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4:茜色の空
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毎週月曜日と木曜日にヘレンはその家へ訪れた。
当初はすぐに母親が復帰する予定だったが、思いのほか入院が長引き、この日は四回目の訪問だった。
「あそこです。天井の隅っこの、正方形の形でちょっとだけ浮き出ているところ。窓際のここにあるレバーを回すと、ほら、動いたでしょう」
「へぇ……確かに何かあるな……」
ウェインは腰に手を当てて天井を見上げていた。
邸宅の二階――廊下を中ほどまで進んだ場所にある一室で、ヘレンがある発見をしたのだ。
当初からここは他の部屋と少し様子が違っていて、緻密なデザインの壁紙があしらわれていたり、壁に大きなレリーフが埋め込まれていたりと、特別な貴族が使用していたらしいことが伺えるのだが、その日ヘレンが窓枠の裏に見つけたのは、天井の一部を動かせる小さな金属製の隠しレバーだった。
「多分、これをもっと回すとあれが開くんじゃないですか?」
「そうだな……梯子か何かが出て来そうだ。不動産屋から渡された間取り図面にこんなものは書かれていなかったが……ちょっと回してみてくれ」
言われた通りにヘレンがレバーを回すと案の定、天井の一部がパカリと開き、中から折りたたまれた梯子が現われた。さらに回してみるとキュルキュルと音を立てながら、しっかり床まで伸びて来る。
天井の穴の中は真っ暗で、上がどうなっているかは分からないが、それは明らかに――
「か、隠し部屋でしょうか……」
「だろうな。お前、中を見てくるか」
「えっ、む、無理ですよ! あの中を覗きこんだ瞬間に何かが飛び出てきたらどうするんですか。私、そういうの本当にダメなんですから!」
ヘレンはその手のモノが苦手だったため、身をちぢめて顔を強張らせた。
この家にそれほど執着のないウェインとしてはこのままほったらかす手もあるのだが、掃除婦の様子を見ながら、まぁ、行ってみるかといった体で自ら梯子をさっと登り始め、あっという間に天井の中へ入っていく。
「大丈夫ですか。何かありましたか?」
不安げに見上げて返事を待つと、上でガタガタッと木材の擦れる音がした。鎧戸の音だったらしく、暗闇だった部分に光が差した。
「大丈夫だ、来てみろ、屋上に出られるぞ」
「屋上があるんですか?」
「ああ、登れるか?」
「やってみます」
四角い穴から顔を出したウェインにコクリと頷いて、ヘレンは果敢に登り始めた。掃除でたまに脚立を使うから、登ること自体はわりと平気だ。
――そのはずだったが……、梯子というのは下がよく見える上にグラグラ揺れる。高くなるほど足が震え、ペースダウンし、随分手間取ってしまった。
なんとか上まで登って中を覗いて見ると、隠し部屋は物置程度の広さがあり、何一つ置かれていない板の間に、全開の大きな窓から美しい紫色の光が差し込んでいる。
下の部屋では気付かなかったが、西の空は夕暮れが始まっていた。
「わあ、きれい……」
「屋上へ出られるなんて話は聞いてなかったが……」
突然、ヘレンの目の前に大きな手が差し伸べられた。
一瞬驚き、慌てて掴まった彼女を、その手はあっという間に上へ引き上げてくれた。
こういう時、この国の紳士ならたいてい誰でも女性に対してはそうするものだ。でも、主人が使用人にするのはあまり聞いたことがない。この超絶不愛想な家主が見せた謎の優しさに、ヘレンは思わず目を白黒させた。
「あ、ありがとうございます……」
「来いよ。街が見える」
彼は混乱する彼女をよそに、上げ下げ窓の方へ歩んで窓枠を跨いだ。外には確かに平面の屋上があるようだ。
追いかけたヘレンが窓枠をくぐった時、西の空は茜色に染まり、そこから見える街の全てを包み込んでいた。
郊外の小高い丘の上にあるこの家の屋上からは、古いレンガの街並みが望め、まるでルビーだけが入っている宝石箱を開いたようにキラキラと輝いている。
その黄昏に胸を打たれるほど息をのみ、彼女は無意識に屋上の縁まで駆け寄っていた。
「見てください旦那様、あの空、綺麗な景色……!」
全てが赤い中、まばらに点在する住宅の隙間を縫うように2羽のツグミが羽ばたいて行く。
感動と興奮を隠し切れないヘレンが、ふんわり髪を可憐に揺らし、ブラウンであるはずの瞳を茜色にキラキラ輝かせて振り返ると、ウェインは始めから彼女を見ていて「ああ」と返事をした。
ヘレンはもう一度街を眺めた。東の方角にひと際高い鉄塔の頭が光って見える。
「あれはコヴェンの電波塔でしょうか」
「だろうな。あの辺に俺の会社がある。ここからだと意外と近くに見えるな」
「まあ、旦那様の会社は市街地にあるんですか。地下鉄なら一直線でとても良い場所ですね。私の家は多分あっちです。南の、海がある方」
海は見えなかったが、すでに暮れかけている薄紫色の空へ人差し指を向けると、ウェインが「へぇ……海か……」と相槌を打った。
初めてこの家に訪れた時、この家主にあれだけ怯えていたヘレンが、今はこんなに落ちついて言葉を交わせている。
近いうち、母親の復帰と共にまた違う道へ分かれていくことになるけれど、まだ一度も笑顔を見ていないことが少し寂しいと、彼女は感じていた。
もう一度ウェインを見ると、彼はすでに踵を返して建物の中へ入っていくところだった。
「もう戻ってしまわれるんですか?」
「仕事の途中だ」
「あ……!」
自分も仕事の途中だ。しかも時間が押している。名残惜しげに夕焼けに別れを告げ、ヘレンも慌てて窓辺へ走って行った。
当初はすぐに母親が復帰する予定だったが、思いのほか入院が長引き、この日は四回目の訪問だった。
「あそこです。天井の隅っこの、正方形の形でちょっとだけ浮き出ているところ。窓際のここにあるレバーを回すと、ほら、動いたでしょう」
「へぇ……確かに何かあるな……」
ウェインは腰に手を当てて天井を見上げていた。
邸宅の二階――廊下を中ほどまで進んだ場所にある一室で、ヘレンがある発見をしたのだ。
当初からここは他の部屋と少し様子が違っていて、緻密なデザインの壁紙があしらわれていたり、壁に大きなレリーフが埋め込まれていたりと、特別な貴族が使用していたらしいことが伺えるのだが、その日ヘレンが窓枠の裏に見つけたのは、天井の一部を動かせる小さな金属製の隠しレバーだった。
「多分、これをもっと回すとあれが開くんじゃないですか?」
「そうだな……梯子か何かが出て来そうだ。不動産屋から渡された間取り図面にこんなものは書かれていなかったが……ちょっと回してみてくれ」
言われた通りにヘレンがレバーを回すと案の定、天井の一部がパカリと開き、中から折りたたまれた梯子が現われた。さらに回してみるとキュルキュルと音を立てながら、しっかり床まで伸びて来る。
天井の穴の中は真っ暗で、上がどうなっているかは分からないが、それは明らかに――
「か、隠し部屋でしょうか……」
「だろうな。お前、中を見てくるか」
「えっ、む、無理ですよ! あの中を覗きこんだ瞬間に何かが飛び出てきたらどうするんですか。私、そういうの本当にダメなんですから!」
ヘレンはその手のモノが苦手だったため、身をちぢめて顔を強張らせた。
この家にそれほど執着のないウェインとしてはこのままほったらかす手もあるのだが、掃除婦の様子を見ながら、まぁ、行ってみるかといった体で自ら梯子をさっと登り始め、あっという間に天井の中へ入っていく。
「大丈夫ですか。何かありましたか?」
不安げに見上げて返事を待つと、上でガタガタッと木材の擦れる音がした。鎧戸の音だったらしく、暗闇だった部分に光が差した。
「大丈夫だ、来てみろ、屋上に出られるぞ」
「屋上があるんですか?」
「ああ、登れるか?」
「やってみます」
四角い穴から顔を出したウェインにコクリと頷いて、ヘレンは果敢に登り始めた。掃除でたまに脚立を使うから、登ること自体はわりと平気だ。
――そのはずだったが……、梯子というのは下がよく見える上にグラグラ揺れる。高くなるほど足が震え、ペースダウンし、随分手間取ってしまった。
なんとか上まで登って中を覗いて見ると、隠し部屋は物置程度の広さがあり、何一つ置かれていない板の間に、全開の大きな窓から美しい紫色の光が差し込んでいる。
下の部屋では気付かなかったが、西の空は夕暮れが始まっていた。
「わあ、きれい……」
「屋上へ出られるなんて話は聞いてなかったが……」
突然、ヘレンの目の前に大きな手が差し伸べられた。
一瞬驚き、慌てて掴まった彼女を、その手はあっという間に上へ引き上げてくれた。
こういう時、この国の紳士ならたいてい誰でも女性に対してはそうするものだ。でも、主人が使用人にするのはあまり聞いたことがない。この超絶不愛想な家主が見せた謎の優しさに、ヘレンは思わず目を白黒させた。
「あ、ありがとうございます……」
「来いよ。街が見える」
彼は混乱する彼女をよそに、上げ下げ窓の方へ歩んで窓枠を跨いだ。外には確かに平面の屋上があるようだ。
追いかけたヘレンが窓枠をくぐった時、西の空は茜色に染まり、そこから見える街の全てを包み込んでいた。
郊外の小高い丘の上にあるこの家の屋上からは、古いレンガの街並みが望め、まるでルビーだけが入っている宝石箱を開いたようにキラキラと輝いている。
その黄昏に胸を打たれるほど息をのみ、彼女は無意識に屋上の縁まで駆け寄っていた。
「見てください旦那様、あの空、綺麗な景色……!」
全てが赤い中、まばらに点在する住宅の隙間を縫うように2羽のツグミが羽ばたいて行く。
感動と興奮を隠し切れないヘレンが、ふんわり髪を可憐に揺らし、ブラウンであるはずの瞳を茜色にキラキラ輝かせて振り返ると、ウェインは始めから彼女を見ていて「ああ」と返事をした。
ヘレンはもう一度街を眺めた。東の方角にひと際高い鉄塔の頭が光って見える。
「あれはコヴェンの電波塔でしょうか」
「だろうな。あの辺に俺の会社がある。ここからだと意外と近くに見えるな」
「まあ、旦那様の会社は市街地にあるんですか。地下鉄なら一直線でとても良い場所ですね。私の家は多分あっちです。南の、海がある方」
海は見えなかったが、すでに暮れかけている薄紫色の空へ人差し指を向けると、ウェインが「へぇ……海か……」と相槌を打った。
初めてこの家に訪れた時、この家主にあれだけ怯えていたヘレンが、今はこんなに落ちついて言葉を交わせている。
近いうち、母親の復帰と共にまた違う道へ分かれていくことになるけれど、まだ一度も笑顔を見ていないことが少し寂しいと、彼女は感じていた。
もう一度ウェインを見ると、彼はすでに踵を返して建物の中へ入っていくところだった。
「もう戻ってしまわれるんですか?」
「仕事の途中だ」
「あ……!」
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