『不確定性の愛』

小川敦人

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「量子の彼方で交わる愛—不確定性に揺れる物語」

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 『不確定性の愛』

私は今朝も、いつものように研究室の窓から東京の街並みを眺めていた。
窓ガラスに映る自分の姿は、既に還暦を過ぎた老研究者そのものだった。
白髪交じりの髪、深いしわの刻まれた額、そして疲れの滲んだ目。
かつては真っ黒だった髪の毛が、いつの間にかこんなに白くなってしまったのだろう。
「佐藤先生、今日の量子もつれ実験の準備が整いました」
助手の山田君の声に、私は現実に引き戻された。
「ああ、すぐに行く」
実験室に向かう途中、壁に掛かった古い写真が目に入った。
10年前、妻の美咲との最後の記念写真だ。
その時はまだ、彼女があんなに早く逝ってしまうなんて誰も想像していなかった。
突然の膵臓がんの診断から、わずか半年。医学の進歩した現代でさえ、私たちには時間が足りなかった。

量子物理学者として30年以上研究を続けてきた私だが、最愛の妻を失った時の虚無感は、どんな量子の不確定性よりも私を混乱させた。
確率で支配される量子の世界では、過去と未来が明確に分かれているわけではない。
シュレーディンガーの猫が生きているのか死んでいるのか、箱を開けるまでわからないように、私たちの人生も、ある意味では無限の可能性が重なり合っているのかもしれない。
実験室に入ると、最新鋭の量子コンピュータが青白い光を放っていた。
私たちの研究チームは、量子もつれ状態を利用して、微小な粒子レベルで「過去への干渉」を試みていた。
理論上では、量子の世界では時間の流れは一方向ではない。
過去の状態が現在の観測によって変化する可能性があるのだ。
「佐藤先生、今回の実験では前回よりも良好な結果が出そうです」
山田君が興奮した様子で実験データを見せてくれた。
確かに、前回よりもはるかに安定した量子もつれが観測されている。
この研究が成功すれば、量子レベルでの時間の可逆性が証明できるかもしれない。
しかし、私の心の中では別の思いが渦巻いていた。
もし本当に過去を変えられるとしたら…美咲との最後の日々に戻れるとしたら…
科学者としての理性は、そんなことは不可能だと告げている。
マクロな世界では、時間は確実に一方向にしか流れない。
それでも、量子の不思議な世界に触れれば触れるほど、人生における「確率」と「可能性」の意味を考えずにはいられなかった。

実験準備の合間、私は白衣のポケットから一枚の写真を取り出した。
それは美咲が最期の入院をする直前、桜の咲く公園で撮ったものだった。
彼女は既に痩せ細っていたが、笑顔だけは昔と変わらなかった。
「ねえ、あなた。私ね、思うの」
当時、彼女はそう言って私の手を握った。
「人生って、量子力学みたいなものかもしれないわ。未来も過去も、すべての可能性が重なり合って、今この瞬間があるの。だから、私が居なくなっても、きっとどこかで私たちは一緒にいるはずよ」
その時は彼女の言葉の意味を完全には理解できなかった。
しかし今、量子もつれの研究を進めるうちに、少しずつ分かってきた気がする。
私たちの人生は、無限の可能性の中の一つの実現に過ぎない。
そして、その可能性の海の中では、確かに美咲は今も生きているのかもしれない。
「山田君、実験を始めよう」
私は決意を新たにして、量子コンピュータのスイッチを入れた。
青白い光が強くなり、モニターには複雑なデータが流れ始める。
この実験が、人類に新たな扉を開くかもしれない。
そして、私個人にとっても、美咲との思い出に新たな意味を与えてくれるかもしれない。

実験室の奥から、不思議な音が聞こえ始めた。
量子もつれ状態を観測するための測定器が、予期せぬデータを示し始めたのだ。
「佐藤先生!これは…」
山田君が驚いた声を上げる。
モニターには、私たちの常識を覆すようなデータが表示されていた。
二つの量子が、光速を超えて瞬時に情報を伝え合っているかのような現象が観測されたのだ。
アインシュタインは、この現象を「不気味な遠隔作用」と呼び、量子力学の完全性に疑問を投げかけた。
物体は測定される前から確定した性質を持っているはずだ。
また、ここで起きた出来事が、即座に遠く離れた場所に影響を与えることなどありえない―それが、私たちが信じてきた局所実在論の世界だった。
しかし、目の前で起きている現象は、その常識を完全に覆していた。
まるで、空間も時間も、私たちが考えていたような制約を持っていないかのように。
その時、実験室の隅に置いてあった美咲との写真が、不思議な輝きを放っているように見えた。
私は思わず足を止めた。写真の中の彼女が、まるで今ここにいるかのように感じられた。
局所実在論が否定されるということは、この世界は私たちが考えていた以上につながっているということなのかもしれない。
過去と現在、ここととても遠くの場所、そして…生と死。それらの境界は、私たちが思っていたほど明確ではないのかもしれない。
「美咲…もしかしたら、君の言っていたことが本当だったのかもしれない」
私はつぶやいた。彼女が最期に語った言葉の意味が、今になってようやく理解できた気がした。
量子の世界では、距離も時間も、私たちが考えているような障壁にはならない。そして、愛もまた、そうなのかもしれない。
山田君は黙って私の横に立っていた。彼もまた、この瞬間に何か特別なものを感じ取っていたようだった。
科学的な観測と個人的な感情が、不思議な形で交差する瞬間。
それは、量子の世界が私たちに示す新たな可能性の始まりなのかもしれなかった。

実験データを詳しく分析していくうちに、私たちはベルの不等式の破れを示す驚くべき結果を得た。
この不等式の破れは、私たちの住む世界が単一の実在ではなく、無数の可能性が同時に存在する多世界である可能性を示唆していた。
「これは...信じられません」
山田君が震える声で言った。確かに、これは物理学の常識を根底から覆す発見だった。
しかし、その瞬間、私の心は科学者としての興奮よりも、別の可能性に心を奪われていた。
もし本当に多世界が存在するのなら...どこかの世界では、美咲はまだ生きているのかもしれない。
その思いが、突然、私の心を強く揺さぶった。理性的な科学者として、そんな考えは非科学的だと分かっている。
しかし、愛する人を失った者にしか分からない深い喪失感が、私の科学者としての冷静さを少しずつ溶かしていった。
「先生、この数値の変動を見てください」
山田君の声に促されてモニターを見ると、量子の状態が予想外の変化を示していた。
まるで、別の世界との境界が一瞬、薄くなったかのように。
妻が最期に残した言葉が、今、新しい意味を持って蘇ってきた。
「すべての可能性が重なり合って、今この瞬間がある」という彼女の言葉は、単なる慰めではなく、量子力学的な真実を直感的に理解していたのかもしれない。
私は実験データを見つめながら、科学者として許されない妄想に身を委ねていた。
別の世界線で生きている美咲と、どうにかしてコンタクトを取ることはできないだろうか。
量子もつれを利用して、世界線を超えた通信は可能なのではないか。
それが非科学的な考えだと分かっていても、心は止まらなかった。
これほどまでに彼女に会いたいと思う気持ちは、科学的な理性さえも凌駕してしまうほど強かったのだ。
「美咲...どこかで、君は私の思いを感じているだろうか」
実験室の静寂の中で、私はつぶやいた。
科学者としての誇りと、深い愛情による非合理な願望の間で、心が引き裂かれそうになる。
しかし、それこそが人間の真実の姿なのかもしれない。
どれほど論理的に考えようとしても、深い愛は時として理性を超えて、私たちを非合理な希望へと導くのだから。



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