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3:ウェインの家
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家主が二枚扉の立派な玄関ドアを開くと、新しく塗り替えられた漆喰のにおいがヘレンを出迎えた。大きめの玄関ホールには大理石調のタイルが敷かれ、その向こうには二階へと続く階段と左右に延びた廊下が見える。
引っ越してきたばかりなのかまだ絵画などの調度品はなく、だだっ広い壁の白さが際立っていた。
家は想像以上に広く、二階まで合わせれば部屋数は二十室を超えるという。
ヘレンはだんだん怖気づいてきた。
この怖そうな家主は、この広大な屋敷の掃除をハウスキーパー一人にやらせるつもりなのである。
彼女はまず最初に階段のすぐ裏手にある使用人用の休憩室へ通された。
かつてはメイドが使用したであろうその部屋には、昔の貴族家によく使われたテラン模様の壁紙が使用されており、日当たりが良い小さな手洗い場があり、書類とポットの置かれた事務用机が据え置かれていた。他の部屋もそうだが、セントラルヒーティングで室内は常温が保たれており、とても快適な職場のようだ。
ヘレンは窓から青芝の敷かれた広い庭を眺めて感嘆した。
「立派なお宅ですね。どうしてこんなに大きなお宅に一人で暮らしてらっしゃるんですか?」
「……、投機で……」
「……トウキ……?」
「値が安い時に買って、値が上がったら売りに出すんだ」
「まあ、そういうものなんですか。言われてみれば価値のありそうな建築様式ですものね。こんなに素敵な休憩室は初めて見ました」
「それはどうも」
家主はそれだけ言うと無愛想にため息をついた。
褒めたつもりが溜息……。どうやら代理で来たハウスキーパーにまだ不満があるようだ。まだ一度も彼の笑顔を見ていないことにヘレンは気を揉んでいた。
見れば、碧色の目つきは相変わらず悪いままに、さっさと机上の書類へ手を伸ばしている。
ウェインは家の間取りが印刷された用紙をヘレンに手渡した。
「仕事内容についてはそこに書いてある通り、基本的に各部屋と庭の掃除がメインになる。といってもほとんどが空き部屋で使ってないんだ。普段使っている部屋を重点的にやってもらうだけで構わない」
「空き部屋はたまに掃除するだけで良いということですか」
「ああ、二階は埃が酷いところがあるから、そこをやってもらえれば助かるが」
「承知しました」
間取り図には、居間、キッチン、バス、洗濯部屋、書斎など、普段使っている場所の印や、勝手口や掃除道具の位置などもしっかりと記入されており、家主は意外と細やかな性格なことが伺える。
仕事内容も思ったより随分易しいため、表情と中味が一致していない人だなぁと、ヘレンは思い至った。
人を笑顔にするなら、まずは自分からだ。
健気な掃除婦はにっこりしてウェインを見上げた。
「十五時になったら紅茶の準備もご希望でしたよね。どちらのお部屋へお持ちしましょうか」
「……、書斎へ……大抵そこで仕事をしているから持って来てくれ。一階の奥にあるんだが――」
そう言って、家主は丁寧に扉を開けて案内をはじめた。
長い廊下を先導されて進むにつれ、ヘレンの笑顔は本当に和らいでいった。というのも、廊下はまばゆいほどの白壁が続き、ため息が出るほど豪華なアイラン柄の絨毯に中庭側の全ての窓からことごとく美しい陽光が降り注いでいたからだ。
「きれい……!」
思わず感嘆したヘレンを家主がちらっと振り返ったので、彼女はそのまま満面の笑顔を返した。が、それに気付いているのかいないのか、すぐに前を向き直して歩いて行く。
怖い表情とは裏腹に歩き方や所作に落ち着きがあり、光の中を進む後ろ姿がとても優美に見え、それもまた絵になった。
ヘレンはなぜかその背中を眺めながら、一度で良いから笑わせてみたいと感じた。
リビングの前を過ぎてすぐの場所に広めのキッチンがあり、さらにその前を過ぎると最奥に二枚開きの大きな扉が存在していた。
ギッと音を立ててそれを開くと、目の前に大きな空間が広がった。学校の教室くらいの広さだろうか。床は一面濃い緑の絨毯が敷かれて落ち着いた雰囲気だ。
壁面にはビジネス系の書籍がぎっしり詰め込まれた本棚がずらりと並ぶ。部屋の南側には大きな窓があり、その手前に黒い仕事机がこちらを向いて置かれていた。机上にはノートパソコンや書類が雑然と置かれており、それが彼の仕事道具のようだ。
「紅茶はここへ運んでくれ。ただし、ここは仕事部屋だから掃除は不要だ。用がある時以外は入らないでくれ。それからあそこにドアがあるだろう」
指さす方を見遣ると部屋の奥に何の変哲もない木製のドアがあった。ドアノブには頑丈そうな鍵穴があり、普段から鍵がかかっていることが伺える。
「あそこには絶対に入らないでくれ」
真っ直ぐヘレンの目を見て、真剣な声色で言ったその人の瞳は海のように深く澄んだ碧色をしていて、なぜか視線を逸らすことができなかった。
その部屋はウェインの寝室だった。この家の中で彼が唯一死守するプライベートの空間である。
このあたりからやっと、ヘレンはこの人物が秘密主義者なのだと悟りはじめた。
もしも入ってしまったら自分は解雇されてしまうに違いない。そう思えるような緊張感が走り「承知しました」と気を引き締めて真剣に応えた。
引っ越してきたばかりなのかまだ絵画などの調度品はなく、だだっ広い壁の白さが際立っていた。
家は想像以上に広く、二階まで合わせれば部屋数は二十室を超えるという。
ヘレンはだんだん怖気づいてきた。
この怖そうな家主は、この広大な屋敷の掃除をハウスキーパー一人にやらせるつもりなのである。
彼女はまず最初に階段のすぐ裏手にある使用人用の休憩室へ通された。
かつてはメイドが使用したであろうその部屋には、昔の貴族家によく使われたテラン模様の壁紙が使用されており、日当たりが良い小さな手洗い場があり、書類とポットの置かれた事務用机が据え置かれていた。他の部屋もそうだが、セントラルヒーティングで室内は常温が保たれており、とても快適な職場のようだ。
ヘレンは窓から青芝の敷かれた広い庭を眺めて感嘆した。
「立派なお宅ですね。どうしてこんなに大きなお宅に一人で暮らしてらっしゃるんですか?」
「……、投機で……」
「……トウキ……?」
「値が安い時に買って、値が上がったら売りに出すんだ」
「まあ、そういうものなんですか。言われてみれば価値のありそうな建築様式ですものね。こんなに素敵な休憩室は初めて見ました」
「それはどうも」
家主はそれだけ言うと無愛想にため息をついた。
褒めたつもりが溜息……。どうやら代理で来たハウスキーパーにまだ不満があるようだ。まだ一度も彼の笑顔を見ていないことにヘレンは気を揉んでいた。
見れば、碧色の目つきは相変わらず悪いままに、さっさと机上の書類へ手を伸ばしている。
ウェインは家の間取りが印刷された用紙をヘレンに手渡した。
「仕事内容についてはそこに書いてある通り、基本的に各部屋と庭の掃除がメインになる。といってもほとんどが空き部屋で使ってないんだ。普段使っている部屋を重点的にやってもらうだけで構わない」
「空き部屋はたまに掃除するだけで良いということですか」
「ああ、二階は埃が酷いところがあるから、そこをやってもらえれば助かるが」
「承知しました」
間取り図には、居間、キッチン、バス、洗濯部屋、書斎など、普段使っている場所の印や、勝手口や掃除道具の位置などもしっかりと記入されており、家主は意外と細やかな性格なことが伺える。
仕事内容も思ったより随分易しいため、表情と中味が一致していない人だなぁと、ヘレンは思い至った。
人を笑顔にするなら、まずは自分からだ。
健気な掃除婦はにっこりしてウェインを見上げた。
「十五時になったら紅茶の準備もご希望でしたよね。どちらのお部屋へお持ちしましょうか」
「……、書斎へ……大抵そこで仕事をしているから持って来てくれ。一階の奥にあるんだが――」
そう言って、家主は丁寧に扉を開けて案内をはじめた。
長い廊下を先導されて進むにつれ、ヘレンの笑顔は本当に和らいでいった。というのも、廊下はまばゆいほどの白壁が続き、ため息が出るほど豪華なアイラン柄の絨毯に中庭側の全ての窓からことごとく美しい陽光が降り注いでいたからだ。
「きれい……!」
思わず感嘆したヘレンを家主がちらっと振り返ったので、彼女はそのまま満面の笑顔を返した。が、それに気付いているのかいないのか、すぐに前を向き直して歩いて行く。
怖い表情とは裏腹に歩き方や所作に落ち着きがあり、光の中を進む後ろ姿がとても優美に見え、それもまた絵になった。
ヘレンはなぜかその背中を眺めながら、一度で良いから笑わせてみたいと感じた。
リビングの前を過ぎてすぐの場所に広めのキッチンがあり、さらにその前を過ぎると最奥に二枚開きの大きな扉が存在していた。
ギッと音を立ててそれを開くと、目の前に大きな空間が広がった。学校の教室くらいの広さだろうか。床は一面濃い緑の絨毯が敷かれて落ち着いた雰囲気だ。
壁面にはビジネス系の書籍がぎっしり詰め込まれた本棚がずらりと並ぶ。部屋の南側には大きな窓があり、その手前に黒い仕事机がこちらを向いて置かれていた。机上にはノートパソコンや書類が雑然と置かれており、それが彼の仕事道具のようだ。
「紅茶はここへ運んでくれ。ただし、ここは仕事部屋だから掃除は不要だ。用がある時以外は入らないでくれ。それからあそこにドアがあるだろう」
指さす方を見遣ると部屋の奥に何の変哲もない木製のドアがあった。ドアノブには頑丈そうな鍵穴があり、普段から鍵がかかっていることが伺える。
「あそこには絶対に入らないでくれ」
真っ直ぐヘレンの目を見て、真剣な声色で言ったその人の瞳は海のように深く澄んだ碧色をしていて、なぜか視線を逸らすことができなかった。
その部屋はウェインの寝室だった。この家の中で彼が唯一死守するプライベートの空間である。
このあたりからやっと、ヘレンはこの人物が秘密主義者なのだと悟りはじめた。
もしも入ってしまったら自分は解雇されてしまうに違いない。そう思えるような緊張感が走り「承知しました」と気を引き締めて真剣に応えた。
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