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四月一七日(日) 深夜 鹿端家

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「ウザい」



 机の電球だけつけた薄暗い部屋で、鹿端菜々美かばたななみはベッドに寝転がり天井の染みを見つめていた。ずっと意味もない言葉が口からこぼれ落ちる。

 春の生温かい空気が、強引に人間や世間を新しい季節へと追い立てる。

 桜前線、卒業式、入学式そして――新学期

「ウザ」

 春が嫌いになった。

 だから、肌寒い夜は、まだ自分を冬に留めてくれる気分になる。菜々美はわざと薄着になった。

 この三年間の記憶、永久に消し去りたいのになぜか最も鮮明だ。

 あの日、インフルエンザにかかっていなければ違う人生になっていたはずだ。
 私立中学の試験当日、欠席する旨を塾に電話連絡した母は、娘の水枕を換えながらしきりにため息をついていた。近所の連中に難関受験のことを吹聴していた母親は、今回の娘の失敗を恥じてか、急に引越しをしたいと言い出した。そして母方の祖父が前に暮らしていた土地に家を建てた。父親は通勤が便利になると喜んでいたが、菜々美はただ従うしかなかった。

「引っ越すか?普通」

 菜々美は、母親の憐れな必死さを思い出し、笑いが込み上げた。

 その引越し先である今現在の住まいは、同じ都内だというのに、なんだか寂れた場所だった。それでも、新しく出会った学校の友人は、優しく菜々美に親切だった。

 最初だけは。

 どうしてこうなった。いつからおかしくなった。

 一年生の終わり、陸上部の三年生である河合と付き合ってからかもしれない。
 一緒に下校するだけで付き合っている間柄なら、菜々美と河合は付き合っていたらしい。そして、何の気持ちも抱けぬまま、一方的に河合から別れを告げられた。

「あの時、三年の女子連中に囲まれて、『彼に近寄らないで』って言われたっけ」

 もう河合のことなど思い出せない。醜い女どもの嘲笑しか浮かばない。

 人生が狂いだした理由は他にもある。

 ずっと友達だった美咲と会話が成り立たなくなった。必死に話題に乗ろうとすると、決まってスマートホンを買えと言われるだけで、話の輪の中に入れなくなった。

 自分が嫌われているかもしれないという不安に襲われ、授業も集中できなくなった。

 当然、成績が落ちた。

 すぐに、母親は部活を辞めて塾へ行けと言い出した。フルートを辞めたくなかった自分は、部活の顧問に相談に行った。すると、自分がどうしたいのか考えて決めろと言われ、引き留めもしなかった。

 その時に知った。
 フルートのパートなど、自分の代わりがいくらでもいるのだ。

 もう勉強だけしていれば良い。
 それなのに、何をしても頭に入ってこない。

 楽しくない。

 自分は誰のために何をしているのだろう。

 やっていることは、勉強するだけ。今も昔も何ら変わっていないはずなのに。

 楽しくない。
 楽しくない。

 そんな気持ちが薄れるかもしれないと、カッターを手にしたのはほとんど無意識だった。

 刃を繰り出す時の快い音。切先が蛍光灯の光に鈍く反射した。リストカットという自傷行為は知っていたものの、あれがどういう気持ちにさせるのかはわからなかった。
 だから、ゆっくりと左手首を引っかく真似をしてみたのだ。

 意外に人間の皮膚は丈夫だ。確かそれだけがわかった。


 その後も必死に勉強した。まだ成績を挽回できると自信があった。

 ところが担任の教師は、こう言った。

 ――遊んじゃってるの?
 ――三年生になったら、もっと頑張らないとダメよ。

 珍しく腹の底から怒りが湧いた。今の自分より、点数が低い人間がもっといるのに。
 これだけじゃない。
 教師というのは大人しくて従順な生徒には偉そうなことが言えるくせに、髪を染めたり、隠れてタバコを吸ったりする不良の生徒には遅刻をしようが何をしようがまともに注意することすら出来ない。

 意気地がないだけだ。仕返しが怖いのだ。

「子供が好きだから教師になった?笑わせんな」

 あれから、あの石田という女教師を無視することにした。

 その頃からやけに目につくようになったのは夫婦喧嘩だった。
 三人の食卓が険悪な雰囲気となった。
 会話など無関心だったので、いつ何のキッカケだったか覚えていないが、両親が諍いを始めた時のことだ。

 俺がどれだけ――。
 私だって――。

 そんな言葉が頻繁に出てきた。
 席を立とうとした自分に、両親は揃って勉強のことを追及してきた。

 ――やる気があるのか。
 ――今まであんなに出来ていたじゃないの。

 そんなこと、言われなくても自分の不調は自分が一番わかっていた。
 だから、両親を無視して部屋に閉じこもったのだ。

 そして、暗い部屋にこもってカッターの刃を繰り出した。
 少し前に刃をあてた左手首を、切りつけた。
 今度は血が出た。それなりの痛みもあった。
 しかし、たいした感慨もなかった。

 ああ、思い出した。

 その次の日、体育の時間で着替えをしていると、クラスの女子二人が近寄ってきたのだ。
 まだ中学生のくせに、うっすらと変な化粧をしていた。いつも男子の話ばかりしており、人の噂が好きな連中だった。

 大嫌いだった。

 そのうちの一人にいきなり左手を掴まれ、無理矢理に反転させられた。

 ――やっぱり。
 ――マジ?

 二人は大声で騒ぐと、いやらしい顔つきで自分を見つめた。そして、前歯の汚い矯正危惧をのぞかせながら笑ったのだ。

 ――鹿端さん。リスカしてんの?
 ――マジでキモいんだけど。

 少しの間、女子更衣室が沈黙に包まれた。
 惨めだったが、必死に否定した。
 だって、あの晩は本当に何も感じなかったのだから。
 けれども、左手首の傷跡は、菜々美が病んでいることを象徴するものでしかなかった。

 あの時、一番最初に美咲がそっぽを向いたのを今でも思い出す。

 リストカットの話が、クラスの女子から男子へ伝わり、隣のクラスにまで広がり始めた頃、自分は担任に呼び止められ生徒指導室へ連れて行かれた。
 そこで担任の石田は悩みがあるのかと優しい声で聞いた。
 声は優しいが、ただの尋問だった。

 担任に言われたとおり、自分には悩みがあるのか考え始めた。

 悩みがあるから手首を傷つけたとするならば、悩みとは何だ。
 人生を迷うことか。
 自分は何をすべきかわかっていたはずなのに。

 答えない自分に担任は苛立ったのだろう。
 思いっきり、ため息をつかれた。

 この翌日から学校へ行かなくなった。自然とブラスバンド部も休部することになった。

 そして、その矢先に母親がおかしくなり始めた。
 やたらと薬を飲んでいた。
 けれど、どうでもいいことだった。

 そのまま、季節はダラダラと過ぎていき、クリスマスも大晦日も正月も何も感じない日々が続いた。

 学校では、三年の卒業式があった日だった。

 自分も四月から、三年生になると思った矢先、急に身体が震え出した。

 無意識にカッターを手にしていた。
 初めて左手首を切りつけた時は何とも思わなかったのに、再び試してみると驚くほど心が落ち着くことがわかった。それでも、よくわからない罪悪感に襲われて、頻繁に切ることはなかった。傷もすぐに癒えた。

 父親とも母親とも会話をしなくなった。
 外で何が起きているのか興味もなかった。

 桜の開花情報がニュースで流れた日、母親に病院へ無理矢理連れて行かれた。
 抵抗することも出来ただろうが、そういった感情を見せることすら面倒だった。ただ早く時間が過ぎ去れば良いとだけ願った。

 医者は優しそうな丸顔で眼鏡をかけていた。
 自分自身のことを聞かれたので、脳裏に浮かんだ言葉をそのまま口から吐き出した。

 医者はニッコリ笑い、

 ――大丈夫ですよ。

 と言った。

 このやりとりをそのまま母親に伝えると、たいそう嬉しそうな表情になった。
 結局、自分が安心したかっただけなのだろう。

 いつの間にか四月になり、自動的に中学三年に進級した。
 自分だけが何も変わらない。少し髪が伸びたかもしれないけれど。

「ウザい」

 みんな消えてしまえばいい。

「早く死にたい」

 誰も悲しまない。

「生きていたって意味ないじゃん」

 早く明日が来て。
 早く明後日が来て。
 寝てる間に何十年も過ぎて、
 目が覚めたときには自分も誰もいなくなっていればいいのに。

 腹から情けない音がした。

 笑える。

 どんな状態でも腹は空くのか。
 人間って本当、くだらない生き物だ。

 菜々美は夜中に一人、冷蔵庫をあさった。
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