漢方薬局「泡影堂」調剤録

珈琲屋

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魚 氷を出ずる

41 ※先生視点

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今回は買い付け、というよりは、良品質の漢方を作る農家との顔つなぎに来た、が正しいかも知れない。

俺がお世話になっている関さんには、年に2回ある広州こうしゅうでの交易会……日本で言うなら大きな展示場でやる何とかショウのようなものへの参加の手続きや、毫州はくしゅうにある中薬剤専業市場での買い付けに既に付き合って貰ったことがある。
ただ買い付けするだけなら全然そっちで良かったけど、関さんが良品質の漢方を作る農家さんをよく知っているのと、視察に行くついでにと誘われたので、実際に育ってる所を見ておこうと思ったのもある。

ただ、一つだけ俺の想定とものすごく差があったことがあったけど。






「……っ、めっちゃくちゃ寒い!」

そう一言喋っただけで、吐いた言葉が全部白い湯気みたいになる。
この寒さは想定してたつもりだったけど、日本で思ってたのとは実際の現地だと段違いだ。

俺が最初に羽織ってきたコートは既に役に立たなくて、キヨくんが心配して荷物に入れてくれてあったダウンジャケットの方を着ている。
キヨくんが大量に持たせてくれたカイロも、ものすごく役に立っていて、今も中にべたべた張り込んである。
関さんが住んでる定西市のマンションでもこの寒さなのに、視察先の畑の方は遮るものが何にもないからもっと寒いとか。

「ハハッ、これくらいならまだまだ。一番寒いのは来月くらいだからな、ここで暮らすならそんな泣き言言ってられないぞ」

迎えに来てくれた時と同じ青のダウンで、同じように首をすくめながら、関さんが言う。
俺一人だと移動もままならないから、基本的に滞在中は関さんの後をついていく形の一週間だった。
おかげで、普通なら入れない大学の内部も見れたし、図書館ものぞかせてもらえたし、研究している所も一部見学させて貰えて、俺としては良かったけど、案内してくれた彼はけっこう大変だったと思う。

昔から思うけど、研究一筋であんまり他人に興味なさそうでいて、根っこのところはちゃんと中国的なヒトだ。
他人には冷たいくらいにキッパリ切り捨てるけど、身内に入れるとココまでしてくれるのかってくらい面倒見が良くて、年上には礼儀正しい。

「今回はそんなにお邪魔する予定じゃなくてホントによかった……。俺は明後日には帰るから大丈夫だけど、住んでる関さん達は大変だねえ」

「慣れれば、良い土地ではあるけどな。俺は本来は家と大学の往復くらいで済むから、実感薄いってのもあるけど」

「うん、思ったより通勤の便は悪くないんだね。車だとココから大学までどれくらい?」

「30分くらいじゃないか?ハルみたいにぼーっと運転してても到着できるくらいだから」

彼の勤務先の大学は隣の蘭州市にある。
車で高速使ってぶっ飛ばせばすぐだとは聞いてたけど、思ってたより全然近くてビックリした。

「俺はそんなに運転はしないけど……、あれ、もしかして普段からぼーっとしてると思われてる?」

「常にぼーっとしてるだろ、今さら何言ってんだ。……これから土産買いに行くんだろ、少しこれ飲んでシャッキリしとけ」

「……わ、ありがと」

彼のジャケットから出された缶コーヒーを何とか落とさずに受け取って、有難くその場で飲む。
今は家の近くのお土産が買えそうな店が集まっている場所に車で連れてきてもらったところだった。
店が開くまで少し時間がかかりそうなので、運動不足解消がてら、少し歩くことにしての今だ。

マンションの多いこの辺は開発も進んでいて、足の下の歩道はアスファルトではなくタイルが敷かれている。
さっき通りすがったマンション前の大きな広場では、朝早いのにもう人がわらわらと集まっていて、太極拳だかなにかの体操のようなものをみんなでやっているのを見た。

「あれってさ、いい習慣だよね。朝一で動くと血の巡り良くなるし。……関さんも体操とかする?」

「しない。大体普段疲れ切って帰って来て、朝は貴重な睡眠時間だぞ。寝る方が大事だ」

「……えー、少し運動した方がいいと思うよ、目も覚めるのに……」

すっかり油断してよそ見をしていた俺に子供がドンとぶつかったのはその時だった。
体格的に俺にちびっこがぶつかったりしたらはじけ飛ぶように転ぶ確率の方が高いから、慌てて支えようと手を伸ばしたのはほとんど反射だった。
その俺の手をパシンと弾くように叩いて、古着っぽい赤い上着の小さな子供が逃げていく。
ぼやっとその場で見送った俺を、関さんが慌てて近づいてパタパタと叩く。

「おい、ハル、大丈夫か?何も取られてないだろうな?」

「……え?」

「今のはスリだぞ、他の国でも良くある奴だろうが。……お前、ホントにぼーっとしてるから……車戻るぞ」

「う、うん……」

たぶん、そこから関さんが引っ張ってってくれたから何とか車に戻れたんだと思う。
車に戻ってからの俺の記憶は、そこでフツリと切れていた。






ハッと気づいたのは、関さんの車の中で、後部座席に押し込めるように寝かされていた。
なんとなくうっすら頭痛と、意識に一枚膜がかかったようなうすぼんやりさがある。視点が合うまで身動きせずにぼうっとしてからゆっくりと頭を動かして周囲を見た。

確か、さっきまで朝だったはずなのに、窓越しの空は夕焼けに近いオレンジ色だった。
ゆっくりと体を起こそうとしたけど、微妙に手足がしびれて力が入りづらいので、そのままごろりと仰向けになる。
そうしてようやく、運転席で関さんがスマホで誰かと話しているのが聞こえた。
囀るような早口の言葉がどんどんヒートアップしているのが分かる。脳みそがあんまり上手く働かなくて、しばらくどの言語か解らなかったけど、中国語だとわかれば、漏れ聞こえる言葉の内容も分かる。
……なんか俺の名前と、ボンヤリとかトロいとか言われている気がする。

「…………、なに、…………俺の悪口言ってない? …………リンちゃんから?」

「……、ハルの意識が戻ったからいったん切る。あとで改めて電話させるから大丈夫だ、そんな心配するな。またな」

関さんの声で通話が切れて、いまいちハッキリしない頭でもう一度起きるために体に力を入れてみた。
今度はちゃんと起きれたので、ゆっくり起き上がって、シートに座り直す。

「……ゴメン、俺、寝てた? 疲れてたのかな……」

「…………俺が寝かせといた。一応、お前が気絶してる間に荷物も確認させて貰ったが、パスポート類は無事だったぞ、良かったな。スマホがなかったが、その時落としたみたいだな」

「…………あれ、なんだっけ?」

なんか頭がハッキリしてきたら、ちょっと前の記憶がさっぱりない。
前の席でスマホを弄っていた関さんが、ちょっとだけ心配するようにこちらを振り返るのが見えた。

「普通のスリだと思ったから、ウェストポーチやられるくらいだと思ったんだが、最新の手口だったみたいだな……とりあえず意識がハッキリして良かった。お前、あの子供にどこか肌を触られただろう」

「…………。ゴメン、覚えてないや」

「……だろうな。とりあえず、明日は一日俺の家で安静にしてろ。チケットの延期は出来るか?」

「……たぶん?」

はっきり確認できてないから自信なくそう答えたら、おっきいため息をつかれた。

「なんでそういう所で自信ないんだろうな、ハルは……。リンみたいにもっとシャキッとしろよ」

「リンちゃんと一緒にしないでよ。……うん、なんだかわかんないけど、だいぶ迷惑かけちゃったみたいだね……」

「……いや、いい。あそこに連れて行ったのは俺だしな。……しかし、こんな地方まであの手口が回ってるとは……」

ハーっともう一度ため息をついて軽く眉間を揉んだ彼は、そのまま俺を見て、下りるぞ、と告げた。

「……そういえば、ここどこ?」

「……俺のマンションだ。お前がぶっ倒れたから、とりあえず駐車場まで戻って来て、そこからあちこち連絡とってた。俺一人じゃ、お前は運べないからな。……動転してたから忘れてたが、最初にリンに連絡入れるべきだった」

「……うん、とりあえず、俺からリンちゃんには謝っとくよ。関さんもゴメンね、だいぶ迷惑かけちゃった」

「迷惑というより……いや、もうやめよう、これ以上ココにいるとガソリンが無駄だ、行くぞ」


そうして、ようやくまともに頭が働き出した俺が関さんのスマホで連絡を取ったら、リンちゃんにはつながるが早いか、怒られたし怒鳴られたし延々お説教された。


でもそれよりも、キヨくんの今にも死にそうな心配する声の方がキツかった。
すごくすごく不安そうで心配してくれていて、それでもそうは見せまいと頑張って虚勢張ってる感じで、可愛いけど聞いてるとどんどんしんどくなってきて、もう二度と外で気を緩めるまいと思えた。

電話の後で、関さんにもそう宣言したら、当たり前だって呆れたように頭を叩かれたけど。
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