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13:月明かり①
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ジニーが他の店で飲み直そうと言っていたが、ウェインは体中がマティーニ浸しでそんな気にはなれず「帰って風呂入って寝る」と告げ、地下鉄に乗って帰路についた。
月明かりの下、ビジネス鞄を片手に最寄り駅を出たのは午後九時すぎのことだ。
この辺りは高級繁華街が続き、目と鼻の先に警察署もあるため治安の面ではほとんど問題ない――が。
「――――構ですから――」
歩道を歩くうち、ふいにあの掃除婦の声が聞こえた気がした。
いや、彼女はコヴェンの南に住んでいるから、こんな時間にこの街にいるわけはないのだが。気のせいと思いながらも耳に集中していると、再び聞こえる。
「――だ、大丈夫ですから、本当に――」
「いいよいいよ、連れてってあげるって」
「いえ、あの……」
声の方へ足を運び、人ごみの中を探してみると、薄暗い路地の入り口にその姿が見えた。
ふんわり髪に、たまにウェイン宅でも着ているフレアスカートの清楚なワンピースは、色めいた夜の街では幾分浮いている。ヘレンはチンピラの出来損ないみたいなロンティー男に腕を掴まれていた。
ウェインが一歩踏み出る。
「おい、どういう状況だ。そいつはお前の知り合いか?」
普段通りの鋭い目で声をかけると、彼女は目を見開いて声にならない声をあげた。
「だ、旦那様……っ」
「あぁ……? 連れがいんのか。なんだよー」
男は軽く舌打ちし、逃げるように小道の奥へ消えていった。
ヘレンはさっと目元を手で拭った。
「旦那様……、どうしてここに……」
「こっちのセリフだ。こんな所で何をしている」
「……その、この辺りで泊まれるホテルを探していたら絡まれてしまって……」
「ホテル……? この辺はミドル以上のホテルか風俗しかないぞ。こんな時間に一人で歩き回っていたら危ないだろ。また誘拐でもされたらどうするんだ。……こちらが迷惑なんだが」
「すみません……」
しょんぼりと謝ったヘレンの手には大きなトートバッグと三つの膨らんだ紙袋があった、ウェインはそれを見て何か不穏な感覚をおぼえた。
「お前、その荷物はなんだ」
「……お洋服などです……」
「家出でもしたのか。母親はどうした」
「母は……」
ヘレンは再び目からぼろっと落ちたものをごまかすようにさっと拭った。
聞けば、彼女の母親は先週亡くなったのだという。この日まで何も言わずに掃除に来ていたから、ウェインにとっては初耳だった。
「それで、なぜホテルを探していた」
「……家から追い出されてしまったんです」
「追い出された? 誰に」
「……不動産屋さんに……。母が持っていた書類が必要と言われて、お渡ししたら、家に入れてもらえなくなってしまって……」
「サインしてしまったのか」
「はい……」
「それは騙されたんだ」
「やっぱりそうですか……生まれた時から母と暮らしてきた大切な家だったのに……」
溢れてきた涙を、ヘレンはもう一度払った。
「アパートを借りるにも、私の収入ではどこもお部屋を貸してくださらなくて……見つかるまでは旦那様のお宅に近いホテルにと思ったんですが……」
「誰か――親戚か、頼れる連れはいないのか」
「学校時代のお友達はいますが、みんな寮生だったり、下宿していたり、色々事情があって無理なんです」
力なく項垂れたヘレンを見下ろし、ウェインはしばらく考えてから言った。
「……まあ……とりあえず今日はうちへ行こう」
「え……?」
ヘレンが顔をあげた時には、彼はヘレンの手から紙袋を二つ取り上げて歩き出していた。驚いている暇もなく、彼女も慌ててその後を追った。
ウェインはどんどん先を歩いていく。二人であの家へ向かう間、気まずい無言の時間が流れていた。
ヘレンは斜め前を行く彼の横顔を何度も見遣ったが、相変わらず鋭い目をした無表情で何を考えているのかは分からない。
今夜、この人の家に泊めてもらうことになってしまった。
ヘレンの手は汗でどんどん冷たくなっていった。
どう考えても彼は親切で優しい人だ。今のところは……。
あの誘拐犯が言っていたような悪い人間だったら、さっきヘレンを見つけても見て見ぬふりをしたはずだ。
でもそうじゃなかった。助けてくれたのだ……。たぶん。
ヘレンの胸は複雑な高鳴りを始めた。
自分の後ろでそんなことになっているとも知らず、ウェインはひたすら考え事をしていた。無表情だが頭の中は眩暈を催すほどフル回転で稼動し、彼女が抱えた問題の解決策を模索し続けていた。
しかし、おかしいのだ。なぜかどんなに考えても答えが一つしか浮かんで来ない。
何度考え直しても、それ以外に出ない。
ウェインは随分悩んだ末、後ろのヘレンにその答えを投げた。
「お前の住む場所だが……うちの二階は全く使ってないから空き部屋はいくらでもある。どれでも使っていいよ」
「え……?」
「ホテルに長居できるほどの金はないだろ。うちなら二階にもバスルームはあるし……ただ、ベッドがないから今夜はリビングのソファで寝てもらうことになるが」
ヘレンは驚愕した。
ちょっと親切すぎないだろうか……?
「い、良いのでしょうか」
「ああ、良いよ」
「で、でも、お部屋代は……? 何かお返ししませんと……」
「部屋代……? あぁ……」
ウェインは少し考えてから言った。
「だったら、そうだな、ハウスキーパーの仕事を週四日に登録し直して、住み込みということにしてもらおうか。そうすれば一日の仕事量も分散できるだろ。……どうだ?」
自分を見向きもせずに応答するウェインの背中を眺めながら、ヘレンはきょとんと首を傾げた。それって、給料も増えるのでは……?
次第に、嬉しさで目に涙が滲んだ。
まだ完全に信じたわけではない。でも、もし彼が本当に誘拐犯のいう通りの『ドクズ人間』なら、『ガキ』のヘレンに手を出すことがないのも本当のはずだ。
「もちろん……、もちろん旦那様が良いとおっしゃるなら……! でしたら、朝昼晩のお食事の用意とお洗濯は全部サービスでお付けしますよ」
「…………ああ。だったら、洗濯はいいから、食事だけ頼むよ」
「まあ、お洗濯もさせてくださいな」
「いや、いいから……」
さすがにその辺の秘密は守りに入られてしまったが、ヘレンの主人は、想像していたよりずっと親切な人のようだった。
<つづく>
月明かりの下、ビジネス鞄を片手に最寄り駅を出たのは午後九時すぎのことだ。
この辺りは高級繁華街が続き、目と鼻の先に警察署もあるため治安の面ではほとんど問題ない――が。
「――――構ですから――」
歩道を歩くうち、ふいにあの掃除婦の声が聞こえた気がした。
いや、彼女はコヴェンの南に住んでいるから、こんな時間にこの街にいるわけはないのだが。気のせいと思いながらも耳に集中していると、再び聞こえる。
「――だ、大丈夫ですから、本当に――」
「いいよいいよ、連れてってあげるって」
「いえ、あの……」
声の方へ足を運び、人ごみの中を探してみると、薄暗い路地の入り口にその姿が見えた。
ふんわり髪に、たまにウェイン宅でも着ているフレアスカートの清楚なワンピースは、色めいた夜の街では幾分浮いている。ヘレンはチンピラの出来損ないみたいなロンティー男に腕を掴まれていた。
ウェインが一歩踏み出る。
「おい、どういう状況だ。そいつはお前の知り合いか?」
普段通りの鋭い目で声をかけると、彼女は目を見開いて声にならない声をあげた。
「だ、旦那様……っ」
「あぁ……? 連れがいんのか。なんだよー」
男は軽く舌打ちし、逃げるように小道の奥へ消えていった。
ヘレンはさっと目元を手で拭った。
「旦那様……、どうしてここに……」
「こっちのセリフだ。こんな所で何をしている」
「……その、この辺りで泊まれるホテルを探していたら絡まれてしまって……」
「ホテル……? この辺はミドル以上のホテルか風俗しかないぞ。こんな時間に一人で歩き回っていたら危ないだろ。また誘拐でもされたらどうするんだ。……こちらが迷惑なんだが」
「すみません……」
しょんぼりと謝ったヘレンの手には大きなトートバッグと三つの膨らんだ紙袋があった、ウェインはそれを見て何か不穏な感覚をおぼえた。
「お前、その荷物はなんだ」
「……お洋服などです……」
「家出でもしたのか。母親はどうした」
「母は……」
ヘレンは再び目からぼろっと落ちたものをごまかすようにさっと拭った。
聞けば、彼女の母親は先週亡くなったのだという。この日まで何も言わずに掃除に来ていたから、ウェインにとっては初耳だった。
「それで、なぜホテルを探していた」
「……家から追い出されてしまったんです」
「追い出された? 誰に」
「……不動産屋さんに……。母が持っていた書類が必要と言われて、お渡ししたら、家に入れてもらえなくなってしまって……」
「サインしてしまったのか」
「はい……」
「それは騙されたんだ」
「やっぱりそうですか……生まれた時から母と暮らしてきた大切な家だったのに……」
溢れてきた涙を、ヘレンはもう一度払った。
「アパートを借りるにも、私の収入ではどこもお部屋を貸してくださらなくて……見つかるまでは旦那様のお宅に近いホテルにと思ったんですが……」
「誰か――親戚か、頼れる連れはいないのか」
「学校時代のお友達はいますが、みんな寮生だったり、下宿していたり、色々事情があって無理なんです」
力なく項垂れたヘレンを見下ろし、ウェインはしばらく考えてから言った。
「……まあ……とりあえず今日はうちへ行こう」
「え……?」
ヘレンが顔をあげた時には、彼はヘレンの手から紙袋を二つ取り上げて歩き出していた。驚いている暇もなく、彼女も慌ててその後を追った。
ウェインはどんどん先を歩いていく。二人であの家へ向かう間、気まずい無言の時間が流れていた。
ヘレンは斜め前を行く彼の横顔を何度も見遣ったが、相変わらず鋭い目をした無表情で何を考えているのかは分からない。
今夜、この人の家に泊めてもらうことになってしまった。
ヘレンの手は汗でどんどん冷たくなっていった。
どう考えても彼は親切で優しい人だ。今のところは……。
あの誘拐犯が言っていたような悪い人間だったら、さっきヘレンを見つけても見て見ぬふりをしたはずだ。
でもそうじゃなかった。助けてくれたのだ……。たぶん。
ヘレンの胸は複雑な高鳴りを始めた。
自分の後ろでそんなことになっているとも知らず、ウェインはひたすら考え事をしていた。無表情だが頭の中は眩暈を催すほどフル回転で稼動し、彼女が抱えた問題の解決策を模索し続けていた。
しかし、おかしいのだ。なぜかどんなに考えても答えが一つしか浮かんで来ない。
何度考え直しても、それ以外に出ない。
ウェインは随分悩んだ末、後ろのヘレンにその答えを投げた。
「お前の住む場所だが……うちの二階は全く使ってないから空き部屋はいくらでもある。どれでも使っていいよ」
「え……?」
「ホテルに長居できるほどの金はないだろ。うちなら二階にもバスルームはあるし……ただ、ベッドがないから今夜はリビングのソファで寝てもらうことになるが」
ヘレンは驚愕した。
ちょっと親切すぎないだろうか……?
「い、良いのでしょうか」
「ああ、良いよ」
「で、でも、お部屋代は……? 何かお返ししませんと……」
「部屋代……? あぁ……」
ウェインは少し考えてから言った。
「だったら、そうだな、ハウスキーパーの仕事を週四日に登録し直して、住み込みということにしてもらおうか。そうすれば一日の仕事量も分散できるだろ。……どうだ?」
自分を見向きもせずに応答するウェインの背中を眺めながら、ヘレンはきょとんと首を傾げた。それって、給料も増えるのでは……?
次第に、嬉しさで目に涙が滲んだ。
まだ完全に信じたわけではない。でも、もし彼が本当に誘拐犯のいう通りの『ドクズ人間』なら、『ガキ』のヘレンに手を出すことがないのも本当のはずだ。
「もちろん……、もちろん旦那様が良いとおっしゃるなら……! でしたら、朝昼晩のお食事の用意とお洗濯は全部サービスでお付けしますよ」
「…………ああ。だったら、洗濯はいいから、食事だけ頼むよ」
「まあ、お洗濯もさせてくださいな」
「いや、いいから……」
さすがにその辺の秘密は守りに入られてしまったが、ヘレンの主人は、想像していたよりずっと親切な人のようだった。
<つづく>
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