上 下
9 / 68

9:花の価値②

しおりを挟む
 犯人のミニバンは郊外の山の中――森のはずれに建てられた古いコノリタの聖祈堂廃墟跡に停められていた。

 一般的な様式通り、この聖祈堂も背の高い楼閣と、祈祷師や修道人が生活する為の離れからなっており、楼の頂に古びた銅の鐘が吊るされている。朽ちた白い外壁に、聖者ウィルヴィルが描かれたステンドグラスの大きな赤い窓が見え、建物の前には聖木のカジュマンドも植えられているが、全く手入れされておらず枝が伸び放題だ。
 あたりに人の気配はなく、草もぼうぼうと生い茂っている様は一目で廃墟だと知れた。

「クソッ。お前、本当に掃除婦だったのか!」
「だから、何度も言ったじゃないですか。私は旦那様の婚約者じゃありません。分かって頂けたなら早く帰してくださいな」

 剥がれ落ちた土壁が床に散乱している建物の中で、単独犯らしい中年男とヘレンの声がいんいんと響いた。
 壁の隙間から雑草も生えて荒れ放題。長椅子がいくつも並ぶ向こうには祭壇が見え、吹き抜けの天井と、くすんだ窓から白んだ光が斜めに差し込んでいる。

 埃まみれでボロボロの作業服をだらんと羽織った背の低い誘拐犯、レッグはヘレンの後ろ手から伸びたロープを長椅子に縛り付け、彼女をそれに座らせた。
 ボサボサ頭で一挙一動が粗野な男だ。
 ヘレンは車に乗せられてからしばらくパニック状態だったが、途中でレッグの勘違いに気付いてからはひたすら説得を試みていた。

「あなたはここまで全然暴力的なことはしていません。本当は良い人なんでしょう? どうしてこんなことをしたんですか。いけないことですよ!」
「はっ、どうしてだって? そりゃ金だ。俺はあいつに三万てぇ大金を賭けてんだ。金の為なら誰だって必死になるだろぉ!?」
「賭けてるって何の話ですか。私を誘拐したってお金になんかなりませんよ。仕事は大遅刻しちゃったし、私、ただですら旦那様に気に入られてないんです。首になったら困るんですよ。お願いだから帰して!」
「はぁ……?」

 この状況でものんきに仕事の心配をするヘレンを見て、レッグはつくづく後悔していた。確かにこんな小娘が、いつもウィスキーとあの顔でハードボイルド感を醸しているウェインの女に収まるとは到底思えないからである。

「あんた、このまま無事に生きて帰れると思ってるようだが、そりゃ早計ってもんだぜ」
「え……?」
「そりゃそうだろ。俺は顔を見られちまってるし、このままあんたをのこのこ帰して通報されたんじゃ、俺はただのバカ野郎じゃねぇかい。使えるもんは全部使っとかねぇとな」
「ど、どういうことですか……?」
「あんたにはまだ使い道があるってことさぁ」
「えぇ……!?」

 おののいたヘレンにレッグがニヤリと笑いかけた。

「へっへっ。こうなったらもうヤケクソだ。ウェインがあんたの為に金を払うとは思えんが、とりあえず身代金を要求してみようや」
「そ、そんなことやめて下さい。旦那様が私の為にお金なんか払うわけないじゃないですか。あの方に迷惑かけたくないんです! やめて下さい!」

 ヘレンが顔をしかめたのを見て、レッグは親指と人差し指の間で顎を支えて訝し気に首を傾げた。

「あんた、自分の身が危ういってぇこの時にそんなに気ぃ遣って、なんかあいつに気でもあんのかい」
「ち……、違います。ただ私は旦那様にわずらわしく思われたくないだけです。それに、脅迫なんかしたって無駄ですよ。私はあまり気に入られていませんから……」
「なんだか健気だねぇ。そりゃそうだろうが、とりあえずダメもとで金を要求してみようぜ。それでダメだったんなら――まぁ、その後のことはそん時考えようや」

 言いながらなぜか後ろめたそうに目を逸らしたレッグを見て、ヘレンの顔色は次第に青くなっていった。
 自分の置かれた状況は思っていたよりも深刻なのではないだろうか。
 主人が掃除婦の為に身代金を支払うなんて聞いたことがない。仮に支払ってくれたとしても、犯人の顔を見てしまっているし、この誘拐犯の言い草には妙な不安が残る……。


 レッグは埃で汚れたズボンのポケットから携帯を取り出し、ヘレンの目の前で電話をかけ始めた。
 3コールほどしてウェインから応答があったらしく、二言三言やり取りが始まる。そしてやにわに誘拐犯の甲高いだみ声が吹き抜けの天井まで響き渡った。

「よぉ!、こいつ本当に掃除婦なんだってなぁ。だったらお前の使用人を人質にする。身代金一千万ガドル用意しろ!!!!!!」

 一千万――――――!!

 それはヘレンの想像もしていなかった、あまりにも高額な要求だった。

「ちょ、ちょっと待ってください! 旦那様がそんな大金を私の為に用意するわけないじゃないですか!」
「お前は黙ってろぉ!」
「きゃぁっ!!」

 ダァンッ!! と、ヘレンが座っているのとは別の椅子が蹴り上げられ、思わず悲鳴を上げた。
 誘拐犯が本性を現した――!! そう思ったら自然と体が震えはじめた。
 あの人はどんな返事をするのだろう。レッグの耳元の携帯を一心に見つめずにはいられなかった。

「そうだ、よく聞け、現金で一千万だ。それを夜までに用意しろ」

 レッグがドスのきいた声で威圧する。

「ああ、そうだ。できなかったらこの娘っ子がどうなるか分かってんだろうなぁ! ああ、当然だろ。俺はこいつを散々いたぶってからぶっ殺すって言ってんだよ!」

 ヘレンはゾッとして頭から血の気が引いていくのが分かった。心の底から祈るようにぎゅっと目を瞑る。

「ああ。ああ。……ああぁ!? そんなこと言って良いのか。こっちははったりじゃねぇんだぞ。てめぇ、本当に良いってのか!?」

 想像通りの言葉が聞こえ、たまらずレッグに背を向けて下を向いた。目の前が真っ暗になり、ただただ涙がにじんでくる。

「そんなこと言うなよ。だったら五百、いや、三百でどうだ! おい、聞いてんのか!」

 耳を塞ぎたいのに両手を繋がれていて塞げない。

「ど畜生が! 俺は本気で言ってんだぞ――ああ!?」

 聞きたくない。聞きたくないのに。

「なんだと!? そりゃどういう意味だ!? ――ああああ!?!? ふざっけんなよこの野郎っ!!!!!!」

 傷だらけのくすんだ窓から光が差して、埃まみれの床に虚しく絵を描いている。廃墟に取り残された赤い聖者のステンドグラス。
 聖なる場所に、絶望を意味する声がこだました。

「このクズ野郎がっっ!!!!!!」

 交渉は決裂した。
 レッグは通話をぶち切ると、恐ろしい怒りの形相で今度は長椅子を蹴り倒した。

「バカにしやがってぇ!!!!!!」
「きゃぁっ」

 ヘレンをねめつけ、彼女を繋いでいるロープを思いきり手繰り寄せる。

「来い!!!!」
「いやっ、やめて! ここは神聖な場所ですよ!」
「来いってんだよぉお!!!!」

 ヘレンは頬を濡らし、髪を振り乱して抵抗した。しかし後ろ手にされた娘の力では、荒々しい男の力に叶うはずもない。
 痛む手首で力いっぱいロープを引っ張り返し、死に物狂いで窓際へ身を寄せたものの、そこまでだった。
 涙が止まらなかった。これからされるおぞましいことよりも、あの人に躊躇なく見捨てられたことの方がなぜか悲しくて仕方なかった。分かりきっていたことなのに。期待なんかしていなかったのに。


<つづく>

しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

毒小町、宮中にめぐり逢ふ

鈴木しぐれ
キャラ文芸
🌸完結しました🌸生まれつき体に毒を持つ、藤原氏の娘、菫子(すみこ)。毒に詳しいという理由で、宮中に出仕することとなり、帝の命を狙う毒の特定と、その首謀者を突き止めよ、と命じられる。 生まれつき毒が効かない体質の橘(たちばなの)俊元(としもと)と共に解決に挑む。 しかし、その調査の最中にも毒を巡る事件が次々と起こる。それは菫子自身の秘密にも関係していて、ある真実を知ることに……。

大正ロマン恋物語 ~将校様とサトリな私のお試し婚~

菱沼あゆ
キャラ文芸
華族の三条家の跡取り息子、三条行正と見合い結婚することになった咲子。 だが、軍人の行正は、整いすぎた美形な上に、あまりしゃべらない。 蝋人形みたいだ……と見合いの席で怯える咲子だったが。 実は、咲子には、人の心を読めるチカラがあって――。

余命六年の幼妻の願い~旦那様は私に興味が無い様なので自由気ままに過ごさせて頂きます。~

流雲青人
恋愛
商人と商品。そんな関係の伯爵家に生まれたアンジェは、十二歳の誕生日を迎えた日に医師から余命六年を言い渡された。 しかし、既に公爵家へと嫁ぐことが決まっていたアンジェは、公爵へは病気の存在を明かさずに嫁ぐ事を余儀なくされる。 けれど、幼いアンジェに公爵が興味を抱く訳もなく…余命だけが過ぎる毎日を過ごしていく。

後宮の胡蝶 ~皇帝陛下の秘密の妃~

菱沼あゆ
キャラ文芸
 突然の譲位により、若き皇帝となった苑楊は封印されているはずの宮殿で女官らしき娘、洋蘭と出会う。  洋蘭はこの宮殿の牢に住む老人の世話をしているのだと言う。  天女のごとき外見と豊富な知識を持つ洋蘭に心惹かれはじめる苑楊だったが。  洋蘭はまったく思い通りにならないうえに、なにかが怪しい女だった――。  中華後宮ラブコメディ。

皇太子夫妻の歪んだ結婚 

夕鈴
恋愛
皇太子妃リーンは夫の秘密に気付いてしまった。 その秘密はリーンにとって許せないものだった。結婚1日目にして離縁を決意したリーンの夫婦生活の始まりだった。 本編完結してます。 番外編を更新中です。

私のドレスを奪った異母妹に、もう大事なものは奪わせない

文野多咲
恋愛
優月(ゆづき)が自宅屋敷に帰ると、異母妹が優月のウェディングドレスを試着していた。その日縫い上がったばかりで、優月もまだ袖を通していなかった。 使用人たちが「まるで、異母妹のためにあつらえたドレスのよう」と褒め称えており、優月の婚約者まで「異母妹の方が似合う」と褒めている。 優月が異母妹に「どうして勝手に着たの?」と訊けば「ちょっと着てみただけよ」と言う。 婚約者は「異母妹なんだから、ちょっとくらいいじゃないか」と言う。 「ちょっとじゃないわ。私はドレスを盗られたも同じよ!」と言えば、父の後妻は「悪気があったわけじゃないのに、心が狭い」と優月の頬をぶった。 優月は父親に婚約解消を願い出た。婚約者は父親が決めた相手で、優月にはもう彼を信頼できない。 父親に事情を説明すると、「大げさだなあ」と取り合わず、「優月は異母妹に嫉妬しているだけだ、婚約者には異母妹を褒めないように言っておく」と言われる。 嫉妬じゃないのに、どうしてわかってくれないの? 優月は父親をも信頼できなくなる。 婚約者は優月を手に入れるために、優月を襲おうとした。絶体絶命の優月の前に現れたのは、叔父だった。

王女の中身は元自衛官だったので、継母に追放されたけど思い通りになりません

きぬがやあきら
恋愛
「妻はお妃様一人とお約束されたそうですが、今でもまだ同じことが言えますか?」 「正直なところ、不安を感じている」 久方ぶりに招かれた故郷、セレンティア城の月光満ちる庭園で、アシュレイは信じ難い光景を目撃するーー 激闘の末、王座に就いたアルダシールと結ばれた、元セレンティア王国の王女アシュレイ。 アラウァリア国では、新政権を勝ち取ったアシュレイを国母と崇めてくれる国民も多い。だが、結婚から2年、未だ後継ぎに恵まれないアルダシールに側室を推す声も上がり始める。そんな頃、弟シュナイゼルから結婚式の招待が舞い込んだ。 第2幕、連載開始しました! お気に入り登録してくださった皆様、ありがとうございます! 心より御礼申し上げます。 以下、1章のあらすじです。 アシュレイは前世の記憶を持つ、セレンティア王国の皇女だった。後ろ盾もなく、継母である王妃に体よく追い出されてしまう。 表向きは外交の駒として、アラウァリア王国へ嫁ぐ形だが、国王は御年50歳で既に18人もの妃を持っている。 常に不遇の扱いを受けて、我慢の限界だったアシュレイは、大胆な計画を企てた。 それは輿入れの道中を、自ら雇った盗賊に襲撃させるもの。 サバイバルの知識もあるし、宝飾品を処分して生き抜けば、残りの人生を自由に謳歌できると踏んでいた。 しかし、輿入れ当日アシュレイを攫い出したのは、アラウァリアの第一王子・アルダシール。 盗賊団と共謀し、晴れて自由の身を望んでいたのに、アルダシールはアシュレイを手放してはくれず……。 アシュレイは自由と幸福を手に入れられるのか?

どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします

文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。 夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。 エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。 「ゲルハルトさま、愛しています」 ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。 「エレーヌ、俺はあなたが憎い」 エレーヌは凍り付いた。

処理中です...