漢方薬局「泡影堂」調剤録

珈琲屋

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閑話 鶺鴒 鳴く

1 ※桃山視点

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ピアノにヴァイオリン、水泳、書道教室。
物心つく前から習い事にいくつ通わされてきただろう。
どれも通わせたいといって見つけてきたのは母で、ある程度通って才能がないと気付くと辞めさせるのも母だった。


絵も多分その一つで、どこかで子供向けに開いてくれていた絵画教室が最初だったと思う。
正直、絵を描くこと自体より、笑顔の優しいおじいちゃん先生が大好きで通っていた。

小さい僕のとりとめのない話をニコニコ聞いてくれること、好きなだけきれいな色を紙いっぱいに広げられることや、おじいちゃん先生と一緒に食べるお菓子や、そんな穏やかな時間が好きで、いつものように辞めさせようとする母と生まれて初めてケンカした。


思えばそれが、僕がヒトの言うことに従って生きなくていいんだって気づいたきっかけだった。

なんでも母さんの言う通りの色を選んで服を着なくたっていいし、好きなものを好きだといっていい。
別に放課後まっすぐ家に帰らなくてもいいし、友達と学校の帰りに遊んだり、買い食いしたっていい。

誰も教えてくれない、ごく普通のあたりまえのことが、僕にとって当たり前じゃなかったんだ、と気づかせてくれたのが、その先生で、絵だった。




朝ごはんの後、スケッチブックとカバンを持って登校の支度をする。
父はいつも通りとっくに仕事に出かけていて、玄関先で待っているのは母だった。

うちは父さんは朝晩くらいしかいない。
ちょっと前まで単身赴任でそもそも家にいなかった、っていうのもある。
その寂しさをぶつけられる相手が僕しかいなかったって言うのもあるかもしれない、と最近は思うようにもなったけど。

だからといって、僕が母さんの着せ替え人形になる必要もない。

「いってきます」

「……行ってらっしゃい、気を付けてね」

ほんの少しぎこちない間を挟んで、母が言う。

未だに母とは、わずかに溝がある。
でも、それくらいが健全だとも思う。
僕には僕の意思があって、母の思う通りには動かないって理解したって事だから。






学校帰り、家にはすぐ帰らずに遠回りして寄り道をする。
ブロック作りの石塀で囲われた赤い屋根の、小さいけどよく手入れされた平屋のおうちが、青木先生の家だ。
玄関のインターフォンを押すと、優しい女性の声でどちら様ですか、と聞こえた。

「こんにちは、お久しぶりです、桃山です。 青木先生、ご在宅ですか?」

「まあまあ、ちょっとお待ちくださいね」

パタパタと軽いスリッパの足音がして、しばらくして玄関ドアが開く。
ふわっと懐かしい古い家の匂いと花の香りがする。

立っていたのは白髪のふわっと丸い顔をした可愛いお婆ちゃんで、僕の顔を見ると嬉しそうに微笑んでくれた。

「お久しぶりねえ、スバルくん。また大きくなったわねえ。……さ、どうぞ、中に入って。おじいちゃんも待ってるから」

「有難うございます」

一月前も来たばかりなのに、少し期間が開くと寂しがってくれて、久しぶりと声をかけてくれるのが少しくすぐったい。

お礼を言って中に上がらせて貰うと、用意して貰ったスリッパをはいて、いつものように奥の温室に向かった。

先生の家はちょっと変わっていて、玄関や外から見た感じは小さそうに見えるが、実際は奥に長い。
そして長い廊下のあちこちに、ちょっと変わった切子ガラスの窓がはまっていて、一番奥の温室はガラスと木で出来ていた。
そこが先生のアトリエで、中には植物じゃなくて、画材とキャンバスと先生が今までに描いた色んな絵がキレイに整頓されて仕舞われている。
温室の外は、さっきの奥さんが丹念に手を入れている庭で、木蓮の木がその大きな葉で木陰をしっかり作っていて、温室と聞いて普通に考えるよりは過ごしやすい。

「……やあ、久しぶり。 学校の帰りかい?」

今日の先生はゆったりした座り心地のいい椅子に何枚もクッションを重ねて、庭に群れ咲くコスモスを油彩で描いていた。ツンと鼻につく油の匂いはもう体に馴染んだものだ。

キャンバスの中のふわふわ踊るような花と、鮮やかなのに優しい色合いが目を引く。
少しの間絵を眺めてから、ええ、と頷いた。

「……はい。来週の文化祭に出す予定の絵が出来たので、先に先生に見てほしくて。 ……画題は去年と一緒なんですけど」

「ああ、今年もお友達とキャンプに行ってきたのかい。 いいねえ、私もあの山をもう一度見てみたいよ。若い時にもう少し山登りもしておけばよかったなあ」

皺深い顔で穏やかに笑う先生が、ことさら大きなため息をつくので、今年のキャンプ場までの様子を思い返しながら続けた。

「今からだっていけますよ。僕たちがいったキャンプ場まで、車もバスもありますし。立派なホテルまであったんで、奥さん連れて行くと喜ぶと思います」

「すみれさん、素敵な庭と家具とホテルに目がないからねえ。 うん、考えてみるよ。 ……じゃあ、スバルくんの絵を見せてもらおうかな」

「はい」

僕がスケッチブックから絵を何枚か抜いて手渡すと、先生はゆっくりした動作でイーゼルと画板を出してそれぞれ、見やすいように並べてくれた。

「うん、……うん、素敵だ。 君の眼が見る世界はいつ見ても美しいね。……空気が澄んでるんだなあ、この山は。こんな遠くの星も、夜露の花もくっきり光るようだ。うん。 ……すみれさんにも見せていいかい?」

筆致をなぞるように、先生が優しく絵に触れる。
いつ来ても、先生から怒られたり指示を受けたりしたことはない。
そうして、先生が気に入った絵は必ず奥さんも呼んでいいか聞かれるので、僕はニコニコで頷いた。

「はい、どうぞ」

優しい笑顔でしばらく絵を眺めてから、すみれさん、と大きな声で奥さんの名を呼ぶ。
真っ白いエプロン姿で水にぬれた手をふきながらニコニコ顔で現れた奥さんは、僕の絵を見るなり、素敵ねえ、と歓声を上げてくれた。

「……ねえ、キョウスケさん。私、ここ行ってみたい」

「そういうと思ったよ。 スバルくんが僕たちでも行けそうなくらい道が整ってるって教えてくれたから、次の記念日にでも行ってみようか。 素敵なホテルがあるらしいよ」

「まあまあ!」

目をキラキラさせて少女のように僕を見た奥さんは、ハッと気づいたように大変、お菓子を出してなかったわ、と呟いてパタパタ慌てて去って行った。

あっという間にいなくなった奥さんの後姿を見つめて、先生がクスクス笑う。

「うん、どうやらお菓子とお茶の時間になりそうだ。 私も絵を片付けるから、スバルくん、テーブル出すの手伝ってくれるかい?」

「はい」

そうして僕の絵を見ながら、3人で丸いテーブルを囲んで美味しいお菓子を食べながらのティータイムは、いつも通りとても楽しかった。








絵の世界は本当に深くて、上を見たらきりがない世界で、僕は別にプロになりたいわけじゃなかった。
ただ趣味として楽しく絵を描いて、時々絵を見てもらって、先生の絵も見せてもらったりして楽しくおしゃべりできたらいい。

そう思っていた僕の考えに、ポンと一つ石を投げてよこしたのは、隣の席のハヤシくんだった。



「モモはこんないい絵を描くのに、美大行く気はないのか?」

文化祭の展示中、友人みんなが忙しくする中、彼だけが美術室まで絵を見に来てくれた。

いつもそうだけど、彼が絵を見る時は、先生と同じように絵に優しく触りながら見る。
じっくり近くで眺めて、少し離れてまた眺めて、なんだかうれしそうに笑うのだ。

その見方が先生とちょっと似ていて、それで僕は彼に気を許してしまうのかもしれない。
だからそのひと声は不意打ちで、僕はいつもの笑顔も忘れてキョトンと彼の方を見た。

「うん、だって僕は絵を仕事にするつもりはないもの」

「そうだな、それは前にも聞いた。 ただ、大学って別に仕事につくためだけのものじゃないんじゃないかと思ってさ」

他の部員の展示している作品にも目を落としながら、彼が言う。

「モモの絵は今でもすごいと思うよ。俺は将棋バカだから絵の事はよくわからんけど、人の目を引くなにかがあると思ってる。そして、美大ってとこはそういうやつらが集まる所で、たぶんモモの絵は今よりもっと凄くなると思う。友人ができるとそれだけ刺激を受けるもんだから」

そういって、彼は僕の眼をまっすぐに見た。
それでようやく、彼が僕のことを心配してくれているって事に気づいた。

ハヤシくんは、いつも心配してくれる方向がとんちんかんで、それでも一生懸命で、好意をまっすぐ示してくれる。
たぶん、彼がいなかったら、僕の高校生活はこんなに楽しくなかっただろう。
だから僕はいつもみたいに笑って、彼の腕をポンポン叩いた。

「大丈夫だよ、ハヤシくん。別に僕はムリに諦めてこう言ってるわけじゃないんだ。……でも、君の言葉は嬉しかったから、選択肢の一つとして考えておくよ」

「……、ん」



照れたみたいにカリカリ頬をかいていた彼は、お返しのように僕の背を軽く叩くと、あいつらのプラネタリウムも見に行こうぜ、と笑った。
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