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クラインの壺
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小学生のとき、おかあさんが話してくれた。おばあちゃんのこと。
人と接するのが苦手だったおばあちゃんは、なぜ町なかで暮らしていたんだろうと。これは勝手な想像だけど、人の中にいるから人として生きていけるんじゃないかということ。でもそれは違う。おばあちゃんは人の中にいて人から離れて死んだ。
けっきょく人が嫌いだったんだ。勝手で煩わしくて、その上無神経。それが人。
「こんどはどこに連れてってくれるのかしら?」
こっちから聞いてやった。さあ答えなさいよ。
「へえ、ずいぶん前向きになったね。けっこうけっこう」
「御託はいいわ。それと、あんたの目的を教えなさいよ」
「目的?」
「なんでこんなことするのか、よ!」
目的もなしにあたしをほうぼうに連れまわすなんて、決して認めることなんかできない!
「理由ならある」
「ならその理由を聞かせて」
「クラインの壺って知ってる?」
「なんですって?」
クラインの壺?聞いたことないわ。
「位相幾何学で、境界も表裏の区別も持たない曲面の一種さ」
「なにそれ」
「閉じられた曲面、つまり裏も表もない世界さ。いまきみがいるところはそういうところ」
「裏も表もない世界って…」
「つまり現実も虚構も表裏一体…これがどういうことかわかる?」
「わかるわけないじゃない!そんなおとぎ話みたいな世界、あるわけないじゃないの!」
何よバカにして!あたしが中学生だから、なんか難しい話をしていいようにからかってるんだわ!
「じつは1860年に実際に行ったことがある人がいたんだ」
「そんな昔の人なんか知らないわ」
「いやきみもきっと知ってるよ。その人の名はチャールズ・ラトウィッジ・ドジソン。イギリスの数学者さ」
「知るわけないでしょそんな人!」
「ルイス・キャロルって言ったら?その人のペンネームさ」
「不思議の国のアリス…」
「せいかーい!」
小学生のとき読んだカラフルな挿絵付きの物語…でも想像するものと小説の中のものが上手く合わさらないで、とくにどうということのない印象のままになっていた。
「じゃああたしがそのアリスで、あんたが白ウサギってわけ?いや、どっちかって言うとチェシャ猫じゃないかな」
「そいつはどうも」
「待ってよ。あんた実際そのルイス・キャロルが行ったって言ったわよね?」
「言いましたともさ」
「その不思議の国に?」
「違うよ。彼が行ったのはいまぼくらがいる世界。正確には来た、だけどね。彼は数学者なのだから、ある日ふとこの世界のことを知り、いや、計算し、とにかくここに到達した」
「ここに来たというの?」
「元来ここは三次元空間では存在できない所なんだ。それは局面が交差してしまうからで、そうなるとぼくときみは必然的に出会ってしまうからなんだよ」
「いまこうして話しているのは?交差って言わないの?これ」
「これはやまびこみたいなもので、すでにあるきみの質問にぼくが答えている形になる」
「意味わかんない!」
すでにあるあたしの質問?あたしの質問する前にすでにそれを知っているってこと?
「では話題を変えよう」
「ちょっと待ってよ!クラインの壺だとかアリスだとか、あんたいったい何が言いたいわけ?」
突然めまいがした。ああまたどこかに飛ばされるんだと感じた。あいつは言った。これは現実と虚構の区別のない所だと。そんな世界なんてあるものか。
校庭でさっきから走っている生徒がいる。陸上部かな?そういや大会が近いて言っていた。体育教師の持田先生がいなくなっちゃって、今回はどうするんだろうな?
「あたしはどうしてここにいるんだろう?」
ああまたあいつに騙されてるんだ。ここは学校なんかじゃない。それが証拠に、あの生徒はひとり、同じところをぐるぐると走っているだけ。ひとりで走ってても何にもならないじゃない。ひとりはひとり。いっくら走ってもひとり…。1は1…。
「きみは1じゃないよ。もっとたくさんいるんだ」
「はあ?意味がわかんない。なんであたしがたくさんいるのよ!あたしはひとりよ!あたしだけ」
「それがそうじゃないんだな。昨日のきみはきみであるし、明日のきみもね。時間なんて取っ払っちゃえば、無数にきみがあらわれる。でもそうなるとややこしいから、数学的に整理すると、きみはきみの数だけいるんだね。つまりきみの自乗分ってこと」
「それってどういうこと?あたしの分だけあたしがいる?」
数学ってさっきから言ってる。あたしがあたしの自乗分?それってエックスの二乗ってやつ?
「ふん。あたしはひとりよ。ひとりのあたしにいくら二乗したって1は1」
「まあそうだけどさ、でもいまきみは存在している?」
あれ?いまのあたしは…ここにいない。1じゃない。でもまるっきりいないわけじゃない。0じゃない。まるっきりいない所からあたしを引くと、それはマイナス1。
「じゃあマイナス1だとして、それはやっぱり1よ?」
「今のきみはそんな確定的じゃないんだ。いわばきみはきみがきみだけいる状態。それは甚だしく混沌とした状態なんだ。だからきみは不安定であちこちに飛ばされてしまうんだ。不思議の国のアリスみたいにね」
「じゃあどうすりゃいいのよ!元に戻る方法を教えてよ!」
「つまりきみはきみだけいるんだから、その逆できみを取り戻せばいい。つまり平方根ってやつだ」
「ルートってこと?数学で習ったけど、それってどう自分に当てはめるのよ!」
「方法はいくらでもあるけど、今はやめといたほうがいいよ」
「なんでよ!意味わかんないじゃない」
「だって今のきみはマイナス1なんだから…」
はあ?マイナス1じゃだめなの?
「そこにドアがあるね」
いきなり目の前にドアが現れた。ドラえもんか!
「なんでこんなところにって…いえ、もうなんでもありね、あんた」
「それが平方としての扉だよ。開けて覗いてごらん?」
「なんか変なもん出てこないわよね?」
「さあね」
あったまきた!もうこうなりゃどうなってもいいわ!あたしはドアを開けた。そこには反対側でドアを開けているあたしがいた。
「なにこれ鏡?ばかばかしいわね」
と、鏡のあたしが言った。
「これってどういう…」
そう言い終わらないうちに鏡のあたしの腕が伸びてきてあたしの髪をつかんだ。
「痛たたたたたたたあ!やめて離してっ!」
そう言ったのは鏡のあたし。あたしはでもやっぱり髪をつかまれている?とにかくあたしの腕を振り払ってドアを閉めた。
「なんなの、いまの?」
「つまりルートマイナス1さ。高校で習うと思うよ」
「なにそれ!」
「あれは虚数なんだ。つまり『i』」
「はあ?」
「実際にはない想像上の数、ってことかな。きみはいまその虚数の世界に入り込んでいるんだね」
勘弁してほしい。それってもうほとんどおかしな世界じゃない。アリスどころの騒ぎじゃないって。あたしがあたしの髪を引っ張るのは、その虚数の仕業ってことなの?バカじゃないの、そんなのありえない。だけど今までみんなありえないことが起きていた。あたしはとんでもない世界に紛れ込んじゃっていたんだ。
人と接するのが苦手だったおばあちゃんは、なぜ町なかで暮らしていたんだろうと。これは勝手な想像だけど、人の中にいるから人として生きていけるんじゃないかということ。でもそれは違う。おばあちゃんは人の中にいて人から離れて死んだ。
けっきょく人が嫌いだったんだ。勝手で煩わしくて、その上無神経。それが人。
「こんどはどこに連れてってくれるのかしら?」
こっちから聞いてやった。さあ答えなさいよ。
「へえ、ずいぶん前向きになったね。けっこうけっこう」
「御託はいいわ。それと、あんたの目的を教えなさいよ」
「目的?」
「なんでこんなことするのか、よ!」
目的もなしにあたしをほうぼうに連れまわすなんて、決して認めることなんかできない!
「理由ならある」
「ならその理由を聞かせて」
「クラインの壺って知ってる?」
「なんですって?」
クラインの壺?聞いたことないわ。
「位相幾何学で、境界も表裏の区別も持たない曲面の一種さ」
「なにそれ」
「閉じられた曲面、つまり裏も表もない世界さ。いまきみがいるところはそういうところ」
「裏も表もない世界って…」
「つまり現実も虚構も表裏一体…これがどういうことかわかる?」
「わかるわけないじゃない!そんなおとぎ話みたいな世界、あるわけないじゃないの!」
何よバカにして!あたしが中学生だから、なんか難しい話をしていいようにからかってるんだわ!
「じつは1860年に実際に行ったことがある人がいたんだ」
「そんな昔の人なんか知らないわ」
「いやきみもきっと知ってるよ。その人の名はチャールズ・ラトウィッジ・ドジソン。イギリスの数学者さ」
「知るわけないでしょそんな人!」
「ルイス・キャロルって言ったら?その人のペンネームさ」
「不思議の国のアリス…」
「せいかーい!」
小学生のとき読んだカラフルな挿絵付きの物語…でも想像するものと小説の中のものが上手く合わさらないで、とくにどうということのない印象のままになっていた。
「じゃああたしがそのアリスで、あんたが白ウサギってわけ?いや、どっちかって言うとチェシャ猫じゃないかな」
「そいつはどうも」
「待ってよ。あんた実際そのルイス・キャロルが行ったって言ったわよね?」
「言いましたともさ」
「その不思議の国に?」
「違うよ。彼が行ったのはいまぼくらがいる世界。正確には来た、だけどね。彼は数学者なのだから、ある日ふとこの世界のことを知り、いや、計算し、とにかくここに到達した」
「ここに来たというの?」
「元来ここは三次元空間では存在できない所なんだ。それは局面が交差してしまうからで、そうなるとぼくときみは必然的に出会ってしまうからなんだよ」
「いまこうして話しているのは?交差って言わないの?これ」
「これはやまびこみたいなもので、すでにあるきみの質問にぼくが答えている形になる」
「意味わかんない!」
すでにあるあたしの質問?あたしの質問する前にすでにそれを知っているってこと?
「では話題を変えよう」
「ちょっと待ってよ!クラインの壺だとかアリスだとか、あんたいったい何が言いたいわけ?」
突然めまいがした。ああまたどこかに飛ばされるんだと感じた。あいつは言った。これは現実と虚構の区別のない所だと。そんな世界なんてあるものか。
校庭でさっきから走っている生徒がいる。陸上部かな?そういや大会が近いて言っていた。体育教師の持田先生がいなくなっちゃって、今回はどうするんだろうな?
「あたしはどうしてここにいるんだろう?」
ああまたあいつに騙されてるんだ。ここは学校なんかじゃない。それが証拠に、あの生徒はひとり、同じところをぐるぐると走っているだけ。ひとりで走ってても何にもならないじゃない。ひとりはひとり。いっくら走ってもひとり…。1は1…。
「きみは1じゃないよ。もっとたくさんいるんだ」
「はあ?意味がわかんない。なんであたしがたくさんいるのよ!あたしはひとりよ!あたしだけ」
「それがそうじゃないんだな。昨日のきみはきみであるし、明日のきみもね。時間なんて取っ払っちゃえば、無数にきみがあらわれる。でもそうなるとややこしいから、数学的に整理すると、きみはきみの数だけいるんだね。つまりきみの自乗分ってこと」
「それってどういうこと?あたしの分だけあたしがいる?」
数学ってさっきから言ってる。あたしがあたしの自乗分?それってエックスの二乗ってやつ?
「ふん。あたしはひとりよ。ひとりのあたしにいくら二乗したって1は1」
「まあそうだけどさ、でもいまきみは存在している?」
あれ?いまのあたしは…ここにいない。1じゃない。でもまるっきりいないわけじゃない。0じゃない。まるっきりいない所からあたしを引くと、それはマイナス1。
「じゃあマイナス1だとして、それはやっぱり1よ?」
「今のきみはそんな確定的じゃないんだ。いわばきみはきみがきみだけいる状態。それは甚だしく混沌とした状態なんだ。だからきみは不安定であちこちに飛ばされてしまうんだ。不思議の国のアリスみたいにね」
「じゃあどうすりゃいいのよ!元に戻る方法を教えてよ!」
「つまりきみはきみだけいるんだから、その逆できみを取り戻せばいい。つまり平方根ってやつだ」
「ルートってこと?数学で習ったけど、それってどう自分に当てはめるのよ!」
「方法はいくらでもあるけど、今はやめといたほうがいいよ」
「なんでよ!意味わかんないじゃない」
「だって今のきみはマイナス1なんだから…」
はあ?マイナス1じゃだめなの?
「そこにドアがあるね」
いきなり目の前にドアが現れた。ドラえもんか!
「なんでこんなところにって…いえ、もうなんでもありね、あんた」
「それが平方としての扉だよ。開けて覗いてごらん?」
「なんか変なもん出てこないわよね?」
「さあね」
あったまきた!もうこうなりゃどうなってもいいわ!あたしはドアを開けた。そこには反対側でドアを開けているあたしがいた。
「なにこれ鏡?ばかばかしいわね」
と、鏡のあたしが言った。
「これってどういう…」
そう言い終わらないうちに鏡のあたしの腕が伸びてきてあたしの髪をつかんだ。
「痛たたたたたたたあ!やめて離してっ!」
そう言ったのは鏡のあたし。あたしはでもやっぱり髪をつかまれている?とにかくあたしの腕を振り払ってドアを閉めた。
「なんなの、いまの?」
「つまりルートマイナス1さ。高校で習うと思うよ」
「なにそれ!」
「あれは虚数なんだ。つまり『i』」
「はあ?」
「実際にはない想像上の数、ってことかな。きみはいまその虚数の世界に入り込んでいるんだね」
勘弁してほしい。それってもうほとんどおかしな世界じゃない。アリスどころの騒ぎじゃないって。あたしがあたしの髪を引っ張るのは、その虚数の仕業ってことなの?バカじゃないの、そんなのありえない。だけど今までみんなありえないことが起きていた。あたしはとんでもない世界に紛れ込んじゃっていたんだ。
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