがあるんだ。
君の仕事中にはうかつに話しかけられないし、悪いけど今夜午前二時頃に例の隠し部屋へ来てくれると嬉しい。
その時間はオルドーが起きているかもしれないから、絶対誰にも気付かれないようにこっそり部屋を抜け出して来て。
ああ、早く会いたいなぁ。待ってるよ。
「これが、あのレリーフから?」
「はい、バラの葉の一枚が隠しポケットになっていて、そこに入っていたんです。以前の住人の方の物でしょうか」
「……そのようだな。オルドーというのは俺の知り合いで、以前ここに住んでいた男の名だ」
経年でいえば三十年以上はくだらないだろう。内容や書き文字から推察して、この手紙を書いたのはオルドーの四人家族の中で比較的若かった男――十中八九、ウィキ辞典でいちばん悪名高かった長男だと推察できる。
隠し部屋というのは当然、この間発見した屋根裏部屋のことに違いない。
ヘレンはまだ、この家でどんな事件があったかを知らないらしく、目をキラキラと輝かせていた。
「これって、多分メイドさんとの逢い引きの約束ですよね。まるで恋愛小説みたい……」
「逢い引き……?」
「ええ、私ずっと考えていたんです。これを書いた人はあのレリーフに手紙を隠して相手のメイドさんとやり取りをしていたんじゃないかって。主従の秘めた関係は残念な結果が多いと聞きますけれど、この内容だと男性の方が女性を好きみたいですし、きっと二人はうまく行ったんじゃないかしら」
何も知らない彼女は夢見るような目をしており、ウェインは嫌な汗をかいた。
確かに手紙のやり取りをしていたのかもしれないが、こんな走り書きの空々しい文言にすら女は夢を見てしまうのだ。先入観を省いて読めば、いかがわしい男がいかがわしい目的を持って呼びつけているのが容易に想像できる。
極論、その行為が穏便なものだったかどうかも怪しい。この家を自分に売りつけた弟のオルドーも大概だが、兄はもっと悪質な手癖の悪い男だったというし、この男はメイドを弄んで返り討ちに遭い、殺されたのだから。
ウェインはしかし、それとは違ったベクトルで返答に窮していた。
というのも、彼は愛だの何だのといった男女の色恋話が大の苦手なのだ。できれば避けて通りたいのだが、このヘレンのうっとりした顔を見ると当惑してしまう。
彼女は恋愛に夢を見ているのだ。クサい男から四六時中好きだの愛してるだの言われたい普通のうら若き娘なのだ……。
「しかし、これはなかなか興味深いな。もしかしたらだが、まだ解決していない事件の手がかりになるかもない」
ウェインは話題の方向性を捻じ曲げた。
ヘレンはきょとんとして首を捻った。
「じ、事件……ですか。関係あるんでしょうか。この家で一体何があったんですか?」
「俺もよくは知らないが、昔ここに住んでいたオルドー以外の家族全員が殺されたとは聞いている……」
「まあ……」
途端にヘレンのテンションがガクッと落ちたので、ウェインは取り繕った。
「全員といっても夫妻と長男の3人だ。それにずっと昔の話だ」
「どうして、誰に殺されてしまったんですか」
「……さあ、知らないが……」
とぼけながら思う。
これまでずっとヘレンには隠して来たが、殺人犯のメイドの自殺体がまだこの家のどこかにあるという迷惑極まりない噂はいずれ彼女の耳に入ってしまうだろう。
あの屋根裏部屋にそんなものがなかったことは彼女も承知しているから焦る必要はないのかもしれないが、このまま秘密にし続ければいずれ信頼を失いかねない。そういう訳で少し迷ったが、ヘレンに全てを教えることにした。
それとなく話を切り出す為に手紙の一文を指差す。
「――ところで、このメモに書いてある『隠し部屋』というのは、この間見つけた屋根裏のあれのことだろうか」
ヘレンが目の前に寄ってきてそれを覗き込んだ。一瞬、ほんのりと花の香りが漂ってくる。
「私もそう思いました。夜中にこっそり上がるにしては少し大変な気もしますけれど、可能性は高いですよね」
しばらく沈黙が落ちた。
すぐ近くで手紙を見つめるヘレンの横顔は、瞬きするたびに長いまつげが上下している。ブラウンのふんわり髪に息でも吹きかけたらどんな顔をするのだろう。
「検索してみるか」
「え……?」
振り向いたヘレンは、顔が近いことにやっと気付いておののいた。
「イ、インターネットですか?」
「ああ、あまりいい結果は出ないかもしれないが、事件について調べればその手紙についても何か分かるかもしれない」
「では、お願いできますか」
「じゃあ、まあ、座れ」
「あ……はい……」
ソファに目配せすると、ヘレンは躊躇いがちに隣に腰掛け、主人の膝上のパソコンに集中した。
ウェインは何も知らないフリをして、もう一度同じ記事を開いた。
程よく固すぎないそれは、コヴェン原産の果実である紫色の小さな干しピッコラがふんだんに練り混ぜられた絶品で、当然ウェインはこれを残さず全てたいらげた。
食事を終えると、彼は缶ビールを持ってリビングのソファへ移り、組んだ足の上にノートパソコンを開いてニュースサイトを巡った。
こんな日常の風景をさらすのも、ヘレンが住み込んでしばらくの間は自室にこもって控えていたものだが、今では慣れてしまった。
最初は他人との生活に警戒もしていたが、彼女は食事の後片付けをして夜二十一時を回った頃には二階へ行ってしまう。その後はプライベートの時間は保たれ、特に問題に感じるようなことは何もなかった。
食事の後片付けを終え、ヘレンがニコニコしながらリビングへやって来た。勤務時間はとうに過ぎてエプロンも外されている。
ソファのウェインに向かい、小さな紙の切れ端を差し出してくる。
「見てください、旦那様、さっき言っていた物です。二階のお部屋にあるレリーフからこんな物が出てきたんですよ」
見るとそれは古びた飴色のメモ用紙のような物だった。男の字で走り書きがされている。
愛しい君へ。やあ、元気かい。
二人きりで話したいことがあるんだ。
君の仕事中にはうかつに話しかけられないし、悪いけど今夜午前二時頃に例の隠し部屋へ来てくれると嬉しい。
その時間はオルドーが起きているかもしれないから、絶対誰にも気付かれないようにこっそり部屋を抜け出して来て。
ああ、早く会いたいなぁ。待ってるよ。
「これが、あのレリーフから?」
「はい、バラの葉の一枚が隠しポケットになっていて、そこに入っていたんです。以前の住人の方の物でしょうか」
「……そのようだな。オルドーというのは俺の知り合いで、以前ここに住んでいた男の名だ」
経年でいえば三十年以上はくだらないだろう。内容や書き文字から推察して、この手紙を書いたのはオルドーの四人家族の中で比較的若かった男――十中八九、ウィキ辞典でいちばん悪名高かった長男だと推察できる。
隠し部屋というのは当然、この間発見した屋根裏部屋のことに違いない。
ヘレンはまだ、この家でどんな事件があったかを知らないらしく、目をキラキラと輝かせていた。
「これって、多分メイドさんとの逢い引きの約束ですよね。まるで恋愛小説みたい……」
「逢い引き……?」
「ええ、私ずっと考えていたんです。これを書いた人はあのレリーフに手紙を隠して相手のメイドさんとやり取りをしていたんじゃないかって。主従の秘めた関係は残念な結果が多いと聞きますけれど、この内容だと男性の方が女性を好きみたいですし、きっと二人はうまく行ったんじゃないかしら」
何も知らない彼女は夢見るような目をしており、ウェインは嫌な汗をかいた。
確かに手紙のやり取りをしていたのかもしれないが、こんな走り書きの空々しい文言にすら女は夢を見てしまうのだ。先入観を省いて読めば、いかがわしい男がいかがわしい目的を持って呼びつけているのが容易に想像できる。
極論、その行為が穏便なものだったかどうかも怪しい。この家を自分に売りつけた弟のオルドーも大概だが、兄はもっと悪質な手癖の悪い男だったというし、この男はメイドを弄んで返り討ちに遭い、殺されたのだから。
ウェインはしかし、それとは違ったベクトルで返答に窮していた。
というのも、彼は愛だの何だのといった男女の色恋話が大の苦手なのだ。できれば避けて通りたいのだが、このヘレンのうっとりした顔を見ると当惑してしまう。
彼女は恋愛に夢を見ているのだ。クサい男から四六時中好きだの愛してるだの言われたい普通のうら若き娘なのだ……。
「しかし、これはなかなか興味深いな。もしかしたらだが、まだ解決していない事件の手がかりになるかもない」
ウェインは話題の方向性を捻じ曲げた。
ヘレンはきょとんとして首を捻った。
「じ、事件……ですか。関係あるんでしょうか。この家で一体何があったんですか?」
「俺もよくは知らないが、昔ここに住んでいたオルドー以外の家族全員が殺されたとは聞いている……」
「まあ……」
途端にヘレンのテンションがガクッと落ちたので、ウェインは取り繕った。
「全員といっても夫妻と長男の3人だ。それにずっと昔の話だ」
「どうして、誰に殺されてしまったんですか」
「……さあ、知らないが……」
とぼけながら思う。
これまでずっとヘレンには隠して来たが、殺人犯のメイドの自殺体がまだこの家のどこかにあるという迷惑極まりない噂はいずれ彼女の耳に入ってしまうだろう。
あの屋根裏部屋にそんなものがなかったことは彼女も承知しているから焦る必要はないのかもしれないが、このまま秘密にし続ければいずれ信頼を失いかねない。そういう訳で少し迷ったが、ヘレンに全てを教えることにした。
それとなく話を切り出す為に手紙の一文を指差す。
「――ところで、このメモに書いてある『隠し部屋』というのは、この間見つけた屋根裏のあれのことだろうか」
ヘレンが目の前に寄ってきてそれを覗き込んだ。一瞬、ほんのりと花の香りが漂ってくる。
「私もそう思いました。夜中にこっそり上がるにしては少し大変な気もしますけれど、可能性は高いですよね」
しばらく沈黙が落ちた。
すぐ近くで手紙を見つめるヘレンの横顔は、瞬きするたびに長いまつげが上下している。ブラウンのふんわり髪に息でも吹きかけたらどんな顔をするのだろう。
「検索してみるか」
「え……?」
振り向いたヘレンは、顔が近いことにやっと気付いておののいた。
「イ、インターネットですか?」
「ああ、あまりいい結果は出ないかもしれないが、事件について調べればその手紙についても何か分かるかもしれない」
「では、お願いできますか」
「じゃあ、まあ、座れ」
「あ……はい……」
ソファに目配せすると、ヘレンは躊躇いがちに隣に腰掛け、主人の膝上のパソコンに集中した。
ウェインは何も知らないフリをして、もう一度同じ記事を開いた。
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